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1999年    
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(293)山史 (16) 投稿者:今井 一郎  投稿日:02月28日(日)14時13分51秒

山史(16)

三菱鉱業株式会社 大夕張鉄道

自、明治39年〜至、昭和38年  58年史
   (前投稿からの続きです)

 (2)  青葉隧道

 昭和32年、旧青葉峠落石覆及び鶯沢橋梁を廃止し、440米の新青葉隧道を
建設すべく、4月26日開発局との協定成立、5月7日より大成建設をして工事着工、
12月10日工事完成新線に切換え11日初列車より運転を開始せり。
  新青葉隧道  起点 8K548M242
         終点 8K991M758
         延長   443M516
        (略直線なるも、南大夕張側、11mのみR=240mの
         曲線あり)
      旧青葉峠落石覆より山側に最大120米入る。
      隧道の規格は、開発局第2号型を主張するも当方第1型を
     主張。結局は差額当方負担とし第1号型とせり。
         工事費 第1号型 106,000千円
             第2号型 102,500千円
             差額   3,500千円

  旧青葉峠落石覆
      昭和5年に設置し昭和10年増設せる延長97米42
      昭和32年12月11日より廃止するも、道路として利用する
     には幅員狭隘のため、昭和36年12月4日より新藤建設をして
     爆破取りこわし、ダムの浸水で崩壊せる吉野沢付近の埋立に
     使用せり。

  鶯沢橋梁
      昭和3年4月、横河橋梁をして建設の本橋梁も撤去、旧青葉
     隧道落石覆と共に30年間に亘る当鉄道の使用を終えり。

 (3)  9粁300付近

 9粁300米付近線路は盛土上にあり、ダム湛水により法面崩壊の虞あり。
線路を山側に9米移設のことゝし、昭和36年3月新藤建設をして22、740立米の
岩盤切土工事を行い、高さ3米延長500米に及ぶコンクリート及び石垣擁壁を
設置、昭和36年4月9日線路の移設を行い一応工事を完了せしも、落石土砂崩壊が
続き、やむなく昭和37年4月18日再び線路を旧道床に移設、7月山側75度の急傾斜
の盤面既設擁壁の上部に、更に高さ20米、延長195米に及ぶコンクリート壁を
設置すると共に、9粁228米地点に延長25米の落石覆を新設、昭和37年10月
工事完成、再度線路移設を完了せり。

 (4)  10粁700付近  原文落脱のため転記不能
 (5)  吉野沢            〃
 (6)  五十鈴沢           〃

 (7)  香椎沢

 12粁200米付近線路は盛土上にあり、法面が湛水侵蝕により滑動流出の虞あり。
更に12米566米地点にある香椎沢橋梁橋脚の一部が浸水するため山側に約20米
移設し盛土暗渠とすべく、昭和34年6月北宝建設に指定入札、7月着工、11月10日
完成、翌11日には大夕張産業及び井出組をして新線切換完了。北宝建設をして
橋梁の解体を行えり。

 (8)  南部開発岐線

 南大夕張駅構内にダム本体えん堤工事資材取卸しの目的をもって昭和33年11月、
803米の開発岐線を設置。昭和37年5月ダム工事完了に伴い撤去する迄4ヶ年に亘り
使用せり。
 この間ダム本体工事資材のセメント4万3千屯、鋼材800屯をはじめとし、
移設工事資材等輸送のため、昭和34年35年の2ヶ年に亘り美唄鉄道より9615号
蒸気機関車を借受け使用せり。

 3、 観 光

 (1)  夕張観光株式会社

 昭和35年秋二股ダム完成。12月3日湛水を開始してより一大人造湖を形成、
夕張岳を背景とし一躍観光地として脚光を浴び、夕張市及び夕張観光株式会社
により二股ダム付近一帯の公園化計画が推進された。
 昭和36年9月25日、夕張観光株式会社発起人会が開かれ、三菱大夕張鉱業を
総代とし、11月25日には設立総会を開催。27日には登記手続を終了、
資本金300万円をもって正式発足せり。
  役員 常務取締役 豊田 豊種
     取 締 役 中島 政雄、簗詰 弥彦、成田  茂、小川 重一
     監 査 役 徳間  貢、岡村 亀吉
 昭和36年12月22日にはダム呼称選考委員会により湖名を「シューパロ湖」と
決定、昭和37年2月10日には富良野・芦別道立自然公園として指定され、
6月10日に入り観光会社は湖畔に湖畔亭を開業、ボート数十隻を配し、
鯉、桜鱒、ワカサギ等の魚卵及び稚魚を放流して釣場とし、夏季に至り
水上スキー、ボートレース等を開催、一大観光地として躍進せり。
 三菱大夕張鉄道に於ても観光客の利便と併せて増収策を図り、湖畔亭の開業に
先立って6月1日より社起点10粁030米にシューパロ湖駅を新設、社内線の取扱を
開始せり。

 (3)  シューパロ湖駅

 昭和37年2月17日付夕鉄第25号をもって本店経営と共に3月15日付をもって
起業申立て、昭和37年5月18日付夕鉄第76号をもって運輸大臣宛シューパロ湖駅
新設の実施届を提出。昭和37年6月1日より営業を開始社内線旅客の取扱を
実施せり。
 位置 社起点 10粁030米
 規模 駅舎  48.6平方米
    乗降場 長さ 80米  幅   3米×28米
 工賃 1,618千円            2米×52米
 駅名 岩間所長命名 シューパロ湖駅
 昭和38年5月21日付夕鉄第78号をもって、国鉄北海道支社長宛、旅客一時限り
連絡運輸の取扱を申請、6月5日付北支営第93号により承認を得6月10日から
10月31日迄の連絡運輸の取扱いを実施せり。
 連絡運輸区域、設備乗車券の株式及び営業成績次の通り
   表 1―8―3―(2)参照

 (3)  観光案内

道立公園 シューパロ湖

 シューパロ湖
    湖面周囲  35粁
    流域面積  433平方粁
    満水面積  475平方粁
    昭和37年2月10日 富良野・芦別道立公園として指定を受く。

 二股ダム
    堤高  67.5米    総貯水量  8,730万立方米
    堤長  258米     有効貯水量 6,937万屯
    海抜  264.5米     堤体積  19万1千立方米
    総工費  30億円    湖畔亭より下流約1粁
    昭和27年着工〜昭和35年秋完成
    昭和35年12月3日 湛水開始

 二股発電所
    年間発生電力  6,650KwH
    出力     14,700Kw
    道と三菱の共同出資により昭和35年完成
    昭和35年12月22日より運転開始
    総工費  15億円

 三弦橋
    長さ  381米
    高さ   70米
    営林署森林軌道の橋梁

 夕張岳
    標高  1668米
    明石町駅よりヒュッテまで16.8粁
    ヒュッテより山頂まで   9.3粁
    全區間距離       26.1粁
    夕張小桜等の高山植物140余種群生す。

 白銀橋(しろがね橋)
    二股ダム補償工事として鹿島開拓地交通の目的をもって
    昭和34年架橋。当時開拓橋と称せるも昭和36年3月白銀橋と改称せり。

 大夕張えん堤管理事務所 
    昭和36年8月着工
    昭和37年5月落成

 道路開通記念碑
    昭和37年10月6日、鹿島道路の開通を記念して建立
    暗緑色の砂岩で夕張岳を模した台石上に、奥鹿島の山中より産出せる
   幅1.3米、高さ2.3米、厚さ0.8米の紅れん岩の中央に、
   三菱大夕張鉱業所 岩間所長の筆による「道路開通記念碑」の
   文字が刻まれ、全重量4屯に達する。
   位置  湖畔亭横  シューパロ湖岸



第2編 歴代課長

   初代  宇賀村   進     自、昭和20年9月1日
                   至、昭和21年6月20日

   2代  本 間 昌 吉     自、昭和21年6月20日
                   至、昭和27年11月25日

   3代  松 谷 逸 郎     自、昭和27年11月25日
                   至、昭和31年7月10日

   4代  中 野 恭 平     自、昭和31年7月10日
                   至、昭和33年1月1日

   5代  大 関 健 二     自、昭和33年1月1日
                   至、昭和35年6月15日

   6代  大 和 哲 男     自、昭和35年6月15日
      (本努 技術副長)    至、昭和35年8月15日

   7代  成 田   茂     自、昭和35年8月15日
                   至、昭和40年9月20日

   8代  糸 原 正 巳     自、昭和40年9月20日
                   至、昭和47年1月9日

                          続きます

(292)ワクチン 投稿者:丸山直記  投稿日:02月27日(土)23時55分10秒

このところこのページを楽しみにしています。
上村先生のことをありがとうございます。
私は医学研究者なので大夕張でのことで仕事がら思い出す悲しいことは
小児まひについてです。昭和36年(だと思います)、私が小学校6年の時、
大夕張は小児まひの流行地区になりました。あの頃は夕張の人は札幌で
旅館に泊まることを断られたり自衛隊が来て徹底的に消毒をしていったり、
いろいろなことがありました。そう言えば「鉄の肺」が足りないと報道され
ていました。あの「鉄の肺」は私が医学生になった時にはもうありませんで
した。その頃は高度成長経済のおかげで既に人工呼吸器が普及していました。
その高度成長経済を担った世代の父の最後は人工呼吸器を使うことになりま
した。
最近、看護婦さん向けの雑誌の編集者とはなしている時、私より10歳位
年下のその方の知人が小児まひの後遺症で身体が不自由だとのことだそうで
す。まさしく、その年齢は大夕張と九州での大流行の被害者の世代と思われ
ます。なにか申し訳ないような気がしました。けれど大夕張だって被害者だっ
たのです。今年はインフルエンザが大流行でワクチンの話題がよくでてきま
した。あのころ小児まひのワクチンが安価で普及していればあんな大流行が
無かったのにと何か医学の責任を問われているような気になります。最近で
こそ障害者のための環境に配慮する時代になりましたが、これから高齢化と
いうハンディをさらに背負うことになるのかと思うと心配になります。
(ところでこれを読んでいるみなさん、来シーズンにはぜひインフルエンザ
ワクチンをぜひ接種することをお薦めします)

(291)上村先生のこと 投稿者:飯田 雅人  投稿日:02月27日(土)23時21分40秒

丸山さんのお話に出ていた鹿島中の音楽の上村先生のことですが,
まったくの偶然ですが,大夕張に縁もゆかりもない私の妻が知っていました。
中学時代(札幌市立陵北中 昭和46,7年頃)に音楽を習っていたということです。
また,妻の弟の中一の時の担任でもあったということです。
札幌交響楽団を退団されてから,札幌市の中学の教員をなさっていたんですね。
音楽の授業ではやはりよくバイオリンを演奏してくれたと話していました。
今はもう退職されているんでしょうね。

このHPの『談話室』に妻の恩師の泉春夫先生の書き込みがありますが,
札幌市の陵北中時代に泉先生と上村先生とは同僚だったということです。

(290)山史 (15) 投稿者:今井 一郎  投稿日:02月27日(土)22時51分16秒

山史(15)

三菱鉱業株式会社 大夕張鉄道

自、明治39年〜至、昭和38年  58年史
   (前投稿からの続きです)

 10、 芦別と蒸気機関車交換

 昭和37年5月 芦別炭砿の山勢(昭和39年4月閉山豫定)に即応するため、
三菱芦別専用鉄道の9600形式蒸気機関車2両の融通につき社内協議の結果、
大夕張鉄道に於ける輸送力の増強を図る目的をもって9200形式蒸気機関車
2両と交換のことゝし、昭和37年9月より翌昭和38年1月に亘り両機の交換を
完了せり。
  昭和37年 9月26日 9237号芦別専用鉄道に譲渡
  昭和37年10月11日 9603号芦別専用鉄道より譲受
  昭和38年 1月23日 9201号芦別専用鉄道に譲渡
  昭和38年 1月30日 9613号芦別専用鉄道より譲受
 直ちに譲渡を受けし9603号を9606号と、9613号を9607号と番号を改む。


第8章 二股ダム建設に伴う鉄道移設補償工事

 1、 二股ダムの建設

 昭和27年、北海道開発局の手により、空知4ヶ町村(由仁、栗山、栗沢
及び長沼)の既成水田7720haの完全補水と4145haの新規開田並びに年間
6650万Kw/hの発電を目的とし多目的ダムの建設に着手。昭和35年12月
湛水及び発電を開始する迄の8ヶ年に亘り総工費60億円をもって二股ダムの
一大工事を完了せり。
 第1年目の昭和27年には測量等着工前野町差を開始、昭和28、9年の2年間は
仮放水路のトンネル工事にかゝり、昭和30年からは営林署森林軌道及び三菱
大夕張鉄道の移設補償並びに桜ヶ丘等水没農家の補償の接渉を開始、
31年に至りダム建設の本格的工事に着手。水路仮締切を終え直ちにえん堤
本体下部掘削工事を昭和33年迄続け、もどって昭和32年にはコンクリート
ミキサー及びクレーン等の機械設備を設置。更に清水沢・大夕張間開発道路
工事と併行して三菱大夕張鉄道の移設工事を開始、昭和34年に至り本えん堤
コンクリート打設工事を開始すると共に道と三菱共同出資による二股発電所の
工事に着手、昭和35年秋本えん堤打設を完了、12月3日午前8時を期して湛水を
開始、22日に至り二股発電所の運転を開始せり。子の間しようせるセメント
4万3千屯、鋼材800屯、延150万人を要せり。
 その後昭和36年、えん堤上部高欄の取付とえん堤仕上工事及び設備機械の
撤去を完了せり。
 この間に要せる工事費は補償費15億円、えん堤工事費30億円、二股発電所
15億円、計60億円を要せり。

 2、 鉄道移設補償工事

(1) 概 論

 本工事は二股ダム建設に伴う三菱大夕張鉄道移設工事と清水沢・大夕張間
開発道路工事と相伴って行われ、昭和32年5月7日新青葉隧道の掘削工事に
始まり、昭和37年10月、9粁300米付近擁壁を最終とし、6ヶ年に亘り全工事を
完了。川岸に清水沢・大夕張開発道路を介し、夕張岳の秀峰を背景とする
道立自然公園シューパロ湖を東側に配し、南大夕張・明石町間6粁の様相を
一変せり。
                            続きます。

(289)八百五十の山頂で 投稿者:内川 准一  投稿日:02月27日(土)19時02分00秒

23日の丸山さんの投稿を読んでいて、同じような時期に同じようなことをして、そ
して、同じ感慨を持った仲間がいたことを知って嬉しくなりました。
以前、小笠原さんが触れていたように思いますが、当時、鹿島小学校の6年生には
850に登る体育の授業(?)がありました。
しかし、当日、風邪か何かで休んだ私は、楽しみにしていた850に行けませんでした。
私にはどうしても850に行きたい理由があったのです。丸山さんと同じ動機です。
当時、我が家には竹を二つに割って作った柱掛けがあって、それには、「山のあな
たの空遠く、幸い住むと人の言う」と書いてあったのです。最初は、”あなた”とはい
ったい誰のことだろうと思っていたくらいで、もちろん意味はよく分かっていなかった
のですが、いよいよ大夕張を出なければならなくなった昭和37年の3月、好天の休
日、意を決して、たった一人で山に向かったのです。ちょっとした冒険でした。
着いた山頂からの眺めは、東を遮る巨大な夕張岳と、それに続く山また山でした。
しかし、それ以上にびっくりしたのは北の方角でした。山、山、山、山、山・・。饅頭の
ような山々が無限に、重なり合って連なっていたのです。見渡す限り町も無く、家
も人も道路さえもない景色が広がっていました。私の故郷大夕張は、周りに誰も住
んでいないような山奥に、置き去られたように存在していたのです。
このときの落胆した気持ちは、きっと丸山さんと同じです。

しかし今、人の住まなくなった今となっては、周りの自然と一体になった大夕張が、
想い出の中の大夕張とはまた違った形で、存在し続けて欲しい。
(けれど、小学校だけは残してね!)

(288)夕張を好きですか?嫌いですか? 投稿者:今井 一郎  投稿日:02月27日(土)09時38分01秒

 奥山さんの投稿を読ませて頂きました。
 私が三菱鉄道に在職中、K氏という同僚がおりまして、
彼は南部菊水町の商店の息子として育ち、一旦夕張を離れて札幌で職に
就きましたが、鉄道の車掌をしていたE氏の甥っ子ということもあり、
私が鉄道に入る1年程前に南部に戻り鉄道に入りました。
 私とは性格的に合わない部分が多分にあり、南大夕張合理化鉄道廃止の
頃にはほとんど会話のない状態でした。
 彼との少ない会話の中で私の心の中に残っている話は、
「夕張は嫌いだ。楽しい事なんかなにもない」
でした。
 現在、ビジネス、プライベートを問わずお付き合いさせて頂いている
東京本社の建材メーカーの札幌法人の部長で、私の高校の後輩と結婚した
S氏は登川出身ですが、「夕張の話はしないでくれ」と言われた事があります。
 更に、私が鉄道を離職し東京で再就職した時の同僚も登川出身でしたが、
同じような反応を示し「二度と夕張へは帰らない」とも言っていました。
 私の中学校の同期で、鹿島西小、統合され鹿島小、大夕張閉山で江別の
小学校に転校したO嬢とは昨年夕張岳に登りましたが、大夕張時代を楽しそうに
語っていました。彼女の父親は大夕張鉄道で電気関係の仕事をしていて閉山と
共に離職。彼女の叔父は鉄道廃止まで南大夕張駅に在職していました。
 O嬢のように自分の故郷を楽しく語れるという事は私も素晴らしいと
思うのですが、そうでない方の想いはもっと複雑かと思いますのでこれ以上は
避けますが、
 昭和52年夏に「東芝日曜劇場」でHBC製作の「故郷(ふるさと)」という単発ドラマが
ありまして、夕張出身のボクサーが試合で怪我をして再起不能になり夢敗れて
ふらりと生まれ育った夕張に帰って来た。廃校となった中学校(ロケ地は
丁未の小学校だと思います)で恩師役の大滝秀治と再会して励まされ新たな
道に進むというストーリーだったと思いますが、
この主役のボクサーは夕張というか田舎が嫌いだったんですよ。でも恩師が
傷心の彼の気持ちを解凍させてあげたら暗い田舎の思い出が明るい思い出に
変わっていったんですよ。
 夕張の思い出を暗く閉ざしている方もいつかは明るく思い出を語れる様に
なって頂きたいと僭越ながら思います。
 この「故郷」のドラマの最後に、恩師役の大滝秀治が中原中也の詩を彼に
聞かせるシーンだったと思いますが、この詩が20数年経った今でも私の
脳裏に残っています。「故郷に帰る」という詩らしいのですが、

   故郷に帰る
   これが私のふるさとだ
   さやかに風も吹いている
   すみれ色した夕暮れに
   年増の低い声もする
   ああ、お前はいったい何をしにきたのだと
   吹きくる風が私にいう

 確かこんな感じだったと思いますが、中原中也の詩集を読んだことが
ないので誤りはご愛敬としてください。

  追伸
 奥山さんの投稿で、「新根地」を読んでとありましたが、前々回の私の
投稿の誤りで、本当は「心根地」なのです。自分の書き物のタイトルを
間違うなんてうかつすぎました。ちなみに「新根地」は別内容で、壊れた
ワープロの読み込み不能のフロッピーの中で永遠の眠りについています。
 盆踊りの件ですが、南部の盆踊り歌は何を使っていたのか記憶にないですが、
清水沢では黒ダイヤ音頭???が使われていた様な気がします。もしかしたら
北炭にゆかりあるの歌ではないでしょうか?♪赤い煙突めざしていけば白い
まんまが踊り喰い♪てな感じではなかったでしょうか?赤い煙突って北炭夕張
の煙突の事では?そうなると三菱の街では北海盆歌でわかるような気がしますし、
以前、私の住んでいた千葉県船橋市では、千葉なのに東京音頭を使っていたり
子供が歌っているポピュラーな歌(題名不明)を使っていたり町内会で違って
いたようですので、大夕張でもそんなような事があったのではないでしょうか?

(287)学のある話  投稿者:丸山直記  投稿日:02月26日(金)20時13分41秒

子供のころから私はクラシック音楽が好きでした。
今でもオーケストラでチェロを弾いています。
あのころ大夕張ではチェロなぞ目にすることもなかったので
感慨深いものがあります。そう言えば中学校の音楽の先生で上村先生が
ヴァイオリンを弾かれ、教えていたのを覚えています。上村先生はその後、
札幌交響楽団のヴィオラ奏者になりましたが私が札幌で暮らすように
なった時には退団されていました。今はどうされているのでしょうか?
ところでタイトルにある学のある話ですが、あの大夕張ではクラシック
レコード(当然CDなどではない)を売っているお店はありませんでした。
それでおこずかいをためてカタログを見ては「新世界」や「未完成」を
注文したものでした。ある日父が帰ってきて「おいお前のことを学のある
レコードばかり買う息子さんですね」とレコードを扱っている店の店員さんが
言っていたと教えてくれました。このエピソードは現在の私のオーケストラ
仲間には大受けです。ところであのお店はどこだったのでしょう?

(286)怪獣映画 投稿者:菅井宏史  投稿日:02月26日(金)08時16分28秒

私が大夕張にいたのは小学校4年までですから、その記憶も当然のことながら
子供のそれでしかありません。友達の誰々ちゃんと遊んだ、幼稚園ではどう
だった、小学校はではこうだった、などなど・・。途方もなく広く感じられた
あの鹿島小学校のグランド、あの目線の低さが私の大夕張の記憶の全てなので
す。
中学、或いは高校までを大夕張で送った人達、社会人としてこの地で過ごされ
た方々にはまた違った、楽しいだけではない現実社会の厳しさというのも大夕
張の記憶としてお持ちのことと思います。そういった意味で、奥山さんも
おっしゃるように、また以前もどなたかがここに書かれていましたが、大夕張
のことを思い出したくないという人も少なからずおられるのでしょう。
このHPには大夕張を様々の立場で経験した方々が集まっています。お陰で私の
知らなかった大夕張を色々と知ることが出来ます。目線の高い数々のことを私
に教えてくれます。これからも楽しい懐かしい思い出は勿論のこと、悲しい
現実、厳しい現実などトータルで大夕張のことを語り合えればすばらしいなあ
と本当に思います。
・・ということで、またまた目線の低い私の思いで話をひとつ。
その当時、怪獣映画が来る度に親から50円もらい(私の記憶している時点の
料金は子供が50円でした。一度映画館に行く途中50円硬貨をどこかに落と
してしまい、泣きながら家に引き返したということがあったのでこの値段のこ
とは忘れません!)、兄や近所の友達、同級生などと行ったものです。ゴジラ、
キングギドラ、モスラ、ガメラ、大魔人、サンダとガイラ、・・・。
家に帰り、夕方家の縁側から薄暗くなりかけた東西の山の稜線を見ながら
(一応このあたりは山の話題に関連させたつもり)その日見た映画のことを
振り返り、あの山の向こう側から突然キングギドラなんかが出てきたら恐い
だろうな、などとあり得もしないことは解りつつも、そんなことを想像しては
背筋を寒くしたものでした。もしそんなのが出てきたらこの町なんてひとたま
りもないな・・などと。
あれから30数年。大夕張はキングギドラよりももっと恐ろしい何ものかに
よって、見る影もなく・・・(泣)。

話は変わりますが、先日、偶然60歳代のある大学教授の方と色々とお話を
する機会があったのですが、その中で出身地の話題がたまたま出て、私は、
「北海道夕張市の三菱が経営していた炭鉱の町、大夕張というところです」
と言ったところ、その方は「父が高島砿に勤務しておりました。これは奇遇
ですね」。
北海道と九州。故郷も年齢も社会的地位も、その他あらゆる面で違う世界を
生きる両者ですが、場所は違えど同じ三菱が経営する炭鉱の町で育ったとい
うこの共通点のお陰で何か急に親近感を覚えてしまいました。やはりあるん
ですね、炭坑町を故郷に持つ者が共有するある種の悲哀とでも言うものが。

(285)盆踊り歌 投稿者:飯田 雅人  投稿日:02月25日(木)22時18分03秒

盆踊り・・・鹿島小のグラウンドで行なわれていたでしょうか?各町内の公園や
広場で踊られていたように思います。
私は人前で踊ることの出来ない子供でした。盆踊りの会場に行った記憶はありま
すが,遠くから踊りの輪を眺めているだけだったような気がします。
そんな子供でしたら,親もしばらくして連れて行かなくなったような気がします。
そんなわけで大夕張使われていた「盆踊り」歌については,わからないのです。
今,札幌でも使われている『北海盆歌』では,なかったのでしょうか。

どなたかご存知ありませんか?

(284)新根地を読んで 投稿者:奥山 道紀  投稿日:02月25日(木)18時09分44秒

今井さんの「新根地」読ませていただきました。
炭鉱の現場に居ただけあり、なかなか胸に迫るもの
があります。「南大夕張」閉山後、「夕張・高島」など
ルポものが幾つか出版されていますが、今井さんにも
是非「自分史」としてでもまとめていただきたいものです。
事故は炭鉱には付き物ですが、「夕張」「大夕張」の地名に
辛い「思い出」しか持たない人も多いのではないでしょうか?
先日、深夜に九州朝日放送制作「ヤマの光と陰」が放送
されていました。
三池の炭塵爆発は有名ですが、今なおCO中毒や、北海道
と同様「じん肺」で苦しんでいる患者が居るなど、「負の遺産」
の大きさに考えさせられます。
でも、このような厳しい労働環境が「炭鉱街」独特の雰囲気
を作っていたのも事実でしょう。
「炭住」「山神社」「購買会」「共同浴場」、炭鉱街には、他の街
にはない一種独特の感じが有ります。
大夕張は「鉄道」や「バス」も、炭鉱関係と、その傾向はより
強いと思います。
学校の校歌にも必ず、「石炭」「黒ダイヤ」等が歌われてます。
私は、「夕張」「札幌」「釧路」「江別」と移り住んでいますが
独自の「盆踊り」歌を持っているのは夕張市だけでした。
飯田さん、覚えてますか?
独自の文化を持った、そんな夕張に生まれ育ったことを
誇りに思っています。

(283)やまの向こうへの思い 投稿者:飯田 雅人  投稿日:02月24日(水)23時02分19秒

中学校の頃からでしょうか,大夕張の山々の向こうに広がる世界が
気になり始めたのは・・。
けわしくそびえる前岳,その後ろの穏やかな夕張岳。美しい山の風景
でした。そして,その風景の向こうが富良野市であると,子供の頃
地図などから仕入れた知識で知っていました。
でも,富良野から夕張岳はどんなふうに見えるのだろうと,いつも
気になっていました。
そして,西側の山々。あの向こうは夕張へ続く・・・。と思ってはい
ましたが,実際に登っても見えるわけではなく,確かめることもない
まま,そのうち大夕張を後にしてしまいました。

大夕張を出た後,実際に富良野の側からはじめて夕張岳を目にした時,
あれほど美しく思えた夕張岳が,ごく普通の山にしか思われず拍子抜け
をしました。

ところが,最近気がついたのですが,車での通勤途中に一ヶ所,車窓
から美しい夕張岳を望むことができる場所があったのです。JR線を
跨ぐ陸橋の頂上附近,そこのガードレールのわずかな切れ目から・・・,
しかも空気の澄んだよく晴れた日の車で通りすぎる数秒間。
そのたびに,あの山の麓に大夕張があるんだなあ,と思います。
20数年の時を経て,皮肉なことにあの山々に囲まれた故郷への思い
がつのります。

(282)夕張への思い入れ 投稿者:今井 一郎  投稿日:02月24日(水)21時31分19秒

先日は酔っ払った拍子に長い書き物を送信してしまいまして
申し訳ございませんでした。
 実は、あの後、とっても後悔したんですよ。
 過去の掲示板の投稿の内容は、大夕張でのほのぼのとした思い出を
語るものが多いのに、違和感と嫌悪感を与えてしまったのでは・・と。
 でも、飯田さん、乗田さん、斎藤さんの投稿を読ませていただいて、
私の夕張への思い入れを表現させて頂いても良いのかなと勝手に解釈
させて頂きました。丸山さんのように「精神形成は純粋に大夕張でなされた」
と同じように、私の精神形成も人格形成も21歳から24歳までの3年数ヶ月の
「夕張時代」が非常に大きな割合で影響しているのは事実です。
 三菱南大夕張砿を離職し、退職金は若い時のアブク銭と決め、車で閉山から
1年弱の長崎の高島砿のヤマ元を訪ねました。山で閉塞された夕張と同じように
海で閉塞された高島は企業城下町の城主を失い寂しさがあちこち漂っていましたが
その後どう変わっていったのか非常に興味があります。
 高島砿の竪抗跡から望む三菱端島砿があった通称軍艦島。
 4〜5年前、大竹しのぶ主演の端島を舞台としたドラマがありまして、
端島砿が閉山したのは私が小学校の高学年の時で、日本一の人口密度を誇り、
高層コンクリート住宅など日本の近代建築の礎ともなった島が廃墟となる
という当時のニュースの映像を脳の記憶再生能力を最大限に駆使し、重ね
あわせて見ました。人間が住まなくなった建物は急速に風化し、人間の記憶も
風化する前に、単なる哀愁の自己満足だけではなく、確かに日本の現代の
経済成長を下支えした石炭とヤマとヤマに従事した人と家族と街と街の人を
風化させてはいけないと思ったんです。
 私にとって、鹿島や南部を含めて夕張はとても大切な街なのです。これまでの
人生で一番楽しい思い出をくれた街。そして、一番悲しい思い出をくれた街
だから。
 夕張を記憶した脳細胞が急速に死滅している今、文章に表現しなくては、と
あせっている今日この頃です。

(281)やまのむこうは? 投稿者:丸山直記  投稿日:02月23日(火)22時07分24秒

初めまして、偶然このページを見つけました。
普段は仕事でしか使っていないのでこんな使われ方があるとは
知りませんでした。私は昭和23年6月10日に緑町で生まれました。
その後、鹿島小学校の裏側の住宅に移り鹿島小学校、鹿島中学校、
夕張東高校を経て卒業するまで18年間住んでおり私の精神形成は
純粋に大夕張でなされました。子供の頃は頭の中では世界は広いのですが
実感は全く無く周りの山々の向こうにはもっと美しい街が見えるのだと
信じていました。夕暮れに町が蒼く染め上がり夕張岳のみが夕焼けで
赤く輝いていると、一層そのことを信じたものでした。小学生の冬のある日、
意を決して裏山にスキーで登り期待に胸を膨らませて頂上について向こうを
眺めると「やっぱり山か!」と落胆したことを覚えています。住む予定など
全く無かった東京にいますとがっかりさせられた山々がとても懐かしく
感じられます。

(280)メールを送ってください 投稿者:佐々木広行  投稿日:02月22日(月)19時34分29秒

古い記憶や古い友達をもっと沢山知りたいので是非メールを
って下さい。
cosmohs2@aqua.ocn.ne.jp
宜しくお願い致します。

(279)仲間に入れてください 投稿者:佐々木広行  投稿日:02月22日(月)19時21分53秒

先日飯田さんに送りましたメールの中で私の記憶(鹿島小学校のチャイム)は
埴生の宿で正しかったのかどうか不安でしたが皆さんの投稿を見ますとどうやら
私の記憶は正しかったようですね、長年のつかえが取れたようです。こんな素晴ら
しい仲間が居たなんて、つい最近まで全く知りませんでした、
これからはどんどん投稿やメールを送って行きたいと思います。
私は今愛知県岡崎市に在住しておりまして段々年を取るに連れて
故郷夕張が懐かしく思えてなりませんでした。
2年に一度ぐらいは北海道へ帰るのですが、その時には必ず大夕張へ
寄るようにしていたのですが、もうそれも水のなかに沈んでしまうんですね。
昨年(98年)の10月に行った時にはもう見収めと思い、たっぷりと
ビデオ撮影をして参りました。自分が生まれた所、自分が遊んだ場所
そして自分が学んだ学校、もう少しで二度と見ることが出来なくなるんですよね、
とても淋しい気持ちでいっぱいになります。

(278)チャイムの意味は? 投稿者:乗田 功一  投稿日:02月22日(月)00時54分48秒

乗田です。
鹿島小学校のあのチャイムは、帰宅後外で遊んでいる児童に対し
て「もう家に帰る時間ですよ」という合図だと当時の担任の先生
に聞いた記憶があります(ちょっと曖昧モードですが)。
だから街中に聞こえるような大きな音だったのではないでしょう
か?
そしてこの「埴生の宿」のメロディ、後に鹿島中学校の校歌に似
ているなと思ったものです。

当時の思い出としては「週番」というのがあります。
新校舎の階段を昇った正面に「週番」さんが立っていて、廊下を
走ったり遅刻したりなど、校則を破った生徒がいると手に持った
ノートにチェックされる・・・。あのころは「週番」さんはとて
も恐れられていたような・・・。

(277)そのチャイムのことあれこれ 投稿者:菅井宏史  投稿日:02月21日(日)06時11分21秒

私のいた家は富士見町のほとんど北の外れで、小学校からはかなり離れて
いましたので、このチャイムの音は微かにした聞こえてなかったように記憶
してますが、錦町にある母の実家に行ったときに、そこからのチャイムの音
は実によく聞こえていました。小学校からは谷ひとつ隔てただけの距離です
からね。

「埴生の宿」、そうこの曲を聞くと私も鹿島小学校のあのすてきなチャイム
のことを思い出し、そしてこの場合に限り北側からの眺めではない、錦町か
ら眺めた鹿島小学校校舎の姿の記憶がいつも蘇って来ます。

ところで、あのチャイムは児童に対する「もう帰る時間ですよ」の合図
だったんでしょうか?それにしては、あの音は必要以上に大きく、大夕張
のかなり広範囲に響き渡っていたように思いますが・・。
例えば農村などでは、農作業に従事している人々にお昼時を告げるサイレン
が鳴るところがあったり、或いは、ヨーロッパなどでは町々にある教会が、
決まった時間に一斉に鐘を鳴らすといったことがありますが(お寺の鐘もそ
うですが)、それと同じような意味もあのチャイムにはあったのでしょうか?

そのチャイムで今ふと思い出したのが鹿島小学校の朝の風景。
朝校舎の玄関が開く時間が決まっていて、それまでは当番に当たっている
上級生等が校舎内の掃除をし、それ以外の児童は玄関の前でワイワイガヤ
ガヤと開門時間を待ち、チャイムが鳴ると共に開門し、一斉に校舎の中へ
入るというのが朝の風景だったような?確かそうだったように思うのです
が・・。記憶違いならすいません。
ちなみに「埴生の宿」のメロディーが流れるのは夕方だけだったのでしょう
か?それとも、朝のこの時も(或いは他の時も)流れたのでしょうか?

(276)鹿島小のチャイム 投稿者:飯田 雅人  投稿日:02月21日(日)02時57分14秒

先日,メールを頂きました。

>小学生のころに鹿島小学校で5時になると小学校の上にはめ込まれていた時計から
>チャイムが流れていましたが、そのチャイムの音楽が、はにゅうの宿と言う曲だっ
>たと思うのですが違いましたでしょうか。
>今でも、はにゅうの宿を聞くと鹿島小学校を思い出します。

私の記憶の中では鹿島小のチャイムがどうも思い出せませんでした。12月の交流会
でも,みなさん,チャイムのお話が出ていて,確かに流れていたものなのに,「埴生の
宿」の曲を聞いても思い出せませんでした。

小学生の頃,仲の良かった友達に,名前の「はにゅう」と「はにゅうの宿」だ,とか
いってふざけていたことを覚えているので,きっと当時は知っていたことと思います。

今回,『埴生の宿』をテンポを落として,チャイムに近い音色で鳴らしてみたところ,
少しずつ,記憶がよみがえってきました。本当ならば忘れ去ってしまって,一生思い出す
こともなかった記憶なのかもしれません。

でも,みなさんのおかげで,確かな思い出として「鹿島小のチャイム」を心のページの
一つにもかきこんでおけそうです。感謝です。

(275)同級生の田村さん 投稿者:飯田 雅人  投稿日:02月16日(火)00時35分46秒

田村さん,住人登録みました!書き込んで頂いて嬉しいです。
レッコとよばれていましたっけ。・・・私がかぶっていた帽子の白いカバー,思い出し
ました。ありました,ありました。でもあれって小学校一年の時・・・・。
そういえば,田村さんとは,小学校も5年間同じクラスで,中学校卒業も同じクラスで
した。手元のアルバムを開くと,なんと小3,中1の2年間を除いて,中学卒業まで,
ずっと同じクラスだったんですね!(木村さん,おミツと呼ばれていたと思うけど,
彼女も長いこと同じクラスでした)
田村さんや木村さんは運動が得意で,活発な女の子達で,シャイで小心者の私にとって
明るくまぶしい存在にうつっていたこと,今でもその時の印象を良く覚えています。

先月,室蘭にお住まいの鹿島中の担任だった斎藤先生を20数年ぶりに訪ねましたが,
その際,斎藤先生から,田村さんが中学校を卒業後,積極的にご自身の人生を歩まれて
いること,今は山形の方に在住しておられるという話を伺い,同級生として嬉しく懐か
しい思いで聞かせていただきました。ここに黄ばんでほとんど,文字の読めなくなった
ガリ刷りの卒業文集がありますが,そこに,20数年前,田村さんはなんて書いたか今
でもご記憶ですか?
『人生に目標のない人は死人である』(田村礼子)
この言葉を目にし,斎藤先生のお話を伺って,20年前の同級生が今になってあらためて
理解できたような気持ちになりました。
こんな古い話を持ち出して恐縮ですが,きっと,あの頃も今もかわることなく,元気に
お過ごしのことと思います。

同級生の書き込みに,とても嬉しく懐かしい思いがしています。ありがとうございま
した。

(274)「大夕張」の光と影 投稿者:斎藤 敏幸  投稿日:02月14日(日)20時55分27秒

活気のあった頃の大夕張を懐かしむと,心が潤います。
でも,坑内事故のことを降り返ると,今でも心が痛みます。
クラスの中には,必ず何人か事故で父親を失った同級生がいました。

鹿島小学校5年生の頃,担任の堀田先生が「炭坑」をテーマに作文を書かせました。
この作文は,実は三菱の会社の社内報に載せるために,会社が学校に要請した
ものでした。
ところが,ほとんどの作文が,坑内事故,安全をテーマにするものばかりで,堀田
先生も「組合主催の作文なら全員採用だ」と言われました。それ程子供心にも,坑内
事故は大きな陰りを投げていました。
私の父も採炭夫(先山)をしていましたが,事故を知らせるサイレンが鳴るたびに,
父が坑口から出てくるまで,母と心配して駆けつけていたことを思い出します。

二世である私たちにとっては,「大夕張」は懐かしい故郷ですが,大人たちにとっ
ては,大変な職場だったようです。私の父も,子供が卒業したなら炭坑を辞め,丘
に上がり家を持つのが夢だったようです。

高校1年生の頃,一度だけ父に連れられ無許可で坑内に入ったことがあります。わ
ずか数十メートル進むだけで,真っ暗でなんとも言えない圧迫感,恐怖を感じてし
ましました。私なら,いくら家族のためでも,逃げ出したかもしれません。
東北3県を中心に,それぞれ事情があり北海道まで来て,逃げ帰る「実家」もないか
らこそ,男達は山奥の地に根を張れたのかもしれません。

私たちは,光と影の中で暮らしていたという「現実も」語り継がなければならない
のかもしれません。

(273)時々思うこと 投稿者:乗田 功一  投稿日:02月14日(日)19時27分37秒

今井さんの投稿、読ませていただきました。私も時々考え込むことがあります。
鹿島小学校前の歩道橋へ昇ると正面に大夕張炭坑のズリ山が見えます。
私は子供の頃に見慣れているので「ズリ山」とすぐに解りますが、炭坑を知らない
人が見たらただの「山」としか見えないのでしょう。
しかし、あの山には歴史が刻まれています。石炭産業の華やかだった時代、そして
その陰に存在した悲惨な事実・・・。
長い年月の間に刻まれた幾多の出来事をズリ山は語りかけてくるようです。
そして坑口。子供だった当時、決して近づくことが出来なかったその場所は今では
何事もなかったように静かで、自然に帰ろうとしています。
コンクリートで封印された坑口は、注意深く探さないと見逃してしまうほど小さく、
隙間から湧き出る青白い地下水をじっと見つめていると、この中で多くの炭坑マン
たちが命がけで働いていた事実、そしてその炭坑マンの家族(私もです)の生活を
あらためて考えさせられます。
この場所は、かつて数多くの炭坑施設が立ち並び、24時間休みなく活動していた
はずです。また、メタンガスを液化するメタノール工場や掘り出された石炭を輸送
する大夕張鉄道のターミナルをはじめ、一大工業地帯を形成していました。
私の住んでいた栄町からも、活気がありいつも煙の立ち昇るこのあたりの様子が見
られたものです。
そして今、あの光景は幻のように消え失せて、ただ記憶の中だけの存在になってし
まいました。炭坑マンもその家族もすでにこの土地にはいません。
大夕張の、にぎやかで活気があった時代にそこに住んでいた私にとって、なんとも
むなしく、やるせない思いで一杯です。
そして思うのは、今は何も無くなってしまった大夕張という土地と街には、確かに
「歴史がある」ということです。

(272)今井さんの投稿を読んで 投稿者:飯田 雅人  投稿日:02月14日(日)13時52分24秒

今井さんの投稿読みました。プリントアウトしてじっくり読ませていただきました。

都会に住んでいると,空き地に建物が建ち,古いものからより新しいものへという
変化が当たり前のように感じます。私の住んでいる周辺も丁度この2月に地下鉄の
延長部分が開通し,新しい駅の周りは川辺は散策路となり,道路は道幅を広げ,街
もにぎやかになりました。夕張のように,鉄道は廃止され,市街地は減少していき,
大夕張のように街そのものが湖底に沈んでしまう例が決して少なくないのにもかか
わらず,私達の感覚では,街は日々大きく新しくなって行くのが当然,みたいな
感覚があるのではないでしょうか。私が日頃接している都会の子供たちも・・・。

『心根地』ですが,昭和60年の南大夕張の出来事が生々しく言葉を失います。以前
内川さんの投稿にもあったお父様のこと。炭砿の街の忌わしい現実・・・。それを
忘れてはならないと思います。ですが,私は,職場で道端で,あたたかい人々の
会話が聞こえ,緑の山々に囲まれた大夕張の地が好きでなりません。そこは,私の
生まれた故郷であり,育った街だからです。

今井さんの投稿を読みながらいろんな思いがわいてきました。自分だけの大夕張で
はなく,みなさんの投稿を読みながら,もう一度大夕張を見つめています。

いつか,今井さんの『心根地』通して読んでみたいな,と思いました。完成の日を
楽しみにしています。ありがとうございました。

ps)投稿の長い,短い,気になさらなくて結構ですから。自由に思いつくままに
   みなさんどうぞ。

(271)川と自然について 投稿者:今井 一郎  投稿日:02月13日(土)20時19分35秒

 本日、夕方よりSTVテレビにて、岡崎文吉氏の川の番組を拝見しまして、
最近のSTVは、この様なドキュメンタリー番組の作り方が上手くなったなあと
思いました。
 山史を読んで来ると、土砂崩れ、橋梁流出など自然を相手に戦ってきた歴史を
垣間見る事ができますが、不図、これで良かったんだろうか、と、思ってしまい
ました。
 私が南部に住んでいた頃、廃坑探しや廃坑めぐりが好きで、車やオートバイで
山の中のケモノ道みたいな道を進んで行った思い出があります。
 その、ケモノ道を進んで行くと、ズリ山が目に入ります。ズリ山を目標に更に
進んで行くと急に視界が広くなります。低木や笹やイタドリが生い茂る、人から
忘れ去られて幾数十年と経た跡地。所々に施設跡のコンクリート塊。ビンと思わ
れるガラス片、セトモノ片、解読不明の紙切れ、ナベ・・・・。
 確かにここには人々の生活があったんだなあ。
 ズリ山の斜辺の延長には、しっくいで固められた坑口。この坑口の向うで、
いったい何人の坑夫が死んで行ったのかと思うと、寂しい気持ちになって山を
下った事数回。ズリ山はヤマの墓標。ズリ山もいつかは緑が生い茂り、いつかは
ヤマで暮らした人々の生活の事も、常に炭塵が正面から強烈に吹きすさび、
キャップライトを消すと、自分で頬をたたいても他人にたたかれているような気に
なる、光の全くない、山水管を流れる水の音とエアーとネズミの鳴声しか聞こえ
ない坑内も、時折あるヤマ鳴りも風化してしまうのですね。そして、いつかは
自然に戻るのでしょう。しかし、大夕張は風化を待たずに沈んでしまうのですね。
 私の住んでいる江別では、開拓以来水害との戦いで、小学校の社会科の副読本
には、江別東部の豊幌なんぞは、「大雨が降るとすぐに石狩川が溢れ、土壌が
泥炭で人の住める土地ではない」と、書かれていましたが、今では新興住宅地。
私の記憶では昭和56年が最後堤防決壊水害ですが、根本的、建設的対策をしない
まま堤防の嵩上げだけで安全宣言し住宅地に規制解除する。その土地に住む人々は
過去の歴史を知らない。知っていればいくら土地が安くても住まないであろう。
 人の力なんて自然を前にすれば無力に過ぎない。ダム建設に関しても基本的には
反対である。確か、大夕張ダム嵩上げで江別市民も利益を得る(水道水で水利権を
得たはずですが・・???)はずですが、そのため、故郷が水没する人がいる
なんて思っている江別市民は少ないでしょう。
 今日は(今日も)酔って取り留めなく長くなりましたが、長くなりついでに
私の執筆中の「心根地」の一部を転記させてください。

 新根地 第三章 夕張岳 より

彼が南部に移り住んでから一年になろうとした頃、南部のヤマ元で事件が
起こった。
 昭和六十年六月五日午後三時四十分頃。三菱南大夕張砿南一卸七方付近で
起こったガス突出事故が発端であった。そのガス突出事故に坑内火災が加わった。
 炭砿の坑道は地下に網の目の如く掘られている。そして、坑道一本一本に
名称がある。(中略)
 地下では千数百人の人間が息をしている。それゆえ、炭砿も呼吸している。
幌南町の山中に竪抗があり、その出口に巨大な換気扇があり人間の吐く息も
ヤマから放出されるメタンガスも地熱で暖められた多湿の空気もオカに排出
される。坑内の坑道は全て動脈であり静脈であり毛細血管であるのだ。坑内
での職種も多岐にわたり、花形の採炭員。石炭層までの坑道を切り開く掘進員。
地下深くに存在する坑道は、放っておくと数ヶ月で地圧で潰される。そうなると
ヤマは呼吸できないので元の坑道の大きさに戻す作業を行う仕繰員。(中略)

 彼はその日、朝七時から夜八時までの勤務であった。夕方五時五十分に
清水沢から帰ってくる貨物列車の入替作業の準備に駅構内に出た。砿業所の
正面当たりにある三十二号ポイントを返しに行った時に異変に気づいた。
砿業所の前の駐車場にパラボラアンテナを備えた放送局の中継車が
止まっていた。普段、この時間には来ない三菱砿業セメントの札幌支店の
支店長専用の黒塗りの車も止まっている。一番方の残業組が昇抗して来る
時間であるのに砿業所からは人は出てこず、わさわさとせわしなく集まった
人間が砿業所に吸収されるのみであった。
 定時に列車は到着し入替作業もとどこうる事無く機関車は庫に戻った。
皆、駆け足で鉄道課のテレビの前に集まった。午後六時のニュースには
二、三分間があった。駅長が内線電話を施設課にかけるが、この騒ぎは一体
なんであるのか伝えてくれないいとのこと。そうこうしているうちにニュースが
始まり、皆に戦慄が走った。ガス突出で百名近くの抗内員が昇抗してこない
とのこと。
 最終列車の入替を終わらせ、自宅に戻った彼がテレビのニュースで新たに
知った事実はガス突出の現場は南一卸七方付近。(中略)
 自分の心の動揺は、今の三菱のヤマが石炭を出せなくなったら閉山に
なるからだと必死で置き換えていた。しかし、繰込所は阿鼻叫喚の世界であった。
繰込所の壁には昇抗してこない抗内員の名前。そして、その名前に重ねられた
「死亡」の朱の文字。泣き叫ぶ女、騒然とする中必死で砿業所長が拡声器で
現状を説明しようとしているが、不明者家族の安否究明の声にかき消される。
そうしている中また、朱の死亡の文字が増えた。
 次の日、鉄道は貨物全休になった。三往復の旅客列車の入替だけでは暇を
持て余した。そして、会社からの情報はなく、現状把握はテレビの情報のみで
あった。
 昼休みに彼の職場にT産業の社長が訪れた。(中略)
 高橋と平石とトミーが坑内の南一卸八方付近で発見され、炭鉱病院に
収容されたとのこと。明日が通夜なので遠幌の寺に来てくれとのことであった。
 酒癖が悪く仕事の日も朝から酒を飲んで繰込所に現れ、いつもT産業の社長に
怒鳴られていたが腕のよい大先山の高橋。オカではいつもへらへら笑っているが
ヤマに入ると人が変わったように若い後山を怒鳴り散らす平石。酒が元で離婚
したが子煩悩だったというトミー。トミーは、やはり三菱南大夕張砿に下請け
で入っていた日高工業の、社長とその妻と作業員が共謀したあの「夕張保険金
放火殺人事件」の放火された作業員宿舎で、住み込みで賄いをやっていた元妻と
子供を殺された。
 一年程前に日高工業の社長とその妻と実行犯の作業員が逮捕された次の日、
坑内の作業の合間の一服休憩の時、トミーは目に涙を浮かべ「日高の野郎、
死刑にでもなんにゃきゃ気持ちが晴れない」と言った。日高の判決を前にして
逝ってしまった。
 昭和四十八年に閉山した三菱大夕張時代、労務課で経理をやっていたが、
やはり酒が元で離婚し三菱南大夕張に再雇用されずにT産業に流れてきた
品川は、酒の飲みすぎで力仕事はできない。この日も作業現場から離れた
斜坑の入口に設置されたホイストの操作をしていた。
 ホイストは、北炭ではタッガというらしいが、高圧空気で作動するウインチで
ある。
 彼らの作業は「盤打」と呼ばれ、坑内では最低の仕事といわれる。
 地圧で押し縮められた坑道を抗枠を交換しながら元の坑道の大きさに戻す
仕事を「拡大」というが、盤打は盛上がった抗盤を掘り起こすだけの単純な
作業である。品川は、空の炭車をホイストで降ろし、斜坑に張られたワイヤーを
引くと、ホイストの脇に設置された笛が鳴る仕組みで、炭車がズリで満載に
なると笛の合図でホイストを巻き、炭車を引き上げる。この時、後山は炭車に
へばりついて昇って来るので、実車と空車の入替は後山の仕事である。
一人離れた場所に居た品川は生還した。しかし、危篤で面会謝絶であった。
 その日、午後三時に勤務を終えた彼は、自宅に戻りソファーに腰掛けると
暫くの間天井を見つめた。(中略)
 たった三ヶ月の真っ暗な坑内でT産業の死んだ高橋や平石らと交わした
一言一句を思い出そうとしていた。天井のシミを一つ見るたびにヤマ鳴りの時の
こと、ズリを満載した炭車がホイストのエアーの圧力が少なくて巻上げ
られなくて汗みどろで押した時のこと、坑口まで三回も人車を乗り換えるのが
面倒で平石とクビを覚悟でベルトコンベアーに腹ばいでジッと乗っていた時の
こと、彼の測定したズリの量と平石の見解の違いで喧嘩となり三十分以上
お互いのキャップランプでお互いの顔を照らしにらみ合った時のこと、
拡大の現場で彼が誤って高橋の背中に二十キロもありそうなズリを落として
しまった時のこと、

 (中略)

 結局、六十二名が死んだ坑内事故は全ての葬式が終わっても解決しなかった。
坑内は燃え続けていたのだ。
 彼は、一日にたった三往復の旅客列車の入替のためだけに出勤する日々が
続いた。
 一年で一番昼が長い時期。午後七時に南部に戻って来る最終列車の入替が
終わり駅に戻るとき、茜色の空の中に幌南町の排気竪抗から立ち上るねずみ色の
煙に「閉山になるのではないか」という不安は続いた。
 三菱のヤマはこの年、災害が多かった。抗内員が炭車に轢かれて死亡したり、
九州の兄弟砿の三菱高島砿が坑内自然発火で火災を起こし、9名が死亡。
採炭は再開されていなかった。
 三菱高島砿は三井三池砿と共に明治、大正、昭和と石炭を出し続けている
ヤマであるが、古いヤマほど採炭現場が深くなるので経費がかかり、
他の炭砿と同じく赤字のヤマであった。その高島砿の赤字を南大夕張砿の黒字で
埋める状態だったので、二砿共に石炭を出せない状態は三菱石炭鉱業にとっては
致命的であった。
 南部のヤマ元では、南大夕張砿の災害が起こるまで話題といえば高島砿で、
「高島は閉山になるのではないか」、「高島が閉山してくれた方が南部は助かる」
という話で始終していた。炭砿労組の組合報では、高島は閉山なし、南大夕張の
坑内火災も一卸と二卸の連絡坑道を封鎖して、一卸に夕張川の水を注入し水没
させ消火する。その間、主力採炭を幌南町側の上二片に移し、三卸も総力で
採炭増力させる。との事であった。
 夕張川の谷沿に細長い集落を形成している南部も、いよいよ夏らしくなって
きた。セミが鳴きはじめ夕張岳の方向には入道雲も発生する時期。彼は、
炭砿病院に入院している品川を訪ねた。
 入院病棟の三階で病室の入口に貼られている入院者の札で品川を探す。
品川の名前はすぐに見つかった。病室の扉は開いていた。中に入り品川を
目で探すがわからない。もしや、と思い窓際の右のベッドに近づくと、
そこには、昔、白黒テレビの頃の外国の物語のミイラ男の様にからだ中包帯を
巻かれている男が寝ていた。枕元の札には品川の名前が書かれていた。
彼は、品川に声をかけていいものかどうか迷い、呆然としていた。病室の中は
暑かったが、開け放たれた窓からはカーテンを揺らしながら風が入って来る。
白いカーテン、白い布団、白いシーツ、白い壁、白いベッドのパイプ。そして、
白い品川の包帯。品川は白の世界に同化している様であった。
「品川さん、お客さんだよ」と、立ち尽くす彼を見かねて隣のベッドの男が声を
かけてくれた。
 その時、包帯だらけの顔の目のあたりの隙間の奥に瞳が見えた。
「シナさん、大変だったなぁ」。彼は平常心に戻って品川に何か話し掛けなけれ
ばならないと差し障りのない言葉を選んだつもりであった。
 品川は蚊の鳴くような細い、カン高い声で「みんな、死んじゃったよ。オレ
みたいなろくでなしが生きてるんだからおかしいよなぁ。だけんど、体中、
包帯よ。あん時の事、ドドンってきたから山鳴りかと思ったさ。だけんど、
変だったんだぁ。下から風吹いてきて、後ろの戸門、開いちゃったんだ。
そしたら粉塵、舞っちゃって辺り真っ白さ。オレ、ガスだと思ってエアーの
ホースくわえて蛇口ひねったたら目の前真っ赤になって飛ばされたんだ。
気ぃ付いたらここで寝てたんだ。体、熱くて熱くて、寝れなかったんだ。
医者と看護婦さ来て、包帯取り替えたんだ。オレの体、真っ赤にただれ
てんだ。(後略)

 追伸
 本当に長くなってすいません。
 人間の造作物は必ず風化しますが、自分を育んだ「地」は「心」の中で
自分を形成する「根」である。自然に同化した「地」に、いつか足を向けた時
新しい未来がある、と、云いたい私の書き物の一部でした。
 本当に長くなってすいません。

(270)山史(14) 投稿者:今井 一郎  投稿日:02月13日(土)16時36分16秒

山史(14)

三菱鉱業株式会社 大夕張鉄道

自、明治39年〜至、昭和38年  58年史
   (前投稿からの続きです)


 8、 石炭運賃延納

 昭和36年4月6日鉄道貨物運賃15%値上となったが、石炭業界に及ぼす
影響甚大であり、政府に対し石炭運賃の軽減を要請せる処、経済企画庁が
中心となり運輸、通産の各省協議の結果、石炭運賃臨時特別措置として
昭和36年7月1日(連絡社線発となるものは昭和37年3月30日)より
石炭運賃の延納取扱が実施された。
   1、 昭和36年4月6日値上り運賃(15%)の2分の1に相当する
      6. 5%とする(社線運賃を除く)。
   2、 取扱期間は昭和38年度分(昭和39年3月31日)までとする。
   3、該当石炭業者(当所関係分)
     イ、 三菱鉱業株式会社札幌支店長 落合一男
       芦別、上芦別、茶志内、常盤台、盤ノ沢及び大夕張炭山の
       6駅を発駅とす。
     ロ、 北菱産業株式会社代表取締役 田中剛一
       平岸、美唄炭山、遠幌、頼城及び緑泉の5駅を発駅とする。
     ハ、 夕張炭砿株式会社取締役社長 上野 清
       遠幌駅を発駅とする。
   4、 国鉄に提出する担保
     イ、 大手17社については17社が連帯保証人となる連帯保証書 
     ロ、 中小炭砿業者の中、大手系列に入る者については、大手17   
       が連帯保証人となる連帯保証書
     ハ、 他の中小炭砿業者は、国鉄の認める有価証券、銀行の保証書又
       は個人保証書等
   5、 延納額の返納
      昭和36年度中に延納の取扱を実施せし者は36年度分は43年度中に
      37年度分は44年度中に、38年度分は44年度中に、夫々12ヶ月の
      均等月賦とし、毎月末迄に所属国鉄鉄道管理局会計課に返済する。
   6、 延納額は政府の指示により利息を付けない。
   7、 当鉄道関係延納額実績次の通り。

     イ、発生年度別延納額(円)

年度別 三菱大夕張 北菱鹿島 北 夕 合 計
36 116,320 48,400 15,140 179,860
37 16,329,380 5,513,450 1,752,730 23,595,560
38 16,882,290 4,229,860 2,399,090 23,511,240
合計 33,327,990 9,791,710 4,166,960 47,286,660
金利 17,030,603 5,003,564 2,129,316 24,163,483

備考  昭和36年度分については昭和37年3月30日、31日の
    2日間のみである。
     延納取扱により各石炭業者の得る金利は日歩2銭として
    推算した。
(0. 02円×365日×7ヶ年)÷100円=0.511

     ロ、 支払年度別均等月賦額(円)

年度別 三菱大夕張 北菱鹿島 北 夕 合 計
43 9,693 4,033 1,262 14,988
44 1,360,782 459,454 146,061 1,966,297
45 1,406,858 352,488 199,924 1,959,270

備考  札幌鉄道管理局会計長から毎月10日迄各石炭業者に
   支払請求書が発行され月末迄に支払う。
9、 石炭運賃通算制

 連絡運輸の目的は国鉄及び連絡社線か恰も一運輸機関の如き効果を発揮し
旅客及び荷主の便益を図るにあるが、運賃制度については公共的には通算制が、
企業的には併算制が唱えられ、各々利害得失があり、戦前戦後を通じ次の如き
変遷を経てきた。
   昭和17年3月まで 併算制
   昭和17年4月より昭和23年7月まで 通算制
   昭和23年7月から 併算制復帰
   昭和25年1月から 特定社線につき通算制を採用
当社に於ても輸送費の軽減のため車扱貨物運賃を通算制とすべく
昭和31年2月10日国鉄に対し申請書を提出するも、国鉄経営不振の折柄認められず
7ヶ年に亘りこれを推進の結果、昭和37年1月1日漸く石炭運賃についてのみ
次の通り実現せり。
◎ 昭和37年11月1日、日本国有鉄道公示第532号抜粋
石炭の連絡車扱貨物運賃・料金の特殊計算方について、当分の間次のよう
に定める。
1、 適用範囲
次に掲げる社線各駅発車扱貨物に限る
  雄別炭砿尺別線、留萌鉄道線、天塩炭砿鉄道線
  羽幌炭砿鉄道線及び三菱鉱業株式会社線
2、 適用品目
  貨物等級表の品目番号0101及び0102に該当する石炭
3、 運賃料金の計算方
    連絡運輸規則第170条第2項の規定(通算制)による
◎ 昭和37年1月1日、鉄業第426号、37石局第956号抜粋
「当分の間次のように定める」ことについて運輸省と通商産業省は
下記の通り了解する。

記
   1、本措置は、石炭政策に基づく臨時的な措置であり、
    現時点において将来の確定期間を明示することが
    困難なため、実施期間を当分の間としたものである。
   2、将来、諸情勢の変化により、本措置を改廃しようと
    する場合には、運輸省は、事前に通商産業省に協議するものとする。

    なお昭和37年10月27日付夕鉄第182号をもって運輸大臣宛貨物
   運賃計算方変更認可申請書を提出、昭和37年10月31日付鉄監第1072
   号をもって認可を得、11月1日より実施せり。
    実施後に於ける実績別紙の通り。

社発連絡車扱石炭運賃通算制による利益の推定
昭和37年下期(37.11.1〜38.3.31)
荷主別    輸送屯数  通算制     併算制  
 損  益
             実績運賃    推定運賃
           屯      円       
円     円
大夕張砿業所 163,333 116,858,180 142,301,460
25,443,280
支払運賃 @715.46 @871.24 @155.78
 大 三 菱 38,854,282 40,391,480 △ 5,537,198
 夕  163,333 @213.40 @247.30 @ 33.90
 張 北 夕 3,076,011 4,228,540 △ 1,152,529
 鉄  30,542 @100.71 @138.45 @37.74
道 北 菱 7,042,715 8,455,010 △ 1,412,295
収 61,069 @115.32 @138.45 @23.13
入 其ノ他 334,820 444,650 △ 109,830
2,003 @167.16 @221.99 @54.83
    計 256,947 45,307,828 53,519,680
△ 8,211,852
@176.33 @208.29 @31.96
         差  引  損  益 17,231,428



昭和38年上期
荷主別 輸送屯数  通算制実績運賃 併算制推定運賃  
 損  益
屯 円 円 円
大夕張砿業所 297,415 201,687,300 239,747,590
38,060,290
@678.13 @806.10 @127.97
支払運賃
 大  三 菱 65,258,830 73,868,590 △ 8,309,760
 夕 297,415 @219.42 @247.36 @27.94
 張  北 夕 4,645,937 6,206,160 △ 1,560,223
 鉄 44,826 @103.64 @138.45 @34.81
 道  北 菱 9,196,503 11,023,260 △ 1,826,757
 収 79,619 @115.51 @138.45 @22.94
 入  其ノ他 215,011 300,870 △ 85,859
1,290 @166.68 @233.23 @66.55

計 423,150 79,316,281 91,098,880 △ 11,782,599
@187.44 @215.29 @27.85

差引損益 26,277,691


      続きます・・・・。

 追伸

 上記の表以下数枚ありますが、ここで表現するには複雑ですので、
今回は割愛させて頂きまして、車両編のように追補版にしたいと
思います。

(269)昔の新聞から大夕張のこと 投稿者:まえかわ  投稿日:02月11日(木)12時14分11秒

昭和20年12月16日付け 朝日新聞より 
 大夕張では第2回目のストライキが組合の全面勝利で解決。その内容は
日給11圓75銭、出勤時間7時間とし、休憩時間を1時間とするなど。
三井美唄坑は最低日給15圓を要求したが、会社側が動ぜぬため争議に入
った。
 マ司令部は15日、政府は何故に北海道炭坑争議を急速に解決して石炭
の増産を図り、燃料飢饉に対処すべき有効な具体策を取らないのか、と日
本政府の説明を要求した。

以上、大夕張の名を新聞の中から見つけましたので参考までに投稿しました。
それにしてもネットで知り合った大夕張同郷の交流会を開かれたようですが、
うらやましく思いました。素晴らしい企画だと思います。三池炭鉱同郷会の
ようなものを開けられたらいいなあと思いました。

http://www.biwa.ne.jp/~fumiko/

(268)尻すべりの思いで 投稿者:奥山 道紀  投稿日:02月10日(水)18時03分23秒

今、大夕張は深い雪の中と思います。
私も、幼い頃千年町の営林署の官舎に居た、従姉妹と
よく、尻が濡れるのも気にせず尻すべりで遊びました。
冬は他にスキーや雪合戦で遊びましたが、夏は化石取りや
ザリガニ取りなどしました。飯田さんはどうでしたでしょうか?
さて、先日土木学会の発表会がありましたが、
「山史」で横河橋梁製造となっている「旭沢橋梁」に関する
記録が横河に残っていません。北海道開発コンサルタントの
進藤氏が調査をしていますが、どなたか鉄道の保線関係
の方にでも知人が居ましたらご紹介下さい。

連絡先は 069−0844
江別市大麻西町1 R31−14 奥山 道紀まで

よろしくお願いします。

(267)尻すべり・・・に思う 投稿者:飯田 雅人  投稿日:02月09日(火)21時49分48秒

先日私の職場の小学校で雪中集会がありました。
その中で人気は雪玉での的当てと,雪山からの尻滑りでした。
菅井さんの投稿にもありますが,よく高いところから水の流れる沢
に向かって雪の斜面を平気で滑り降りましたよね。
まず下まで落ちて沢に落ちるとか,けがをするなんてことはありま
せんでした。たいてい斜面の雪の上に出ている木の枝や笹などに引っ
かかってしまい,途中でとまってしまいます。その上,今みたいに
ビニールやよくすべるプラスティックのソリもなく,せいぜいダン
ボールや尻すべりでそうスピードもでなかったように思います。
いまそんなところをソリですべるような子もいないでしょうが,
そんな所で遊ぶとすぐ学校から『危ないよ』と注意を受けると
ころでしょう。
大夕張は四季それぞれに全身を使って自然とふれあい,親しんだ
時代であり土地でした。

(266)内川さん。残念ですが多分人違いと思います。 投稿者:石川 修  投稿日:02月06日(土)11時44分12秒

久しぶりにお便りします。
内川様よりおたずねのありました、石川です。

私は、以前に投稿した際にも書いたと思うのですが
生まれたのは緑町でした。(S.25年3月)
明石町に引っ越したのはS.28年の春頃でした。
なので、幼稚園は大夕張まで通ってはおりましたが
小学校は、鹿島東小学校にS.31入学し、S.36年
の4月まで在籍していました。
担任の先生は 1年生(女性)
2年生(男性)西田先生
3年生(女性)石垣先生 お父様が鹿島小の校長先生。
4年生(女性)小田先生
5年生(男性)渡辺先生
でした。 確か、私も小さかった頃は小柄ででやせてはいましたが・・・。
内川様の知っておられる「石川さん」とは違うと思います。

しかし、かつて同時期に大夕張に住んでいた同級生からの問いかけ
はうれしかったです。

内川様の投稿を知らせてくださいまして、飯田様ありがとうございました。

(265)石川さんへ、貴方はだあれ。 投稿者:内川 准一  投稿日:02月05日(金)20時29分35秒

こんにちは、飯田さん、いつもお世話になります。
今日は、「大夕張掲示板」の4月17日に投稿されていた石川さ
んあてにこれを書きます。石川さん、見てくれるかな?
私は貴方と同じ学年で、当時鹿島小学校に在学していました。
私には鹿島小学校の中学年くらいのときに石川君という友達が
いました。
私の知っている石川君は、鹿島小の中村素先生のクラス(桃組
?)のころに一緒だったように思います。
彼は小柄で、細くて、カエルを怖がる意気地なしで、笑ってしまっ
たこともありました。
天気のいいある日、緑町と弥生町の間の通りを並んで歩いた記
憶があります。
緑町4丁目?の後ろの方の長屋に住んでいたように思いますが、

正確ではありません。
何より、一緒に歩いたこの場面が、何故今だに鮮明なのかがわ
かりません。
もし貴君が私の知る石川君ならば、逆に教えてください。まだ失
われていない記憶に意味を見つけたい。

明石町に住んでいたのなら、東小学校が区域ですよね。しかし、
確かにいたはずの私の友人の名は、鹿島小学校の卒業名簿に
無いのです。

(264)大夕張スタンプ 投稿者:飯田 雅人  投稿日:02月04日(木)20時29分55秒

大夕張スタンプに,三弦橋・・・。そういえば中央に小さく描かれていましたね。
大夕張スタンプ,昭和40年代以降だと思いますが,この看板のかかっているお店
で買い物をすると,**円に付き一枚のかたちで,スタンプというよりシールみたいな
ものをくれました。そして台紙に貼って何枚かたまると景品と交換となっていたと
思います。子供の頃,母親の買い物のあと,このシールを台紙に張っていくのが,私の
仕事になっていました。
今でもよくあるやつですね。図柄と青と白と緑を基調にした色合いがとっても気に入っ
ていました。

(263)大夕張スタンプについて 投稿者:奥山 道紀  投稿日:02月03日(水)17時50分11秒

資料室に「大夕張スタンプ」の事が書いてありましたが、
数年前まで、千年町の商店にその看板が掲げられてあり
ました。
図柄は「山並みと」「シューパロ湖の三弦橋」でした。
たしか、志村菓子店だと思いましたが、看板は石炭博物館で
寄贈を受け、保存されています。

(262)新聞で天然ガスの話が出てました。 投稿者:西村武博  投稿日:02月01日(月)12時22分45秒

先日、新聞で天然ガスが新エネルギーとして見直し
されているとの内容の記事がありました。
その天然ガスの宝庫が全国内でも南大夕張付近との
こと。
今までは、天然ガスは、炭坑時代にガス爆発の原因
となり、やっかいものでしたが、それが新しいエネ
ルギーとして見直されているとのこと。
実際に事故が多発した大夕張付近には、実績として
天然ガスがあることが知られている。
現時点では、研究調査段階のようですが、
石炭に次ぐ次世代のエネルギー源として大夕張付近
が復活する可能性があるかもしれません。

(261)冬の遊び 私の場合 投稿者:菅井宏史  投稿日:02月01日(月)08時30分50秒

飯田さん同様、私も富士見町6丁目に住んでおりました。飯田さんは私より
学年が3つ上とのことですので、おそらく、私の幼稚園、小学校1年くらい
の時期を中心におよそ3年くらいの間は、お互い150m〜200m位の
至近距離のところに住んでいたことになりますね。
残念ながらその当時はむろん顔見知りではありませんでしたので知る由もあ
りませんが、多分何度かは通りすがりや何かの機会に顔を合わせたに違いあ
りません。

ところで、その富士見町時代の遊びの記憶の中で、なぜか冬の遊びの思い出
が断然優位を占めています。
やはりあの圧倒的な雪の量は私の記憶にも強烈な印象を刻み込んだので
しょうか?
家の南側には夏場は野菜畑になっている結構広いスペースがあり、冬はそこ
にかまくらを作ったり、陣地を作って近所の友達と雪合戦をしたり。
或いは積もった雪が屋根から滑り落ちて、軒下に積もり、それが積もり
積もって、果てには屋根の上から下の地面までちょっとしたスロープが出来
上がってしまったということもありました。そんな時は屋根の上からスキーや
そり滑りをしたなんて言う記憶もあります。
そこでは小さなボブスレーのようなコースを作り、野球のボールや色々なもの
を転がしたり、滑らしたりして遊ぶという、飯田さんとよく似たこともしま
した。
そり滑りと言えば、家のあった所から北に少し行くと坂の下に鉱業所裏の沢
が見えるところがありましたが、その坂の上から沢に向かって段ボールをそり
にして滑ったなどという、今考えるとちょっと無謀なことも平気でその当時は
やっていました。
又、富士見町のスキー場に行くときは決まって家からスキーを履いて行った
ものです。スキー場まではノルディック、スキー場ではアルペンと行ったと
ころでしょうか?そんなかっこいいものじゃなかったですね、実際は。
まだちゃんとしたスキーを持っていなかった幼い頃、長さ20〜30cm程、
幅は2〜3cmくらいの竹スキーを履いてスキー場で滑ったという記憶もあ
ります。
雪が入らないように、ズボンを長靴に被せるように履いていても、なぜか
遊び終わって家に戻り、玄関で長靴を脱ぐとき、中は決まって雪だらけだった
ような・・。
大夕張時代の冬、足はいつもしもやけでした。

平成11年 1月 先頭にもどる


(260)冬の遊び 投稿者:飯田 雅人 投稿日:01月31日(日)16時01分08秒

雪の話題が出ていましたので冬の遊びについて。
生まれてから小学校の中学年の頃まで富士見町の6丁目に
住んでいました。家の横の土手を登り,小さな沢を超えると
すぐ山でした。その山は,近所の子達と一年を通して遊ぶ場
になっていました。
冬はよく,山の斜面を利用してスロープやコースを作りまし
た。そして,みんなで尻滑りをしたり,ビール瓶やジュース
の瓶などの空き瓶を乗り物にみたて,雪の斜面をすべらせて
遊びました。誰が一番よくスピードが出るか,ジャンプする
かなど,きそいあったりして,夢中になって遊んでいました。
雪に埋もれた木の枝の間にできる空間に落ちて,動けなくな
ることもありました。それを見てかかってくる友達との格闘
になってしまいます。
しかし,それもまた楽しく,ただでさえ短い冬の一日が
本当にあっという間でした。
全身雪にまみれて,いつも遊びの終わりには体中が汗と雪で
びしょぬれになっていました。
家に入った時の石炭ストーブのあたたかさ,毛糸の手袋につい
た雪のかたまりが溶けて,ストーブの上に落ちてジュッと
はじけて蒸発する音が忘れられません。

(259)山史追補版 車両編その1 投稿者:今井 一郎  投稿日:01月30日(土)16時35分08秒

7214号蒸気機関車

  形式7200 1C形テンダ機関車
  旧所属    鉄道院
  使用初年   明治23年
  製造所    Baldwin Locomotive.co (米)
   缶中心を低くして安定性を持たせるためか、火室が極端に下げられ 
  ている。その関係で第2、第3動輪間がかなり長いのが本機の特徴で
  ある。

大型鉄製車(オテセ)

   オテセの形式。両数及び製造年は次の通りであり、当時としては明
  治44年製の11000形式が入線したものと想像される。
       形 式      両 数      製 造 年
        1         1      明治36年
      10500     300      大正14〜15年
      11000     125      明治44年
      11000     400      大正2年

3080号蒸気機関車

   形式3080 1C1形タンク機関車
   旧所属  鉄道作業局
   使用初年 明治20年
   製造所  Nasmyth Wilson & Co (英)
   英国製の1C1タンクは他の形式に比してその数は少なく総数22形式中
  我国に3形式よりない。

9200 1D形テンダ機関車

   形式9200
   製造年  明治39年(1905年)
   製造所  Baldwin Locomotive.co (米)
   9201、 9237号共に昭和37年末三菱芦別専用鉄道に譲渡されるまで
  34個年に亘り当鉄道に於て活躍せり

客車ハ2、3、4

   形式ハ10形
   製造年  明治40年
   製造所  帝国鉄道庁新橋工場
   自重   8.59t 定員 22人
   最大寸法 長サ  7,912mm
        高サ  3,339mm
        巾   2,502mm
   ハ2 旧国鉄フハ3391
      昭和16年6月苗穂工機部に於て2等車に改造来客用とせるも
      昭和26年12月旧に復レ、昭和35年三菱茶志内専用線に通学生用として
     譲渡す
   ハ3 旧国鉄フハ3392
   ハ4 旧国鉄フハ3399
      昭和38年8月鹿島道路開通に伴い鉄道旅客減少せしため廃車するまで
     35年間に亘り当鉄道に於て使用さる 


キ28

   形式 キ1 番号28
   製造所  鉄道院札幌工場
   製造年  大正元年
   自重   20、3屯
   鉄道院ユキ50を28に改め、後胆振縦貫鉄道に譲渡後、昭和19年7月
  国鉄買収により、国鉄キ87となるも昭和28年10月廃車となる。 

9603及び9604号蒸気機関車

   形式 9600 1D形過熱テンダ機関車
   製造所  日立製作所
   製造年  9603 昭和12年8月
   9604  昭和16年1月
   本形式の特徴は火室面積を得るため動輪上に火室を置いたので缶中心が
  非常に高いことである。
   尚、本機は国鉄の9600形式より重く、バック運転しやすいように
  特注の炭水車を備えている。

C11蒸気機関車

   形式   C11 1C形過熱タンク機関車
   製造所  日本車両
   製造年  昭和19年7月


客車 ハ1 半鋼製2軸客車

   製造所  岩崎レール商会
   製造年  昭和2年2月
   自重   11.37t 定員 64人
   最大寸法 長サ  9,156mm
        高サ  3,640mm
        巾   2,648mm


ナハ2 半鋼製2軸ボギー客車

   製造年 大正9年
   製造所 日本車両
   自重  23.5屯
   定員  134人
   最大寸法   長さ 17016mm
          高さ 3886
          巾  2840

9600 1D形過熱テンダ機関車

   形式9600
   製造年 大正9年3月
   製造所 川崎造船兵庫工場
    鉄道院において9550及び9580の2形式を改良し本形式を制作したもので
   試作の前2形式を改良し本形式を製作したもので、試作の2形式よりも
   はるかに強力な機関車となった。8620形と共に大正時代の代表的貨物列車
   用機関車である。

ホハ1 木製2軸ボギー客車

   形式ホハ1
   製造年  明治43年3月
   製造所  鉄道院旭川工場
    ホハ1 国鉄旧番号 ホハユニ3850
    ホハ2   〃     〃 3851
   自重   19.7屯  定員94人
   最大寸法 長サ 14732mm
        高サ  3725mm
        巾   2745mm
   昭和29年5月 鋼体化

オハ1、2

    形式オハ1 製造年 明治39年3月 鉄道作業局新橋工場製
    形式オハ2 製造年 明治37年   天野工場製
    形式オハ1 半鋼製2軸ボギー客車
    自重 28.1屯   定員 104人
    最大寸法  長サ 20,248mm
          高サ  3,886mm
          巾   2,700mm

モーターカー
   
   製造年 昭和32年5月
   製造所 酒井工作所
   形式  SKW−3M型

ナハ3、4

    形式   ナハ10 木製2軸ボギー客車
    製造年  明治45年 鉄道院旭川工場製
    自重   25.2屯
    定員   80人
    最大寸法 長サ 16.960mm
         高サ 3.790mm
         巾  2.720mm

ナハ5
    
    形式ナハ5
    形式   ナハ10 半鋼製2軸ボギー客車
    製造年  大正6年3月 汽車会社東京支店製
    自重   25.2屯
    定員   112人
    最大寸法 長サ 17.016mm
         高サ 3.886mm
         巾  2.840mm

タンク車 番号タキ5249〜5262
   
    形式   タキ5200 私有貨車 
    所有者  三菱鉱業株式会社
         メタノール専用 大夕張炭山駅常備
    製造年  昭和34年
    製造所  新三菱重工三原製作所
    車籍   日本国有鉄道
    
    2軸ボギー車 荷重 30屯
    換算両数 積 5.0 空 2.0
    一般検査施工場所 国鉄指定工場
    入線月日 発駅 山陽本線柴崎駅
     番号     入線月日    
    5249  34年 8月29日
    5250      〃
    5252  34年 9月17日
    5253  34年 9月26日
    5254      〃
    5255  34年10月22日
    5256      〃
    5257      〃
    5258  34年12月12日
    5259  34年12月23日
    5260  35年 1月14日
    5261  34年12月30日
    5262      〃


 追伸

 この車両編は、山史の本文中で車両記述を転記したものです。
 本文中では主に写真が貼ってあったと思われるスペースに、
上記文が併記されていましたが、写真のない文中では読みやすさを
考慮させて頂きまして、別記としました。

(258)山史 (12) 投稿者:今井 一郎  投稿日:01月30日(土)09時24分12秒

山史(13)

三菱鉱業株式会社 大夕張鉄道

自、明治39年〜至、昭和38年  58年史
   (前投稿からの続きです)

 第7章 最近に於ける営業事項

 1、 美鉄と連絡運輸併合

 従来大夕張鉄道と美唄鉄道は、国鉄との連絡運輸については恰も別会社の如く、
ここに連絡番号を有し業務を取扱いたるも、昭和31年6月1日よりこれを併合
三菱鉱業株式会社の美唄鉄道線又は大夕張鉄道線と称し、連絡運輸契約も当社
取締役社長と国鉄営業局長との間に締結、連絡運輸事務は美唄鉄道を窓口として
大夕張鉄道分を併せ取扱うことゝし、国鉄との駅共同使用契約、接続駅に於ける
連絡設備、国鉄用地の借地契約等の連絡運輸以外の件に関しては従来同様美鉄、
大夕張個々に行うことゝせり。

 2、 北菱香取坑

 昭和32年2月、北菱産業株式会社が香取坑を開坑、同月19日より送炭を開始。
3月に至り大夕張炭山駅構内終点付近に南部開発の積込ポケットを移築利用、
昭和37年2月21日積出を終了するまで5ヶ年間に亘り約6万5千屯の石炭を送炭、
昭和37年6月8日ポケットを撤去せり。

 3、 モーターカー

 昭和32年6月8日、モーターカー入線、保線作業に機動力を齎らせり。

 4、 客車形式ナハ3、4

 昭和31年11月28日、国鉄よりナル17.612同13の払下を受け泰和車両にて
側廊付来客用コンパートを一端に持つ客車に改造、昭和32年6月26日入線使用を
開始せり。

 5、 客車形式ナハ5

 昭和33年5月、国鉄よりナル17.702の払下を受け泰和車両に於て車体を新製、
昭和34年3月入線使用を開始せり。

 6、 メタノール

 昭和33年、坑内ガスよりメタノール合成のため、大夕張炭山駅東方、夕張川岸に
メタノール工場建設、昭和34年7月には工場試運転、12月に至り製造を開始、
もどって8月29日より私有貨車タキ14両入線、翌35年1月27日よりメタノールの
輸送を開始せり。

 7、 急行券の発売

 昭和36年1月14日より、国鉄札幌・夕張間にジーゼル準急行列車「夕張」を
2往復運転開始せしが、当鉄道各駅からの連絡旅客に対しても2月1日より
準急行券を発売開始せり。
 当鉄道発売駅 大夕張、千年町、明石町、南大夕張及び遠幌
 後、旅客の利便を図り、昭和37年5月1日より第1種普通急行券を、
更に9月1日より第2種普通急行券を大夕張駅より発売せり。


 追伸
 札幌のこの雪は30年振りの大雪との事。いったい3月までどれくらい
降るのでしょうか?
 南部の幌南町に住んでいた頃、朝、職場に向う時、車が雪に埋まっている。
 車を掘り返して、鉄道課の入口を開けて、出社後すぐに各ポイントの除雪。
 南大夕張駅構内の清水沢寄りのポイント小屋(南部のポイント小屋)の前の
11号ポイントは唯一のスプリング・ポイントで熱線が入っていましたが、
降る雪に融けるのが間に合わず、クロッシングまで雪をはねて、振返るとまた
同じくらい積もっていて、何度も往復した思い出があります。
 とにかく、南部は雪の多いところだと思っていましたが、車で鹿島へ向うと
道路の脇の雪がどんどん高くなり、通説では「鹿島は南部の倍の積雪」というのが
ありました。
 鹿島で生活していた方々はさぞかし大変だったでしょうね。

(257)二岐峠旧道について 投稿者:奥山 道紀  投稿日:01月28日(木)18時18分38秒

二岐峠の話題拝見しました。
40年の隧道開通以前はあの峠は夕張から栗山・札幌へ
抜ける幹線でした。
夕張(鹿ノ谷)からの登りは少なく、直ぐ下り坂になりますが
砂利道と幾つものカーブが記憶に残っています。
この峠については、堀淳一氏の「続忘れられた道を歩く」に
記事があります。
隧道の今の道もさらに、数年後には切り替えの予定です。
新道は夕鉄の第一隧道から錦沢へ迂回し千代田中学付近に
隧道で抜けます。
夕張の人口減少と共に、峠は南へ南へと移動しています。

(256)二股峠と錦沢公園 投稿者:飯田 雅人  投稿日:01月27日(水)20時13分43秒

話題が大夕張からやや離れますが,昭和30年代後半祖父が富野にいた関係で
大夕張から夕張線に乗り,若菜のバスターミナルで栗沢行きに乗り換えて,
二股峠を下りました。
 私は当時バスが大好き少年でしたから運転手さんの後ろの席がお気に入り
でした。まだ今の隧道ができる前のことで,舗装されていない道を埃を立て
急カーブを切りながら峠を下っていきました。カーブに来るたびに運転手さ
んのハンドル操作が右にグルグル左にグルグルと忙しく,目の前に深い谷が
せまりこわい思いをしたものでした。
そして二股峠を下ったところに祖父の住んでいた富野小学校がありました。
そこから錦沢は直ぐ近かったので,ボートや遊園地でよく遊んだような気が
します。今,家に祖父母と私の一家で錦沢公園を訪れた一枚の写真が残って
います。

(255)三菱バス・札幌線について 投稿者:奥山 道紀  投稿日:01月27日(水)12時33分17秒

37年10月、夕張急行線に続き40年12月には札幌への
路線が開設されます。これは大夕張駅前発が三菱2往復
夕鉄2往復の計4往復だったと思います。
他に夕鉄は夕張鉱業所から2往復、中央が夕張駅前から
6往復ほどありました。
最初は三菱も夕鉄と同じく札幌大通りに停留所がありました。
夕鉄との関係から遠幌から先は乗降が出来ず、清水沢でも
乗降が出来るようになったのは後の事です。
札幌〜夕張間の直通バスの発展で夕鉄の野幌バス接続の
ルートも衰退を余儀なくされました。
今井さんと同様、叔父が夕鉄に努めていた関係で「夕鉄」の
思いでも沢山あります。
大夕張の人でも「錦沢」へ出かけた人は多いのでは?
三菱鉄道のOB会成功をお祈りします。
現在夕鉄OBの方と歴史村の「機関車磨き」を計画しています
が、三菱大夕張鉄道の機関車も磨きたいと思います。
さて、夕張バスで大夕張急行線開設時に「記念乗車券」を
発行しています。見たことはあるでしょうか?

(254)昭和37年 鹿島道路開通 祝賀行事 投稿者:飯田 雅人  投稿日:01月26日(火)22時18分25秒

昭和37年10月6日,7日の土曜,日曜。好天に恵まれた両日,大夕張では
清水沢-大夕張間の開通を祝う催しものでにぎわいました。6日の開通の後,
7日(日)に行なわれた祝賀行事の様子です。

   早朝から花火が打ち上げられ,花飾りや色テープで飾られた商店街
  を陸上自衛隊第11師団の音楽隊がマーチを演奏しながら行進し,大
  夕張婦人会会員のマスゲームが華やかに繰り広げられた。
   大夕張の街中にお祭り気分があふれ,街中数カ所で自衛隊音楽隊が,
  演奏会を開き,さかんに住民の拍手をあびる。
   正午からマラソン大会が開かれ,中・高校生,一般の住民など合せて
  318人が参加し,消防署南部分遣所前〜鹿島小学校まで,色とりどり
  のランニングシャツを身につけ力走。沿道の住民の方々の声援を受ける。
  約9キロの道のりをかけぬけた。(このマラソン大会で中学男子の部
  5位に,小林光志さんのお名前が見えます。すみません,小林さん書い
  てしまいました)
   午後2時から鹿島小学校体育館で祝賀パーティが開かれ,多くの住民
  の方々が参加した。道路開通に尽力したとして橘内市長はじめ,十四氏
  に感謝状が贈られた。

また,7日から始まった夕張-大夕張間の夕張バス,三菱バスによる直通バス
の運行の様子を当時の新聞は,次のように伝えています。

   三菱バスは午前6時40分大夕張駅前発,夕張駅前行きの始発バスの
  車内を紅葉で飾り,車の正面には日の丸の小旗,側面を色とりどりの
  モールで飾り,定刻に発車した。三菱鉱業美唄鉄道事務所の今井達郎事
  務所長ら関係者の拍手の内に紅白のテープを切って発車。
  始発大夕張駅前9人の乗客が南部を過ぎるとほとんど満員になっていた。
  シューパロ湖や山々の紅葉にかがやく風景を堪能しながら70分で終点
  夕張駅前に到着した。両バス合わせて15往復の直通バスは,利用者が
  多く,両バスの関係者は好調なすべりだしを喜んでいた。

以上,昭和37年10月8日付の北海道新聞からです。奥山さんの投稿にある
石炭博物館や夕張市図書館にある『夕張よみうり』見てみたいものです。
きっと当時の生活の様子が生き生きと伝わってくるでしょうね。

(253)土木学会支部発表会について 投稿者:奥山 道紀  投稿日:01月26日(火)16時24分20秒

2月8日に札幌市民会館で土木学会北海道支部の研究
発表会があります。
第一会議室では「三弦トラスの保存と活用」「夕張シューパロ
湖周辺における橋梁土木遺産について」等、大夕張地区に
関する研究発表があります。興味のあるかたは一般でも
聴講可能と思います。
連絡先は011−251−7038です。

(252)鉄道・バスの話など 投稿者:奥山 道紀  投稿日:01月25日(月)13時16分18秒

三菱バス保存会のみなさん、バス保存大変素晴らしいこと
と思います。側面の三菱のスリーダイヤモンドもそのまま残せる
のでしょうか?
昭和42年当時三菱の貸切車は「まりも」「すずらん」等の愛称名
がついていました。この車にもきっと愛称があったことと思います。
さて三菱の旧塗装車は2年ほど前まで新十津川にありました
が、今はどうなっているでしょうか?
美唄鉄道のバス営業は昭和23年の美唄〜東明間に始まり
道路の整備(特に橋梁)を待ち、常盤台へと延びました。
25年には三菱鉱業に吸収され美唄鉄道事務所となりましたが
昭和31年清水沢への道路開通・路線開設に向け、清水沢〜
南部間を運行していた夕張バスに対抗し、既成事実を作るため
山内線を開設したようです。
山内線開設に当たり美鉄事務所・大夕張砿業所鉄道課と
、どちらが担当するかもめたようですが、結局美鉄となったよう
てす。鉄道課だと「三菱大夕張鉄道バス」が誕生していたかも
しれません。
岡山県の片上鉄道の車両が保存・公開になりましたが
南大夕張の駅跡も「ステーションパーク」として整備出来ない
でしょうか?
石炭車セキ1.2は共に国鉄セキ1.1000形と後の国産石炭
ボギー貨車の原型であり、セキ1は明治44年製という古さで
す。客車も3軸ボギー車のスハニ6、明治39年製のオハ1
、唯一の自社発注車のナハフ1等貴重なものです。
客車を整備し、鹿島小学校にあった郷土資料を移せば
立派な郷土資料館になります。
バス保存会のみなさんの活動に学びたいと思います。

前回投稿・「千歳町」は「千年町」に訂正願います。

(251)夕張バスの思い出 投稿者:今井 一郎  投稿日:01月24日(日)12時47分35秒

 今回は山史ではなく、奥山さんの書き込みからの、夕張バス
の思い出を語らせてください。
 私の実家は江別市の東野幌(現町名 野幌東町)で、野幌駅の
すぐ裏手にありました。
 幼き頃の私は、汽車ばかり、ずっと眺めていたらしく、母親は
私の将来に不安を覚えたとの事。
 当時の野幌駅には夕張鉄道が乗り入れていて、国鉄の蒸気機関車
よりも夕鉄のエンジとクリームの塗り分けの気動車の方が好きでした。
 夜、寝入る頃に闇の静寂を破るように10m軌道のせわしない音が
遠くから聞こえ、駅に着くと終着のお知らせと国鉄線への乗り換え案内
のアナウンスが私の子守歌でした。
 東京での学生時代に、夕鉄の気動車の譲渡先の茨城の鹿島鉄道を尋ねた時、
外観は随分変わっていたが、排気管が床下にあるため、ホーム入線中は
ホームが排気の振動で揺れるなんて言うのは、なつかしいことこのうえなく、
乗車すると、10m軌道の「トコトン、トコトン」というリズムに眠たく
なりました。
 鉄道の思い出は数多くありますが、鉄道の北海鋼機前駅に併設された
夕鉄バスの野幌営業所の思い出もあります。
 今は夕鉄バスの野幌バスターミナルと名前を変えていますが、当時は
国鉄の準急・夕張に対抗すべく、札幌まで大きくS字を描くように追分、
岩見沢経由の国鉄に対し、野幌まで緩やかな曲線の夕張鉄道が距離的にも
有利で、野幌から函館本線に乗入れ札幌までとなると夕張・札幌間の
最短距離となるはずでしたが、実現せず(江別市史をひも解きますと
夕張鉄道の旧上江別駅あたりから分岐させ札幌までの札幌急行電鉄と称した
東京急行電鉄主導の計画もあったようですが、頓挫したとのこと)
野幌駅から500m程手前にバスの営業所を設置し札幌行急行バスを
走らせていました。
 当時、夕鉄バスの野幌営業所には夕張で使われた後転属してきたバスが多く
吸収合併された夕張バスの車両も多くありました。
 札幌に行く手段は、国鉄の汽車、国鉄バス、そして夕鉄バスの3通り
ありましたが、私は夕鉄バスが好きでした。赤と白の流線ラインの現在にも
至っている塗り分けのバスも好きでしたが、夕張バスの青系のカラーの
方が好きで、バス停でバスを待っている時に、どちらが来るんだろうかと
ハラハラした思い出があります。
 小学校の社会見学も修学旅行も中学校の時も夕鉄バスでしたが、
学校に6台バスが乗入れ、その中に青いバスがあると、青いバスに
乗れるように祈っていました。

 そのうち、青いバスも見かけなくなり、高校生の時、オートバイで
岩見沢から栗沢に抜ける時、志文の道端に青いバスの廃車体があり、
すぐに写真に収めていればよかったものを、そのうちに、と、思っている間に
なくなってしまいました。廃バスフアンの今となっては後悔の極みです。
 現在、夕鉄バスの江別市内・札幌線は専用塗色になりましたが、夕張線は
赤と白の塗色のまま。
 この赤と白の塗色は時代にも廃れず芸術性のある素晴らしい塗色と心に
言い聞かせ、バス談義になると熱く語ります。しかし、夕張バスを語れれば
と常々思う今日このごろです。

(250)火災報知器・夕張バスのことなど 投稿者:飯田 雅人  投稿日:01月22日(金)23時35分38秒

奥山さん,さすがに読み応えがありました。
このHPの多くは奥山さんのご協力で制作することができました。
心強い方にご登場願えたこと嬉しく思います。
これからもよろしくお願いします。

「火災報知器」ありましたね。思い出しました。赤く塗られていた
丸い窓のついたポールが立っていました。そういえば,大夕張を出
てから見たことはありませんでした。そんなわけで,大夕張でしか
目にしたことがなかったわけですね。

「夕張バス」これもよく覚えています。若菜のターミナルなどで,
赤いおなじみの夕鉄バスのラインと青いバスが混在しているのが,
カラフルで印象的でした。旧夕張バスの色のバスの方が個人的には
好きで,夕張-大夕張線に乗る時など,いつも青いバスがこないか
なと心の中で思っていたものです。

(249)鉄道の思いで 投稿者:奥山 道紀  投稿日:01月22日(金)13時30分29秒

3回連続の投稿です。
仕事中に投稿とは、不真面目かもしれませんが、今日は有給
取得の者が多く事務所も閑散としています。
さて、鉄道の思い出ですが昭和40年前後、よく南大夕張から
当時千歳町の営林署の官舎に住んでいた、従姉妹を訪ね
、両親とともに三菱大夕張鉄道を利用しました。
南大夕張を出て、すぐにトンネルに入ると、景色は一変し
シューパロ湖が広がります。対岸には森林鉄道の「三弦橋」
、ゆっくり進む混合列車の車窓にやがて夕張岳の雄姿が映り
炭住街が広がって来ると「明石町」、高い「旭沢橋梁」を渡ると
間もなく「千年町」です。
山側にあった官舎への道の傍らには「火災報知器」がありました。
(夕張は炭砿住宅への電話線敷設が認められていなく、道内
では一番遅くまで、街頭に火災報知器が設置されていました)
帰りは、時間があると「三菱購買会」で買物をし「大夕張」駅から
乗車しました。

清水沢への混合列車は機関車の次位にメタノールのタンク車、
その次にセキ車が続き客車は最後部に2〜3両連結されてい
ました。
この季節、客車の主役は「だるまストーブ」で、その周辺には
乗客の談笑が広がっていました。
北海道開拓記念館に展示されている「三等車の車内」に使用
されている「だるまストーブ」は、この大夕張鉄道で使用された
ものです。
昭和43〜44年に開館準備に当たっていた元開拓記念館
特別学芸員の野村 崇氏(現開拓の村学芸課長・道新土曜
夕刊に考古学の記事を連載中)が以前、夕張東高校で教師
をしていた関係から鉄道課事務所に申し入れ譲り受けたそう
です。
いま、手許に友人作成の「大夕張駅」の模型があります。
モデルワーゲンの「9200」や「ナハ2」等、大夕張鉄道の車両
も製品化されてます。Nゲージでは夕張鉄道「キハ202」の
他、有井製作所から「9600」が出るようです。
南大夕張の車両の保存も何とかしたいと思いますが、模型で
大夕張駅周辺を再現出来ればと思ってます。
昨今、「廃線跡」がブームですがNHK・BSで97年3月に放送
された、「消えた鉄道を歩く」汽笛の響いた街・夕張がテイチク
からビデオ化されています。昭和37年頃の千年町駅の映像も
含まれています。
さて話題はバスに変わりますが、37年10月道路開通時三菱
バスと共に運行を開始したのは「夕張バス」でした。
翌年には夕張鉄道に吸収されてしまいますが、水色を基調に
クリーム・赤の塗装の車両は40年代後半まで使用されて
いました。では、今日はここら辺で

P.S 大夕張新聞が話題になっていましたが、砿業所の機関紙
でしょうか?その他に読売の販売所で「夕張よみうり」を出して
いた時期があります。その一部は夕張市石炭博物館や夕張
市立図書館で閲覧できます。
2月には夕張市美術館で「夕張を見つめた半世紀」の安藤氏
の写真展が開催されます。

(248)三菱鉄道「山史」について 投稿者:奥山 道紀  投稿日:01月22日(金)10時32分44秒

三菱鉄道OB・今井さんにより「山史」が公開されていますが、
ご苦労様です。
一応の「著作物」であり、その概要を紹介したほうが良いのでは
ないでしょうか?
「山史」は三菱鉱業鰍フ各炭礦・鉱山毎に編纂された各鉱の
沿革史で、大夕張では昭和38年に当時の礦業所長・岩間氏の
命を受け編纂が開始され、「鉄道部門」のみが鉄道課主任・菊池
武人氏(豊平区西岡にご健在です)により取りまとめられました。
炭礦部門は完成に至らなかった様ですが、これらの資料の
集大成が「三菱鉱業社史」になっています。
また、38年以降の分については鉄道課・事務の中田忠夫氏
(故人)によって62年7月の廃止まで年表化されています。
たまに「古書店」の目録をみると「雄別・茂尻山史」(赤平市)など
とあり三菱系の炭礦でも編纂されていたようです。
当然、「美唄」や「芦別」などもあるようですが見てみたい
ものです。
三井系でも、三菱同様各炭礦・鉱山で「沿革史」を編纂している
ようです。
さて、この「山史・鉄道編」ですが鉄道廃止時に「ふるさと夕張会」
なる名前で出版が企画され、予約金を取って、そのままドロン
しています。くれぐれも混同されないようご注意下さい。

(247)三菱バス・鉄道について 投稿者:奥山 道紀  投稿日:01月22日(金)09時31分56秒

三菱バスのコーナー拝見しました。旧塗装は当時の東京都営バスと同じです。
行き先の停留所が入った地図式の乗車券は札幌線だけでなく、
夕張急行線・山内線などと共通だったと思います。廃止時に美鉄
バスに確認しましたが、三菱から東急に経営権が移り、古いものも残っていないようです。
バスのコーナーのような感じで鉄道のコーナーも作成願えればと思います。
後ほど関連資料を送付します。
7月には夕張で「三弦橋」保存のシンポジウムがあると言います。
南大夕張の客車や石炭車も貴重な産業遺産として整備・保存してほしいものです。

(246)山史 (12) 投稿者:今井 一郎  投稿日:01月20日(水)22時22分04秒

山史(12)

三菱鉱業株式会社 大夕張鉄道

自、明治39年〜至、昭和38年  58年史
   (前投稿からの続きです)

 14、 大夕張炭山駅旅客取扱開始

 大夕張炭山駅は開業当初より貨物駅として小口扱及び車扱のみを取扱いたるも、
当所従業員の南大夕張、明石町及び千年町駅からの通勤者乗降のため昭和28年
12月16日駅本屋を現在地に移築し、同月25日より社線内旅客及び荷物の取扱いを
開始せり。

 15、 北菱鹿島炭鉱

 昭和27年、北菱産業株式会社が鹿島炭砿を開坑、7月11日、5粁238米地点に
専用側線及び石炭積込ポケットを設置、翌昭和28年3月より送炭を開始せり。

 16、 客車形式 オハ1、2

 昭和27年2月、国鉄よりオハフ8857の払下を受け、北海陸運工業に於て
車体を新製、オハ1として昭和28年3月入線使用。
 昭和29年2月、国鉄よりホハ2401の払下を受け、オハ1と同様北海陸運工業に
於て車体を新製、オハ2として同年8月入線、使用を開始せり。

 17、 駅売店営業開始

 企業合理化に伴う離職者の就職斡旋を図り駅待合室に売店を設置経営を
させることゝせり。
    大夕張駅売店 昭和29年1月29日
    千年町駅売店 昭和36年6月1日
    遠幌駅売店  昭和38年5月1日
  但し遠幌駅売店は経営不振のため同年9月30日限り営業休止せり。

 18、 竜田沢埋立

 昭和28年8月8日竜田沢橋梁(6号)橋脚に亀裂あるを発見、応急処置を行うも、
たまたま清水沢・大夕張間開発道路工事との関連あり、橋梁を撤去し線路を
山側に20米移設し盛土暗渠とすべく昭和28年12月中島工業に請負わしめ、
翌29年5月着工11月27日埋立完了新線に切換え、更に明石町寄山側岩盤の
切取工事に着手、30年11月5日完了新線に切換え運転を開始せり。


追伸 ペースが遅くなりました。申し訳ありません。

(245)父の事故 投稿者:内川 准一  投稿日:01月20日(水)19時21分36秒

昭和35年の夏のこと、採炭夫の父は2度目の事故にあった。
大夕張の夏祭りの夜のことだった。
代々木町のアパートの間に架けられた巨大スクリーンで屋外
映画を見ていた私と妹は、会場内放送で呼び出された。
何故呼ばれたのかは、炭鉱の子供にはわかる。
詰所の人は、「お父さんが(発破)事故に遭ったから、直ぐ家に
帰りなさい。」と言った。
家に戻ると母が和服に着替え中だった。今度こそ駄目かもしれ
ない、と3人で泣きながら夜道を病院に急いだ。
病室の父は、目以外はぐるぐる巻きにされてうなっていたが、
意識があった。先に駆けつけていた同僚たちは、「良かったな、
お父さんは大丈夫だ。死んだりしないから安心しろ。」と言った。

この事故以来、夫婦喧嘩がピタリと止んだ。母の口癖は「2度あ
ることは3度ある。」になった。「3度目の正直が来る前に炭鉱を
出なくてはならない。」と母は考えた。炭鉱の将来に少しづつ影
がさしはじめた頃だった。そして1年と少し後に炭鉱を離れるこ
とになった。

今でもありありと思い出せる。父の最初の事故はガス爆発(粉
塵爆発?)だった。そのときも夜中で、眠っていた3人は、玄関
の戸を叩く炭鉱服姿の2人にたたき起こされた。着替えをし、お
しっこを済ませ、母に引きずられるようにして病院に走った。
カーテンの向こうにヘッドランプが光っていて怖かったこと、人
気の無い道路に街灯が滲んで見えたことは、今だに鮮明な記
憶になっている!

2度目の入院のときは回復も順調で、毎日病院に遊びに行った。
私にも病院内の探検が面白かった。病院の裏手には隔離病棟
があった。病室内には「戦争雑誌」がたくさんあって、軍艦の名
を覚えたのも病院でだった。ベッドの親父や見舞いに来ていた
父の同僚に教えてもらったり、遊んでもらったりした。

しかし、この病院につらい思い出を残した人は少くないと思う。
同級生にも、当時既に片親だった友達がいた。そして、その後
に起きた大きな事故のことを思うと、私と私の家族の幸福を思
わざるを得ない。

(244)三菱バスのページ 投稿者:飯田 雅人  投稿日:01月17日(日)21時08分54秒

三菱バスのことが話題になっていましたが,菅井さんのおっしゃるような気持ち
が私にもありました。地元のバスに対する親近感と言うのか,誇りというのか・・。
私もバスなら三菱バスに乗りたいクチでした。それも札幌にしろ,大夕張にしろ車庫から絶
対乗りたかった。四角くて端に停留所名と金額が記入されてそれに穴を開ける
大夕張-札幌線の乗車券が懐かしい・・・。

三菱バスと商店街についてのページをつくりました。半分お遊びです。

(243)斉藤先生のこと 投稿者:飯田 雅人  投稿日:01月17日(日)15時15分10秒

昨日,鹿島中の卒業時の担任であった斉藤宏先生を訪ねて行ってきました。
15の春以来,28年ぶりということになります。
中学の頃,『自分の頭で考え,行動するんだ』ということを熱く私達に訴え
私達の気持ちを理解しようとつとめ,行動する教師でした。
授業中はもちらん,度々訪れた先生の岳楓寮の部屋,みんなで休みの日に出か
けた夕張岳登山,家に何度も足を運んでくださったこと・・・,
むしろ学校外の時間や場所で,多くかかわり指導してくださいました。
50歳を超えられたということですが,新卒だった当時とお変わりなく,若々しい
お話しぶりに,当時の思い出もたくさんよみがえってきました。
鹿島中26期の方が先生の2回目の卒業生だと聞き,次男さんや長谷川さん,成松
さんらのお話でも話が弾みました。
卒業以来20数年の時を経て,斉藤先生,奥様と私が26期の方々の話題で,楽しく
懐かしい話をすることができるなんて思いませんでした。
新しい出会いと,懐かしい出会いに感謝です!

(242)山史 (11) 投稿者:今井 一郎  投稿日:01月12日(火)06時59分03秒

山史(11)

三菱鉱業株式会社 大夕張鉄道

自、明治39年〜至、昭和38年  58年史
   (前投稿からの続きです)


11、 明石町及び千年町駅開業と大夕張駅改築

昭和25年11月1日、第1農場前臨時乗降場を駅に昇格、明石町駅と改称、
同日更に14粁750米に千年町停留場を新設営業を開始、同年12月改築中の
大夕張駅新駅舎落成せり。

   明石町駅
      旅客、荷物及び貨物の社線内取扱を開始せるも、後昭和28年5月11日
     連絡運輸取扱い。昭和37年12月2日経営の合理化をはかり小口貨物の
     取扱い並びに手小荷物の配達業務を廃止し現在に至る。

   千年町駅停留場
      旅客駅とし、社線内のみ取扱う。
      開業当初、停留場を臨時乗降と混同誤解
      ((丸の中に千の字)表示できない)大夕張の駅名をもって
     乗車券を発売。外方の駅までの乗車券を有効として取扱い、
     後昭和27年3月15日より連絡乗車券を発売(6着駅のみの常備片道券)
     せしが、昭和34年12月1日札幌陸運局より誤扱である旨示唆あり、
     昭和35年3月21日より千年町駅として正式取扱いをせり。
      昭和38年11月11日、合理化を図り千年町駅を委託駅とし、
     業務一切を請負とせり。

     千年町駅業務委託料

      1、基本料金
      2、旅客取扱料
        イ、普通乗車券 運賃の100分の5
        ロ、定期乗車券  〃 100分の4
        ハ、団体乗車券  〃 100分の1.8
        ニ、着札取扱料 1枚に付  2円
        ホ、払戻手数料 1件に付 10円
      3、荷物取扱料
        イ、有料手回品 1ヶに付 10円
        ロ、一時預   全額
      4、有料広告
        イ、ポスター  1件に付 10円
        ロ、額面    1件に付 30円

   大夕張駅
     昭和24年12月改築着手、昭和25年12月落成。

 12、 客車形式ホハ1、2

 昭和25年5月、国鉄よりホハユニ2両の払下を受け、旭川同志社にて改造、
ホハ1、ホハ2とし、昭和26年6月入線使用を開始せり。
 昭和33年10月、ホハ2のみ三菱芦別専用鉄道に炭砿要員輸送のため譲渡せり。

 13、 小口扱貨物一元請負

 昭和27年4月1日、経営の合理化を図り小口貨物の受託作業及び積卸作業を
日本通運をして一元請負に付せり。
 請負料金は全額通運業者の収入とするも、貨車使用料金として1ヶ月に付
10万円を当鉄道に支払う外、清水沢駅に於ける中継作業料金を負担する
ことゝせり。
 同年11月1日から上記を改定、、小口貨物社収運賃の38%を貨物使用料金とし、
残額62%を請負料金とせり。
 翌昭和28年4月1日より貨物使用料金を37パーセントに改定し昭和29年3月31日
まで実施せしが、昭和28年11月1日、鹿島通運株式会社が通運事業を開始せるため
両者をして入札の結果日本通運はこれを辞退し、鹿島通運が貨車使用料を
55%とし昭和29年4月1日より実施せり。
 昭和31年4月1日上記料金を屯建に改定、取扱数料1屯に付き322円を鹿島通運の
請負料金とせり。

 追伸

 奥山様、先日南部の幌南住宅のS氏と会ってきました。
 S氏は「奥山さんの年賀状に今井君のことが書いてあったけど
なんでだ」と話していました。「インター・ネットで知り合った」
と説明してもコンピューターとは無縁の方ゆえ手間取りました(笑)。
 今年もよろしくお願いいたします。

(241)皆様ありがとうございます。 投稿者:蛯子 隆一  投稿日:01月08日(金)17時07分52秒

飯田さん、菅井さん、今井さん、早速のレスありがとうございます。

飯田さん>
 改行がうまくゆかずお手数かけました。プラウザの関係だと思い
ますので以後注意して書き込みます(^^;(失敗です・・・)

菅井さん>
 良い思い出ですね。保存車も室内は補助席付き&エアサス装備
の路線兼用貸切タイプで、乗車されているはずですよ?この車が
製造された昭和42年当時はエアサス車が出始めの頃で相当珍し
いかったに違いありません。なお、書き込まれた三菱バス(山内バ
ス)のくすんだ旧塗装は、ぽると出版発行「年鑑バスラマ98→99」
にカラーで掲載されておりますので必見です。また美鉄の白地にエ
ンジ・空色の旧塗装は広島の井笠鉄道が似ていました。

今井さん>
 メールありがとうございます。あの車の概略をお伝えしましょう。車
名は三菱ふそうMAR470と云い、昭和42年4月製造で現役当時
「札2う1659」(bT9号車)の登録で、札幌−大夕張の路線をメイ
ンに用いられていたのではと思慮されます。廃車直前は美唄本社
へ移り、昭和60年頃、鹿島のイサオ製作所夕張工場に購入され平
成元年7月18日の抹消以来、大夕張の地で永らく眠ってきました。

#なお、美鉄バス大夕張(営)廃止直前まで使用されていた三菱ふ
#そうの3台(1993〜95)と日野の1台は、現在、物置として美唄
#市内や中には網走にまで引き取られて行った車もあるそうです。

バスの事ばかりですみませんが、どうぞ宜しくお付き合い下さいませ。

(240)蛯子さんに期待を込めて・・・ 投稿者:今井 一郎  投稿日:01月07日(木)23時17分59秒
 蛯子さん、はじめまして。
 イサオ製作所の元三菱バスのお話の中で、坂井さんとのメールのやり取りで
「三菱バス保存会」の存在について教えて頂き、仮ナンバーも取れない状況
であることは教えて頂きました。
 車両に関してはエンジンがかかるとの事で、函館までの回送の運転をかって
でました今井でございます。
 きっと、春になれば解決できると私は信じております。
 私は、元三菱石炭鉱業鉄道の駅員でしたが、この正月に鉄道廃止当時の従業員
の数人とコンタクトをとりましたが、その中、今秋に、大夕張時代の従業員を
含めて連絡の取れる方すべてを対象とした「三菱鉄道OB会」の開催を企画
している先輩と話ができました。
 鉄道廃止から12年。三菱によって作られた街を未だに愛し続ける方々が
この飯田さんのHPに参加している人以外にもたくさんいます。
 無責任な言い方をすれば、思いを募らせれば意外に簡単に事は進むと思うの
です。
 蛯子さん、お金のかからない、最善の方法をお互い考えましょう。
 今年は多雪ですが、春になって雪が解ければ見つかると思います。
 大夕張を愛する人々の熱意が諸難を解決できると私は信じます。

追伸
 
 本日は今週は、「山史」はお休みです。

(239)思いでの三菱バス 投稿者:菅井宏史  投稿日:01月07日(木)07時41分38秒
三菱バスが保存されるというすばらしいニュース(えびこ様本当にありが
とうございます。そしてご苦労様です)を受けて、早速私のその記憶
の断片を披露させていただきます。
・・といってもあまり確かなものではないので、記憶違いの場合はその旨
ご指摘下さい。

まず、大夕張の中を走っていたバス(山内バスと言うそうですね。そういえ
ばそんな言い方をしていたかな、という程度の私の記憶です)は私のいた頃
はまだいわゆるボンネットバスだったような気がします。色も灰色系のくす
んだ色だったと思います。実はこのバスにはあまり乗ったという記憶はあり
ません(何度かは乗っているはずですが・・)。

むしろ私にとっての三菱バスの思い出は、夕張、札幌行きに使用されていた
最新鋭(?)のバスのことです。
山内バスのようなくすんだ色ではなく、青と白を基調に赤も使われ(と記憶
していますが、違っていたらすいません)、その当時としては他にあまり見
かけないカラフルな色合いのこのバスを、大夕張の人間(子供)として、赤白
のどこにでもあるような色の夕鉄バスあたりと比べて、その色のセンスの良さ
をどれほど誇らしく思っていたことでしょう。同じ赤白でも中央バスには都会
的雰囲気が感じられたのは、私が単なる田舎者で、札幌という都会に憧れて
いたせいでしょうね。夕張に親戚があった関係で、よくバスで夕張まで両親ら
と出向きましたが、夕鉄バスよりも三菱バスに乗る方がどれほど嬉しかった
ことか。

その大好きな三菱バスが、鹿島小学校の見学旅行(六年生は一泊二日の修学
旅行で、5年生以下が日帰りの見学旅行でしたよね)のある朝に、グランド
に何台も連なって止まっている光景は私の目に何と眩しく映ったことか。
そのカッコイイバスに乗って、しかもそれが六台も連なって目的地に向かって
いるということが、見学旅行という本来の目的にも増してに嬉しかったような
気がします。

ずっと後の事。
学生時代を関西で過ごし、そのまま関西人になってしまって私ですが、ある日、
たまたま近江鉄道バスという滋賀県にある私鉄の観光バス(西武の系列会社
という関係で、西武バス同様に西武ライオンズのユニホームの色がバスの色
になっています)を初めて見たときに、その綺麗なカラーリングを見て、三菱
バスのことを思わず思い出してしまったことを良く覚えています。実際には、
単に両者は基本色が似ているという程度の共通点なのでしょうが・・・。

遅ればせながら、皆様、あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

(238)三菱バス保存!うれしいニュースです。 投稿者:飯田 雅人  投稿日:01月06日(水)14時59分08秒
蛯子さん,初めまして。
『三菱(砿)バス』の保存,どんな形であれ,残っていくことはとても嬉しい
気持ちでいっぱいです。蛯子さんや坂井さんのような方々,あるいは,その他
多くの方々の努力と協力で,保存ということになるのですね。これまで,幾多
のご苦労があり,またこれからもあると思いますが,ぜひ,がんばってください。
私達のような大夕張をふるさとにもつものにとってうれしいニュースです。
ありがとうございます。
三菱バスのこと,今後,話題にしていきたいですね。どうぞよろしくお願いします。

ps 投稿の方改行入れておきました。ご了承ください。それから大雪の中での除雪
大変なことだと思います。あらためてご苦労様です。風邪などひかれぬようお気を
つけ下さい。

(237)イサオ製作所の元美鉄バス 投稿者:蛯子 隆一  投稿日:01月06日(水)14時54分13秒
皆様はじめまして、大夕張ファン&バスファンの蛯子(えびこ)と申します。
 私は以前ここに書き込まれた坂井氏他数名と共に「三菱バス保存会」を組織し
表題のバスを永久的に保存する活動を行っております。
 バスと云うのは人々の生活の一部であり、街の顔の一部でもあります。大夕張
で生活を営まれていた方、或いは思い入れのある方にとって、少しでも思い出が
蘇るようにと、たまたまイサオ製作所様に保管されており、そのままですと解体
の憂き目にあった古バスを「形に残るモノ」として譲り受けることに致しました。

 幸いにもイサオ様やその前の所有者である美鉄バス(株)様のご好意により、
雪解けまでの保管場所(製作所前)の確保、並びに塗装・社名文字・社紋すべて
において使用の承諾を得ることが出来ました。つまり「美鉄バス」或いは
「三菱(鉱)バス」の文字のまま保存と云う素晴らしい内容です。現時点では
抹消登録証明書が紛失されており、仮ナンバーも発行不可の状況でして、その
復活にむけて陸事と交渉しております。また一番の悩みは大夕張の並外れた大雪
ぶりに除雪がままならないことです。仲間数名と2週に一度の割合で除雪してお
りますが札幌在住の身には堪えるものがあり、苦労しております。積雪情報がわ
かると有難いのですが・・・

#生活館・消防署・イサオ製作所の建物が解体済・・・寂しくなりました。奥の
メタノール工場はまだ稼動するそうです。

#イサオ製作所のバス(札22さ1482)や美鉄バスについてご存知の事があ
れば些細な事でも構いませんのでご教示下さいませ。
#今井様へ:「山史」毎度興味深く拝見させてもらっています。頑張って下さいね

               ・・・・以上、長々と書いて申し訳ありません。

(236)山史 (10) 投稿者:今井 一郎  投稿日:01月03日(日)08時14分18秒
山史(10)

三菱鉱業株式会社 大夕張鉄道

自、明治39年〜至、昭和38年  58年史
   (前投稿からの続きです)

第6章 清水沢駅乗入

1、 清水沢駅乗入

当鉄道に於ける国鉄との連絡運輸については、従来より新清水沢駅を有し、
旅客は約350米の徒歩連絡、更に荷物及び郵便物は荷車をもって運搬中継
せしため列車の遅延を来す等不便を免れず。これが緩和のため省線清水沢に
列車を乗入のことゝし、昭和19年8月25日付をもって清水沢駅構内連絡設備変更に
関し協定、後本工事を進め終戦により一時中断せしも昭和22年1月、これを完成。
同月16日清水沢駅に乗入を開始せり。
同日新清水沢駅を廃止。これに伴い昭和22年3月1日より旅客及び荷物の
営業粁程並びに旅客運賃を改め、省線との連絡運輸は運輸省広報掲載のため
若干遅れ4月21日より実施せり。
  
(1)営業粁程
               粁     粁     粁     粁
        清水沢  4.1    7.6   15.8   17.2
             遠  幌   3.5   11.7   13.1
                   南大夕張   8.2   9.6
                          大夕張   1.4
                                大夕張炭山

(2)旅客運賃

                 銭    銭    円.銭     
         清水沢   50    80   1.50
               遠 幌    40   1.10
                    南大夕張   90
                           大夕張


2、 列車顛覆事故

 昭和22年9月16日、前夜来の豪雨も止みしが、10粁850米暗梁閉塞のため
盛土決壊路線支障しあるを、第2列車(初列車)乗務員が発見急停止するも
及ばず、9217号蒸気機関車約10米下の渓沢に落下顛覆大破せるも、
機関士及び軌間助手共幸に泥流より脱出事なきを得た。
 間もなく機付緩急車も渓流に落下、更に客車も徐々に転倒せしも一般乗客に
死傷者なし。
 蒸気機関車の引上げ、暗梁盛土工事等昼夜兼行の復旧作業の結果
18日深夜に至り工事完了列車を通過せしが、9217号機関車は
修理不能のまゝ美鉄に返却後廃車とせり。

3、 鉄道課事務所と大夕張炭山駅新築

 予ねて資材課倉庫の一隅に仮居せるも、昭和22年12月15日
大夕張炭山駅構内東側(現炭務事務所南方)に鉄道課事務所及び
大夕張炭山駅本屋を併置落成転居。昭和28年12月15日大夕張炭山駅に於て
社線内旅客及び荷物取扱開始のため現在地に移築せり。

4、 従業員待遇乗車券制度

 戦後労組より申出あった従業員並びに家族に対する当鉄道乗車に関し、
昭和23年4月1日より従業員待遇乗車券制度を制定せり。
 交付基準
  有効期間は6ヶ月間(各期毎)とし、
  前6ヶ月間の稼動日数、坑内110方、抗外140方以上の従業員及び
家族に対し、年功1年以上3年未満の者は4片、3年以上5年未満の者は
6片、5年以上の者に対しては12片を交付する。
 運賃は山許原価で負担鉄道勘定に振替収入することゝし、
1券片に40円とせしも、後20円より10円に減額のため、旅客1人当り運賃
及び客車乗車効率低下のため、対陸運局関係に支障を及ぼし本制度廃止
すべく努力中なるも対労関係あり未だ廃止に至らず。

5、 遠幌駅一般連絡運輸開始

 遠幌駅は従来、旅客及び荷物は社線内扱い、車扱貨物のみ連絡運輸の
取扱をせしが、北炭遠幌砿の発展と共に駅周辺に住宅新築、人口も大幅に増加、
地区住民より要望もあり昭和23年6月26日省線との一般連絡運輸を申請、
認可を得て昭和24年1月11日より実施せり。

6、 南部開発

 国策としての石炭増産に副うべく、当所に於ても南部開発を計画、
昭和22年8月より踏査開始、12月に至り開坑着手、昭和23年12月送炭開始、
昭和27年7月29日には容量120屯の石炭積込ポケットを設置、昭和30年4月
送炭を終了する迄の6ヶ年に亘り68,000屯を輸送せり。

7、 客車 形式ナハ2

 昭和23年7月、戦後増備客車の第2陣として国鉄から鉄道車両会社を通じ
改造車を購入、9月入線使用を開始せり。

8、 北夕開坑

 札幌鉱山株式会社が北夕鉱業所を開坑、昭和24年9月16日より
5粁388米地点に専用岐線と積込ポケットを新設、石炭の積出を開始。
昭和27年3月18日夕張炭砿株式会社北夕鉱業所と社名変更。
後昭和33年5月頃炭況悪化のため一時閉山問題も起りしが、よくこれを再建、
年産6万屯を輸送せり。
 開坑当初より運賃支払方法に関し後払契約を締結しおりたるが、
昭和33年10月1日これを解除、現払又は拓銀小切手をもって取扱いたるところ、
出炭好調で経営安定のっ兆あり、更に当社買付炭の関連もあり昭和38年9月1日より
再度後払の契約を締結せり。

 9、大夕張炭山駅構内流雪溝

 冬季降雪期における甚大な除雪費節減の目的をもって、昭和24年10月
大夕張炭山駅構内に、新斜坑の湧水を利用して巾50糎深さ60糎、
延長675米に及ぶ流雪溝を設置。水力による構内の雪捨てを行い
多大の効果を敗めり。

  (延年間除雪人夫 5,700人/2)×@210=598,500円≠60万円

10、 9605号蒸気機関車

 昭和25年6月、輸送力増強のため国鉄より9605号蒸気機関車を払下げ入線、
9603及び9604号と共に当線の主力として活躍せり。

                          続きます。

 追伸

 あけましておめでとうございます。
 年越しは妻の実家(豊平区福住)で過ごし、
雪もなく、穏やかな正月だなあ、と、思いつつ
自宅の大麻に戻ってびっくり。江別は大雪でした。
 10数Kmしか離れていないのに・・・・・
 団地の除雪当番の札も回ってきており、含めて
野幌の事務所の前の除雪で、とんでもない
元旦の夜でした。

(235)除夜の鐘の思いで 投稿者:成松 泰彦  投稿日:01月02日(土)22時20分30秒
飯田さんそして皆様、今年もよろしくお願いいたします。
おいしい酒を飲みながら、ゆ〜っくり紅白歌合戦を応援させてもらいました。
で、思い出したんですよ・・・・・。
小さい頃、紅白を見たっけかなぁって。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・見なかったんですよね。
えっ!! テレビがなかったんでしょうって。
そんなに年寄りじゃありませんよ・・・・。(>_<)

大夕張の大晦日って言えばあの寒空の下、裸の若衆が褌一枚で若水を頭から
かぶり気合を入れて神社に参拝し大賑わいしていたのを覚えていませんか?
私は、当時ボーイスカウトの一員でして、大人に混じって制服を着てその交
通整理にあたっていました。
そのために夕方から仮眠し、夜遅く出かけていった記憶があります。
ですから紅白歌合戦もレコード大賞も見れなかったわけです。
子供ながらに、「3番方に出掛けてくるよ」って言って出掛けたもんです。
凍えるような寒さの中、眠い目をこすりながら頑張ったんですよ。

暖かい部屋で、おいしい酒を飲みながら大夕張のそんな事を思い出した大晦日、
そして新年でありました。今年もきっと楽しい思い出を語り合うんだろうなっ!

初夢をひとつ・・・
内川さんのように大夕張のスキー場で初すべりをしたいと思います。

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