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2005年(平成17年)
大夕張掲示板Index題名一覧へ/ 11月 12月

平成17年 12月 先頭にもどる


(3337) 返信 投稿者:泊川俊徳  投稿日:12月31日(土)15時49分27秒

秋田県の佐々木真由美様
先日 恒例の思い出ノートを送りましたが
住所変更されたのか 今日 宛先不明で戻って来ました 残念

良い 正月を迎えてくださいね

(3336) 1年間、本当に有難う御座いました 投稿者:ヒロ みうら  投稿日:12月31日(土)12時48分59秒

残り数時間で、2005年が終わろうとしています
大きな、災難が数多くあり、普通に生きている実感を
しみじみと感じる、1年でした。
2006年、ふるさ大夕張と大夕張人の絆を更に大切にして
生きて行こうと、改めて思う次第です。
飯田さん、ふるさ大夕張の皆さん、良い年の瀬をお過ごし下さい
来年の春、雪が解け、イタヤ楓に緑が戻る頃
あのグランドで再会しましょう!

(3335) 2005年 大晦日 投稿者:泊川俊徳  投稿日:12月31日(土)09時50分43秒

2005年も終りですね
全国に散った 大夕張出身の方々 どう お過ごしでしょうか
まだ 大夕張が有ったなら 正月は大夕張でと言う人も多かったと思いますが
今は それぞれの街での正月にも成れて来ていると思います
年配の方は やはり思い出すと思います
札幌近郊に住む方は 正月休みにスキーに行く序でに大夕張に立ち寄る方も
居るのではと思います 今は住む人も無いので 白一色の世界では

五郎さん 桂さん
正月は 何処に行ってますか 九州の親戚にて美少年を飲み ほろ酔い加減
かも知れませんね
改めて 年賀状は出しませんでしたので 失礼しました
気が向いたら 春 桜と梅の花が同時に咲く時期 北海道に遊びに来ると
良いと思いますよ 冬の北海道は シバレルから ベンチで座り ゆっくり
景色を楽しむ事も 中々 出来ないしね

(3334) 餅つき 投稿者:泊川俊徳  投稿日:12月28日(水)11時02分38秒

札幌に来てからは 餅つきもする事も無く成りましたが
大夕張に住んで居た頃は 28日までに行う事が多かったようでした 29日は
縁起が悪いと言う事でしょう この時期に成ると 朝早くから 隣近所から
餅つきの賑やかな声が聞こえていました 今と成っては懐かしいですね
今 南区の家に住んでいますが 向いの家で 毎年餅つきをしています
今年は 昨日27日に行ってました

代々木町のジャンプ台
佐々木さんの記憶の通り 丁度 佐々木さんの長屋の 石炭のアク捨て場
春日町側の坂附近で 毎年 冬 ジャンプ場に成ってましたね

年賀状
今年は まだ年賀状は出してません
ただ 先月から 思い出ノートのコピーを送り 届いた方々 年賀状の代わり
にしたいと思いますので 宜しく お願いします

(3333) 直心の坂 投稿者:ziny  投稿日:12月26日(月)22時55分24秒

りきしんの坂?、私もはっきりしませんでしたが、確か、じきしん(直心)の坂
というのだと思います。坂の下の川沿いに独身寮がありました。その名称が
直心寮(じきしんりょう)というのだと聞きました。
我が家はちょうど坂の上の代々木町2丁目の6番地の5舎でした。
雪の深いときは端っこの便所の屋根を上坂にしてジャンプ台を作った時も
ありましたね。今年みたいな豪雪の時?、いやぁー、30年代中ごろは毎年
豪雪でしたね。崖のジャンプ台はちょっと位置関係がはっきりしませんが、
春日町の地図に今さんが2軒ありますね。近いほうの軒下から撮ったので
しょうか?ここがそうでしたら、小林さんのいうよりもちよっと上の方だと
思います。ちょうど坂の真ん中より上くらいでしょうか。
チョイ上には畑と電柱があって邪魔でしたから。(我が家のジャガイモ畑で
した)左上に行くと坂の上ですね。そこには春日町への急な近道もありました。
泊川さんのいうように坂を馬そりや車が通ったら中断でした。
ジャンプ台は直心の坂を横切って作っていたので潰されてしまい、そのたびに
補修をするのです。写真の一番上が道を横切ってるジャンプ台でしょうか、
その上に代々木町8番地くらいに続く上坂(アプローチ)が作ってあったと思い
ます。ちょうど直心の坂の道のへりを馬の背にしていたんですね。
確かに崖下まで20mくらいのランデングバーンはあったでしょう。
そして、何人かは怪我をし、足を骨折した子もいました。
私も少しは飛びました。が、ほんとうに崖下に落ちる感じでした。
当時のジャンプスタイルは手を伸ばしてましたね。
この直心の坂をそりでも遊びました。引き戸のレールを引いた一人用の手づくり
の小さなそり、5cm幅くらいのステンレスのレールをつけた5~6人くらい
乗れる大型のそり・・・いやぁー、すごいスピードで粉雪の上、がりがりの
凍った雪の上をビユン、ビュン滑り降りました。
もー、目から涙がでてましたね。子供心に怖いときもあったのを思い出します。
近所のガキ大将たちが小さい子も乗せてすべるんですね。でも、楽しかった
思い出です。
そして、とうきびの種、我が家も玄関につるしてありました。
ほんとうに懐かしい写真です。
ふるさと大夕張のhpは今年も懐かしく、楽しく拝見し、参加させていただき
ました。
本年もあと少しで暮れます。来年も皆さん、お元気でお会いしましょう。
飯田さんほんとうにご苦労さまです、そしてありがとうございます。
来年もよろしくお願いします。
では、良いお年を!・・・あさっては28日、昔の我が家の餅つきの日でした。

(3332) 特設ジャンプ台 投稿者:泊川俊徳  投稿日:12月26日(月)11時27分21秒

代々木町に住んで居た時代 春日町に向け ジャンプ台を作り飛んで
遊んでいました 自分は苦手で飛びませんでしたが 足の骨 鎖骨を折る子供も
居ました リキシンの坂を馬橇が横切る為 ジャンプが中断され
力の有る馬も 重いソリを引くにも中々 坂道も上がり切れませんでした
バクロの おじさん 中々力の出せ無い馬の尻に ツルハシを刺したと言う
事も有ったとか

富士見町のスキー場のジャンプ台 神社境内からスロープが有り 四角い石で
積み重ねた物で 今は笹と雑草で 何処がジャンプ台か見分けは付きませんね

(3331) 崖のジャンプ台 投稿者:飯田雅人  投稿日:12月25日(日)22時29分52秒

そういえば、代々木町方面に上がる坂のようです。
「リキシンの坂」というのですね。
あの崖に二つもジャンプ台ができていたんですね。
日曜日や休み中などきっとにぎやかな様子だった
ことと思います。
リフトも何もなく、家の裏の坂でのジャンプ台・・
子供たちは足腰を鍛えられただろうなあ。

(3330) RE崖のジャンプ台 投稿者:小林光志  投稿日:12月25日(日)16時03分24秒

飯田さん、このジャンプ台は、詰め所裏のとは違いますね。
詰め所裏のにわかジャンプ台の下は、大きな広場がありました。
春日町には、昭和36年くらいまで二つのにわかジャンプ台がありました。
春日町の地図を見て思い出していますが、
子写真は、代々木町へ上る「リキシンの坂」と言うのがありましたが、
上りきったあたりの下あたりではないかと。
地図に有る"佐々木””大友”さんのところの崖では。
このあたりにも冬になるとジャンプ台を作って皆で遊んでましたよ。
どれもスコップの手作りで15m~20mくらいは飛べたかな?

それにしてもこの写真懐かしいですね。
右の家の軒下にとうきびが乾してありますよ。
積雪も今とは違うのでは?

(3329) 崖のジャンプ台 投稿者:飯田雅人  投稿日:12月25日(日)11時08分25秒

今さんのアルバムから掲載させていただいている写真の中の一枚
『崖のジャンプ台』は、小林さんの思い出にある春日町の詰所裏
のジャンプ台の写真ではないでしょうか。
これまで話に聞いていたジャンプ台が写った写真と思われます。
昭和30年代ここで飛んだ豆ジャンパーも多かったんでしょうね。

(3328) 30年前のクリスマス・イブの夜・貨物6788列車 投稿者:奥山道紀  投稿日:12月24日(土)18時17分34秒

今から30年前の今日。昭和50年12月24日19時10分、夕張の谷間に汽笛が
響きわが国最後の蒸気機関車による営業用列車が帰らざる旅路についた。
貨物6788列車、33両の貨車を従えた石炭列車であった。

セレモニーは一切無く、それでも沿線に駆けつけたファンは600人程にの
ぼり、それぞれが走り去る列車に「ご苦労様」「さようなら」などと声を
かけた。

それから30年、炭鉱も消え石炭列車も無くなった。
歴史村やスキー場が整備される一方、従来からの炭鉱住宅は消え、街の様
相も一変した。夕張の街も、炭鉱町から観光都市に大きく変わったが街の
衰退は疑いようが無い。

最後のSL列車を送りだした、夕張駅舎は現在も石炭の歴史村の事務所と
して使用されている。大正12年12月25日の使用開始以来、夕張の街の変遷
を見つめた旧夕張駅舎だが、この建物も道路の改良工事により取壊しにな
るという。

変わるものと、変わらぬもの。消えるものと、残るもの。

公園化計画の進展により、保存会の活動も転換期を迎えるでしょう。
今年のご協力・ご声援に感謝しつつ、来年も皆さんの更なるご協力をお願
いします。 

http://www.geocities.jp/ooyubari_rps/index.html


(3327) ご無沙汰ゴメン 投稿者:内川准一  投稿日:12月24日(土)02時11分06秒

今年も残すところわずかに7日間。大夕張様。ごめんなさい。
今年、平成17年はついに一度もを訪れないで終わってしまいそうです。
あなたのことは、いつも思っています。 けど・・
あなたに会いに行くことは、私にとってはいつも!特別なことだったの
です。こだわりすぎかもね!
思いが募って、吐き出したくなったとき、そのときだけ私はあなたを訪れ
ました。
しかし今年は少しだけ違いました。思いは一杯あったのです。
今年は、屯田兵で渡ってきた祖先に思いをはせた一年でした。
1月に見た、大夕張ロケの「北の零年」の映画がきっかけになって初めて九
州を訪れました。
先祖の出身地、佐賀で菩提寺を発見したのが11月末。
屯田兵だった先祖の苦難の歴史を知り、父が大夕張に渡ってきた歴史に運
命を感じたのは年末。最近のことでした。
来年中には家の歴史の整理もつくことでしょう。
大夕張様、そのときは報告に行きます。ご無沙汰ご勘弁。

(3326) 列島雪景色 投稿者:泊川俊徳  投稿日:12月23日(金)15時21分59秒

日本全国で雪が降りましたね 40数年振りに雪が降った所も有るようですね
長崎市や屋久島にも雪が降ったようです
雪が降って喜ぶのは 子供と犬 そしてスキー場でしょうかね
クリスマスの雰囲気には持って来いかも知れませんね

連休 クリスマス 正月 お金が幾ら 有っても足りませんね
初めから お金の無い自分は 使いようが無いので ため息しか出ませんが

年賀状は書きましたでしょうか 普段 余り付き合いの少ないので 数枚書く
程度ですので まだ書いてません
年賀状の代わりと言っても 失礼ですが 極一部の方に 思い出ノートの
コピー届いた方 年賀状の積もりたど思ってくらさると有り難いです
改めて 年賀状は書きませんので 失礼だとは思いますが 宜しく お願い
いたします

(3325) メリークリスマス、ふるさと大夕張 投稿者:ヒロ みうら  投稿日:12月23日(金)13時12分58秒

何時になく冷え込みの強い冬を迎えていますが
風邪等に注意しましょうーね
オカリナも冬の冷え込んだ空気のお陰で
凛とした響きで人々の胸に届いた事でしょうね
いよいよ、クリスマスです。
年毎に変わり行く、ふるさと大夕張を胸中に描いて
クリスマスと年の瀬を過ごす事にするか・・・
皆さん、今年も有難う御座いました
2006年の素敵な出会いを願って、メリークリスマス!!

(3324) オカリナ演奏会 投稿者:山本 斉  投稿日:12月22日(木)21時08分52秒

今日は私が勤務している国立札幌南病院のクリスマス会でしたが、
我が「ふるさと鹿島25年会山岳部」の「千古のみどりさん」と
「カラオケお姉さん?」、そして同じオカリナサークルのTYさん
の3人でオカリナ演奏会をしてくださいました。
患者さんは皆さん、オカリナに合わせて童謡を歌ったり、
最後にはCDによる豪華オーケストラの伴奏で
「エデンの東」の美しい音色に聞き入っていました。
「千古のみどりさん」は、かつては山岳部の主力だったのですが、
今は慰問団の団長として活躍しているようです。
大夕張の仲間はこんなこともしているのです。
ふるさと大夕張の仲間は本当にいいですね。
ありがとう。

(3323) 雪かき ご苦労さん 投稿者:泊川俊徳  投稿日:12月21日(水)11時19分57秒

桂さん
雪かき ご苦労さんでしたね
愛知県の平地では めったに雪も降る事は無いですが
京都 岐阜方面は結構雪は降りますから 愛知県でも雪が降っても
不思議では無い感じもするのですがね
東北 北海道だけ雪が降るのは 不公平 日本全国 雪の苦労を楽しんで
ください  子供達に取ってはクリスマス気分先取りだつたと思います
大人に成ると やっぱり 冬は雪が無いのが良いですね 雪は スキー場だけに
降れば良いと思いますね
浜名湖 弁天に知り合いが商売してますが 雪で苦労したと思います

(3322) 拝啓 泊川様 投稿者:  投稿日:12月19日(月)21時04分38秒

雪、積もりましたよ~。
で、私はどうなったかというと
職場の大きな駐車場の雪かきをする羽目にw(゚o゚)w

雪に埋もれる間もなく雪をどかし
大夕張を思い出すほどの余裕もなく汗を流しw


私は雪国の人ではありませんが
しょっちゅうスキーに行ったり
冬の大夕張にも行くし

58年ぶりとはニュースで騒いでいましたが
そんなに大雪かなぁ??と
…感覚がズレていますw

(3321) ???雪?? 投稿者:泊川俊徳  投稿日:12月19日(月)11時39分29秒

今年は 本州にも大雪が攻めてますね
愛知県の 桂さん 雪に埋もれているのでは
それとも 大夕張を思い出して居るかも???

田鎖さん
今年は 除雪で身体を鍛えますか 一冬で筋肉ムキムキに成るのでは
正直 自分は すっかり冬は嫌いに成りました 出切れば 冬沖縄 夏北海道
ジャンボ宝くじでも当たれば そうしたい気分です
愛知県にも雪が降り 尾張一ノ宮の お母さんも まさかの雪に うんざり
しているのでは
冬は ドライブにも行けないので 冬は 映画三昧です
三丁目の夕日も見に行きましたです 昭和30年代の日本 東京の事は解り
ませんが 懐かしい気がします  大夕張では 馬車 馬そりが活躍してました
春 夏には馬糞風が吹きました テレビも伝染病も流行しましたね
18日は 男たちの戦艦大和  キングコング 二本スガイビルで見ました
田鎖さんも たまに映画は行きますか
大夕張 それこそ昭和30年代 二本立ての映画を見ながら オヤツを食べ
映画の帰り 池田食堂で かけラーメンを食べて 100円で御釣りが来た
時代でしたね
正月も映画に行くしかないですね
出切れば 雪の無い冬を過したいですね  ここ数年 夏痩せはしないのが
自慢でしたが 冬痩せするようです 気付かない人が多いですが
夏入らないズボン 一冬越すと入ります 夏 又太るようです
歳のせいか 冬バテしてるようです
田鎖さん 除雪で腰を痛めないように 身体を鍛えて筋肉ムキムキに頑張って
来年春 ランニングに筋肉で登山は どうでしょうか

ただ 風邪を引かないように

(3320) 2005年・・師走 投稿者:田鎖加代子  投稿日:12月17日(土)11時36分47秒

札幌は厳しい寒さが続いていますが、雪はまだあまり積もっていません。
今年は雪が遅かったので、(雪の無いお正月だといいなァ~)と甘い考え
だったのですが、やはり世の中そう旨くはいかないようで10日の夜に15センチ位
降りました。 でもそれ以降は雪らしい雪も無く、心静かな日々を送っています。

残念ながら今日あたりから荒れた天気になるようなので、札幌にもそのうち
ドカ雪が降って、また雪と格闘する日が来ると思われます。
今年は夫が腰痛のため、除雪はとても出来そうにありません。頼りの息子も
就職のため家を離れたので、この冬我が家が雪に埋もれてしまうか否かは
私のか弱い(ウソつけ!)肩に掛かっています。
いつもだとすぐに弱音をはいて、文句タラタラなのですが今年は違います!

私には「鹿島25年会山岳部」のご存知「つわもの姉妹」や仙人山本隊長、
鉄人畠山隊員や超人前田隊員それに真の山男阿保隊員には遠く及ばないものの
せめて寅次郎様やサンフラワー三浦隊員には負けられないという
遠大かつ崇高な目標があるのです。 除雪は体力を維持するのには打って付け
なのです・・と、頑張ります(続くといいけど)

思い出帖の「雪のくらし」を見ると、大夕張の冬の生活も大変だったのですね。
私はほんの子供で、冬の厳しい生活は殆んど憶えていないのですが
尾張一宮市に住む76歳の母は「冬の北海道には住みたくない」
と、今でも言いますから。

泊川さん、雪で遠出が出来なくなる冬は映画鑑賞でしょうか?
もう「ALWAYS 三丁目の夕日」は御覧になりましたよね。
私達の子供の頃を、大夕張を思い出してしまうような良い映画でしたね。

今年はこの「ふるさと大夕張」が縁で、大勢の大夕張出身の方々とお会い出来た
幸せな年でした。 また来年鹿島小のグランドや、どこかの山で皆さんと
お会いするのを楽しみにしています。
それでは(少し早いのですが)皆さんどうぞ良いお年を!

(3319) 年末 投稿者:泊川俊徳  投稿日:12月16日(金)13時56分51秒

今年も残す所 半月ですね
忘年会 クリスマスと飲む事の多い時期
身体を壊さないように気を付けて 良い年を迎えたいですね
大夕張から 全国に散って行った 方々 年末 望郷の思いで正月を
迎える人も多いと思います  無人の年末 年始の大夕張 冬の風音と鹿の
声が寒空に響くのでしょうね なぁーんか寂しいね


最近 怪しげな内職の投稿 多く成りましたね
英語の苦手な自分 何て書いてるのか読めません 字引で調べるのも面倒

(3318) 大夕張 保養所 投稿者:泊川俊徳  投稿日:12月12日(月)11時42分28秒

思い出帖の中に保養所の写真
大晦日の日には 裸参りの出神はここから神社へ出かけます
小学校の頃 代々木町に住んで居ましたので 学校の行き帰りは
保養所の裏手 温室側から通って行きました 小学校の頃 温室のバナナが
珍しく 冬の寒中の季節にバナナの実が成る木を 珍しく見ながら 凄いなぁー
と思いながら 又 楽しみでした 今思うのですが バナナの実は最後は
どう成ったのでしょうね 食べられるバナナだったのでしょうかね
当時 氷点下の冬 バナナの実が成る 不思議でした

(3317) 雪将軍到来 投稿者:泊川俊徳  投稿日:12月12日(月)10時55分19秒

いよいよ 角界な雪の季節がやって来ましたね
子供の頃は 楽しい雪の季節でしたが 大人に成ると うんざりですね
道は滑るし 車も混むし 雪はスキー場だけにして欲しいですね

昭和44年前後 南大夕張駅にて 大雪の為 ラッセル車が雪で半分近く
埋まって動かないと言うので スコップでラッセル車の周りの雪かき
一時間もすると 雪かきも面倒に成りましたね

(3316) 夕張の夜 投稿者:奥山道紀  投稿日:12月11日(日)17時39分39秒

今朝の夕張は、積雪40cmほどの大雪でした。
南清水沢からJRで釧路に帰ろうとしたら、新夕張~夕張間の支線は
不通との事。新夕張から何とか特急に乗車して釧路に帰着しました。
駅員氏によると気動車は力がなく、大雪が降ると1両だけだと清水沢
~鹿ノ谷間の勾配を上れないとの事でしたが、めったな事では止まら
なかった大夕張の石炭列車を思い出しました。

年末になると、大通や三菱車庫前のバス停は故郷に帰る人で賑わい
ました。バスも2~3台で運行されましたが今ではどうなのでしょうか
、夕張の夜は静かなものでした。

(3315) 年末 投稿者:泊川俊徳  投稿日:12月08日(木)13時45分01秒

今年の 札幌 今の所 雪が少なく楽ですが そろそろ うんざりする程
雪の季節が来ますね 子供の頃は 雪も楽しい物でしたが この歳に成ると
雪は スキー場だけで沢山と言う気に成りますね
出来れば 冬 沖縄  夏 北海道 そんな贅沢な生活がして見たいのですが
今の状況では とても敵わぬ夢の話しですがね
せめて雪の少ない季節で有りたいと思います
もう 大夕張も 白一色の世界と思います 今は暖房の石炭を焚く人も居無いので
幾ら 雪に濡れても石炭のススで服が黒ずむ事も無い事でしよう

茨城県水戸市
       亜希ちゃん
元気ですか 子供も随分 大きく成った事と思います 正月は どうしますか
笠間稲荷か大洗神社の初詣ですか  川が側で 雪が降らないとは言うものの
結構 寒いと思います 袋田の滝も凍りますしね
夫婦 子供 風邪を引かないで うんだっぺーと頑張りましょう

(3314) 記念碑公園 投稿者:泊川俊徳  投稿日:12月06日(火)12時59分49秒

無人の大夕張も変わって行くようですね 旧神社に大夕張を眺望する
大きな観音像が有れば良いのではと個人的に思うのですが どうでしょうね ?
お金が有ればの話しですが 20年後 30年後 大夕張の風景は
その頃は 自分はどう成って居るか解りませんが もう原付では 行ける歳
では無く あぁー 余り先の事は考えたく無いですね
ただ 夕張岳は何年先でも変わらないと思います
多分 大夕張が炭鉱街だった事は 忘れられて行く事でしょうね
ズリ山を見ても なんだろぅとも感じないかも知れません
ビデオや写真で かつて ここに大夕張と言う街が有った事を
未来に受け継ぎたいですね そうでも考えないと 余りにも寂しい気がします

(3313) 東京大夕張会での資料より 投稿者:浅野  投稿日:12月04日(日)14時47分37秒

シューパロ湖、望む新ルート・一般国道452号の計画。
南部大宮町~鹿島明石町間2、310メートルの大夕張トンネルが
計画されています。その先は1号橋は明石橋、2号は千歳橋等の名称、
15の橋が建設され35メートルから440メートルの橋の様です。
記念碑公園位置は小学校グランドより左側、神社、のぼり口近辺で
約50メートルX100メートルのスペース、廻りをイタヤカエダの木を
シンボルとし桜の木が植えられる計画のようです。
馬頭観音、道路開通記念碑、鹿島小学校碑、友情のシンボル碑、
小学、中学閉校記念碑、ふるさと大夕張の碑等・・・。
駐車場14台、移動式トイレ、ベンチ2。
公園中央の道は「追憶の道」として旧郵便局前道路に通じる模様。
その他、眺望公園配置図、東高校記念碑近辺らしい・・・。
夕張シューパロダム周辺整備計画より・・・。
平成18年整備予定とか・・。想像してください参考まで・・・。

(3312) もう1人の順子さんへ 投稿者:野口  投稿日:12月02日(金)12時37分56秒

読ン出てくれてありとう。久し振りに投稿しました。元気ですヨ。
親がどうして、名前をつけたかは聞いたことがありません。いなくならないうち
に聞いてみますね。
私め,禁酒は解禁しました。ボジョレヌーボーは解禁前日に飲みました。ボジョレ
ヌーボーは、大夕張の味がしました。どうしてかって?とってもフルーティな味
と香りアルコールくささもあまりありません。大夕張の山から取ってきた山葡萄
を家で潰して醗酵させて造ったぶどう酒と似ていたからです。ちょっとすっぱか
ったけど家のは。贅沢さは、田舎にあったんだと思いながら飲みました。
いなかにいた頃は、家でワインを造っていたよ!と言うと、それって密造酒だよ
なとど言われまして、ついでに麻薬のとれるケシの花(もち、鑑賞用です。お花
屋さんに有るポピーというのは違うやつ。花びらも葉っぱも分厚いやつ。どこか
ら麻薬を取るのかは知りませんが)も畑に一杯植わってたよ。と言いますと野口
さんのいなかって無法地帯なの(笑)と言われてしまいました。
故郷の風景が変わるのは残念ですが、夕張岳は崩せないでしょう!
韓国の歌に「ふるさと無情」という歌があります。誰も住む人も訪れる人もなく
枯れ果ててしまって悲しいという歌ですが、大夕張は違います。「故郷賛歌」で
すね。

(3311) たかが大夕張 されど大夕張 投稿者:泊川俊徳  投稿日:12月02日(金)11時21分39秒

大夕張から住人が消え
公共事業のダム工事と言う事で 変貌しつつ有ります
本当にダムが必要なのかなと思います ダムの寿命 規模によって違いますが
今 現在のダムが完成して まだ50年過ぎてません 電気機械の故障や新旧の
交換と言う事なら理解も出来るのですが ダム丸ごと造り変えると言うのもね
確かに ダム湖底に土砂が貯まり貯水量が少なく成ると言う事も有るようですが
ダム湖底の堆積した土は 畑の土壌改良に良いと言う事で
ダム湖の土を利用している所も有ると聞きます
世界的に自然保護からダムを造らないと方行の国も多いと聞きます
古く成ったから新しく ちよっと芸が無い感じもします
大夕張 各町内に山積みされた土砂の山 誰も住まないとは言うものの
余りにも 景観が悪いのではと思います
数年振りに 古里に郷帰りした人達も 今の大夕張にガッカリした人も
多いのではと思います
大夕張で産まれ育って 青春時代わ過ごした人 又 炭鉱で働いていた人に
とって  幾ら 誰も住まない無人に成った土地でも

たかが大夕張 されど大夕張 それが望郷の古里ではと思います

(3310) 野口さんへ 投稿者:もう一人の順子  投稿日:12月02日(金)09時56分54秒

ご無沙汰しています。お元気でしたか?

そうですか・・・・間違えますよね。同じ名前いっぱいいますからね。
珍しい名前だったら そんな間違いなかったでしょうけど、どこにでもある
名前ですからね。(ごめんなさい全国の順子さん)
今は亡き父にずっと昔子供の頃 どうして順子ってつけたの?って聞いた
事が ありました。父は順番に生まれてきたからだよ・・って言いました。
私は 4人兄弟の一番下でしたから。。。たいした理由はないんですね。

私と間違えられた順子さん 始めまして・・・と言うか きっとどこかで
すれ違っていますよね。私が高3の時1年でしたか?
バスケット部だったんですよね。お顔を拝見したら 思い出すかも
知れませんね。いつかお会いできる機会が・・・ないかな・・・

Zinyちゃんもお久しぶりです。
最近 中々集合がかかりませんね。何か理由がなくても たまには集合
かけて下さい。西やんから忘年会・・という話も出てますが、今年は
無理ですか? 年明けに新年会やりますか?

今年も残すところ 一ヶ月足らず。一年は過ぎてしまえば あっという間
歳の事はあんまり考えない事にして 楽しい人生を送れるように 
頑張る事にしましょう!!

(3309) 順子さん違いでした 投稿者:野口  投稿日:12月01日(木)12時36分56秒

紅葉を見に行かれた順子さんをzinyちゃんの知っているもう一人のじゅんこ
さんと勘違いしてしまいました。今ここでじゅんこさんは3人いることがわかり
りました。もう1人のじゅんこさんは、東京にお住まいです。私も東京都民で
して、昭和24年組みです。だいぶ私のほうが年上の様です。
早とちりごめんなさい。でも、こうして。メールでお話できて良かったです。
どちらの順子さまも、また楽しいお話を聴かせてください。
古い話をしてしまいますが、私が大夕張から東京へ出てきた頃は、青函連絡船に
乗って、1昼夜かかって、上野に着きました。上野の駅に立っても終点は、青森
まででした。本当に故郷は遠かった。(ナンカ裏びれた小説の貧乏な主人公の話
みたい)今は、上野駅から札幌行きが出ているのを見て嬉しく思います!

(3308) zinyちゃん! 投稿者:順子  投稿日:12月01日(木)09時58分50秒

お久しぶりです!貴方の知ってる順ちゃんですが美人度から行くと、
勘違いかも・・・???冬の星空なんてロマンチック!最近ときめき
と縁のない生活してるので思い出させてくれてありがとう!
眺めてみたいですね~!ロマンチックもぶっ飛んじゃうほど大夕張は
雪が積もっているんでしょうね!札幌は今日サラッと降ってイルミネーションも綺麗でそれこそロマンチックです!
12月ですね~・・・また一つ年が増えました(涙)こうやって年を
重ねて、ふるさとを懐かしく思い出すのでしょうね・・・。また会える日
を楽しみにしていま~す!!

(3307) お元気ですか、二人の順子さま 投稿者:ziny  投稿日:12月01日(木)00時05分57秒

確かに野口さんの勘違いですね。
でも、二人の順子さまの大夕張への想いと情熱と、
美人度は甲乙つけがたいと思いますが。・・・??
私の知ってる順ちゃんでしたらね!

最近の鹿島の冬の星空を眺めてみたいですね。
数十年前の11月、初雪の後の北岳の肩の小屋から
眺めた星空は無数の星屑でした。
私の記憶では、夜の鹿島もそうでした。
磯次郎の上には北極星が輝き無数の星屑でした。
これも甲乙つけがたかったですね。

平成17年 11月 先頭にもどる


(3306) 野口様 投稿者:順子  投稿日:11月30日(水)22時58分14秒

過去の記録を見て、多分(じゅんこ)違いだと思いました(笑)
私は、今年の4月にこのサイトにデビューしたばかりで、新参者です。
ごめんなさい!でも仲間ですよね!
ヒロみうら君!焼肉美味しそうでした。写真とかいつも楽しく見ています。
いつか大夕張で、焼肉・・・一緒に食べたいです!

(3305) 野口様 投稿者:順子  投稿日:11月30日(水)22時57分31秒

間違っていたらごめんなさい!(順子さんへ)と言うのは紅葉を見に行った私の事でしょうか?
そうだと決め付けてメールします。(笑)私は、大夕張が好きですね!
住んで居た時は何も感動しなかったのに、夕張岳の山並みが、二度も登った
のに10年くらい前にはじめて綺麗だ・・・と気がついたり、紅葉は高校を
卒業して、バスで家に帰った時に(なんて綺麗なのかしら・・・)と感動し
たのです。それから、あちこちと紅葉みてもつい比べて見ていつも夕張の勝ち!と
自己判断しています。野口様と同じく、お風呂の帰りタオルを長くのばして
パリパリに凍った思い出も、まつ毛が白くなったり、息をすると鼻毛がくっ
ついちゃったり、雪下駄履くとギシギシなりましたよね。シモヤケにもなりました。
皆さんの冬の思い出をみると、私の知らなかった事も沢山あって(ヘエ~!とか同じだ~!)
などと思って楽しくみてました。よくもあの豪雪地帯で生きていましたね!冬でも
外で遊ぶ子供達でしたね。そんな話を息子にすると、信じられない・・・と言われますが、
そういう経験が出来た事は今は私の財産だと思っています。今の子供達は可哀想ですね。
将来、年寄りが余って姥捨て山が出来たら、夕張岳に捨ててくれるそうです(涙)
野口様は、同期じゃないですよね?でもきっと同じ時代を過ごしたんでしょうね!
長々とお邪魔しました^0^love&peace

(3304) ありのままの姿と自然を残して欲しい 投稿者:ヒロ みうら  投稿日:11月30日(水)21時02分17秒

記念碑を集めた、メモリアルパークを造るとの構想が有るそうですが
国道の切り替え工事に始まり、自然の景観を人為的に大きく変える
開発と言う名の、自然を傷つける行為が延々と続ける事に
そろそろ終止符を打って欲しいな・・・と自分的には思う
あのグランドから望む、変わらぬ自然風景はお金ではあがなう事が
出来ない、唯一無二の情景です。
せいぜい新ダムサイトに大きく清潔なトイレでも沢山
設置して頂ければ良いんじゃないかな・・それを最後の開発と言う名の
行為としの終止符にしてはいかがなものでしょうか!!

(3303) 順子さんへ  投稿者:野口  投稿日:11月30日(水)18時03分15秒

お久し振りです。又、大夕張へ行らしたんですね。
そんなにも故郷が好きなんですね。敬服します。
時間も距離もお金も家庭の都合もいろいろお有りでしょうが。
ナンノソノですね。
もう真冬ですね。家の中で卵が凍るナンテ懐かしいですね。
共同浴場の帰りタオルを広げているとそのまま凍っていましたね。
バリンバリンに。筒にしたり、三角にしたりと遊び方色々。
そして何よりも美しかった冬の星空。降るような星ってこれ!!
なんだと寒さを忘れて見ていた事がありましたっけ。
数年前北アルプスの山頂て見た星空も綺麗でした。
大夕張の冬空と似ていると思ったけど大夕張の方が勝ちでした!

大夕張に記念碑がいろいろあるのですね。知りませんでした。
風雪に耐えて何十年・何百年と残っていくなんて歴史のロマン
(ちよっときざ)ですね。

(3302) 大夕張記念碑公園 投稿者:泊川俊徳  投稿日:11月30日(水)11時03分58秒

建設新聞
今年の春 ダム予算の記事が掲載していましたが
めったに建設新聞を開いて見る事が無いのですが たまに大夕張の事が
掲載されている様子です
大夕張に点在する 記念碑を集めて公園に 水没する街ですので仕方のない事
ですね  鹿島分校記念碑 東高校記念碑 戦没者慰霊碑
馬頭観音碑 今まで何処に有ったのでしょうね 馬頭観音碑の存在は知り
ませんでした
11月3日 今年最後に大夕張に行った時に 健保会館 プール跡地を整地
していましたので 道路工事 公園工事の準備工事かも知れませんね
思い出ノートの箱 別な所に移動しないと工事に邪魔かも知れませんね
以前から ちよっとした思い出ノート専用の木製台に木箱の中にノートを入れ
ようかと考えているのですが
最近 書き込みも少なく成り 余り大きくするにも費用も無いし
中々 思うように行きませんね
大夕張に どんな公園が出来るか楽しみですね

(3301) 北海道建設新聞 投稿者:奥山道紀  投稿日:11月28日(月)20時08分41秒

9月開催の夕張市議会で車両保存の調査費が計上されましたが、関連
記事が北海道建設新聞に掲載されています。参考の為転載させて頂
きます。

---------------------------------------------------------------
北海道建設新聞 2005年(平成17年)11月26日(土曜日)
「夕張市 南部、鹿島地区に保存公園」
列車や記念碑・産業遺産保存で計画
【岩見沢市】夕張市は、炭鉱で栄えた南部地区に今も現存する三菱
南大夕張鉄道車両を活用した列車公園と、鹿島地区に点在する記念
碑を集めた公園の造成をそれぞれ検討している。
このうち、鹿島地区の記念碑公園は早ければ2006年度に着工となる
見通し。
夕張の歴史を象徴するものとして、保存活用していく方針だ。

南部地区にある列車は1940年製のラッセル車1両をはじめ、1906年
製、13年製、37年製の客車がそれぞれ1両ずつ、11年製と34年製の
石炭車が1両ずつの計7両。今は廃線となった清水沢~鹿島間を行き
来し、人的交流と石炭産業を支えた。
現在、これらの車両は国道452号沿いの空き地に野ざらしとなって
おり、車両に傷みが出ている。このため、良好な保存環境を保ちな
がら、列車を核とした公園づくりに取り組む考え。
整備内容は固まっていないが、約6千平方メートルの敷地に多目的
広場や展望施設、バスの旋回場、駐車場などを完備する計画。
一方、鹿島地区記念碑公園は現在工事が進められている夕張シュー
パロダムの完成に伴い、鹿島地区の大半がダム湖に沈むため、同地
区にまつわる記念碑を1箇所に集めて保存する。
保存場所は水没をかろうじて逃れる敷地約5千平方メートルの鹿島
小跡地を計画。ここに公園を造成するとともに、「ふるさと大夕張
の碑」「友情のシンボル碑」「馬頭観音碑」「道路開通記念碑」な
どを設置する。(※原文のまま)

空き地に野ざらし~など、必ずしも正確な記事ではありませんが、
車両保存が少しずつ具体化しています。

http://www.geocities.jp/ooyubari_rps/index.html


(3300) 冬の大夕張 投稿者:泊川俊徳  投稿日:11月27日(日)15時35分45秒

大夕張冬景色
最近 温暖化で 大夕張も雪の降る時期も 少しづつ遅く成って来てるようですね
昭和30年代 11月には スキー滑りをしていた記憶が有ります
盆地で寒かったです 札幌に来て大夕張に比べて 随分暖かく感じました
代々木町と常盤町を経験
社宅の造りが悪い事も有りましたが
冬 家の中で 生卵 食用油 ビール 焼酎が凍るのが当たり前の生活でした
札幌に来て 炭鉱の家の中で凍る話をすると信用しない人も居ました まさかぁー
常盤町 川近くの家では 氷が軋む音が聞こえました キューンと言う
いかにも寒いと言う響きの音でした
温度計も氷点下30℃もシバシバ 電線のカラス スズメが凍死して落ちて来ます
寒さで 痔も痛く成りますです
炭鉱の坑内に入る時間 一番方の人は 陽の出る前に坑内に入り 陽が沈む頃
出て来ますので 冬は太陽を見る事は無いですね
各家庭で炊事 暖房で石炭を使うので 煙が雪に混じり白い服が雪で濡れると
黒いシミに成りました 現代では味会う事の出来ない炭鉱の生活
何故か この歳に成って懐かしい生活でした
今の生活で 家の中で 生卵が凍る何て 考えられないですね
昭和40年過ぎまで まだ 馬が活躍してました

(3299) 「陸の孤島」大夕張 投稿者:浅野  投稿日:11月27日(日)12時24分17秒

昭和7年ころ清水沢~大夕張間の道路開削の予算が30万円付いた。
有志の人たちは道路の必要性を説明し、出来れば三菱サンの絶大な
協力を願い、町理事者に働きかけて貰うことを含め依頼した。その頃
会社は募集鉱夫が炭山へ来るまでの支度金、紹介して連れて来る者には
弁当代、日当を出す、採用されると奨励金もでる。
炭山では借金してドロンをきめこむことを専門にしている流れ者もいた。
その上ビッグマンの引き抜きが有るというんでは警戒を厳しく
するのは当然の成り行きであろう。
労務係主任の返事「三菱の方針として道路の必要はない!」
此の「一声」によって「陸の孤島」大夕張は他から全く隔絶された
日々をおくる宿命を背負った。組合20年史より・・・。
学生寮?昭和17年客車開通しています通学可能?。
昭和26年東高(旧高女)場所は鹿ノ谷~本町の中間に通学。
後の11月、清水沢に移転(高名は南高に変更)。
清水沢での学生寮は耳にしていません。参考まで・・・。

(3298) 初冬の大夕張 投稿者:奥山道紀  投稿日:11月26日(土)18時07分06秒

今日の大夕張は小雪が降り、周囲の山々はモノトーンの世界です。
それでも本格的な積雪期を前にダム関連工事が追い込みで進められ
旭沢などにも工事用道路が建設されていました。

飯田さんの「大夕張年表」には
昭和7年
>清水沢~大夕張間道路の建設計画が会社の賛成を得られず実現せず。
とありますが、これには色々な説があります。
当時、町会の代表者が鉱業所の担当者に道路の開削をお願いしに行った
ところ、たまたま応対したのが労務の担当者であり、外部から人の出入
りが多くなると、自分の仕事も増えると判断し「道路はいらん」と返答
した等、鉱業所の公式見解であったかは怪しいようです。

ところで、昭和17年の三菱鉱業の社員名簿を入手しましたが、清水沢
出張所と並び、学生寮の記載があります。当時の夕張中学(後の北高)、
高女(後の南高)、夕張工業などの通学の為に清水沢に学生寮があった
のでしょうか~?

内川様
ご無沙汰しています。修学旅行の8mm残念ですが、また新たな映像が
発掘されればと思います。

http://www.geocities.jp/ooyubari_rps/index.html


(3297) 紅葉 投稿者:順子  投稿日:11月26日(土)08時24分33秒

半年ぶりです。このサイトの凄さに圧倒されながら見てました。
懐かしい事や分からなかった事など、ふるさと大夕張はエキサイティング!
見ているだけで皆さん楽しそう・・・。
平凡ですが、夕張の紅葉をまた見てきました。奥入瀬の紅葉をみた後で行っ
たのですが、やっぱり夕張の勝ちです!
その後で、メロンを作ってる中松さん宅へ寄って帰りに野菜をたくさんいた
だいてきました。メロンも美味しいけれど、野菜も一味ちがいます。
今はもういない母のまねをして、漬物をつけました。上手くできたんですよ~!(笑)
小学校の帰り道に、中松おじさんの馬車に何度も乗せてもらった
思い出があります。今は、勇ちゃんと光ちゃん夫婦が後をついでいますが、
おじさんもおばさんも家族皆さんで昔と変わらず迎えてくれます。年に何度
かそこへ行くと、いつも懐かしさでいっぱいになります。
今年も紅葉が見れました。love&peace

(3296) 鹿島小学校の修学旅行 投稿者:内川准一  投稿日:11月25日(金)12時58分04秒

奥山さま(ほか)。旧聞になってしまいましたがご連絡。
№3162で触れた「鹿島小学校の修学旅行」の八ミリのことです。
所有者の中村先生に再度確認しましたが、「プライベート映像であり、内
輪でも、お見せできる内容でない。」とのことから、お借りできませんで
した。残念ですがあきらめることとします。ご了承ください。

(3295) 戦時中の話 投稿者:泊川俊徳  投稿日:11月25日(金)11時00分32秒

浅野さんの同様の話ですが
大夕張 戦後しばらく  南大夕張 清水沢方面に出るには
大夕張鉄道を使うか 歩いて鉄橋を渡るか だったようです
戦時中は駅にも監視の目が有ったように聞きます
会社側で南大夕張方面の道路を政策として作らなかったようです
50才過ぎで大夕張に住んだ事の有る方なら 自分自身の子供の頃の記憶で
千歳町から明石町方面過ぎると 砕石道路 世の中 東京オリンピックだ
新幹線だ 世の中 好景気時代に入って 戦後は終わったと言う時代
何時まで絶っても 砕石道路  ダム建設の副産物で作られたような
道路でしたね 戦争の意識もしばらく残っていた感じですね
何故か 炭鉱が閉山して人が減り 大夕張が無人に成ると言うのに
舗装され 変な話ですね

(3294) 忘れてはいけない事実・・・。 投稿者:浅野  投稿日:11月23日(水)14時35分59秒

「明治43年6月に清水沢まで鉄道はしかれてはいたが、清水沢貯炭場
までの石炭積み出しをするだけで、人は乗せなかった。抗夫の引き抜きや
逃亡をふせぐための会社の政策であった。」捕まれば最後、ふくろたたき
にされて、命が有れば良い方で死ぬかも知れないのだ。逃げる者は
清水沢めざしてひたむきに走ったと記録されていた。
大夕張労働組合20年史より・・・。
大夕張年表に見る明治のころの忘れてはいけない事実でしょう。
戦後の民主主義が自分も含め皆さんと語られる懐かしい大夕張なのです。

(3293) 元祖 ばん馬 投稿者:泊川俊徳  投稿日:11月21日(月)11時30分55秒

毎年 今頃に成ると思い出す事が有ります
以前にも 同じ様な事書いたのですが
春日町 磯次郎の沢 冬 伐採した木材運搬に馬ソリで運ぶのですが
見るからに重たい材木 馬の何倍の重量でしょう 沢の抜かる悪路をソリで
運ぶ ばんえい競馬所の話では無いですね 命賭けの運搬 春日町から代々木町の
坂道 馬殺しの坂 沢を やっとの思いで出たと思った頃に 坂を登る
その坂道 冬の雪道 幾ら力の有る馬とは言うものの 重量オーバー 水分
たっぷり含んだ材木 登り着れるものでは無いです
馬に取っては 地獄以上の日々だつたと思います 子供ながらに馬に産まれなくて
良かったと思いました 今では 何処の木材 伐採 運搬 大型トラック
ブルドーザー等で作業してますが 一冬に何頭の馬が 材木の下に成り 死んだ
事か 命賭けの ばん馬です

(3292) 二木 晃様へ 投稿者:泊川俊徳  投稿日:11月21日(月)10時47分23秒

戦争中の大夕張について
個人的には 詳しい事は解りませんが  あくまでも父から聞いた程度の話
ですが
先に書いた通り 戦時中は炭鉱以外でも 中国 韓国の人達に対しての扱い
戦後生まれの人達が 考える以上の地獄を見るような扱いだったと想像します
戦後しばらく 大夕張でも 女性や子供 又 炭鉱の指導的立場だった人は
中々 外に出られ無い事も有ったように聞きました
中国 韓国人に対して ひどい扱いをしていた人達は 見付かると暴行される
事を恐れ 山に逃げた人も多かったようです
父の近くで作業していた 韓国の人に 見るに見かねて弁当の おすそ分けを
すると 監視の人に 厳重注意されたとも聞きました

政治的には戦後処理とかで すでに話し合いは付いていると言いますが
国と国との話し合いは終わって居るかも知れませんが
中国 韓国 心の中の話し合いは終わって無いようです
戦争の 恨み辛みは子々孫々まで受け継がれています

戦争当時の中国 韓国労働者
炭鉱 線路 道路の人柱の事く 埋っている人も多いのではと思います

(3291) 忘れてはいけない過去の事実。 投稿者:二木 晃  投稿日:11月20日(日)21時49分27秒

 私は、右翼でも左翼でもありません。でも、戦時中に日本
人が行った中国人、朝鮮人への不当な残虐行為は、いくら戦
時中とはいえ、許されないことだと思っています。
 とくに、炭坑においては、それが顕著であったと聞いてい
ますので、機会があれば、検証してみたいと常々考えていま
した。そういった意味で、「夕張学」のような研究機関が発
足したことをお聞きし、喜んでいます。
 過去の日本人の醜い行為を暴くことは、大変つらく、悲し
いことです、しかし。それを避けていては、中国や朝鮮との
本当の意味での友好は成り得ないと思います、
 浅野さんの話によると、大夕張でも中朝の方たちが労働者
として入植し、その子供たちが小学校、中学校に通学してい
て、やはり「差別」はあったのとのこと。
 でも、すべての日本人が、中朝の人に対して差別していた
とは、決して思いたくありません。浅野さんのように、優し
い心で、それらの同級生と仲良く接していた人がいたことも
厳然たる事実でしょう。
 それを知っただけでも、このHPに投稿した意味があった
と、ちょっぴり感動しております。浅野さん、ありがとうご
ざいました。また、泊川さんのような若い方でも、ああいっ
た事実を把握していることを知り、びっくいたしました。で
きれば、もうすこし詳しいことを調べ、リポートしていただ
けば、大夕張の歴史を振り返る貴重な資料になるのでは…と
思います。
 生意気なことを書いてしまいました。ちょっと反省してい
ますが、書き直すのも面倒なので、そのまま投稿します。

(3290) 前略 泊川様 投稿者:ケイウンスク  投稿日:11月20日(日)17時15分29秒

ノート届きました。ありがとうございます。
前回も実は結構な厚着をしておりました。
(スキーのインナーまで着ていたとは誰も気づきませんでしたが)
次回はもっと厚着でお邪魔しますw

そちらでは雪が降り始めたみたいですね。
くれぐれも風邪などひかれませぬようご自愛下さい。

(3289) (無題) 投稿者:泊川俊徳  投稿日:11月19日(土)11時48分35秒

ケイ ウンスク様へ
思い出ノート 届きましたでしようか  マンネリ 自己満足では有りますが
決して 何でも 鑑定団に出るような 将来 お宝には成りませんが
今 炭鉱で栄えた 街が 壊れかけた無人の商店一件だけ残して 街が解体され
地図からも消えてしまった街  素人の 詰らない ノートと手作り写真集
ではありますが 何十年か後に見返した時 色褪せた ノートと写真集が
こんな時 こんな街が有ったと記憶に 蘇るのではと思います
金銭的財産には 絶対成りませんが 心と記憶の片隅に 幽かに残る財産に
成るかも知れません 出来れば 永久保存版にして欲しいと思います

来月に 又 来られる予定とか  今度は ぬくぬくに暖かい格好で来て
ください 10月30日 大夕張に行く時に もしの時にと思い ヤッケを
持っていこうと思いましたが 忘れてしまいましたです 多分 桂さん
かなり寒かったのではと思います
次回も 会えればと思いますが 対した出迎えも出来ませんので 宜しく


二木 晃様
炭鉱や夕張の歴史を調べているようですね
自分は 難しい事は解りませんが 父から戦時中の頃 中国人 朝鮮の人
かなり炭鉱では 死ぬような 血の滲むような扱いを受け苦労ようでした
食事も 芋の でん粉カスのような食事だったようです
タコ部屋
丸太枕 一本の手ごろな丸太に 数人寝かせ 朝 時間に成ると
棒頭と言う人が 丸太枕の端を タタキ振動で寝てられません イャでも
起きてしまいます
大夕張でも 中国 朝鮮の人を いじめた人達は 戦争が終わると
仕返しが恐ろしく 山に逃げた人も多かったと聞きます
戦争中は炭鉱も 軍事産業として 配給は他より 優遇されていたようですが
砂糖 靴 軍手 その他 配給を扱う人達が 結構 ネコババしていたようです
何処の 炭鉱でも戦争中に坑内で死んで行った人達 坑内で 今も眠って
いる人は 数知れないのではと思いますね

二木様  池田様
自分は 泊川 6人 兄弟の6番目でした

(3288) コークス炉の思い出 投稿者:ziny  投稿日:11月18日(金)23時06分31秒

 鹿島小学校のグラウンドもすっかり白くなっている今日この頃でしょうか。
コークス場の写真、前にもあったと思いましたが・・・
今回の「コークス場」の写真は昔のイメージですね。炉がたくさん並んでいます。
懐かしい状景です。
昭和40年の初め頃、学校の冬休みにここでアルバイトをしてました。
12月、1月は零下10度前後の日々でしたでしょうか。手がカジカンデいる
のですが、コークスが炊き上がって炉の蓋をあけるとゴウーゴウーと真っ赤に
燃えていたの思い出します。それを鉄の引っかき棒で汗をかきかき、かきだす
作業だったでしょうか。その時だけは熱くて顔が火照っていた記憶です。
質のいい石炭が採れていたからこそのコークス炉でしょうね。
 また、坑木(こうぼく)担ぎもやりました。坑口2の写真に見える木の支柱
です。人車が坑内に入る坑道を支えるのに使うため、外に貯えてあるのです。
その木の移動、整理などでしたでしょうか。6尺、8尺の長さの木を鳶口で
引っ掛けて肩に背負い、運んでいました。相当に重く、結構きつい労働でした。
そして、そのアルバイト代で古賀ギターを買い、弾いていました。
これは今でも現役で、やわらかな音色を響かせています。

(3287) 泊川さん 投稿者:池田憲治  投稿日:11月18日(金)16時20分11秒

書き込み読みました。
本当は、消えてしまう方のチャットの方に書きたかったのですが、
覗いていないような気がしましたので、ありがとうございました。

(3286) 久々湊陽一写真作品展ご協力ご支援御礼 投稿者:前田三郎  投稿日:11月18日(金)12時59分11秒

久々湊陽一より

道内で初めての写真展に大夕張掲示板を見た皆さんが多数
来場され、飯田さんや協力いただいた25年会の皆様に対し
厚く御礼申し上げます。お陰さまで作品展も無事終了いた
しました。みなさん有難う御座いました。

 (実は久々湊君のOSがマッキントッシュのため、直接
 掲示板に投稿できないために御礼の投稿をしてくれと連
 絡があり、急いで投稿したしだいです。
 彼も北海道で作品展を開催できた事を大変喜んでおりました。)

(3285) 「夕張学」を見て・・・。 投稿者:浅野  投稿日:11月18日(金)12時32分59秒

二木さんへのコメント 「夕張学」を覗いてみました。
中国人強制連行云々・・・。国民学校三・四年の頃でしょう。
病院前の線路に国鉄の客車が停車、強制労働者が次々に降りて山の方へ
連れて行かれる。頭に、足に白い包帯を巻いた人たち、さながら映画で
見る捕虜の人たちを連想していました。
終戦。アメリカ兵の進駐がなければ、当然のように強制労働者の暴動
も拡大していたでしょう。DDTと言って消毒もされました。
朝鮮の子供達とのこと、昭和17年4月鹿島国民学校へ入学、
年上でしたが一クラスに三・四人居ました。
級長、副級長は先生が指名 1年松組の新保先生は 日本名岩本さんを
級長に 背の高い人で仲良しでした。2年生では金成功さんが・・・。
終戦。大夕張駅、国鉄の客車で集団帰還して行きました。
最後まで手を振って見送ったのを思い出します。
北か南の人か定かではないが会って懐かしい話をしたいが・・・。国情が?
確かに「中朝」の人たちへ 蔑視の傾向がありました。
子供同士の喧嘩は当たり前、でも それぞれが仲良しでした。
中国人強制労働者も帰還まで規律ある生活で子供達には優しく
接してくれたことを伝えておきましょう。
大夕張は静かな戦時中でした。しかし大人達が月月火火木水金と
石炭増産に苦労されたことを忘れてはなりません。
「ふるさと大夕張」の歴史 知らない事実に思いを巡らして居ます。
子供時代の子供の目で見た大夕張の思い出・・・。70歳

(3284) 拝啓 泊川様 投稿者:ケイウンスク  投稿日:11月18日(金)00時52分25秒

こちらもすっかり夜は冷え込むようになりました。
寒がり爬虫類体質の私はすっかり
コタツに潜ってPCを打っている次第でございます。。。

それでもまだまだ暖かい愛知県だとは思いますが(^^ゞ

毎年のノート、ありがとうございます。
寒くなると鍋と泊川さんのノートが恒例となりつつあります。
手作りの温かみがいつも感じられて
今でも時々過去のものを読み返します。
楽しみにしております。

これからの季節、くれぐれも
風邪と原付の運転にはご注意下さい。

それから・・・
年内にあと1回、そちらへ行くかもしれません。。。

社内でもなぜか「五郎!」と呼ばれる五雄氏も元気です。

(3283) 夕張学 投稿者:奥山道紀  投稿日:11月17日(木)20時48分50秒

夕張岳も、頂を白く雪化粧していることと思います。
二木さんの投稿に、もっと大夕張の歴史を検証したいとありましたが
地元や、夕張出身者を中心として夕張を学ぼうという動きがあります。
7月末に、この夕張を学ぶ会の会報として「夕張学・創刊号」が発刊さ
れましたが、大夕張の歴史も記されています。
南部新光町の高橋商店さんにも、数冊置かれています。

http://www.cc.utsunomiya-u.ac.jp/~tamakim/essay.htm

http://www.cc.utsunomiya-u.ac.jp/~tamakim/essay.htm


(3282) ごめんなさい。名前を間違えました。 投稿者:二木 晃  投稿日:11月17日(木)20時19分18秒

 申し訳ありません。俊恵さんではなく、「俊徳」さん
でした。うっかりミスです。ごめんなさい。

(3281) え、俊恵さんが、一雄君と兄弟? 投稿者:二木 晃  投稿日:11月17日(木)20時14分10秒

 まさに、びっくりでした。このHPの常連である
俊恵さんのメールは、つも拝見していましたが、ま
さか、私たちの同級生である一雄君の妹さんである
とは、思ってもいませんでした。あえて「あいつ」
と言いますが、「あいつ」とは、相当にというか、
かなり仲の深かった間柄です。
 中学校、高校時代は同級生、一雄君が順天堂大学
時代には、彼の下宿先である千葉の習志野市に幾度
かお邪魔して交遊したこともあります。
 また、彼が結婚後には、私ども夫婦も、彼の札幌
のお宅に泊まり、小学生の息子さんの運動会にご一
緒したことがありました。
 俊恵さんにも、きっと、大夕張時代には、会った
ことがあるのでしょうね。最近、彼とは疎遠になっ
ていますが、もし会うことがありましたら、よろし
くお伝え下さい。

(3280) ケイ ウンスク様 投稿者:泊川俊徳  投稿日:11月17日(木)13時48分29秒

10月30日
大夕張での再会 焼肉パーティから 半月が過ぎました
まだ 大夕張の余韻が残って居るのではと思います
北海道内は もう冬に入りました 多分 夕張岳も 白一色 雪景色のはづ
今年は 結局 11月3日が 原付での最後に成ってしまいました
思い出ノート 見ましたら 昨年は 11月7日が最終日てした
来年の雪解けまでは原付では もう行けません
桂さん 五郎さん  又 時間が有りましたら 大夕張の自然を満喫しに
来て 楽しんでください

大夕張 思い出ノートと閉山 2
今年は 何時もより早いですが 送りましたので
自己満足の 下手な手作りですが 暇潰しくらいには成ると思いますので
帰りに 何も お土産も 持たして帰せませんでしたので 毎年の物で
すいませんでした
暖かい 愛知県ですが 夜は寒い季節です 風邪を引きませんようにね


池田様へ
自分の身長  150cmと書きましたが  本当は 155cm位です
対して変わりませんが

(3279) 池田憲二様 投稿者:泊川俊徳  投稿日:11月17日(木)13時07分04秒

池田様からの質問
泊川 長男 一雄と兄弟か ?  余りにも体形が違い過ぎるのでは
その答えは  実の兄弟です
確かに 長男と三男は 180cm前後の身長が有り 自分は150cm位 小学校6年で
身長は止まりました  他人が見れば まさか兄弟とは思わないのでは
正直な話  自分は小学校3年生位まで 病弱 虚弱な子供でしたので
身長も伸びませんでした  中年に成ってから 身長の分 横幅が太く
成ってしまいました 横の分 身長の方に伸びたいのが本音なのですが
これ ばっかりは どうにも成りませんね

と言う事で 了解 いただけましたでしょうか  兄弟でした

(3278) うれしい返信でした。 投稿者:二木 晃  投稿日:11月16日(水)22時30分46秒

 はからずも、夕張南高の大先輩・浅野さまから、
母親とともに、兄貴・甫のことを知っているとの
メールに接し、感激しています。
 私たち家族は、外地からの引揚者でした。です
から、生っ粋の大夕張っ子ではなく、どちらかと
いうと「外様」のような存在でしたので、このH
Pに対しても、何となく肩身の狭い思いを、いつ
も持っていてような気がします。
 でも、小学校、中学校、高校とわずか十年足ら
ずですが、多感な少年時代を過ごした大夕張のこ
とは、常に忘れたことはありません。
 このHPでは、もう私たちの年代の者は、過去
の世代のこととして忘れ去れようとしております
が、栄華だった大夕張の時代だけではなく、私た
ちの時代より、数年、あるいは、数十年の昔の過
酷?な大夕張の姿を検証することも、ある意味で
は必要なことではないかと考えています。
 そういう意味で、浅野さんはじめ、大先輩の方
の知っている、そのころの大夕張の「裏の姿」な
どの一端を、不本意でしょうけれど、できる限り
で、あからさまに披露していただくと、参考にな
ります。
 北海道や九州などの炭坑の歴史を勉強しますと、
かなり暗い、陰湿な時代もあったことを否定でき
ません。大夕張には、そんな時代はなかったのか、
あったとしたら、どんな事件があったのか? そ
れを検証するのは、私を含めて昭和初期生まれの
人間の責務だと思うのは、少し思い過ごしでしょ
うか。
 何か、浅野さんのメールで、うれしさのあまり
訳の分からない話になってしまいました。結局は、
もっと、年輩者の投稿が増えるといいな…という
願望なのでしょうかね。

(3277) 久しぶりです 投稿者:池田 憲治  投稿日:11月15日(火)21時18分44秒

二木晃さん
君のように文筆業は定年が無いので良いが、私のような肉体労働者は、
年金で細々とやってます。何をしてなくても、くだらないような用事でばかりで
一年が早いです。春にでもなったら声をかけるよ。
田中紀子さん
留守にしていたので、遅くなりました。どうも昔から人前に出るのは
苦手で、掲示板にも止むを得ないときしか出ない。今、貴女の写真を
だして挨拶をしておきました。=^-^=うふっ♪
飯田さん
遅くなりましたが9周年おめでとうございます。
掲示板の最初の書き込みを調べると、五番目にあったので、飯田さんとは
メールばかりで、顔は会わせてはおりませんが、8年半のお付き合いに
なるのですね。Win3.1に切り替えたときネットに繋いで直ぐだったような
気がします。長いような短いような?
泊川俊徳さん
いつも登場されておられる泊川さん、同じクラスにいた一雄さんとは、
兄弟だと人から聞いたことがありますが、体型が全然違う様なので
どうなのでしょうか。

書き込み序でに、いろいろ書いてしまいました。 m(_ _)m

(3276) 「久々湊さんの写真展」拝見せず残念! 投稿者:森洋  投稿日:11月15日(火)12時39分50秒

久々湊さんの写真展。同じ階で開かれていたのだが、見過ごしてしまいました。
こちらは、道央地区勤労者山岳連盟の記念講演「登山と低体温症」の準備で行き
ました。エレベータ前で、久々湊さんに会っていたのではないかな。
失礼してしまいました。
20日には、父の3回忌で南部の実家へ戻ります。家の前を通る車の多いことに
驚きます。大夕張へも、行ってみようと思ってます。
今年は夕張岳への登山はできませんでした。

http://tangram.at.webry.info/


(3275) 写真展 投稿者:泊川俊徳  投稿日:11月15日(火)10時00分22秒

久々湊さんの写真展 7日午前中に行ったのですが まだ準備中で見れず
13日 映画の帰りに寄る予定でしたが 映画館を出たら バイクがパンク
バイク屋さんに連絡 パンク修理 ナンダ カンダしている間 結局
行けずじまい パンク修理 約七千円 高い映画代に付いてしまいました
写真展にも行けず 残念でした

(3274) 連絡:思い出帖からの投稿について 投稿者:飯田  投稿日:11月13日(日)11時15分58秒

あまりの迷惑メールの多さに、受信拒否設定をかけて
いたところ、思い出帖からの送信フォームによる
投稿メールまでもが受信拒否されていたことに気づき
ました。あわてて修正しましたが、その間(ここ2ヶ月程)
思い出帖の送信フォームから投稿された方も多いと
思います。大変、ご迷惑をおかけしますが、投稿され
たにもかかわらず思い出帖ページに掲載されていない
場合、お手数ですがもう一度投稿していただきたくお
願いします。

(3273) 写真作品展 投稿者:田鎖加代子  投稿日:11月12日(土)18時15分32秒

内川さん、私の苗字が珍しいせいかバレバレでしたね。出来るならば、会場で
お会いしたかったです(内川さんの文章のファンですので)

ホテルサンフラワーの三浦さんに、「久々湊陽一氏写真作品展」の案内状を
頂いたので、9日に(ガラにもなく)アートしてきました。
内気な性格なので(ウソつけ!)ヒッソリと拝見させて頂こうと思って行った
のですが、記帳した途端「田・・鎖・・さん?あ~ァ山に行く・・掲示板を
読んだ事ありますよー」と、声を掛けられ嬉しいやら、恥ずかしいやら・・。
中央には「ふるさと鹿島25年会」のお花が飾られ、さすが鉄壁の結束を誇る25年会
抜かりはありませんねぇー。

何しろ芸術的センスの全くない私ですが、作品は写真というより抽象画に
近い印象を受けました。 一人で静かに観ていると、先に入場された年輩の紳士
に作品を説明している方(久々湊さんの友人で、この作品展に尽力された方)の
話し声が聞こえます。 そのお話しが楽しいのです。
最初はさり気なく聞いていたのですが、その内お二人の中に割り込んで
(オバサンってイヤですねー)いかにも幼稚な素人の素朴な疑問を質問して
教えていただきました。 (魚の目玉??)と思った被写体が実はキノコを写した
ものだとか、大きな貝を写したものだと思った作品が実はとても小さな貝を
撮ったものだとか、楽しい裏話を聞いて、写真の世界の無限の広がりを実感しました。

外は雪でしたが、会場を後にする私の心はとても温かでした。

(3272) 大根の花 投稿者:ziny  投稿日:11月11日(金)23時49分03秒

ざぶちゃん、内川さん、ホテルサンフラワー正美ちゃん、
ヒロ君、ご無沙汰です。皆さん、元気そうですね。
2年ほど前の新宿での25年会前後有志ちょと遅めの新年会時に、
写真家、久々湊陽ちゃんから素敵な花の写真をいただきました。
いやぁー、「その時の皆さん」、もう2年も経っちゃてるんですね・・・・
作品は確かに内川さんの印象の感じですね。陽ちゃん頑張って下さい。

話は変わって・・・、大根の花
11月の今頃はもう、鹿島の地も白くなっては、消え、また白くなっては消え、
地面はゴム長靴の時期でしょうね。
あの頃の夏には代々木町2丁目の我が家の前庭にはとうきびが結構大きく
おがってました。おばけとうきびといった実の不揃いのも、まま、ありましたが
甘くて美味しい味の思い出です。
トマト、きゅうり、にら、キャベツ、ほうれん草などもあったかな。
手前には金せん花やのぼり藤(当時はルピナスなんてしゃれた言い方は
なかったなぁー、のぼりふじですね)が咲いていました。
鶏小屋もあり、朝ご飯の前に卵を取りにいき、まだ柔らかく温かかったのを
思い出します。はこべの葉っぱに卵の殻を砕いて混ぜて餌にしてましたね。
6舎長屋の5舎でした。裏にはカリンズなども咲いていて、サッカリンの
ビンに入れて甘くして吸ったものでした。
弥生町と緑町の間から便所場球場へ下りていったところにも畑を作っていて
大根の花が咲いていました。秋になると大根の収穫です。
あの辺では、たまに闘犬場にもなってましたね。
大根を背負子にのせて坂の上まで汗をかきかき運ばされたものです。
それをリヤカーで家まで押していきました。子供心にも結構な量だったと
思います。
9月の末頃でしょうか。それを桶で洗うのですが、いやぁー、ほんとに水が
しゃっこくて、大変でした。しゃっこい、しゃっこい、でした。
手がかじかんでそれでも縄のたわしでごしごしと洗ったものです。
そして、軒下に干すのです。腰にわらをまとめてつけて、縄に大根を
載せたら、わらで仕切って重ねていくのです。これがよく見ると家に
よっては縄の数やしきりのわらの数などがそれぞれ違っていたのを
思い出します。写真では1本の縄ですね。バランスがいい?、節約?。
我が家では2本の縄に干していたと思います。落ち着きがいいのでしょう。
昭和30年代中頃の懐かしい大夕張の思い出です。
大根干しの写真で懐かしく思い出しました。

(3271) すごく感じる作品展です! 投稿者:ヒロ みうら  投稿日:11月11日(金)20時48分43秒

内川さんと、すれ違いかな・・「久々湊さん作品展」を見に
今日の夕方に会場へ伺いました。
一言で表現すると、デジタルアーティスト?
違いますアーティストでした!!
一枚一枚に凄い、エネルギーを感じました
一枚の作品がデジタルアーキサイエンス、と言うのが正解かな
イメージが果てしなく、どこまでも展開して行くような
まるで時空に浮遊して、いるような気持ちになりました

このHPをご覧の皆さんにも、是非オススメしますねー
カメラや写真に関心のある方にも、絶対お薦めします!!
そしてアッと、驚く作品!!
まさに、サプライズ!!なアートがありました。

(3270) 久々湊君の写真展 投稿者:ホテルサンフラワー三浦  投稿日:11月11日(金)20時42分03秒

美的センスゼロの私が、恥ずかしながらふるさと鹿島25年会の仲間のため
に久々湊君の写真展に行ってきました。
月曜のオープニングパーティーでは作品よりも話しに華が咲き、肝心の作品に
ついても余り理解できず、二日目のギャラリートークに参列し何とか理解が
出来た次第です。彼の作品の原点はふるさとの大夕張への想いであるとの主張
に賛同し納得させられました。
夕張東高を卒業して以来36年振りの再会に感動し、我々のふるさと鹿島
25年会に新しい仲間が増えたことに感謝しております。
作品展は前田君が書き込みしてありますように日曜日が最終です。
どうぞ一度足を運んでみたら如何でしょうか?
明日12日の土曜日20時から地下「なじみ亭」で一日早い打ち上げ
を行います。大夕張が生んだ芸術家を囲んで一杯どうですか?

(3269) 写真作品展 投稿者:内川准一  投稿日:11月11日(金)20時09分12秒

久々湊陽一さんの写真展を見てきました。
彼は昨年の春ころまで、ここの常連だった久々湊眞一さんの弟さん。
コマーシャルフォトの世界で活躍している人です。
兄弟ともに芸術家ですね!
作品は半具象というのか、パソコン処理して、元の形を残しながら独特の
色彩・質感を持たせたイメージ豊かなものでした。
熱心に見ている私のところに寄ってきて、「知りたいことはありませんか?」
と先に声をかけられました。

高校を卒業して以来、ほとんど帰省もしていなかったとかで、違う小学校
で一期先輩の私のことは覚えてなかったようでした。(残念)
でも、新鮮な昔話(笑)ができて、これはこれで楽しい時間でした。
そうそう、署名簿の中に田鎖さんの名が、もう、ありました。速攻ですね!

久々湊(眞一)さん! その後体調は如何?パソコン無理ですか?
貴兄から頂いた2枚のCDは、今でも私の、一番の、ドライブの友です。

(3268) 遠い思いでの一コマ・・・。 投稿者:浅野  投稿日:11月11日(金)14時46分58秒

初めまして二木さん。以前同期生対馬君の投稿を目にしていました。
お母さんのこと、故甫さんのことは大夕張の思い出の中にありました。
戦後、確か病院の隣、本立寮の一室で習字を習いに通いました。
度の強いメガネ、和服姿の優しい先生でした。小学5/6年でしょう。
甫さんとは小生が父の定年で帰郷、メタノール工場の入所で再会しました。
南高の一期下でした。高校新卒の二十二名と共に夕張工業高校にて半年間
化学の勉強でした。操業開始、坑内ガスが液体メターノルに生成され
感動したものです。昭和41年父、没のため再上京・・・。
鹿島小学校閉校式で甫さんの奥さんより訃報を聞きました。
はたけ違いの仕事でしたが、ブランデーをこよなく好きであっ
た文学青年でした。遠い昔の和服姿の先生を思い出しながら・・・。
茅ヶ崎市70歳。

(3267) 久々湊陽一写真作品展のご案内 投稿者:前田三郎  投稿日:11月10日(木)16時55分52秒

 初雪が降り寒い季節がやってきましたが皆様お元気ですか
さて、我が同級生の久々湊陽一君(夕東卒5期生)が北海道で初めての
写真展を開いています。

 場所:札幌市教育文化会館4階ギャラリー
  (札幌市中央区北1条西13丁目)
 日時:7日(月)から開催されていて毎日午前9時から午後9時まで
   最終日13日(日)だけ午前9時から午後6時までです。
 入場:無料
 皆様冬支度やら何かと忙しいこととは存じますが郷土の写真家の作品を是
 非ご覧頂きますようご案内いたします。

(3266) 母の大夕張への思い 投稿者:二木 晃  投稿日:11月08日(火)21時13分03秒

 私の母は、当時、炭坑病院の隣にあった「家政塾」の
和裁と料理の先生をしていました。平成十二年に、名古
屋のわが家で亡くなりましたが、時折、大夕張の生活を
懐かしみ、短歌に記しておったようです。先日、遺品を
整理していたところ、大夕張への思いをつづった短歌数
編が出てきましたので、拙いものですが、供養のために
ご紹介したいと思います。
 ●炭住の暮らし慣れて隣家に貧しき味噌醤油など用立
  てもする
 ●今にして恋し炭山の温かさあけすけの物言いも隔て
  なき心か
 ●幸せも不幸せも等しくうべないつ炭山の女らの明る
  し日々を
 ●廃山となりて跡形もなき社宅富士見町はここら辺り
  雪しまく中
 ●今にして炭山の暮らしの温かさ吾には優しき思い出
  ばかり

(3265) 先輩の池田さん、二木さん、 投稿者:田中 紀子(馬屋原)  投稿日:11月08日(火)19時11分45秒

お久しぶりです、鹿島中7期の皆さん、私は9期ですから、この時代の方の
投稿を拝見すると、とたんに大夕張の原風景が脳裏をかけ回ります、
お互い60歳半ばですが、このHPに登場する時は、気分は中学生か高校生です、(若すぎる)お許し下さい、
お互い何時までも気分だけでも若く居たいものですネ、
11月に入ると大夕張もそろそろ雪に埋もれてしまうのでしょうね。

(3264) 池田の憲ちゃん、お久しぶり。 投稿者:二木 晃  投稿日:11月07日(月)21時47分17秒

 久しぶりに、大夕張のHPを検索したら、同級生の池田憲治が
投稿していた。六十代も後半を過ぎて、「憲ちゃん」もないと思
うが、やはり、「池田さん」より「憲ちゃん」でないと親しみが
わかない。ごめんな。
 私の場合、この年になっても、職業上、仕方なくパソコンを使
っているが、「憲ちゃん」の場合、完全に趣味で? 使っている
のだから、本当にエライ。尊敬する。
 ちなみに、私たち、鹿島中学の七期生である。この欄の常連の
投稿者より、かなり先輩だと思うが、もっとわれらの仲間たちも、
このコーナーに登場して、昔の大夕張の姿を描写してほしいもの
だと思う。
 自分のメールに一日三十~四十件ほどの迷惑メールがあって、
仕方なく、メールアドレスを変更したのはいいけれど、どうした
ことか、着信不能になり、一日中、悪戦苦闘して、なんとか修復。
それで、試しに このページをのぞいたら、偶然にも「憲ちゃん」
のことを発見したわけ。
 最近、名古屋、京都の同期生たちと集まっていないけど、みん
な元気なんだろうね。こちら、相変わらずの貧乏暇なしで、楽し
みながら文筆業に勤しんでいる。みんなは、定年を迎えて、悠々
自適の生活なんだろうけど、こちとら、まだまだ、現役生活を続
けるつもり。私の場合、仕事をやめたら、きっと、元気を失い、
急激に老いるだろうね。
 今度、また、機会を見つけて、みんなで集まり、大夕張の懐旧
談でもやろうよ。

(3263) ありがとうございます 投稿者:飯田雅人  投稿日:11月07日(月)21時47分14秒

多くの方より9周年のお祝いの言葉ありがとうございます。
ネットに存在している期間が9年目になったということで、
自分が大夕張に暮らしていた15年間の半分を過ぎてしまい
ました。
大夕張に縁ある方々の集まりの場になればと表いもあって
始めましたが、様々な大夕張の情報交流が行われ、たくさ
んの方々に可愛がられているこのHPはとても幸せものだと
感じています。
メールをいただきながら返信もままならず大変失礼してい
ますが、どうぞこれからもよろしくお願いします。

(3262) 9年目のHP 投稿者:泊川俊徳  投稿日:11月06日(日)19時34分37秒

 9年目に成るのですか 自分は途中乗車の新参者で スラスラとパソコンには
まだ 解らない事だらけですが 
ふるさと大夕張と 鹿島小学校玄関に設置した思い出ノートで輪が広がった
感じです 同じ大夕張出身でも 年齢 大夕張から離れた時期の違う人達が
何か 炭住の長屋に暮らして居るような 子供の頃から知り合いだった錯覚
も感じるのでは

奥山さん
冬支度 ご苦労さんでした 
原付では もう 今年は 多分行けないと思いますが ラッセル車とは
来年の春まで しばしの別れですね 今シーズンの冬も悪戯の無いよう
願いたいですね 
炭鉱サミットは有意義だったでしょうか 日曜日なら行く積りでしたが
日曜 旗日以外は中々 行けませんので残念
五島さんの 写真展 もう一度見たい気もしたのですが

来年 雪解けに 元気な姿で 南大夕張駅前 又 小学校校庭で再会
したいですね
ホーム ページは 季節関係無く 皆さんの情報を
管理人の飯田さんには 目に見え無い ご苦労が有ると思いますが
お世話に成ります 之からも 宜しく お願い致します

(3261) 客車の冬篭り 投稿者:奥山道紀  投稿日:11月05日(土)23時31分41秒

天候に恵まれ歴史村の展示物回収、車両の冬篭り作業も無事終了しました。
作業中も数人の方が訪れましたが、残念ながら満足に見学して頂けません
でした。また来春に訪問して頂ければ幸いです。

ホテル・シューパロでは炭鉱サミットが行われ、清水沢・南部地区の産業
遺産を活用した地域振興策の学生のコンペも発表されていました。
どの作品にも南大夕張の車両が重要なポイントとして取り上げられていま
した。
保存会も「ふるさと大夕張」の皆さんに支えられ、活動を継続して来まし
たが土地の所有、整備資金、その後の維持と産業遺産の継承には多くの労
力が必要です。地道な活動を通じ「産業遺産」を守るためのシステムの構
築を進めたいと思います。

末筆になりましたが、飯田様ホームページ開設9周年おめでとうございます。

桂様、すれ違いでしたか。今度お会いできればと思います。

(3260) お誕生日おめでとう 投稿者:田中 紀子  投稿日:11月05日(土)17時22分09秒

9年目ですか、素晴らしいですネ、飯田さんの故郷を想う心が、
このHP「ふるさと大夕張」を誕生させて頂きました、そして湖底に沈み行く
故郷大夕張に想いを寄せる全国に散った大夕張人が、このHPを故郷と想い
楽しんでいるのです、投稿はたまにですが、毎日パソコンを開けると、必ず
このページに寄ってしまいます、若い人達が元気にそれぞれの社会でご活躍され
頑張って居る事を確認して閉じております、
少子化時代ですが何時までもこの「ふるさと大夕張」が語り継がれて行く事を
心から願っております、飯田さんありがとう。

(3259) Happy Birthday!!ですねん 投稿者:ヒロ みうら  投稿日:11月05日(土)06時22分54秒

おめでとうーございます!!

9年ですか、飯田さんが大夕張を愛するエネルギーが
ここまで、続いている大きな事実だと思います
本当はここで繫がりを持っている、全員で声を一つにして
おめでとう!!と言いたいのですが、そうも行かないですね・・
飯田さんとご家族の皆様、これからもお元気で御過し下さい
「ふるさと大夕張」おめでとう!!

(3258) カンパイー 投稿者:斎藤 敏幸  投稿日:11月04日(金)18時35分29秒

本日ここにお集まりの,大夕張関係者の皆様,先ほど,長谷川様のスピーチにありましたように,本日
は,当ホーム・ページの誕生日であります。
1996年11月4日に,元富士見町住民であります,飯田雅人様の熱い想いにより,夢の街として再
びこの世に,産声をあげることになりました。御歳,満九歳と相成りました。
お集まりの皆様,グラスに並々と美酒をお注ぎいただき,乾杯のご用意をよろしくお願いいたします。
よろしいですか,それでは,当ホーム・ページ「ふるさと大夕張」の満九歳の誕生日と飯田雅人様並び
に奥様の益々のご健勝を記念いたしまして
「カンパイー~~~~」

(3257) 11月3日 見納め 投稿者:泊川俊徳  投稿日:11月04日(金)11時23分07秒

昨日 3日 天気曇り
どうしょうと思いましたが 多分 今年最後の原付ドライブ大夕張に
行きました 滝ノ上方面から 登川炭鉱に寄り大夕張へ
途中 アライグマ遺体 車に引かれたものでした 今年 三匹目撃
校庭は誰も来た様子も無く カラスが煩いくらいでした
高橋電気店 北の零年のセット 8月23日に熊が出たと看板が有りました
セット二棟だけ残っています
早めに帰り支度 南大夕張のズリ山 夕張市平和のズリ山を写真を写し
ました
ぱじゅう屋さん 営業してましたが食べずに そのまま札幌へ
大夕張を早めに出たのですが 到着が何時もと同じでした
校庭の焼肉の焚き火の跡が寂しい感じでした
兵どもの 夢の 跡  そんな感じでした

多分 3日が最後と思います 昨年も3日に行き 雨でパンツまで濡れて
しまい 惨めでした

(3256) カウンターの下 投稿者:長谷川潤一  投稿日:11月04日(金)11時17分31秒

97.98.99.00.01.02.03.04.05・・丸9年、10年目になるんですね、
飯田さん! 「教育と大夕張」から始まって・・継続は力なり。
ほんとうに生活の一部として当たり前の大夕張ファンHPです。
いろんな人があっちこっちから繋がって心の大夕張に住んでます。
この場所は世界中に玄関がある、とっても長ーい、長屋です。
「いるかい?」今日も誰かが顔を見たくて遠慮なく入ってきます。
「いるよー、ストーブ焚いたべさ」あたたかい話しが始まります。
残念ながらこのHPからは、お茶も漬け物も出てきませんが・・。
とにかく、おめでとうございます、これからもよろしくお願いいたします。

(3255) 久々湊陽一写真作品展 開催 投稿者:飯田雅人  投稿日:11月03日(木)10時08分04秒

大夕張出身の写真家久々湊陽一さんの、故郷北海道では初めての
写真展が開催されます。

場所:札幌市教育文化会館4階ギャラリー
日時:11月7日(17時~21時)~11月13日(18時)
時間:9時~21時

尚、下のページから久々湊さんのメッセージをご覧になることが
できます。

http://www18.ocn.ne.jp/~kukugaia/


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