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1999年    
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平成11年 9月 先頭にもどる


(536)写真ありがとうございました。 投稿者:奥山 道紀  投稿日:09月30日(木)18時55分02秒

25〜26日の南部での「シューパロ展」に際に
写真の公開に応じていただいた、長谷川さん・本間さんに
感謝しております。多くの人が「大夕張駅を出る列車」や
「シューパロ湖畔を行くSL3重連」の写真に懐かしく
見入ってました。

(535)三菱大夕張鉄道保存会 投稿者:今井 一郎  投稿日:09月28日(火)11時58分20秒

三菱大夕張鉄道保存会が正式に立ち上がりました。

世話役は
会長兼事務局  奥山さん
副会長      乗田さん
広報        石垣さん
会計兼事務局  今井

です。
南大夕張の車両群や大夕張地区に残された鉄道施設を保存するため
出来る限りのことを行いたいと思いますので宜しくお願いいたします。

詳細は今後書き込みさせて頂きますが、南大夕張郵便局に保存会の
貯金口座を開設いたします。
会費は年間1000円、隔月ぐらいに会誌の発行も予定しています。

夕張から遠くに住んでいるため活動には参加できないと思われている方も
大歓迎です。全国的に会員募集を行いたいと思います。

http://www.alles.or.jp/~ichiro16/


(534)イタヤカエデの木下でU 投稿者:と し つ ぎ  投稿日:09月27日(月)22時59分36秒

鹿島小学校の「お別れ会」では,三浦さんから提案いただいたように,心無い人たちによ
り壊されたガラスの破片を整理し,せめて玄関周辺だけでも感謝を込めて清掃を行いたい
と思います。つきましては,参加者の皆さんには,「鹿島小学校の思い出」「食料等」の外
次の物を持参願います。

     ◎ ほうき・ちりとり(スコップ可)
     ◎ 手袋・ゴミ袋(ダンボール可)

なお,当日は「テルテル坊主」製作においては誉の高い,栃木県真岡市在住の中島早苗さ
ん(栄町出身・鹿島中学26期会)のご好意により,晴天祈願を施行していただくことに
なりました。
それでは10月3日,イタヤカエデの木の下でお会いできることを楽しみにしております。

(533)ご来場ありがとうございました。 投稿者:奥山 道紀  投稿日:09月27日(月)13時53分28秒

飯田さん、長谷川さん、今井さん。そして多くの皆さん
「シューパロ展」へのご来場ありがとうございました。
そして、泉さま「鉄道模型」の提供ありがとうございました。
多くの来場者の皆さんが川合さん製作の模型と共に
のぞき込むように「大夕張駅舎」の模型などを見学して
いました。
なんとか、台風の影響もなく2日間ですが、無事
終了しました。

追伸 長谷川さんへ 知人と勘違いしてしまい「とんちんかん」な
事をいってしまいました。申し訳ありません。写真の提供ありがとう
ございました。今後とも、よろしくお願いします。

(532)シュ−パロ展おめでとうございます 投稿者:泉 俊弘  投稿日:09月27日(月)10時53分31秒

 飯田さま、奥山さま、そのほかの大夕張のみなさま。
過日の第5回シュ−パロ展では、当方の拙い模型を展示
していただきましてありがとうございました。
 これをきっかけに"現物"の方の保存活動にも大きな
はずみがつくよう、お祈りします。
 模型車輛達も、安住の地を見出して喜んでいることと
存じます。まずは、御礼まで。

(531)我祈古里晴天 投稿者:ヒロ みうら  投稿日:09月26日(日)11時17分28秒

そうですか、飯田さんもいっていたのですか,ちょうど車で前を通りかかり、随分
と集まっているなーとみてのですが、シューパロ展だったのですか!
その後、私も大夕張へ行きましたが、鹿島小学校校舎のガラスが、あちこち割られ
ひどい状況で、散乱していました。
こんなひどいことが、故意でなされた事を願っていますが...
出来れば、イタヤカエデの日に少しばかり清掃をして、感謝の気持を表したいと
考えています。当日の晴天を祈ってテルテル坊主君でも作りましょうかね!
沢山の人達の笑顔で、賑やかに、楽しく校舎を送ってあげたいな!
それじゃ、皆さん会場でお会いしましょう!

(530)我祈古里晴天 投稿者:ヒロ みうら  投稿日:09月26日(日)11時08分23秒

シューパロ展が開催されていたのですね、偶然に会場の前を通過した際に、随分と
車が沢山止まって、何かやっているのかな?と思ったのでが、飯田さんもいらっしゃ
ったのですか..その後私も、ご多分に漏れず大夕張へ行きましたが、小学校のあ
りとあらゆるガラスが割れ、とてもひどい状況でした。
この様な事が、故意でなされた事でないことを信ずるばかりです。
出来れば、イチヤカエデの集まりの際に、少しガラスのかたづけでもして、学舎に
御礼の気持を表したいと考えています。
当日は大夕張秋天を願って、テルテル坊主君でも作ろうかな!出来ればグランドに
一杯の人達が集まるとイイね、一番賑やかだった頃のように、沢山の笑顔と
いつも、見守るようにそびえたつ校舎の前でまるで、大運動会の一コマのような
シーンが再現できれば最高かな!
それじゃ 楽しみにしています。

(529)第5回シューパロ展 投稿者:飯田雅人  投稿日:09月25日(土)22時50分39秒

台風一過強風の中,南大夕張での第5回シューパロ展に出かけました。
子供達から大人迄地域が一体となった作品が体育館いっぱいに展示され
楽しませてもらいました。南大夕張地域の方々も大勢見え,会場は賑わっ
ていました。
私も参加させてもらっているシューパロ塾関連では,南大夕張の客車が
登場する『気笛が響いた街・夕張』のビデオ上映がおこなわれました。
南大夕張の客車や三弦橋など地域に眠る遺跡の価値を再発見し,光をあ
てていきましょうという正木先生や,奥山さんのお話しに聞いていた方々
も真剣に耳を傾けていました。

鉄道模型の展示と走行実演ですが,川合さんの自作されたという三菱大夕
張鉄道『NO.4』が2両の客車と8両の石炭車を引いて走っていました。
岡山の泉さんが作られたという紙のかわいい大夕張の駅舎の前を精密な列車
が駆け抜けていきます。

いつものようにその後大夕張まで足を伸ばしました。
悪い天気の日に出かけたことがなかった私ですが,今日みたいな日に行って
思い出したことが一つありました。
大夕張の空の低さです。
雲が山神社の辺りから山の間を包みこんでいました。四方の山々すべて雲の
ベールをかぶっていました。
こんな天気の時は子供ながら外で遊ぶことも出来ずに,憂鬱で,気分の沈み
がちになったことを思いおこしていました。
大夕張は山の中のマチだったから当然といえばそうなのですが。

ps)下に『NO.4』の走行の様子をAVIファイルにして置いておきます。
期間限定(?)かな。1.4メガほどなので,ダウンロードに5分くらいでしょうか。
もしよければ,持って行ってください。今日撮影したものです。

http://www.asahi-net.or.jp/~bx5m-iid/mokei.avi


(528)テレビ放映のお知らせ 投稿者:伊藤  勲  投稿日:09月25日(土)07時23分21秒

 27日(月)午後6時23分からのSTVどさんこワイドでシューパ
ロ塾の紹介とシューパロ展の準備の模様が放映されます。
 24日、取材があり、正木塾長が客車前とダム管理事務所横で
シューパロ塾の活動内容や客車・三弦橋の保存の必要性を説
明されました。
 シューパロ展の会場設営や展示品などの準備の様子や実行
委員会の会長の話なども取材しています。

(527)三菱鉄道の写真 投稿者:今井 一郎  投稿日:09月24日(金)23時58分20秒

最近、恥ずかしながらホームページを開設しました。
飯田さんのホームページのように立派には出来ず、
文章ばかりの、見る方にとってはイライラするページ
ですが、[ゆうばり・思い出散歩]という中に三菱鉄道
の写真を入れてみました。
良ければ来てみてください。

http://www.alles.or.jp/~ichiro16/


(526)イタヤカエデの木の下で 投稿者:と し つ ぎ  投稿日:09月21日(火)22時09分18秒

鹿島小学校の解体工事は,手続が順調に進むと,10月から始まる模様です。
鹿島小学校の勇姿がまだ見られるうちに,あのイタヤカエデの木の下で,感謝を込め
「お別れ会」を催したいと思います。
次の内容で企画させていただきますので,「大夕張子」の参加をよろしくお願い致します。

1 日 時 等 〜 10月3日(日) 午前11時 鹿島小学校前集合

2 用意する物(焼肉・ジンギスカン形式を考えています)
  @ 鉄板・炭等 〜 幹事で用意します。
 (お持ちの方は道具を持参いただければなお幸いです)
  A 各自で持参 〜 *食料(肉・野菜・タレ・ドリンク等)
            *食器・はし  *ゴミ袋  *シート
            *鹿島小学校の思い出

3 天 候 等 〜 悪天候の場合は中止とします。

4 問 合 せ 先
           * 斎 藤 〜 toshi31.saito@nifty.ne.jp
           * 佐 藤 〜 t-sato@north-wind.ne.jp

5 お ね が い  〜 準備の都合上,参加できる方は「問合せ先」に連絡頂ければ幸いです。

(525)心地よい疲れのなかで 投稿者:美奈  投稿日:09月19日(日)22時08分31秒

朝、8:15に家を出発。清水沢駅9:41着。今日は一日夕張サバイバル。
鹿島中26期の仲間と探検してきました。夕張に帰る時、いつも見慣れた風景
が視界に入ってくるとドキドキしてアクセルを思わず踏んでしまう私。
若菜が見えるともうすぐ清水沢。少し早く到着したので、昔父の住んでいた公宅
が急に見たくなり、南清水沢に下りました。でも、無人になっていて少し、淋し
かった。皆と集合してから、先ずは東校へ・・。卒業以来はじめてだったのでやっ
と、記念碑を見ることができました。それから奥鹿島の分校へ・・。ここにも記念
碑がありました。皆さん知っていました?残念ながら崩れて下に落ちている状態
でしたが・・。次の目標は鹿島中のグランド。どこまで車で入って行けるのか少し
心配でしたが、かなり奥まで大丈夫でした。ここは記念碑もないので、大きな石に
マジックで鹿島中記念碑と書いて写真をパチリ!お腹が空いてきたので男の子
(おじさん)達の話題に必ず出てくる便所場球場の河原で焼肉を食べながら打ち
上げ花火をバーン!!最後はやっぱり鹿島小のグランドにGO!黄色い旗の確認に神社へ。
グランドに戻ると26期のおじさん約2名、グローブとバットを取り出し野球を
はじめてしまいました。イタヤカエデの木も傷を手当てしてもらったので元気そう。
ロープで作ったブランコに揺られ空を見上げるとおさげでかわいかった(ほんとに)
頃の私が笑っていました。後ろ髪を引かれる思いでやっと札幌に帰ってきました。
心地よい疲れの残る日曜日です。
今日は私にとって、心地よい疲れの残る日曜日となりました。

(524)詰所前の掲示板? 投稿者:ヒロ みうら  投稿日:09月18日(土)00時33分34秒

この掲示板と同じものが、詰所の前にありませんでしたかね?
勤務帰りのオヤジ達が見ていたような、そんな風景が記憶の断片に残っている。
どんな事柄の貼紙がだったのかな−、あの頃はとても届かないくらい..たか−い
掲示板でしたね!
 Good by My HomeTown!!For Ever

(523)あきひろ君? 投稿者:成松 泰彦  投稿日:09月17日(金)23時41分34秒

斎藤さんの書き込みの千田 あきひろ君は27期の卒業生でしょうか?
ボーイスカウトのメンバーにそばかす顔のかわいい後輩がいました。
土日や夏休みになるとキャンプやボランティアでいつも顔を合わせ
夕張の野山を一緒にかけまわった彼だと思います。

富士山の裾野にある朝霧高原で昭和45年と記憶していますが・・・
日本ジャンボリーという全国大会が開催され夕張から2分隊が参加
しました。中学生以上が参加資格者でしたが彼はしっかり者で小6
での参加でした。
出発前は当地で披露する大夕張音頭の踊りと歌の練習を毎日集会所
で練習したものです。
富士見町のはっぴを借りてそれを着て富士の裾野で皆が輪になって
踊ったのです。
当時、常磐町に住まわれていた工藤隊長には躾や礼儀をはじめ「人
のために備えよ常に」とボーイスカウトの多くを学びました。
斎藤さんの懐かしい名前の書き込みで、同期の森田良実君、伊藤
栄二君、益田昇吾君や後輩の千田君、堂田君の顔を思い出しました。

(522)山史のページ 投稿者:飯田 雅人  投稿日:09月14日(火)21時09分45秒

三菱大夕張鉄道のHPがありました。山史を中心に画像多数で掲載されています。
作成者は,以前奥山さんからの書きこみのあった鉄道課主任・菊池武人氏の息子
さんだと思います。プロフィールを見ると私の3年先輩の方となるようです。
資料がたいへん充実しています。

http://club.pep.ne.jp/~shuparo/

(521)あきひろ君 投稿者:斎藤 敏幸  投稿日:09月12日(日)12時32分35秒

成松さんの「父と小熊の思い出」を読んで,昔シュ−パロ湖園地に小熊がいたことを思い
出しました。はじめの頃は檻もなく,鎖ごと杭につながれていたと思います。そして,大
きくなってから檻に入れられていたと思います。

昔シュ−パロ湖へは良く自転車で行きました。同じ栄町ブロックに住んでいた「千田あき
ひろ」君と一緒に行ったこともありました。彼は,僕より5才ぐらい年下であったと思い
ます。彼のお父さんの「千田 晶」さんは,閉山当時の組合の委員長を務められていまし
た。
あきひろ君と一緒にシュ−パロ湖園地へ行ったときは,もう檻の中には熊はいなかったよ
うな気がします。そのときの帰り道,千年町辺りで僕の自転車がパンクしてしまい,岳富
町の「武田自転車商会」で修理したことを憶えています。

あきひろ君の一家は,お父さんが閉山後の再就職を含め全ての残務整理をしてから,最後
に大夕張を去り大阪へと引っ越しました。あきひろ君も,もう30代後半で良き家庭人,
社会人として頑張っていることだと思います。

成松さんの投稿写真を見ながら,懐かしいご近所さんのことを思い出した次第です。

(520)内川さん、吉田君元気です。 投稿者:伊藤  勲  投稿日:09月12日(日)12時10分42秒

 内川さん、お久しぶりです。

 昨日、飯田さんのHPの「夢の街」で内川さんが97年3月に書
かれた手記を拝見しました。
 昨年HPで拝見したとき、吉田長(はじめ)君の事が書かれてい
たので長男に教えたことを思い出しました。

 現在、吉田長君は幌南中学校の2年、弟の怜(さとる)君は
幌南小学校の5年、平山君は清水沢中学校の1年です(私の
長男は中1です)。
 吉田君兄弟は内川さんと出会った後、4月に転校しました。
 現在は小学校のそばの岳見町のアパートに住んでいます。
私は平山君には会ったことがありませんが、吉田君兄弟は近
所でよく見かけます。元気ですよ。

 長君は野球部(同好会?)の主将です。部員は2名。もう
一人の部員が私の長男です。全校生徒が19人の小規模校では
クラブ活動にも支障が出ていますが、皆元気で学校生活を楽し
んでいるようです。
 
 シューパロ展が今月25・26日に開催されますが、両日
とも幌南中学校では学校祭があります。26日は幌南小学校
の学習発表会もあります。シューパロ展に来ていただければ
学校にも寄って彼らの成長を見ていただければと思います。

(519)朝方の夢 投稿者:夕輝 文敏  投稿日:09月12日(日)10時37分54秒

 夢を見た。誰もいない朽ち果てた建物の中を,一人で歩いていた。建物を通り抜けると,
健保会館が大きく聳え立っていた。そこだけが,まだ生きているかのように生気を放って
いた。
 そして,道路の向こうからは沢山の人が,浴衣姿で歩いて来るのが見えた。その人の波
は,遥か官行(初音沢)から続いているかのようであった。
 「あっ,今日は神社で花火大会があるんだ」
 私は,急に嬉しくなってきた。
 「みんなが,花火大会を見にも一度集まってくる...」
 再び健保会館へ目を移すと,富士見町の辺りにまだ堅固そうな住宅が3軒見えてきた。
 「そうだ,あそこはAの家だ。よし,誘って一緒に花火を見に行こう」私はそう思い立
つと走り出した。
 住宅に近づくと,大きな看板が立てられてあった。そこには「移転先ともう人が住んで
いない旨」が,大きな白い文字で書かれていた。
 庭先には,美しい花達が沢山咲いているのに,中を覗くと空家になっていた。Aに会え
ると思って気持ちが高揚していたが,もうそこには,Aの家族は誰も住んでいなかった。
 「この街にはもう誰もいない」そんな現実を思い知らされた気持ちになった。
 そして,元の場所に戻ると,健保会館もなく人の波も消え,原野になってしまった空間
が見えるだけであった。
 そのあまりの落差にどうしようもない「悔しさ」がこみ上げてきた。そのとき,まだ解
体工事もはじまっていないのに,ガラスが破られ荒廃した姿に変えられてしまった鹿島小
学校が,目の前に浮かんできた。
 そこで夢から覚め,目を開けると朝になっていた。夢とはわかっていても「悔しさ」だ
けは覚めることもなく残っていた。
 どうせ夢を見るなら,活気のあった頃の大夕張の姿と出会いたい。夢から覚めて悔しさ
が残るなら,懐かしい友人たちと沢山語り明かしたい。
 そんなやるせない想いが残る「朝方の夢」を見た。

(518)食憶その2・食堂のお話 投稿者:長谷川潤一  投稿日:09月12日(日)00時20分14秒

一回目の投稿からだいぶ間が延びました、のびついでの話でラーメン話を。
当然のこと、池田屋さんは幅広いメニューでメジャーでした。思い出すのは、
薄口色のスープのラーメン、ゆで卵などを抜いた「かけラーメン」、値段を
抑えた「学生ラーメン」。そして永遠に忘れられない味なのが、たこ頭型の
銅板焼き饅頭「ぱんじゅう」です。一個5円でした!が、後に7円になって
10円玉で2個食べられなくなりショックでした・・・。ちょっと下がった
あいばさんは、少し辛目のカレーやカツ類などが美味しかったと憶えていま
すが、育ち盛りで何でも美味しかったです?。それとやはり5円10円売り
のアイスキャンディ類が忘れられない味です、今年のように暑いとなおさら
思い出します。が、しかし、後発ながら私目にとって非常なインパクトをば
もって現れたのが、だるま屋さんでありました。濃い口辛目の「みそラーメ
ン」の登場です!! スープひと口でホカッときて、麺は硬めで濃い黄色、
ごま風味の油が膜になり、深めのドンブリで「はーい熱いですよー」とテー
ブルに置かれたラーメンは、ほんとにアツアツ。フーフーさます甘口猫舌の
子供なんんかは来るんじゃねーと言っているようでした。口んなかの皮が剥
けるくらいの勢いで食べるという、狭い店内で寄り添うように食べる「大人
の味のラーメン」でした。暑さも終わり?ラーメンの季節に入ってきました
ようで、主観100%の食憶でした。 若菜に「ぱんじゅう」屋さんがある
んだけど、最近どなたか、お口に召されましたでしょうか?・・・

(517)シューパロ展でのHO鉄道模型運転について 投稿者:奥山 道紀  投稿日:09月11日(土)19時38分24秒

シューパロ塾事務局の伊藤さんから「第5回シューパロ展」の案内がありましたが
鉄道模型の運転会をシューパロ塾・三菱大夕張鉄道保存会で行います。
模型車両は会員のJR職員・川合宏幸さんと、岡山理科大学講師の泉俊弘さんの
自作よるものでSL「4」号機やDL55形のほかに、南大夕張駅構内に残る客車
「スハニ6」や「ナハフ1」の模型もあります。模型ですが機関車に長蛇の「セキ
車」と「客車」を連結し、往時の混合列車を再現してみます。また、泉さんが
ペーパーで自作した大夕張駅舎の模型も展示します。
さて3軸ボギー客車「スハニ6」の走行音を紀行作家の宮脇俊三氏は「タタタン、
テタ、タン」と鳴り、間延びしてユーモラスだと表現してます。
これは「時刻表おくのほそ道」(文春文庫)に「三菱石炭鉱業大夕張線」として
収録されてます。

(516)小学校? 投稿者:ヒロ みうら  投稿日:09月11日(土)01時43分31秒

7月に行った時は有りましたよ、暑かったのでアブがブンブン飛んでいました。
しっかりとそびえ、立っていましたのでご安心下さいな!

(515)まだ大夕張に残ってる建物 投稿者:本間  投稿日:09月10日(金)01時27分06秒

最近の大夕張、もう人は住んでないわけですが、
まだ壊されずに残ってる家や建物は
結構あるのですか。
小学校はまだ残ってるようですが・・・
先日、夕張に行きましたが、時間がなくて
南部で引き返したので、わからずじまいでした。
御存知の方、教えて下さい。

(514)だれか教えて 投稿者:まこアンちゃん  投稿日:09月09日(木)13時51分59秒

 今年の夏も北海道に行きました今回は道東人の行かないような所が大好き
初めて北海道に言ったのが清水沢という町今から約20年前当時デビューしたての
リリーズの故郷あれから時が流れ清水沢の駅前も変わってしまったのかな
来年は必ず北海道に行ったら清水沢に行くぞ
だれかリリーズの情報か清水沢駅前の情報あったら教えて下さいよろしく

(513)シューパロ展について 投稿者:伊藤  勲  投稿日:09月08日(水)20時40分04秒

 シューパロ塾よりシューパロ展の開催についてご連絡します。

 第5回シューパロ展が次のとおり開催されます。
 今年6月に発足したシューパロ塾は今回、後援させていただく
ことになりました。
 多数の皆さんのご参加をお待ちしております。

  1.日時  9月25日(土) 10:00〜18:00
        9月26日(日)  9:00〜14:00
        ※ 9/24 8:30から前日準備を行いますが、都合の
          つく方はお手伝いお願いします。      

  2.場所  夕張市南部市民体育館
         (旧三菱南大夕張体育館)  

  3.その他
   (1) シューパロ塾としては、会員の奥山さんと川合さんが
     鉄道模型を展示し、実際に走行の実演をします。
   (2) 詳細は、来週初めの実行委員会で決定しますので、
     再度掲示板でご連絡します。

(512)大夕張の汽笛 投稿者:奥山 道紀  投稿日:09月08日(水)20時13分47秒

長谷川さん、飯田さん。大夕張駅発車の列車の「音声」
聞かせていただきました。発車を告げる汽笛、3軸ボーギー客車「スハニ6号」の
走行音、遠ざかる「汽笛」とカラスの鳴き声と、子供たちの声。
当時の大夕張を彷彿とさせる「音声」です。
私も、あの汽笛を時計代わりにして生活していました。
家では「汽笛」が聞こえると、「いま4時の汽車が行ったね」等と
時間を確認していました。
さて、三菱大夕張鉄道の音が「レコード」になって発売されていました。
昭和58年に発売された、「日本の私鉄」(ビクター音楽産業)に
「ストーブ列車」として南大夕張からの列車の走行音が収録されてます。
「ストーブに石炭をくべる音」や「3軸ボギー客車スハニ6号」の
音が入ってますが、自宅にレコードプレイヤーが無くなり、今では
宝の持ち腐れです。
夕張市石炭博物館にも収蔵されてますし、新冠の「レコード館」にも
収蔵されてます。新冠では試聴も可能です。

(511)大夕張へ行ってきました。 投稿者:小林 秀範  投稿日:09月06日(月)23時43分51秒

今日、大夕張へ行ってきました。
「イタヤカエデ」の木、立派に修復されていました、アリも周りには
ほとんどいませんでした、本当にありがとうございます。
あの木は、ずっと昔から立っていて、富士見町から帰る時いつも
見守ってくれたように思います。
岩見沢市の方やシューパロ塾の皆さんありがとうございます。
小学校は、正面入り口と体育館入り口のドアが開いていました。
今日は、春日町のしたまで車で行ってきました、(すぐ川の縁)
便所場球場でパワーショベルの音が聞こえていました、
何かなとおもったら、千歳町の山の方でブルが動いてた音のようです。
シューパロ湖は、水量が少なくいつもと違う顔を覗かせていました。
また、行こうと思います。
米沢先生は、担任ではなっかたですがとても人気のある先生と記憶しています、
「うらやましいな」と小学校6年のときの記憶がよみがえります。
御冥福を心より申しあげます。

tigermask@pep.ne.jp

(510)鬼ごっこ 投稿者:内川 准一  投稿日:09月06日(月)18時20分55秒

小林さん、お晩です。中国からの投稿なんですね。すごい!
米沢先生のことで、若干訂正します。先生が鹿島小学校に来
たのは昭和32年の年度途中と、別な資料にありました。
小林さんの入学が昭和29年とすると、良く符号します。
ところで、投稿の度胸試しで思い出したことがあります。
当時、線路脇の便所だったか、富士見丘寄りの便所だったか
忘れましたが、掃除が終わり、丁度西日が便所の床に射し込
む頃、しんとして不気味な雰囲気の校内で時々かくれんぼをし
たものでした。
便所は、半地下の石炭庫も含めて、捜しに行くのが苦手な場
所でした。
それなのに、一度など、便所の中に隠れて、忘れ去られ、出て
みるとみんなは既に帰っていて、誰もいない校舎内に一人取り
残されたことを知って、寂しい思いと怖い思いを同時に味わった
こともありました。
それ以前は、もっと不気味な学校だったように思うのは、私が
幼かったせいでしょうか?
新校舎ができる前の、雀の巣だらけだった旧校舎。3箇所も
あった玄関。真ん中にあった玄関の薄暗くて巨大な空間。
1階の理科室にあった人体模型は廊下からいつも見えていた
ような。
うう、どうだったっけ。

(509)大夕張関連の音源 投稿者:ヒロ みうら  投稿日:09月05日(日)22時07分34秒

大夕張音についてですが、国営放送局の番組中でBGMとして、流された音源が
取材中に偶然スタッフが、手に入れたSP盤からのオリジナルで、例の三橋美智也
を起用して製作されたレコードです。
これを、ダビングしたカセットが手元にありますので、いつか機会があれば、
お聞かせ致します。
シューパロ慕情のタイトルでCDが発売されていますが、これは、夕張市本町の
洋服店*ダンディー*にて販売されていますが、事前にTELを入れたほうが、ベスト
です。B面はカラオケバージョンになっています。

(508)米沢先生訃報に関して 投稿者:小林 光志  投稿日:09月05日(日)13時57分36秒

昭和27年鹿島小学校入学ですが、3年生頃の頃担任ではありませんでしたが、
一緒に遊んでくれた思い出があります。
米沢先生のクラスに友人がいましたので良く遊びました。
深夜、米沢先生宿直の時、鹿島小学校でお化け遊びと称して何日かの友人と
学校内を探検しました。
ある日、先生が私たちを驚かす目的で廊下の角に隠れ、私たちが通り過ぎる頃、
急に驚かしましたが、その上にあった消化器の棚に頭をぶつけてしまいました。
子供の手前「ウ!」といっただけでしたが、翌日、そこが大きくはれていたの
を覚えています。
私も52歳になりました。少しずつ歴史が消えていきそうで寂しいですね。
中国上海でE−Mailしています。
登録のアドレスは、現在通じません。
China 専用は、cnapc@sh163a.sta.net.cn です。

(507)おもいでへの旅立ちの音 投稿者:成松 泰彦  投稿日:09月05日(日)00時02分29秒

今回も交流会に参加させていただき本当によ・か・っ・た!
新しい気さくなお仲間も増え、逢うたびに楽しい新しい思い出が増える。
おもいで話しが新しいってのも変ですかね?
その思い出への旅立ちのいざないの音は、あの頃毎日耳にしていた汽笛の
音から始まりました。そこにはまるで蒸気が立ちこめる駅舎から列車が出
発するのがありありと見えるようでした。大きなラジカセを持参して下さ
った長谷川氏に感謝、感謝。当時の撮影や録音の苦労話しに盛り上がり時
間はあっという間に過ぎていきました。最後は会場でシュウパロ音頭を皆
さんで口ずさんだ時には盛り上がりすぎて、こあがりの襖を閉められてし
まいましたよね。今度はもっと大勢の人が参加してKITARAで合唱でもしま
すか?
参加者の皆さん、懐かしい思い出の時間を本当にありがとうございました。
今後ともたくさんの輪が広がりますように!

(506)聴いてくださいませ 投稿者:長谷川潤一  投稿日:09月04日(土)22時35分53秒

交流会参加の皆様方、長屋のような賑やかさの中、ご苦労様でした(テーブル
の配置が長かったですねー)。私目が若かりし中学生の時に録音した汽車の音を
見事に飯田さんがデジタル化してくれました。元音が少々難ありなんですけども
とてもきれいに聞けます。飯田さんはとにかく何でもすごい人です、ありがとう
ございます、感謝脱帽。 交流会でお会いの皆様(私目の体型を見た方!)は、
その昔、私が機関車と一緒に軽やかに線路脇を走り飛びながらあれを録音したと
は思えないでしょう? 何年も前と今とが、いろんな人たちと楽しく交錯する
タイムスリップ・ネタの笑える世界、イイダHP交流会をどうぞお楽しみに!

(505)交流会はなかなかいけてます。 投稿者:ヒロ みうら  投稿日:09月04日(土)01時50分53秒

どんな人達が集まるのかな〜なんて心配が一杯の夕べでしたが、まー当日会場へ
集まり、お酒が入り始める頃には、みんな大夕張の炭住で開かれた宴会
そのものでしたね!こんな風景、いつか、どこかで見た記憶が甦ります。
また、是非たくさんの方々とお会い出来る事を楽しみにしています。
初めての人も恐れずに?参加してみてはいかがですか!

(504)ステキな仲間たち 投稿者:斎藤 加奈恵  投稿日:09月03日(金)22時19分41秒

第2回交流会,とても楽しいひとときでした。大夕張出身者でもない私ですが,世代を超
えたこのような繋がりを,うらやましく思いました。私の周りでは見られないことで,故
郷が同じというだけで昔から知っているように,こんなに打ち解けて話しができるなんて,
本当にうらやましく思いました。一緒に参加した娘二人も,カラオケで「だんご三兄弟」
を歌うことがごでき,とても喜んでいました。
飯田さんのHPで繋がり,ひとときを思い出で語り合うステキな仲間が,もっともっと増
えるといいと思います。(飲んで,歌っているだけではないですよ!!こんなことも考えてい
るんですからね)
次回は,もっと沢山の人とお会いしたいですね

(503)汽笛の彼方から 投稿者:斎 藤  敏 幸  投稿日:09月01日(水)19時57分21秒

参加者が息を潜め,耳を傾けていると,静寂を破り力強い汽笛の音が響き渡り,列車の轟
音とともに走り去って行く。長谷川潤一さんが,昭和47年に大夕張駅で録音した列車の
音が,ラジカセから流れてきました。
汽笛の音を聞きながら,29年前の大夕張の鼓動に,参加者一同感激をしました。
現実の大夕張は,鹿島小学校を残すだけで,全てが消え去り原野になってしまいました。
せっかく建立していただいた記念碑からは,残念ながら当時の生活の息吹は蘇ってはきま
せん。
でも,私たちは幸せです。飯田さんのHPを通じて皆さんと大夕張を語る場を持てるから
です。このHPの交流会は,世の中に対する怨みつらみを述べ,ふるさと喪失を嘆く場で
はありません。
大夕張と係わりのある人々が集まり,それぞれの大夕張を語り合い交流することにより,
過去にしがみつくのではなく,明日からの人生を前向きに生きる力を育むことができるの
です。そして何よりも,温かくて楽しい時間を共有することができるのです。
第2回の交流会も参加者の心には,懐かしくそして力強いものを残すことができたと思い
ます。
このHPを覗いている皆さんも,次回はぜひ参加してみませんか。交流することによりあ
の懐かしい大夕張が蘇り,そのことによって自分自身も元気になれると思います。
原野になっても,「ふるさと大夕張」には,まだそんな力があります。本当に,「大」いな
る「夕張」です。

(502)奥山さん、恐れ入りますが・・ 投稿者:菅井宏史  投稿日:09月01日(水)03時24分08秒

引き続き書き込ませて頂きます。
奥山さんに一つお願いがあるのですが・・宜しいでしょうか?
今回の奥山さんの投稿を読ませて頂いて、以前からお名前がよく出ていたシュ
ーパロ塾長の正木さんのことが急に気になり始めたのです。
と云いますのも、実は大夕張時代、私(33年生まれ)の同級生で正木君と
いう友人がおりました。下の名前は残念ながら思い出せません。今、「正木」
という名前を口にして、すぐ続いてなぜか「のぶゆき」という名前がふと出て
来たのですが、これが彼の名前であったかどうかは確信が持てません。
その彼と塾長の正木さんは何かの関係(例えば、正木君はその正木さんの息子
さん、或いはご親戚、等々)がもしかしてあるのかなあという疑問がふと沸き
上がって来たものですから。

お手数ですが一度この件を正木さんにおたずね頂くというわけには参りません
でしょうか?

今となっては正木君に関する記憶もそれほどはっきりしていないのですが、
彼とは聖心幼稚園、鹿島小時代を通じて同級生だったと思います。確か家は
富士見町でした。お父さんは先生だったと記憶しているのですが、違ってい
るかもしれません。2年か3年くらいの時に南大夕張に転校して行ったよう
な・・。3年生くらいの時に一度友達の誕生パーティーに招待されて、他の
友達数名と南部まで汽車で行ったことがあるのですが、その誕生会は正木君
のだったような気がだんだんしてきました。南部のその家は駅からそれほど
遠くない場所で、線路の西側(山側)にあったという淡い記憶があります。
運動はあまり得意でないおぼっちゃんタイプで、クリッとした大きな目の縁
の左右どちらかに大きなほくろのようなものがあったような気がします。
色白で、髪の毛は茶色っぽい、彼に関してそんな印象があります。
記憶の手がかりとなる当時の写真などが現在どれもあいにく手許にないため、
これらの記憶はあやふやなままであることをお許し下さい。

この掲示板を使ってこのような個人的依頼をしてしまい申し訳ありません。
奥山さん宛直接メールでお尋ねしようと最初は思ったのですが、これを読ん
で何か心当たりのある方が他におられるやもしれないという淡い期待もあり、
あえてここに書かせていただいた次第です。ご了承下さい。

(501)米沢先生の訃報に接して 投稿者:菅井宏史  投稿日:09月01日(水)02時14分44秒

米沢先生の急逝の報に接し、驚きと悲しみを禁じ得ません。
鹿島小学校の3、4年時の担任の先生でした。4年生の途中で私は転校した
ため、実際にお世話になったのは1年半ほどでしたが、私の児童、生徒時代
を通じて、先生として一番思い出深い方でした。
いつも明るく、笑顔を絶やさない、つややかな先生のお顔が次々に走馬燈の
ように浮かんで来ます。
10年ほど前に実は一度先生にお会いさせて頂けた機会がありました。
何年かぶりで夕張を訪れたその時に、親戚の子供が偶然夕張の小学校で米沢
先生のクラスだったということを知り、先生の住所を聞いて、鹿の谷のお宅
を訪問させて頂いたのでした。その時の再会は私が鹿島小学校を転校して以来
でしたので、実におよそ20年ぶりというものでした。にもかかわらず先生は
昔のままで、それほど老け込んだという印象もなく、あの優しい笑顔で私を
迎えて下さいました。しばしその当時の思い出話、或いは同級生のことなど
に花が咲きました。あのクラス(4年竹組)の誰それは今どこどこで何々を
している、あいつはどこにいるのだろう、あの子はまだ結婚してないようだ
云々、今だから言うけど、ということで当時実施した知能検査の私の結果など
という極秘情報まで先生はその時に教えてくれました。
この10年前の再会が先生との最後の思い出になってしまいました。飯田さん
のホームページを知って以来、大夕張が急に私の中で身近なものとなったと
いうこともあり、今度夕張を訪れる時には米沢先生のところにも是非おじゃま
して、大夕張の話を、思い出話を色々と聞かせていただこう、そう思っていた
矢先のことでした。2年前に夕張を訪れた際、先生のところに行かなかったこ
とが今悔やまれてなりません。
米沢先生、どうか安らかにお眠り下さい。
ご冥福を心よりお祈り申し上げます。

平成11年 8月 先頭にもどる


(500)よみがえる炭鉱時代の客車・夕張 投稿者:奥山 道紀  投稿日:08月31日(火)16時52分03秒

市内南部地区の住民グループ、シューパロ塾(正木英造塾長)の会員たちが29日、
旧南大夕張駅に残る三菱大夕張鉄道時代の車両をボランティアで補修した。
地元の産業遺産保存運動の一環。同駅にある鉄道車両は6両は長年、放置状態が
続き一部が傾くなど傷みが激しい。補修したのは客車の1両で、長さ20メートル
、幅2.7メートルの木製の屋根に張られたトタンの一部がはがれ落ちていた。
「台風シーズンが来て傷みがひどくならないように」と、同塾や江別の「三菱大夕
張鉄道保存会」の会員ら11人が、休日を利用して修理に参加。半日がかりでトタ
ンを元に戻してくぎで打ち付け、車内にあった石炭ストーブの煙突の穴もふさいだ。
プラットホームに車両の保存を呼び掛ける看板も新設した。
同塾は「今回はとりあえずの応急処置。今後は賛同者から募金を集め、最低限必要
な補修と管理をしていきたい」と話していた。

以上、31日付け北海道新聞・空知版の記事です。
正木塾長は前日、札幌で米沢先生とお会いしていたようです。
急な訃報に驚いていました。

(499)第2回懇親会で 投稿者:内川 准一  投稿日:08月31日(火)13時00分52秒

日曜日夜の会はホントに愉快でした。幹事?のお二人に改めてお礼を言います。
けれど、故郷の様子は相当に深刻と言えるでしょう。「何もなくなった」と受け
止めるか、「まだ何がある」ととらえるかは、コップの酒が半分になったときに、
「まだ半分ある」と考える飲んべえとそうは考えない飲んべえがいるのと同じで
すが(ひどい喩え!)、「石狩鹿島」の事態はかなり悲惨で、存在の痕跡は、
本当に、5万分の地形図の「タイトル」にしか残らない可能性があります。
そんな状況にあって、校庭のシンボルであった楓の木が、傷と病気の手当を受け
て、将来に命をつないだことは、本当に嬉しく、貴重な出来事でした。夕張市役
所、岩見沢市役所の方々に重ねてお礼を言わせてもらいます。当日集まったイン
ターネットの仲間だけでなく、1万人の在校生みんなが、きっと、これを知って
喜んでくれることでしょう。
当日は、私が最年長とのことで、古い話もしましたが、本当は、昭和30年代の
大夕張の全盛期の頃の話をもっといっぱい知りたいものだと思っています。
ホームページの上ででも、このような会合の機会にでも、多くの人が参加して、
出会えるくれることを楽しみにしています。

追記
今日悲しいお知らせが一つあります、昭和33年から鹿島小学校の教員を勤めら
れました米沢作郎先生が8月29日に急逝されました、私の卒業時の担任教師で
した。クラシック音楽が好きで、当時、学校に入ったばかりのステレオで新世界
交響曲やモルダウを(いやがる)生徒達に何度も聞かせていたことが思い出され
ます。函館出身でしたが、夕張をついの住みかと定めて、退職したあとも夕張に
暮らして居られました。  
「先生、いつかと思っていながら、あまり話す機会もないままに逝ってしまわれ
たことは本当に残念です。生意気なことばかりやって手間をかけていたお詫びを、
ついに言わないままで終わらせてしまいました。済みませんでした。」合掌。

(498)第2回交流会 投稿者:佐藤 次男  投稿日:08月30日(月)22時40分03秒

昨日、5時半より大人14名子供2名という人数で和気藹々と第2回交流会が行われました。
沢山の参加、本当に有難う御座います。

前回に続き、今回も幹事のお手伝いをさせてもらいましたが、なにかと不備な点も
あったかと思われますが、どうぞご了承下さい。

残念ながら都合により参加できなかった方もおりましたが
新しく参加された方もおりうれしく思っています。

当日は、飯田さんの挨拶&カンパイで始まり、一人一人の簡単な自己紹介をし、昔話に花を咲かせ
ているうちにあっと言う間に時間がすぎてしまった。そんな2時間でした。
2次会では、内川さんの鹿島小学校のグランドでのキャンプの話、またその時の写真などを見せて
もらたっりカラオケを歌ったりと、始終盛り上がっていました。

本当に楽しい時間を皆さんと共有することができ、有難う御座いました。
今回参加できなかった方も、次回は是非参加してみて下さい。
お会いできることを楽しみにしております。

飯田さん、斎藤さんをはじめ参加者の皆さん本当に有難う御座いました。
また会える日を楽しみにしております。-

(497)第2回交流会を終えて 投稿者:稲村 美奈子  投稿日:08月30日(月)22時23分07秒

昨日、2回目の交流会に参加しました。初めての方も含めて
14名+2名(斎藤家のお姫様たち)でした。
長谷川君の昔録音したというSLの汽笛や飯田さんの作って
くれたシュウパロ音頭を聞きながら、内川さんの写した夕張
岳の写真を見て、話は盛りあがっていきました。
参加された皆さん、楽しいひとときをありがとうございました。
同期会も楽しいのですが、世代の違う交流会は自分の知らない
話が聞けて、これもまた、楽しい集まりです。
今回は、残念ながら池田食堂、本間商店の方たちは都合が悪くて
参加できませんでしたが、次回は来ていただけるということです。
これからもどんどん新しい顔ぶれが増え、色々な世代の方たちと
交流ができ、飯田さんのHPが広がっていくことを願っています。
話は変わりますが、今日の朝日新聞で奥山さんの客車修理の記事を
偶然読み、思わず切り抜いてしまいました。大変な作業だったようで
手伝った方々、ご苦労様でした。内川さんのイタヤカエデの木も
そうですが、皆さんの夕張への愛情が感じられます。

(496)8月27.28日の大夕張 投稿者:乗田 功一  投稿日:08月30日(月)21時51分59秒

父との二人旅となった今回の大夕張行き。
すでに殆どの建物が消滅してしまい、十数年ぶりの大夕張という
父もその変わり果てた街の様子にショックを受けていた様子でした。
今回、一番心配していた鹿島小学校校舎はまだ健在で、ホッとしまし
たが、窓ガラスが一部割られていたり(2階の窓なので投石による物
なのでしょう)すっかり荒れ果てていました。閉校の記念碑もいたず
らによって倒されたとのお話がありましたが、一応元の台座に乗って
はいましたが少しズレていて、角の欠けが痛々しくとても残念な思い
です。
いずれにしても校舎の解体は時間の問題と思いますので、これで見納
めと思うと、悲しさとも悔しさともつかない複雑な気持ちです。
浄水場には登りませんでしたが、下から見上げた様子ではあの「黄色い
旗」が見えず、ちょっと気がかりでした。伸び放題の草木の陰に隠れて
見えないだけだと良いのですが・・・。
「イタヤカエデ」は 先日治療されたという通り、丁寧な治療跡がうか
がえ、これからもこの地のシンボルとして末永くそびえ続けてほしいと
思いました。
毎年大夕張へ行くたびに多くの大夕張出身者と思われる人々の車を見か
けたのですが、今回は全く見られず少し寂しい思いです。
時期的なものかもしれませんが、徐々にこの地を訪れる人も少なくなっ
て行くのでしょうか。
父親と一緒ということで、私の知らない昔の大夕張の話や坑口での昔の
炭鉱の様子などとても貴重な話が聞け、とても充実した旅となりました。
父親は「これが最後だ」と言っていましたが、私はあと何度この地へ来
るのだろうかと考え、この大夕張を語り継ぐのは私たちの世代なのだろ
うなとあらためて感じた旅行でした。

(495)客車屋根応急修理しました 投稿者:奥山 道紀  投稿日:08月30日(月)19時12分43秒

29日10時から南大夕張駅跡で客車の修理をしました。
参加者は約10名。地元の坂本建設さんが足場を提供してくれました。
オハ1の屋根の鉄板がはがれ風で飛ばされそうになっていましたが、
何とか素人の日曜大工で釘を打ちつけました。
また、三菱大夕張鉄道保存会とシューパロ塾で「これ以上
この客車を荒らさないで下さい」という看板も製作し設置しました。
この看板は今井さんが前日の夜8時までかかり製作した力作です。
当日の様子は朝日新聞30日付け朝刊でカラー写真入りで
紹介されています。北海道新聞の記事は31日付けの空知版に
掲載との事です。
この後、何とか転倒したナハフ1を復旧したく考えてます。
また、雪が降る前にシート掛けも予定しています。
何とか皆さんの支援を頂ければと思います。

(494)早苗ちゃんの思い出 投稿者:成松 泰彦  投稿日:08月29日(日)00時42分11秒

先日、ぼうぼうに伸びた雑草を掻き分けて大夕張のスキー場のゲレンデに
立ちました。ロープ塔はぼろぼろにさび付いていましたがまだまだしっか
り立ち、太いロープもそのままでした。
山頂を見上げると西日に輝いた日差しがまぶしくて、思わず目を閉じると
なにやら懐かしい雪のにおいがし、想い出が蘇って来たのです。

ゲレンデには赤や黒のヤッケ姿の子供たちが歓声をあげて滑っている。
その中に一際日に焼けて上手にシュプールを描いている女の子がいた。
同級生の早苗ちゃんです。彼女は冬はスキー、夏はソフトボールとスポー
ツ万能の誰からも愛されるチャーミングな女の子でした。
当時流行っていたフォークソングの通り、僕も大学ノートの裏表紙に彼女
の似顔絵を書いたものです。
中1のとき、英語暗唱大会があり彼女と張り合って彼女が代表になりました。
今でもその時の始まりのフレーズを思い出すことができます。
「The United States boys play baseball in spring.」…と
また、合唱コンクールでは自由課題に彼女が提案して題名は忘れましたが
   「あなたと私が(一緒に)暮らせるお家を(探して)・…
    ……旅に出るのよ 夢にまで見た2人だけの旅…    」
という歌を皆で練習し一位になったことがありました。

スキー場で雪焼けの可愛いい笑顔を見つけ、急にいろいろな事を思い出した
素敵な一日でした。今ごろ早苗さんは何をやっているかしら?
明日はもっともっと懐かしい話を思い出しましょう。

(493)イタヤカエデ 投稿者:斎藤 敏幸  投稿日:08月26日(木)00時41分33秒

鹿島小学校のイタヤカエデの修復が多くの方々の善意により無事完了して本当に良かった
ですね。それにしても,岩見沢市の粋なはからいには敬服します。
消え逝くふるさと大夕張に対する善意には本当に頭が下がります。
僕等なり方法で大夕張の象徴を残すことはまだできるのですね。
あのイタヤカエデの木の下には、大夕張が元気だった頃の沢山の思い出があります。
鹿島小学校のイタヤカエデが治療していただけて本当に嬉しいです。
関係者の皆様,ご苦労様でした。

(492)8/29客車の補修をします 投稿者:伊藤  勲 投稿日:08月25日(水)23時20分44秒

 シューパロ塾より

 8/29午前10時から客車の補修をします。
 はがれているトタンの補修など、とりあえず
台風に備えての応急措置です。
 都合のつく方は、お手伝いお願いします。

(491)大木 投稿者:飯田 雅人  投稿日:08月25日(水)22時01分02秒

内川さん,「大夕張の夜」の裏には,そんなエピソードがあったなんて知り
ませんでした。内川さんをはじめ,関係された方々にお礼申し上げます。

鹿島小グランドの富士見町側の門のそばに立っていたイタヤカエデの木。
当時は,木の名前すら知らず,日常の単なるグランドの一風景でした。
思えば,校庭に立つあの大木はグランドで遊んでいて突然の夕立に襲われた
時の貴重な一時避難でした。只,雷雨の時には,どうもそこは,雷がおちそ
うな場所のように思えてしかたがありませんでした。(そんなこと思ってた
のは私だけでしょうね,きっと・・・)

平成9年6月22日,鹿島小学校閉校式の日曜日の朝。玄関前の受付の賑やか
さとは対称的に,ひとりの男性が,あの大木のそばに立って,腕組をしてじっ
と鹿島小学校の校舎を見上げていました。その姿が忘れられません。

(490)鹿島小学校の最後のシンボル 投稿者:内川 准一  投稿日:08月25日(水)18時17分16秒

昨日、奥山さんが投稿されていました鹿島小学校のイタヤカエ
デのことでちょっと書きます。
2月ほど前、私が「校庭での夜」を過ごした翌日、帰り際に、こ
の木を撫でていて、偶然!入り口は狭いけど芯に達している腐
れかけの傷を見つけました。
それで、山影さんと正木先生に手当の手配をお願いしたのです。

これも縁です。散々世話になったこの木にささやかなお礼をす
るつもりだったのです。
その後は、お二人の働きと、岩見沢市のご厚意により、充分過
ぎる手当を、しかも無償で、受けることができました。
次第については正木先生から2度も連絡をいただき、知ること
ができました。岩見沢市緑化推進室の入谷さん、緑のセンター
の福士さん、そして、お手配いただいた両市の関係者の方々に
も併せてお礼申し上げます。わがままを聞いてくれて有り難う。
樹齢のことですが、40年前に既に大木であったこの木が70歳
な筈はなく、おっしゃるには、もっとずっと古い木かもしれないと
のことでした。

(489)鹿島中グランド98 投稿者:飯田 雅人  投稿日:08月24日(火)22時10分13秒

成松さんからメールをいただきました。それによると,
常盤町の鹿島中横のパラボラアンテナが解体されたそうです。
常盤町の辺りはとりわけ土地が低く,ダム湖に沈んだ時には
深い底になってしまう土地です。
成松さんのメールを読んで,
去年の6月,鹿島中跡に行ったことを思い出しました。ジャ
ージに長靴というスタイルで,それまで渡ったことのなかった
鹿島橋を車で思いきって渡りました。道の両側から伸びている
イタドリの枝をこすりながら鹿島中のかつての正門のところま
で一気に行きました。
雨が降ると泥んこになった正門前の道に立ちました。そこから
校舎に続く道は鬱蒼とした林に囲まれ,なかなかわかりません
でした。
地面には腰まで届く雑草が伸びて茂っていました。かつて中庭
だったと思われるところに立ち木が固まってたっているのがわ
かりました。
地面をよく見ると車で入ったような跡がグラウンドの方に続い
ていました。その跡に沿って,雑草をかき分けながら進んでみ
ることにしました。しばらく雑草を腰でこいでいくと,木の間
に突然視界が広がりました。忘れもしない鹿島中グランドでし
た。
そこは確かに陸上競技会や,サッカーの試合が行われ,学校祭
では,仮装行列のスタートする場所でもあり,燃える火を中心
にファイアーストームと称してフォークダンスをみんなで踊っ
た場所でした。
友達と授業中のんびりと座っていた土手もはっきりわかります。

あの向こうに校舎があったんだ。校舎と反対側の学校林の方か
ら校舎があった方をみていました。座っているとそれまで感じ
ていなかった夏の風が気持ちよく吹いていました。ここに来る
まで苦労して雑草をこいできたのが,なんだか嘘のような広々
とした空間でした。

ひょっとしたら,何か昔の手がかりになるようなものは残って
いないだろうかと,砂場があったことを思い出し,そのあたり
にぶらぶらといってみました。
砂場はわかりませんでしたが,風雨にさらされ真っ白になって
干からびたコーンポストを見つけました。それでも原型を留め
ていました。ほとんど訪れる人もないこの地で長いこと,野ざ
らしになっていたのでしょう。

あのコーンポスト,今もあの時のままかな。せめての思い出に
拾ってくればよかったかな,とも思います。あれから一年,今
も鹿島中のグランドには,行けるのでしょうか。
今,鹿島中学校の閉校記念碑は,移転後の鹿島小の裏に目立た
ずひっそりと建っています。
いつか,みんなで訪れることがあったら,成松さんのいうよう
に,旗を持って,そしてそれを流ーーーい棹の先につけて,湖
面に届くように,鹿島中グランドにつきたててきましょうか。


追伸)その時の写真の一部を「鹿島中グランド98」として載せ
      ました。合わせて見て頂けますか。

(488)「旧鹿島小のシンボル・校庭のカエデ治療」 投稿者:奥山 道紀  投稿日:08月24日(火)20時14分25秒

内川さんが申して出ていた旧鹿島小学校校庭の「イタヤカエデ」の木の
治療が「シューパロ塾」の正木塾長・山影さんの尽力により、18日
岩見沢市の「緑のセンター」から「樹木医」が派遣され治療が行われ
ました。
樹齢70年の大木ですが、根本にアリが巣くい大きな空洞ができており
樹木医の福士正明さんと岩見沢市職員が、空洞に薬剤をいれてふさぎ、
元気になるように根の周りに肥料も埋め込みました。
これらの費用は、「岩見沢市」持ち、「夕張からの移転してきた市民も
多いので、気になさらないで」との事でした。
正木塾長も「校舎は近く解体され姿を消すが、鹿島に住んでいた人たちの
心に降れるものを一つでも残せてうれしい」と言ってました。
よかったですね、内川さん。

(487)飯田さんに会えるチャンス 投稿者:斎藤 敏幸  投稿日:08月24日(火)17時04分51秒

8月29日(日)に開催する第2回交流会の参加申込みについては,会場の都合上
25日をもって締め切らせていただきます。ちなみに僕のところは家族4人で参加
させていただきます。娘二人が元気でご迷惑をおかけすると思いますが,食べ物が
ある間は天使状態ですのでご了承ください。
なお,当日は「牛しゃぶ」の食べ放題を用意させていただきます。
また,参加に当っては,大夕張と係わりのある人たちの親交を第一に考えています
ので,社会的立場を示す名刺交換等はご遠慮ください。
申込みに関する仔細については,トップページの「おしらせ」をご覧ください。
まだ迷っている方がいましたら今すぐ参加を申込んでください。
今なら,まだ「生の飯田さん」にお会いできるチャンスがあります。

* 妻に志垣太郎の話しをしたところ,CMは記憶にないが,TVドラマ「あかんたれ」
 に主役で出ていたことは,覚えていると言っていました。

(486)CM撮影 投稿者:奥山 道紀  投稿日:08月23日(月)20時42分08秒

志垣太郎さんはCM撮影だったのですね。
今から26年前といえば昭和47年12月頃から翌年の春先の撮影ですね。
48年3月、大夕張礦業所の閉山提案の1カ月前には映画『塩狩峠』の
撮影が行われていますね。47年7月26日の北海道新聞には田村亮が
CM撮影で大夕張鉄道にという記事があります。これは何のCMだったので
しょう。また「千年町」の駅で清酒のCMの撮影があったと聞いたことも
あるのですが覚えているかたはいないでしょうか。

(485)志垣太郎の思い出 投稿者:稲村 美奈子  投稿日:08月22日(日)23時27分23秒

奥山さんと飯田さんの文を読んで記憶が甦ってきました。
あれは、私が東校の1年の時だったと思います。42−16=26
26年前、CM撮影でしたが、グリコではなかったような気がします。
友達の遠藤さんのお父さんが駅員さんで情報が入りお昼ぐらいから
撮影が始まり、夕方過ぎまでかかりました。汽車の中でのシーンだった
ので、私と遠藤さんもエキストラとして一緒に中に乗っていました。
終わったのが、もう暗くなった頃で、サインがほしいと、マネージャー
にお願いしたのですが、時間がないからダメと言われ、ガッカリしていると
横で話を聞いていた志垣太郎が、サインぐらいいいじゃないと言ってくれ、
その後サイン会になりました。今、遠藤さんに確認したところ、飯田さんの
言ったとおり、グリコのアーモンドチョコのCMで駅は大夕張から炭坑病院
の前の駅での撮影だったようです。季節は冬。青春真っ只中の思い出です。

(484)志垣太郎 投稿者:飯田 雅人  投稿日:08月22日(日)00時05分48秒

以前志垣太郎と大夕張鉄道の話題が出ていましたが,
人から聞いた話です。
時期は不確かですが,グリコのCM撮影のために
大夕張に来たことがあるそうです。
志垣太郎が三菱大夕張鉄道の客車に乗って撮影したそ
うです。

(483)鐘五つ 投稿者:飯田 雅人  投稿日:08月20日(金)17時29分10秒

菅井さんの書き込みを読んで,私も鐘が最後になっていたように思いました。
鐘5つ 鳴らしてみました。一日の終りを告げるチャイムには必ず明日という
希望がありました。
こんなにさびしい気持ちで聞くことになろうとは・・・・。

どうか聞いてみてください。

http://www2f.biglobe.ne.jp/~mst_iida/hanyu.mid

(482)鎮魂歌 投稿者:菅井宏史  投稿日:08月20日(金)05時30分50秒

小学校のチャイムですが、私のあやふやな記憶を頼りにしたものを早速に
採用して頂き嬉しいのですが、何か責任も感じてしまいます。先に謝って
おきます。違っていたらすいません。
チャイムの音を聞かせて頂いて、私が記憶していたもの(この記憶という
のが実に曲者で、後に何かの思い入れのようなものによって知らぬ知らぬ
のうちに現実にあったものとは違うものに変造され、それが自分の記憶と
信じてしまうということが往々にしてあり得ますので注意を要するのですが・・
この場合そうでないことを祈るしかありません)にかなり近づいた
と感じております。手前味噌的なことで申し訳ありません。
校舎の写真を見ながら、このチャイムの音を聞いていると、その当時の
様子がまた一段と鮮明に蘇ってくる感じがします。
しかしまた同時に、この音は余命幾ばくもない校舎のキンコンカンと鳴る
鎮魂歌(洒落というには悲しすぎますが)にも思えてきます。
ところで、曲の後に引き続いてカーン、カーンとチャイムの鐘の音が
4、5回鳴っていたように記憶しているのですが、実際はどうだったの
でしょう?もしそうだったとすれば、5時のチャイムだから5回鳴って
いたのでしょうか?

(481)来年の夕張岳 投稿者:今井 一郎  投稿日:08月19日(木)19時21分14秒

だいぶ前の丸山さんの書き込みのお答えです。

来年は夕張岳に登れるのだろうか、という事で、
私も気になってはいましたので、本日、やっと
夕張市の教育委員会に問い合わせました。

来年は特に登山道の工事などによる閉鎖は
予定してないとのことです。
林道等の崩落による工事はあるかもしれませんが
安心して登れるみたいです。

(480)大夕張鉄道での映画撮影について 投稿者:奥山 道紀  投稿日:08月19日(木)13時43分00秒

志垣太郎が映画撮影のため、
三菱大夕張鉄道の客車に乗ったという話を聞きました。
撮影年月、映画名などわかりません。
誰か詳細をご存知でしたら教えて下さい。
昭和49年の作品で浅田美代子・志垣太郎出演で「明日かがやく」
という作品があります。これは夕張鉄道の北長沼駅を
満州の駅に見立てて、引き上げシーンを撮影しています。

大夕張鉄道では客車内の光景などを撮影したのでしょうか。

(479)チャイムの音 投稿者:飯田 雅人  投稿日:08月18日(水)22時17分17秒

多くの皆さんの思い出の鹿島小の校舎から聞こえてきたチャイム・・・。
資料室の「帰り道」で聞けますが,菅井さんよりアドバイスを頂いて,
データを入れ替えました。(でも「埴生の宿」にはかわりないので,変わり
なく聞こえる方もいらっしゃるかもしれませんが)
すっきりしたと思うのですが,いかがでしょうか。
菅井さん,ありがとうございます。

(478)思い出の校舎が・・ 投稿者:菅井宏史  投稿日:08月18日(水)06時50分02秒

鹿島小学校の校舎が解体されるのですね。他の全てが無くなっても、
せめてあの校舎が、思い出の一杯一杯詰まったあの校舎が残っていれば、
まだまだ私の中で大夕張は死なない、そう思ってました。あの校舎は
故郷を慕う者の永遠の巡礼目的地、そう思ってました。それが無くなって
しまった後、いったい何を頼りに私は大夕張に帰ればいいのでしょうか?
校庭に立つ記念碑?無いよりはいいでしょうが、残念ながら私の大夕張
の記憶と直接結びつくものではありません。
悲しいです。あまりの無念さに言葉を失います・・・

(477)祖父の思い出から・3 投稿者:飯田 雅人  投稿日:08月17日(火)22時04分59秒

 外では,北海盆唄の声が流れてきています。大夕張を出て次の年,この時期
大夕張に帰って友達の家にとまってきました。そして札幌に帰ってきた時に,
この歌が今のように鳴り響いていたことを思い出します。
 お盆ということで,祖父の思い出ばなしにもう少しお付き合いください。

『銃後の私(三)』    長谷川 安造

 防空壕作り中,隣の外山先生と,夕張岳の向こうに機影の消える迄見送った。
帯広上空も通過だったと後できく。あれだけの編成機が爆弾一つ落とさず飛び
進んだこと,今もって全く不可解なことである。狙いは釧路であったろうか?
それから幾日かして8月6日広島市に原爆投下を知り,引き続き長崎市に投下,
多くの建物,人命が失われた。
 8月15日正午には昭和天皇の玉音放送ありと報道があった。学校は夏休み
で,私の家では妻が子供5人を連れて真谷地に墓参り,途中清水沢駅で,正午
ラジオを聞く。私は,当時は今のようにテレビさえ無い時なので,学校の用務
員室のラジオを内山校長以下10数名が集まり,聞かせてもらった。どんなお
言葉だろうかと,皆同じ心であったと思う。一瞬シュンとなる。敗戦,終戦を
聞くや一同落胆全身の力どこへやら,身の置き所も知らずみんな泣き出した。
これまでの張り詰めた心は,嘆き悲しみに一変した。今日までの辛苦や忍耐,
努力などいったいなんであったのか,と憤ってみたものの全国民等しい有様で
どうにも致し方の無い事となった。その後児童達の前では,腰抜け同様の教師
である。情けなくも残念なことであった。
 占領下におかれた私達の職場では,従来とは変わった様々なことがあった。
教科書の中でところどころを墨汁で消して使ったり,世界地図,日本地図,学
校備え付けの掛地図等没収されたり,時には中国人労働者が土足で各教室を巡
り歩き,学習中の児童達が驚かされた場合もあった。校下でも書く家庭の炭住
街で大騒ぎを起こしたこともあった。暫くして進駐軍の援護を受け,帰国とな
り,その後朝鮮人も同様に引き揚げていった。朝鮮人引き揚げでは教え子達も
いたので,別れを惜しんだものだ。今頃,何処でどの様にしていることか。
 それから,殊更自由主義,民主主義の徹底等が叫ばれて,教育界の様相も日
と共に,移り変わって行った。私達学校職員では,いち早く仲間同志で職員組
合いを早々に結成し,不安勝ちの各職員生活を自主的に合い互いに守り合うこ
ととした。その後,3,4ヶ月位経過した頃,組合組織が各地域で唱えられ,
夕張教職員組合も結成され,その委員長とか,書記長の選出をした記憶がある。
そうして北教祖,日教組等の組合組織に進展したものと考える。組合について
の考えは様々であったが,組合員相互の経済生活確保運動の推進をはかった。
それで大きく一致点が見出されたものだ。
 こうした変動には,馴染まれず追従困難で悩み苦しんだ人間も多かった。
 教育するものとして,戦前戦後と百八十度の方向転換であって,その変わり
方に大きく戸惑った姿であった。
 戦い進むにつれ,国内中の金物,お寺の釣鐘はじめ,子供の弁当箱,箸に至
るまで,我々の身の周りから消えていった。国内食料品,衣料品不足で配給制
となり,栄養失調者が出た。衛生必需品不足からか,誰もがノミ,シラミの多
発で悩まされた。国民一人一人の生活に事欠き,苦痛と苦難が実に多かった。
こんな思いは私だけでなく,如何なる職にある者も,老若男女総べて全国民が
等しく味わったことである。

                         (平成5年8月18日)

(476)南大夕張駅 投稿者:奥山 道紀  投稿日:08月17日(火)19時32分20秒

南大夕張駅は、私が小学校3年生(昭和42年)まで通った南部小学校
の下にありました。当時、青葉町にあった苗畑の営林署官舎から森林
鉄道の夕張川横断橋梁を渡り営林署の土場を抜け、小学校に通いました。
踏切りを過ぎ左手には炭住を改造した三菱購買会と郵便局があり、右手
の駅の向かいには南部駐在所と市役所の支所がありました。
運動会が雨で中止となり、せっかく用意した昼食を数家族で駅舎の中で
食べた記憶があります。
当時、列車は既に7往復程度しかなく、待合室の中は閑散としてました。
明治44年、大夕張炭坑の石炭積出しの専用鉄道の「二股」として開業。
大正7年に「大夕張」になりましたが、炭鉱の北部移転により昭和4年に
再度「南大夕張」と名前が変っています。
昭和37年の道路開通まではバスもここまでで、南大夕張〜大夕張炭山間の
列車も何本か運転されていました。
南大夕張鉱の開坑に伴い、昭和43〜44年にかけ線路の増設工事が行われ
駅舎も道路側へ新築・移転の予定でしたが、結局は駅舎に三菱マークを
新たに掲げただけで再び「ヤマの駅」となりました。

(475)祖父の思い出から・2 投稿者:飯田 雅人  投稿日:08月16日(月)00時43分15秒

『銃後の私(二)』      長谷川安造

 動物愛護とか,農林省滝川畜産種羊場とか耳にすると,私の戦時中の生活が思
い出される。自給自足や増産教育が,全国どこの学校でも盛んで前号にも一寸述
べたところだが,児童と共に『打うちてして止まん』『勝つ迄』の精神で,成し
遂げれるものには何でもぶつかっていったものだ。高学年担任で炭砿地域内の学
校だが,綿羊飼育も行った。その中に校下父兄の中で,学校教育を見習ってか生
活の余暇を利用し綿羊飼育を始めるものも出てきた。時代相応に羊毛の自給自足
を目指したものと考えられる。しばらくの間に炭住街の校下に20頭近くも飼養
する有様だった。私事ながら子供達弱い方であったため,山羊乳は最も母乳に近
い栄養価ありと知り,我が家の山羊飼養を始めた。朝夕2回の搾乳量2粒ある迄
となり,乳呑み児一人分は十分間に合った。
 近所の人々が聞きつけ,妻が弱い,子供が病弱というので山羊乳をもらえない
かの希望者あり,望み適えるのに苦心したこともあった。学校の中庭に,手頃な
牧草地があり,その使用を許してもらい,私は毎朝出勤時山羊を伴い,その中庭
に帰宅まで放し飼いであった。児童達からは山羊先生のあだ名をもらった。飼育
中は山羊が病にかかれば相応の手当てをなさねばならず,獣医学知識のない私に
は,苦労続きであった。
 年一回の綿羊の剪毛については,幸い滝川市幌倉での剪毛講習会に出席するこ
とができ,当時の鋏み刈りも幾らか自信がついた。
 その中,校下には自然発生の姿で大夕張の沢地炭住街に30名近い会員で「山
羊綿羊組合」なるものを組織した。そして組合活動として飼育等共同研究の進み
方を辿るようになった。長い戦争中の国内物流停滞最中の一現象であった。自発
自主的,研究的で確かによい事であったと思う。その組合長は石川さん,副組合
長には,いつの間にか私の名が出ていた。

 或る年の春,教室で朝の学習が始まって間もない時,教室入口の開き戸を静々
とあけ,のぞき込むように
「先生,ちょっとお願い」山羊綿羊組合の一会員小林さんだった。
私は学習を中断し,何事かと廊下に出た。
「家の山羊がいま難産で苦しんでいる最中,何とかお願いできませんか」
私は困った。しかし生命問題だ,時間を争うことだ。児童に
「ちょっと待ってね」と言い置き,職員室に急ぎ,校長室に入り伊沢校長に事情
を話す。校長は,
「君,いってやれ。教室は僕が代わっていく」
ありがたい言葉に,許しが出てホッと小林さんと走るように1粁半。山羊小屋に
到着。町外れに住む堀田さん(空農畜産科卒,牛舎経営)にご足労願いやっと分
娩を見ることができ,一同安堵した。
 綿羊の剪毛も組合員自身で刈るようにもなったが,日曜日には私が手がけたの
もあった。山羊の病気手当て等勉強したり忙しい時もあった。児童の学科指導の
外,学校園の農作業,動物飼育全国学徒動員で小学児童高学年も,地域社会の生
産業には出動協力した。児童と共につらい日が続いても,日々勝つと希望燃え明
るく皆と励んだものだ。それに全国食糧難で配給制であり,カボチャ,でんぷん
の屑粉等の配給で,他は自由に手に入らない。母ともに12人家族,悪い事と解
りながらも,好都合の日曜日従姉妹の農家岩見沢を訪れ,角田に住む弟の農家を
訪ねたりして恵み与えられた米をリュックサックで背負い,汽車で,或は歩いて
帰った。闇屋,買出し取締りの時代,幸か不幸か私は一度も取り調べにもあわず
親戚の方々へ今も感謝している。
 終戦直前の頃,内山校長の温情により,職員各家庭にて空襲に備え,防空壕を
作るものにはその材料を提供するとのこと。長さ幅,厚さと大物であったが,家
庭が頭に浮かび防空壕づくりを決心した。7月末日,お隣の外山先生共々,家の
前の土手地に壕づくり始まる。その最中の或日の午後,突然礦業所の非常サイレ
ンが鳴り響いた。空襲の警戒警報である。逃げ込む間もなく,西の方からゴウッ
と物凄い音。木陰から上空を見るとB29十数機の編隊が,頭上を東方に凄い音
で直進している。

(474)祖父の思い出から 投稿者:飯田 雅人  投稿日:08月13日(金)13時17分13秒

8月15日終戦記念日がもうすぐです。
子供の頃,母は「女学生の頃清水沢駅前で玉音放送を聞いた」という話を
していました。祖父,長谷川安造は戦時中教員として大夕張にいました。
その立場で,大夕張の暮しについて書いたものがあるので,紹介します。


『銃後の私』     長谷川 安造

 年かわり私は夕張市三菱大夕張礦業所のある大夕張尋常高等小学校に転勤
した。昭和13年の春の頃で国内情勢何処も同様な雰囲気でこの地は前任地
に比べ人口も多いだけに,応召兵士の数も多く,殆んど毎日の様に,大夕張
駅ホームまで,高学年児童と共に見送りにいったものだ。そして,「勝って
くるぞと勇ましく」(露営の歌)や「みよ東海のそらあけて」(愛国行進曲)
など日の丸小旗を振りながら,出征兵士を送り出した。学校は移り変わって
も,その当時は,どこの市町村でもいや全道全国的に物の生産増産主義には,
変わりなしであった。したがって私が高等科児童を担当した5,6年間はい
つも児童と共に学校農園や小家畜の飼育等で汗を流した程だった。
 大夕張尋常高等小学校では,綿羊の飼育と同時に,剪毛や洗毛,さらに毛
糸つむぎ等の技術指導,ウサギは年間20数頭飼育し,動物愛護心育成を兼
ねた。
 戦いは昭和16年日米戦争と進み,学徒動員令が出され,小学生から中学
生あるいは,国防婦人,一般各職場人と実に広範囲に亘り産業増産に国民一
丸となり励み続けた。私の担当児も40数名の女児だったが,増産の為に笹
藪原を開墾し野菜畑としたり,坑内用坑木運搬作業,コークス,木炭の運搬
又は木材運びの森林鉄道沿線の草刈作業等,国をあげての勤労動員であった。
 私達職員一同で日曜動員というので,坑内に入り採炭作業で黒くなった日,
冬は校舎の雪落とし,それから坑外輸送路屋上の雪落としで日焼けした日と,
今振り返ってみて,この体でよくも続き耐えたなと思う。尚,家庭関係では,
一般に生活必需品の不足,食料品の極端な不足,一応配給制度はあったが,
私のように家族の多い者には,それ相応の苦労が伴った。

(473) シューパロ塾入会のご案内 投稿者:伊藤  勲  投稿日:08月12日(木)20時14分52秒

 シューパロ塾では会員を募っています。
 会の活動に興味のある方、入会を希望する方は
入会案内書を送付しますので、下記までご連絡くだ
さい。

  正木英造  夕張市南部菊水町
          (Tel/Fax 01235-5-3041)

  伊藤 勲  夕張市南部幌南町31番地
(Tel 01235-5-5011)
(E-mail isao5011@seagreen.ocn.ne.jp )

(472)谷野書店の思い出 投稿者:飯田 雅人  投稿日:08月11日(水)23時03分24秒

谷野書店の建物がぽつんと今も残っています。
中学生の頃,学校の帰りなどに立ち寄り,雑
誌や漫画本等の立ち読みを良くしていたのは,
呉服店を半分区切って書店にしていた郵便局
隣の川西商店でした。
谷野書店は緑町4丁目,駅前を春日町の方に
行くとその丁度中間くらいのところにありま
した。
店内は狭く,入るとすぐレジスターが置いて
あり,その右手の棚に何段も本がぎっしり並
んでいました。当時,ビニールカバーの付い
たハヤカワミステリなどが多く並べられてい
たと思います。中学生の頃,父親の影響で推
理小説を読み始め,007シリーズの「ゴー
ルドフィンガー」をここで買いました。
父が良くここで,欲しい本の注文をしに行っ
ていました。日曜の夕方,散歩がてら父と一
緒について行ったことが記憶に残っています。

(471)「谷野書店」について 投稿者:奥山 道紀  投稿日:08月11日(水)21時36分40秒

私が中学生の頃(昭和40年代後半)、夕張の書店といえば
本町の「藤野書店」「西野回陽堂」、清水沢の「文化堂」
そして大夕張の「谷野書店」だったと思います。
大夕張の「谷野書店」には入った記憶がありません。
大夕張閉山後、南部の菊水町に移っていましたが
大夕張時代の「谷野書店」はどうだったのでしょうか。

(470)消え去る町を後にして 投稿者:稲村 美奈子  投稿日:08月10日(火)00時43分16秒

鹿島小学校着9:50分。朝の弱い低血圧の私は、前の日まで迷っていました。
でも、行って良かった。と、言う気持ちと1年前に比べてあまりの変わり果てた
姿にショックを受けながら帰ってきました。もうすぐ明石町の駅だなと思って
車を走らせているとない?駅がない?もうすぐ千年町だよね。ない?町ごとない?
大夕張はまだかな・・・。歩道橋はあるけど、もしやここが駅前?
不安な気持ちでウィンカーを左に・・・。あった!少学校!でも教会の石の階段
がない?私の住んでいた緑が丘の道を登って行くとブロックの我が家がない?
なんにも残っていない変わり果てた姿を目の前にして呆然と立ちすくんだ私。
人が住まないとこんな風になるんだと、あらためてわかりました。
驚いたのは、こんな暑い日にどうせ私達ぐらいしか来ないだろうと思っていたのに
何人もの人が同じ気持ちで訪れていたことです。多分、今年雪が降る頃が大夕張の
見納めかなと思いました。時間が足りなくて見ていない所もあるので9月か10月
に泊りがけで来たいね、と飯田さん達と話しています。35度の楽しく、悲しい1
日でした。

(469)鉄道車両の保存署名について 投稿者:奥山 道紀  投稿日:08月09日(月)19時30分04秒

飯田さん、早速の協力ありがとうございます。
このページを見ている皆さんにもお願いします。
現在、南部の南大夕張駅跡に置かれている客車や
石炭貨車は、今では「三菱」や「大夕張」の歴史を伝える
貴重な遺産です。
ダム建設で全てが失われる大夕張地区の建物ですが
残りは石炭博物館の「写真」や「資料」だけとは寂しい限りです。
夕張市としては「観光客」としての
市外の人々の意見も無視できないでしょう。
何とか、署名にご協力頂ければと思います。
よろしくお願いします。

(468)夕張の光と影 投稿者:斎藤  敏幸  投稿日:08月08日(日)23時02分44秒

本日午前10時にチャット仲間で,鹿島小学校に集まりました。
僕のところは家族4人で参加し,子供たちには初めて大夕張と鹿島小学校を見せること
ができました。
6月に来たときよりも,鹿島小学校周辺は荒廃していました。心無い人たちに窓ガラス
を割られ,備品類も散乱していました。
そんな中,校舎左側に置かれてあったノートには沢山の書きこみがあり,誰にもいたず
らされずにプラスチックケースに収められていました。
大夕張を後にし明石町の東高の入口で立ち止まっている人たちを見つけ,初対面なのに
挨拶をすると,互いに近所に住んでいたことなどを話ながら交流することができました。
東京方面から来ている人も含め,同期会とのことでした。

その後石炭の歴史村でみんなで昼食をした後,子供たちを乗物に乗せ遊んできました。
石炭の歴史村は,沢山の家族連れで賑っていました。
楽しそうにに遊んでいる妻と子供たちをファインダーで追っていると,ふと原野になっ
てしまった大夕張のことや,窓ガラスが破られ荒廃しつつある鹿島小学校の姿が浮かび
上がってきました。
賑わいを見せる夕張本町周辺と,もうじき死に逝く大夕張の愛しいものたち姿が対比的
にラップしてしまうのです。
もし,何らかの偶然が働いていたなら,大夕張が沢山の人たちで賑っていたかもしれない。
ファインダーの一瞬の光の中に,夕張の光と影を見たような気がしました。

(467)大夕張に行って来ました 投稿者:佐藤 次男  投稿日:08月08日(日)21時11分33秒

先日、飯田さんの大夕張チャットで
『今週の土曜か日曜に大夕張に行こうと思っています。出来れば,
一緒に大夕張の町を皆さんと歩きたいのですが,いかがですか。』
の一言に誘われ、今日大夕張に、行って来ましたので報告します。

集まったメンバーは、飯田さん、斎藤敏幸さん一家、稲村美奈子さん
そして私と、10時に鹿島小学校に集合し、鹿島小学校を見て
(中に入れましたが、いたる所の窓が割られていました。)
神社にのぼり、神社では昨年私の同期会でつるした黄色いハンカチを
張り直し、そのあと車で各町内を一回りして来ました。

他にも大夕張にきてる人達が何組かいて、すれ違うたびに挨拶を交し合い
東高の登り口で行き会った人達は、東京,千葉から来たらしく
「東高の卒業生ですか?」「私達もですよ」とか「なに町にいたの」
「私と同じだ!」などと話をしてきました。
その人達と話を交していて、皆同じおもいで大夕張にきてるんだなと
つくづく感じました。

追伸
今日は天気も良く、一日で日焼けしてしまい、腕などはまっかに
なってしまいました。またのどが渇いても、もう大夕張では
自動販売機すらなく、南部に戻るまでは飲み物も飲めない
状態でした。
皆さん天気の良い日に大夕張に行く時は、事前に飲み物を用意
して行きましょう。

(466)「ローソク出〜せ」の歌 投稿者:乗田 功一  投稿日:08月08日(日)02時44分38秒

七夕の「ローソク出せ〜」の投稿は私だと思います。
この歌、続きがあると思うのですが全部ご存じですか?
ドラマ「北の国から」の中で少しだけこの歌が登場する
場面があるのですが「ローソク出せ出せよ 出さないと
かっちゃくぞ おまけに食いつくぞ・・・」と歌ってい
ます。でもこの先の歌詞が判りません。
飯田さんの娘さんならご存じでしょうか?

(465)七 夕 投稿者:飯田 雅人  投稿日:08月07日(土)19時00分31秒

今日8月7日は,北海道地方の七夕です。保育園に通う下の娘は
七夕の唄で,「ローソクだーせー,だーせーよー。だーさーない
と,かっちゃくぞ」と歌っています。以前,どなたかの投稿にも
あったようにこの歌は北海道地方だけで歌われているのでしょう
か。大夕張では,カンテラを下げて各家庭を回りましたが,今は
私の近所ではそのようなことをすることはありません。歌だけが
残って伝わっているのでしょうね。
我が家では,プラスティク製の笹に「てつぼうができるようにな
りますように」という願いごとを書いた紙を下げて飾っています。
子供の願いごとはいまとかわっていないなあと思います。

「ローソクだーせー,だーせーよー。
              だーさーないと,かっちゃくぞ」

ン十年目の少年少女達の声が響いた大夕張の七夕の晩,今晩です。

(464)大夕張の夜 『星座観察会』 投稿者:飯田 雅人  投稿日:08月06日(金)23時15分15秒

昨日5日の夜,鹿島小学校グランドで『星座の観察会』をおこないました。
晴れた日に,そして月明かりのない夜を選び,思い切っていくことにしました。

午後6時半自宅を家族を連れて出発。車中で夕食をすませ,午後8時半に鹿島
小グラウンドに着きました。

ネオン輝く札幌の街を出て,街路灯のオレンジ色が夜空に映える長沼の町を過
ぎると,由仁の町に入った辺りから,住宅の白い蛍光灯の灯りだけがポツリポ
ツリと見えるようになってきました。
今から20数年前,中学生の頃,三菱バスや夕鉄バスで札幌―大夕張間を行き
来したころ,都会の灯りにあこがれを感じ始めていた当時の心の風景とオーバ
ーラップし,また,そう言えば夜に大夕張に向かうのは,父が亡くなったと聞
いて真夜中伯父の車で大夕張に向かった時を思い出すなあ,などと,ついつい
感傷に浸りがちになっていました。
さて,真っ暗な二股峠を過ぎ夕張市内へ。飲み屋やバーのまばらにネオンが光
る清水沢を抜け,大夕張へ。街灯もなくなりひたすら暗い道を走ります。
途中,南部の家々の灯りにほっとするまもなく,大夕張ダムの管理事務所を過
ぎるあたりからは,右手にシューパロ湖が深い闇をつくり,左手には,鬱蒼と
茂る緑の木々がヘッドライトに照らし出され,さびしさを募らせます。
「夜っていうのは,暗いもんだ。これがあたりまえなんだ」と,家族に言いつ
つ,そんな自分もいかに都会の明るさに慣れ切っているかを感じていました。

何も目印のなくなった大夕張にいつの間にか入り,大夕張駅前の歩道橋の手前で
大きくハンドルを左に切ります。ヘッドライトに照らしだされて,雑草が背丈
を伸ばし包み込まれそうになっている校門が目に飛込んできました。
一気に坂をかけあがりグランドに入りました。車のエンジンを切り,空を見上
げてみると,

「うわあー,すごい。すごい星だ」

娘も妻も声をあげていました。思っていた通り,いえ,思った以上に素晴らし
星空でした。
頭の上にはべガ,アルタイル,デネブの夏の大三角形。織姫と彦星の間には,
薄い雲の流れのようにぼんやりと白く光る天の川が。北の方角には,子供の頃,
礦業所の上の空にいつも見ていた北斗七星と北極星。雲もほとんどなく見事な
星・・・星の光で夜空が明るくなるなんてこと,すっかり忘れてしまっていま
した。

グラウンドには,誰もいません。歩道橋あたりの街灯が2つばかり,わずかに
白い光を発しているだけで,あとは,深い闇です。
目の前に鹿島小学校の校舎が大きく黒い影を描き,黒い影はグラウンドを囲ん
立ち並ぶ木立に続いていました。そして,その黒い影は山神社へと続き,背後
の山々が漆黒の稜線をはっきりと描いていました。その上に無数の輝く星たち
をちりばめた青味がかった清んだ夜の空があり,すっぽりと黒い闇をおおって
いました。

気温22℃。風が柔らかく体にまきついてきます。緑が丘のかつて教会のあっ
た方からは沢の流れの音が,そして,緑町の向こうからは,シューパロ川の流
れの音が,静かに響いています。
そして,虫たちの音が途切れることなく聞こえ,富士見町,緑町のあたりから
蛙がないたりなきやんだり。時折,小学校近くの木から小鳥のさえずりが聞こ
えます。

「あっ!流れ星だ!」娘の声に北の空を仰ぐと北斗七星の辺りを,強い光を発
した流れ星が北の地平線に向かって,落ちていきました。「願い事をしたかい」
と娘に聞くと,「ううん,そんなひまなかった」 その後も,グランドの上の
広く丸い空を見上げていると横に長く光って落ちて行く流れ星や,強い光でき
らめいて消える流れ星などいくつも見られました。願い事をかけることも忘れ,
その見事さに見入っていました。

自分が見上げて育った故郷の空で星を見るのはまた格別でした。時間があっと
いう間でした。そして,午後9時30分頃,闇の静けさのやぶるように突然聞
こえてきた国道を走る自動車の音をきっかけに大夕張を後にしました。


『星空観察会』のもう一つの目的は大夕張の夜の音を録音してくるぞ!という
ことでした。でも難しいことなんですね。やってみてわかりました。耳にはあ
れだけ鮮明に聞こえてくる沢や川の流れも虫や蛙の声も,結局音は上手くとれ
ませんでした。どなたか良い方法をご存知在りませんでしょうか?音にもこだ
わりたい,そんなことを思わせる大夕張の夜のBGMでした。
内川さんの投稿を読んで『大夕張の夜』に会ってきたかったんです。行ってよ
かった。ぜったいお薦めですよ。素晴らしいの一語につきます。

(463)夕張に藤圭子が来た! 投稿者:ぱるぱる  投稿日:08月05日(木)15時52分06秒

おばから聞いた話です。

おばが小学校の時、巡業で夕張に来ていた藤圭子が
一週間ほど小学校にいたそうです。(すぐ転校したそうですが)


この話を詳しく知っている方、いらっしゃいませんか?

(462)客車周辺の草刈りについて 投稿者:奥山 道紀  投稿日:08月03日(火)22時07分01秒

本日、岡山市在住の泉俊弘氏より
大夕張鉄道の模型を譲り受けました。
この車両は、9月開催のシューパロ展で
運転の後、幌南小学校資料室など、鹿島・南部の歴史を
伝える施設に寄贈し、展示保存してもらおうと思ってます。
さて、先日も書き込んだ7月31日の草刈りの件ですが
客車には興味無いと言いつつ、協力してくれた
金沢鉄工の社長さんの他に
「雨も本格的に降り出したので、もう止めましょう」
という中を、黙々と鎌で草刈りをしていた山影さんの姿が印象的でした。
「客車を買い取り、公園にしたい」というお父さんの
意志を実現したいのでしょうか。
市外に住む、我々はどういう関わりが出来るのか考えてしまいます。
何とか、多くの汗と血で掘り出された石炭を運んだセキ車と
大夕張や南部の人々の生活を運んだ車両を後世に残したいものです。

(461)濃いめの味 投稿者:斎藤  敏幸  投稿日:08月03日(火)21時45分12秒

長谷川さんの書込みにもありましたが,我家の味付けも塩分の多いものでした。
父は,採炭夫で先山をしていましたので,食卓は一家の大黒柱である父を中心に組立てら
れていました。
何を食べるにも,たっぷりめの醤油と極めつきは味の素の山です。
特にサケは「塩引き」といって,焼き上げても表面に塩が吹いている状態のものです。
今から振り返ると,不健康な食生活を送っていたことになります。
今は健康管理のため,薄味の食生活ですが,大夕張にいた頃は採炭夫の家庭はどこも「濃
い」めの味だったのでしょうね。

(460)遠幌・幌南小学校と正木塾長 投稿者:伊藤  勲  投稿日:08月03日(火)21時28分25秒

 8/1の廃線跡の探索で、正木塾長が遠幌小学校と幌南
小学校について説明していました。我家の両校と塾長との関
わりを書いてみました。

 長女は遠幌小学校の最後の入学生でした。木造の老朽
校舎で、入学式のとき、初めて中に入ったときは、おもわず
自分の小中学校のときの校舎を思い出してしまいました。
 周囲を木々に囲まれており、自然環境に恵まれている夕
張市内の中でも最高の環境だったと思っています。
 翌年、南部小学校と統合し、幌南小学校が開校しました。
塾長が説明されていたように開校時の301人が、直前の閉
山により、2学期が始まったときは101人に急減してしまいま
した。
 塾長は幌南小学校開校時の長女の担任(2年)で、教員生
活最後の担任でした。毎日かなりの宿題を出して子供達は閉
口していたそうです。妻の話によると、閉山で転向する児童が
多いため、転校先でも授業についていけるようにするためだっ
たそうです。全て手作りのプリントで先生も相当忙しかったと
思います。長女はそのおかげで家庭学習の習慣がついたと
言っていましたが。長女の話では、怒るときは一人に対してで
はなく、連帯責任として注意しなかった子供にも怒ったそうです。
怒ると怖かったと言っていました。
 長男が入学した平成5年に58人、卒業時に34人と年々児童
は減っていますが、小規模校独特の家庭的な雰囲気の中で子
供達はのびのびと育っています。

 正木塾長が幌南小学校在任中、私は学校行事は妻に任せて
ほとんど参加しておらず、面識はありませんでした。
 シューパロ塾には、先生から誘われたのではなく、奥山さんか
らのお話で入りました。
 そんな私が今、塾の事務局として先生のお手伝い(頼りない
ですが)をしているのも何かのご縁だと思っております。

 塾長に関する話題をもう一つ。
 昨年、この掲示板に森田伸一さんが投稿されていました。
 「大夕張炭鉱閉山前に父が事故に遭い、やむなく大夕張を去
った。父の無念の表情と駅に見送りにきてくれた正木先生やク
ラスメートの姿を二十数年たった今でも鮮明に覚えている。この夏、
両親を連れて大夕張に行く」と書いてありました。
 先月、その投稿を印刷し、正木先生のお届けしました。先生は
「森田伸一、覚えている。去年来たのか。寄って行けば良かったのに」
と目尻を下げて懐かしそうな顔をして言っていました。閉山
などで散り散りになった教え子を今でも気にかけているようです。

(459)坑内での弁当 投稿者:今井 一郎  投稿日:08月03日(火)19時36分57秒

 長谷川さんの書き込みで思い出しました。
 そうそう。みんな水筒にはお茶、特大のマヨネーズのチューブには
水を入れて凍らせていました。入坑してすぐには凍っていて飲めない
のでチビチビと休憩の度に解けた分を飲むと節水(?)にも役立つと
のこと。私も真似をしようと思いながらも、中に残ったマヨネーズを
洗い落とすのがめんどうそうで、その前に一人暮らしで特大のマヨネ
ーズを最後まで消費するのに気が遠くなりそうでやめました。
 先日、シューパロ塾で、南部の客車周りの草刈りのあと、打合せの
とき、アルマイトの弁当箱の話になって、私は少々熱く語ってしまい
ました。
 今は売っていないけど、長谷川さんのお父さんの言われるように、
坑内は暑くて、弁当は塩分を多くしたおかずばかり。アルミの弁当箱
だったらすぐに酸化してしまいそう。日の丸の梅干しの部分なんて特に。
 ご飯とおかずで大きい弁当箱ふたつ。我ながらあの時はよく食べた。
 そうそう、忘れてならないネズミ。坑内で見るネズミの大きいこと。
よくあんな真っ暗な中で感心させられました。
 坑内ではネズミに弁当を取られないように山水管やエアー管からバン
セン(番線?)で吊るしました。坑枠にも吊るしたことがありましたが、
枠を伝ったネズミに弁当箱をかじられまして、穴があきました。
 あのネズミたちはいずこに行ったのでしょうか?

(458)食憶・エピソード1 投稿者:長谷川 潤一  投稿日:08月02日(月)21時57分28秒

先日、ちょっと息子の夏休みに同調して、家族で釧路方面に行ってきました。
和商市場で鮭やイクラなどを買い込み、帰りの車の中で筋子にまつわる話しを
しました。それは、採炭で先山をやっていた父のお弁当のおかずのことです。
父が現場に持っていく弁当のおかずの定番に筋子がありました。毎月14日の
会計の日になると詰所に組合員証と判子を持っていき、給料と明細を持ち帰った
母はすぐ筋子を一箱買います。白木でB4ぐらいの大きさで、緑色の油紙状の
もので内張りしてあり、結晶化した塩が箱の隙間からギザギザと溢れ出ていて、
釘を抜いて開けると筋子の油と濃い塩の匂いとが、強烈なえぐみと甘いくどさの
固まりとなって、その箱の中にギッチリと詰まった深い赤味から圧してきました。
父に聞くと、坑内はかなり暑く汗まみれで働くとのこと、塩分補給もかねて食も
すすむしょっぱいおかずがいるとのことでした。アルミのドカ弁に大切りの筋子、
ぎゅうぎゅう詰めの白飯、空いたQPマヨネーズの大きいチューブに水を入れて
冷蔵庫で凍らせてお茶代わり、食事休みはみんなの手前15分から20分ぐらい、
暗闇の現場での食事のためにヘッドランプのもとでも判りやすくキラキラと光る
大きなフォークを使い、早飯は美徳という根っからの労働者であった父の弁当を
思い出しました。皆さんのとこはどんな「おかず」がメインでしたでしょうか?

(457)廃線跡を歩いて 投稿者:伊藤  勲  投稿日:08月02日(月)20時27分54秒

 奥山さん、草刈りと鉄道の説明ご苦労様でした。
 今井さん、草刈りとバスの運転ご苦労様でした。
 飯田さん、ふるさとに特別な想いを抱いていたよう
ですね。お志ありがとうございました。大事に使わせ
ていただきます。

 両日ともあいにくの雨でしたが、草刈りと廃線歩
き、とても充実した2日間でした。
 遠幌から南大夕張までの約4キロの間に北炭
マークの電柱、サイロ型の倉庫(?)、北菱炭鉱の
鉄道関連施設など、知らないことがたくさんありま
した。ありがとうございました。

 中学生の長男が前夜、廃線歩きに参加すると
言い出しました。私が強要したわけでもなく、私
の顔を立ててくれたわけでもなく、自由研究の題
材が決まっていなかったためでした。
 興味を持ったのか、帰宅後資料を真剣な眼差し
で読んでいました。いろいろと質問されましたが、
わからないことだらけで、後で一緒に調べること
にしました。当日はデジカメの電池切れで撮影で
きなかったので、長男が後日改めて遠幌から鹿
島まで自転車で行き各ポイントで撮影し、南部・鹿
島のマップを作るそうです。
 ただ、最後までやり遂げれるかと、今から心配
しています(私の血を引いていますから)。
 
 子供が関心をもってくれたことが嬉しく、他の
中学生にも伝えてもらい、地域についてもっと
関心を持ってもらえれば、と改めて思った昨日
8月1日でした。

(456)「廃線跡歩き」ご苦労様でした 投稿者:奥山 道紀  投稿日:08月02日(月)16時26分38秒

今井さん、31日の草刈り、そして1日のバス運転ご苦労様でした。
飯田さんも、遠くからの参加ありがとうございました。
参加者・19名と少し寂しい感じがしましたが、事故もなく
無事終わり何よりです。
遠幌から南大夕張間も、予定時間をオーバーし色々な発見があったと思います。
また、友人が「風葬」と表現した南大夕張の客車も
周囲の草が刈られ、すっきりとしました。
4月の集会では、「客車なんて興味がない」と言っていた
鉄工所の社長さんが、草刈機を持参で参加してくれたことに「感動」しています。
このように住民に理解されることが、今後の会の活動の課題かと思います。
それでも、あの「あおさぎ」はどうしたのでしょうか。
帰りも、国道の辺りを歩いていました。
狐よりも、交通事故が心配です。なんとか保護出来ないものでしょうか。

(455)遠幌〜鹿島の探訪を終えて 投稿者:今井 一郎  投稿日:08月02日(月)07時30分05秒

 あっという間の2日間でした。
 31日の車両群周りの草刈りなんて、初めてエンジン付きの草刈機をいじらせて
もらって貴重な経験をしました。でも、カマだけじゃ刈れない程ホームに草木が
生い茂り12年間の長さが感じられました。しかも雨の中で感慨もひとしお。
 ちなみにどなたも気づかれなかった様ですが、ホームに2本の白樺の木が伸びて
いまして、下枝を落としたのは私です。なかなかいい形になったと自負しており
まして、南部に行く度に整えようかと企んでおります。さらに、ホーム手前の
流雪溝におがったガマ。小さな穂は良く見なければわかりませんので草刈機で
バリバリ刈っていたら、今先生の提案で残すことになりました。これらの草木の
成長も楽しみです。
 1日の徒歩探訪は歩けなくなった方の収容を目的に車で併走しましたが(決して
楽をしたかったのではありません・・・)過去に数え切れないほど車で通り過ぎ
ていた道路の脇に幾多の歴史の遺産が眠っている事に感動。
 鉄道車両の説明会では蜂に刺されたり、鹿島小学校の上に浄水場があったなんて
知りませんで、初めての浄水場の施設を見学できたのは素晴らしい経験でした。
(蜂に刺されたのは素晴らしくない)

 夕張は初めてという仕事上の知人が3人同行しましたが、初めは、何の事やら
わからない様子でしたが、南部のまちづくりのための鉄道車両保存や水没する
鹿島の事情を理解してくれたみたいです。
 当方のオプショナル・ツアーで、菊水・青葉の探訪、清水沢ダム、ユーパロの湯
で入浴、福住・社光地区の探訪、幸せの黄色いハンカチ広場見学、清陵町の北炭
夕張新鉱の通洞と慰霊碑見学、滝ノ上公園の北炭発電所見学等。
 青葉の日高商事事務所前では「夕張保険金放火殺人事件」の事、日高夫婦に殺さ
れた妻子を追う様に昭和60年の南大夕張砿での事故で亡くなった男の話をさせて
頂き、夕張新鉱通洞前では昭和56年の事故で、北炭は坑内にまだ救出されていない
人がいるにもかかわらず坑口密閉、注水を行った事。
 同行した3名はなんのためらいもなく「それは殺人ですね」と言いました。
 別に私は夕張の暗いイメージを植え付けるために貴重な休日を頂いた訳ではな
い。石炭によって支えられた近代文明の陰の部分を知って欲しかった。
 陽の部分では、炭鉱が去ったあとでも、過疎地といわれる街中で確実に生活し、
自分たちの手で将来へのまちづくりを推進しようとしている人たちの郷土愛を
感じて欲しかった。そして、幸いにも理解頂けたみたいです。
 千歳経由で帰宅は21時頃。
 夕張に興味を持ってくれた3人には、未だ語れきれていないので再度連れて
くるつもりです。

追伸
 飯田様
 本当にお疲れ様でした。
 これからもよろしくお願いいたします。

(454)南部・鹿島を訪ねて 投稿者:飯田 雅人  投稿日:08月01日(日)22時09分08秒

今日,シューパロ塾主催の南部・鹿島地区のフィールドワークに参加してきました。
参加者には,多くの故郷の歴史を伝える貴重な資料が配布され,それだけでも私に
とっては参加した価値が十分あるものでした。それらの資料は大切にこれからじっく
り読ませていただきます。

10時から13時頃までの午前中は,遠幌から南大夕張への線路跡を沿線の歴史や遺跡を
探索しながら歩きました。途中路上で青サギと遭遇というハプニングもありながら,
正木先生のていねいなお話に耳を傾けながら,ゆっくりのんびりと歩きました。
昼は,客車前で各自お弁当を取り,その後,大夕張の客車達の生い立ちについて三菱大夕張
鉄道のOBの方のお話を伺ったりしながら,午後は,マイクロバスに乗りこみ,出発しました。

この頃から,あいにく強い雨が降りだし,車内で三弦橋・森林鉄道やシューパロ湖が出来た
当時のお話を聞きながら,バスは,鹿島へ。
途中,ショックだったのは,正木先生が「営林署の建物が会った場所です」,と指し示した方を見
ると,すぐわかるはずと思っていたはずの営林署の建物の位置が,建築物もない一面の緑の草原の
中では,通過するバスの窓から見ただけではわからなくなってしまっていたこと・・・今の大夕張
には,ほとんどの手がかりが失われようとしている,それを実感した一瞬でした。

大夕張炭砿の坑口,旧メタノール工場とめぐり,そして今週中にも取り壊されるという浄水場に。

浄水場の中は,人口2万の水道を支えたと考えるとあまりに小さく感じました。昭和27年に
建設されたという木造の施設は,これまでの40数年があまりにも長く,役割を終えた今は
すっかりくたびれていました。でもどこか懐かしく,そこには,人間くさい手回しの丸いハンドル
が,いくついくつも並んでいました。

遠幌から南大夕張へ。参加しなければこの間を歩くことなどなかったろうと思います。おかげで,
故郷の空気を身近に感じ,これまでになくじっくり浸らせることができたような気がします。
また,前回の参加でも感じたことですが,正木先生を始め,地元の方々,その他参加された方々の
温かい雰囲気の中でなんとも心地よい一日を過ごさせてもらいました。

故郷の歴史にふれ,故郷を少しでも身近に感じたいと思っている方で,都合のつく方は,今度,ぜ
ひ参加してみてはいかがでしょうか。

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