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1998年    
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(234)年越しの夜 投稿者:飯田 雅人  投稿日:12月31日(木)16時43分08秒

子供の頃,その日だけは夜遅くまで起きていることを許された特別な夜。
誰もがNHK紅白歌合戦を見ていた当時,夜の11時を過ぎて,そろそろ睡魔に耐
え兼ねてふと窓の外のオレンジ色の灯りに目をやるとスキー場だけが明る
くゲレンデを照らしていました。(当時,ナイターだったんです。考えて
みるとすごい・・・)松明を持ったスキーが一人また一人と滑り降りていく。
どんな様子なんだろう,自分もいつかその場に行ってみたい,と思いをふく
らませなら,いつの間にか眠っていました。

私はこれから子供を連れて今日は妻の実家で年越しです。
みなさんはどこで過ごされるのでしょうか。良いお年をお迎えください。

(233)山史 (9) 投稿者:今井 一郎  投稿日:12月31日(木)08時53分41秒

山史(9)

三菱鉱業株式会社 大夕張鉄道

自、明治39年〜至、昭和38年  58年史
   (前投稿からの続きです)


第5章 鉄道課独立

1、 鉄道課独立

 当鉄道の業務形態は地方鉄道として発展後も、運炭課、工作課及び
経理課等に於て夫々分担執務せしが、地方鉄道の運営上欠陥ありとして
監督官庁より示唆もあり、社内的にも鉄道課設置の気運が騰まり、
たまたま終戦という障害発生せしも昭和20年9月1日付をもって
鉄道課設置、宇賀村進氏を初代課長として運輸、運転及び保線を
一体とし資材課倉庫の一隅を仮事務所として業務を遂行することゝせり。

2、 大夕張鉄道交通従業員労働組合

 昭和20年11月、大夕張炭砿労働組合発足せるも、12月20日に至り
鉄道関係従業員により大夕張鉄道交通従業員労働組合設立
(初代組合長、吉崎秀太郎)私鉄総連に加盟せしが、
後炭労合併の気運強く、昭和23年5月23日大夕張炭鉱労働組合に
合併せり。

3、 雪害事故

 昭和21年3月14日、融雪期にもかゝわらず夕刻より重量ある湿雪が
降りはじめ、15日に至るも止まず、蒸気機関車3両をもって運転する
ラッセル車も及ばず線路両側は数米に達する積雪となり、採炭を中止し
全従業員はもとより一般住民の協力をも得て昼夜兼行の除雪を行い、
18日夕刻の止みし頃漸く全線の開通を見た。この間日数4日に及べり。

4、 大貨物営業粁程

 戦後のインフレにより物価高騰し当鉄道の営業収支も均衡を失い
旅客及び貨物運賃の値上げを行うも及ばず、健全経営の目的をもって
運輸省に大貨物営業粁程設定を申請認可を受け、昭和21年7月1日より
10割増粁(35粁)を実施せり。
 昭和23年9月1日より取引高税実施に伴い貨物営業粁程11割増(36粁)
となるも、昭和25年1月1日貨物運賃の値上げと共に取引高税廃止により
実粁となり、昭和27年に至り再度申請、3月1日より認可を受け10割増となり
現在に至る。

5、 客車形式 ハ1

 昭和21年8月、戦時中廃止せし渡島海岸鉄道より、ハ1を購入、
戦後増加せる旅客に対処せり。

6、 北炭遠幌砿

 北海道炭砿汽船株式会社夕張砿業所より、遠幌砿開坑に関し、
石炭搬出の目的をもって当鉄道遠幌駅構内に専用側線並に
積込ポケット等設置の申出あり、昭和23年1月に至り索道、
積込ポケット及び専用側線を設置して送炭を開始。昭和23年6月18日、
駅本屋40坪、附属建物6坪及び住宅6戸の引渡しを受け当所の所有とせり。

追伸

 今年最後の投稿となります。
 この掲示板に投稿することで、数名の方からメールを
いただきまして、私自身、勉強になった事多々ありまして、
喜んでおります。
 また、飯田さんにも色々お気遣いいただきまして
感謝しております。ありがとうございます。

 では、みなさんよいお年をおむかえください。

(232)山史のページ 投稿者:飯田 雅人  投稿日:12月29日(火)14時00分50秒

今井さん,いつも山史の連載楽しみにしております。打ち込みの作業は大変労力のいる
ことと思います。ご苦労様です。お体に気をつけて年末年始をお過ごしください。
山史の連載もいよいよ地方鉄道時代に入ってきました。鉄道と共に大夕張の町づくりも,
遠幌駅の開業,宝沢の築堤化,明石町の誕生と進み,年代も昭和の戦後期に入ってきま
した。
それ以前の北部開発のあたりのものを読むと,南大夕張から大夕張炭山に到達するまで
の崖を切り崩し,深い渓谷を跨ぐ橋梁工事の困難さ,きびしさが伝わってきます。
文中工事にたずさわった方々のお名前も散見できますが,あらためて先人の労苦が感じ
られ興味がつきません。
今井さんのこれまでの連載ですが,せっかくの労作をこれまでの分をまとめて読み返す
ことのできるよう一つページにして掲載することにしました。
印刷してプリントアウトしてじっくり読めるようになりました。
今井さんありがとうございます。まだまだ先の長い作業のようですが,私もじっくりお
つきあいしたいと思います。よろしくお願いします。

(231)山史 (8) 投稿者:今井 一郎  投稿日:12月29日(火)00時02分18秒

山史(8)

三菱鉱業株式会社 大夕張鉄道

自、明治39年〜至、昭和38年  58年史
   (前投稿からの続きです)

第4章 地方鉄道改組

1、 地方鉄道改組

 大夕張専用鉄道沿線住民の福祉と地区産業発達に資する目的をもって、
昭和12年7月21日鉄道省陸運監督局に対し、専用鉄道を地方鉄道に変更の
申請書を提出、翌昭和13年10月20日付監第7802号をもって認可となり、
昭和14年4月20日線名を三菱鉱業株式会社線と称し、地方鉄道として
営業を開始せり。

 但し、貸切扱い(現車扱貨物)については、即日省線との連絡運輸の取扱いを
実施せるも、旅客及び荷物並びに小口扱貨物については、
昭和16年12月1日より連絡運輸を実施せり。

営業開業時の現状

(1) 停車場及び実測換算中心粁程

   駅 名   社線岐点より     備考
            粁 米
   新清水沢   0.150  省線清水沢駅を共同使用せず社駅を有す
   南大夕張   7.400  
   大夕張    15.638
   大夕張炭山 16.998  昭和13年10月10日、従来の通洞の駅名を
                  改称、貨物のみ取扱う
   
(2) 営業粁程
              粁      粁      粁     粁
       清水沢  0.4     7.6     15.8   17.2
             新清水沢  7.2     15.4   16.8
                    南大夕張   8.2    9.6
                           大夕張    1.4
                                 大夕張炭山



(3) 旅客運賃

1粁当り賃率、省線と同額、1銭5厘6毛

             銭      銭
    新清水沢   12     24
           南大夕張   13
                   大夕張

 上記運賃により開業し、尚連絡乗車券の発売は昭和16年12月1日なるも、
旅客は新清水沢駅に於て下車省線清水沢駅迄約350米を徒歩連絡により
乗継せり。

(4) 貨物運賃

 省線貨車を直通乗入し、大夕張炭山〜清水沢間営業粁程17.2粁
石炭等級は7級、18粁の屯当賃率50銭なるも通算制のため
社線収得額約60銭となれり。

(5) 保安方式

 専用鉄道当時のスタフ閉塞式を改め、タブレット閉塞器を設置し運転の
安全を確保せり。
   (注)スタフ閉塞方式
      閉塞区間にスタフ(棒)を設け、これを携行する列車のみ
      その閉塞区間の運行権を与えるもので、他に補助手段を持た  
      ない最も単純な閉塞方式であり、隣接する閉塞区間のスタフ
      はその形状を異にする。

(6) 車両

 地方鉄道改組に備え昭和12年8月12日新製蒸気機関車9603号入線、
更に同年10月半鋼製2軸ボギー客車ナハ1号入線、客貨輸送に一新紀元を画せり。
 昭和16年1月、増備の第2陣として9604号蒸気機関車を新製せるも、
美唄鉄道に於る輸送力の関連から当線には直接入線せず美唄鉄道に配属、
支援に美唄鉄道より9217号蒸気機関車を借受け使用せしも昭和22年9月16日、
10粁850米暗梁盛土流出により顛覆破損後返却、昭和22年12月、
9604号の返戻を受け使用を開始せり。
尚、昭和15年鋼製ラッセル車 キ1を新製翌昭和16年3月入線当鉄道降雪期の
安全を確保せり。


2、 遠幌加別駅の開業

 帝室林野局より遠幌加別地区原木搬出のため、新清水沢〜南大夕張駅間
(社起点より3.9粁)に於て貸切扱貨物取扱の要請あり、昭和15年6月15日
鉄道省に対し遠幌加別駅の新設を申請、8月26日これが認可を得御料岐線を
布設して9月1日より貸切扱貨物の社線内取扱を開始せるも、駅舎はなし、
南大夕張駅に於て業務の取扱をなせり。
 昭和16年12月1日、発駅を南大夕張として連絡車扱の取扱はなし、
昭和17年6月1日駅舎を設置(現本屋東方約100米)して駅員2名を配置、
更に8月1日駅名を遠幌駅と改称し乗降客を取扱うも乗車券の発売には至らず、
昭和18年10月1日連絡車扱及び社線内乗車券の発売を開始せり。

3、 宝沢橋梁撤去

 昭和7年9月、町営事業として着工した宝沢道路工事は、宝沢橋梁下流に
盛土暗梁として翌昭和8年1月完工したが、昭和16年宝沢橋梁桁の一部に
亀裂あるを発見、橋梁を廃止築堤線路に変更すべく工事着工、昭和19年9月
に至り築堤完成し30日新線に切換え運転を開始せり。

4、 農場前臨時乗降場

戦前戦後を通じ当所住民の食糧難打開の目的を持って、現明石町地区に
農場を経営、食料搬出のため昭和20年5月6日、13粁400米地点に
農場臨時乗降場を設置せり。
 更に昭和21年2月1日、現シューパロ湖駅附近(10粁050米)に第2農場を
経営のためこれをっ第2農場前臨時乗降場と称し、前記農場前臨時乗降場を
第1農場臨時乗降場と改称せり。
 第1農場は後農場を廃止、当所従業員社宅約300戸を新築し町名を明石町と
称したので通勤者及び一般旅客取扱のため、昭和25年11月1日より
明石町駅に昇格するまで、又第2農場は二股ダム建設のため昭和32年2月1日
これを廃止するまで乗降客の取扱をなせり。
 乗降場は枕木とし、列車は昼間停車するも夜間は通過とし、旅客は外方駅に
至る乗車券を購求、集札は車掌の取扱とせり。

5、 C11蒸気機関車

 戦時中、雄別炭砿鉄道株式会社尺別専用鉄道に於て、輸送力増強のため
新製入線せるも、直後閉山のため当鉄道に転属。昭和19年1月1日入線せり。

                               続きます

 追伸

 12月24日朝より高熱、頭痛、咳、節々の痛みと倦怠感を伴う風邪のため
25日、26日はストーブの前で、丹前と毛布にくるまり、猫のように丸くなって
テレビを見て過ごしました。
 本日、漸く病院でお尻に注射と点滴の治療を受け快復に向っています。
 過去数回、風邪で寝正月となった苦い経験があるので、今回は絶対に
年内で完治しようと思います。
 皆さんも風邪がはやっていますので、気をつけてくださいませ。

(230)イエス様の置物 投稿者:乗田 功一  投稿日:12月25日(金)01時13分03秒

もう、30年以上も前の事。
おぼろげな記憶の中から思い出した幼稚園のクリスマス。
協和会館の舞台で歌を歌ったような気がする。
本当におぼろげな記憶なので、どんな歌だったのか、そも
そも本当にそんなことをしたのかさえ自信がない。
雪の中、協和会館の隣の別館の前で、帰り際に一人に一つ
ずつ手渡されたクリスマスプレゼント。
ラッピングを解くと、中には小さなクリスマスケーキとお
もちゃのハーモニカ、それとイエス様が馬小屋で生まれた
場面を型どった陶製の置物・・・。

実は長い年月の間に記憶が入り乱れて勝手にそんな情景を
創作してしまったのかも知れません。
でも、生まれたばかりのイエス様とそれを取り囲む天使た
ちを表したこの陶製の置物だけは今もここにあります。
毎年クリスマスになると押入の奥から取り出してぼんやり
眺めています。
色あせて、細かなひび割れが目に付くこの小さな置物は、
大夕張の遠い記憶の片鱗を思い起こさせてくれます。

このHPにお邪魔するようになって、二度目のクリスマス
です。

大夕張出身の皆さん、メリークリスマス・・・。

(229)校歌の意外なルーツ 投稿者:飯田 雅人  投稿日:12月22日(火)17時52分45秒

昨日12月21日(月)の北海道新聞夕刊『まど』欄に『意外なルーツ』
と題して上川管内鷹栖町の北野小の校歌の作詞・作曲者の人物につい
て紹介されていました。
昭和18年に制定された校歌の作詞,作曲者とは・・。

作詞,飯田広太郎,作曲,千葉日出城。二人は北海道の教育界では,
知られた人物だった。飯田は,国語教育に尽力し,札幌桑園小校長や
札幌市の初代教育委員長も務めた。千葉は,東京音楽学校(現東京芸大)
卒で札幌師範,道教大で音楽教育に携わった。(以上道新記事より)

あわせて,この二人のコンビによる校歌が道内では数多いことも紹介
されていました。

飯田は,鹿島中学校の作詞者,千葉は鹿島小,夕張東高の校歌の作曲者
として私達の記憶に残っています。

(228)神棚とサンタクロース 投稿者:斎藤 敏幸  投稿日:12月21日(月)19時41分08秒

12月に入ると娘は,おもちゃの新聞公告を見るたびに,サンタク
ロースにプレゼントをお願いしています。
彼女は,サンタさんにお願いする時は,窓を開け天に向かって欲
しいおもちゃの名を伝えています。
そんな姿を見ていると,ふと自分の子供の頃を思い出します。

僕もかつては,サンタさんにプレゼントをお願いしていました。
物心ついた頃から,神棚に向かい柏手を打ちプレゼントの名を声
に出してお願いしていました。
そしてクリスマスの朝には,神棚にプレゼントが置かれていました。
今から思うと滑稽な話ですが,僕の周りでは神棚とサンタクロー
スは見事に結びついていました。

父は採炭夫をしていましたが,大きな事故にも遭うことなく炭坑生
活を過ごすことができました。
そんな御利益もあったためか,サンタクロースと同居していた神
棚は,今も両親のもとで大切に祭られ,現役生活を送っています。

たぶん神棚も今時分になると,子供たちにクリスマスプレゼントを
お願いされていた遠い日のことを懐かしんでいるかもしれません。

神棚のサンタさん,ありがとうございました。

(227)山史 (7) 投稿者:今井 一郎  投稿日:12月19日(土)08時43分27秒

山史(7)

三菱鉱業株式会社 大夕張鉄道

自、明治39年〜至、昭和38年  58年史
   (前投稿からの続きです)


3、 監査及び自営運転


 原文綴じ不良或いは紛失のため割愛

4、 青葉峠落石覆

 昭和5年7月中旬、予て落石のため運転に支障多かりし青葉峠
コンクリート落石覆設置に着工、11月下旬これを完成せしも更に
 昭和10年7月2日南大夕張側に25米の増設工事に着手、
同年9月24日完工せり。

5、 鉄道係廃止

 昭和5年8月26日、鉄道係主任沢田技師本店技術部に転任、
既に専用鉄道延長工事も完結せるをもって、9月5日鉄道係を廃止し
工作係に合併せり。

6、 北部移動と新清水沢駅の開業

 昭和2年10月6日通洞貫通、昭和3年より1年に亘り、南大夕張砿は
経済界の不況と相伴って従業員を整理、南部コークス場及び鉄道保線等の
60数名を残すのみとし、北部抗移動希望者中より銓衡の上設備一切と共に
北部に移転、更に昭和8年4月下旬着工の北部選炭場増設工事を
10月26日完成。昭和9年5月北部コークス炉造営に着工し、
昭和10年8月コークスの製造を開始等、北部大夕張は目覚しい発展をなせり。
 もどって昭和7年10月20日、従来の大夕張砿業所清水沢出張所に
休養所を加え移転(社起点より150米、清水沢駅より353米地点)執務取扱い開始、
新清水沢駅兼出張所と称し開業せり。

7、 御料岐線

 昭和9年上旬、帝営林野局札幌支局に於て大夕張以奥森林軌道敷設工事に
着手せしも、同月30日には当所との協定により、通洞駅構内に
御料木材土場入岐線工事着手、昭和10年6月39日完成し
翌7月2日より使用開始、以後管内原木の積出に当れり。
 当時は専用鉄道なりしため運賃又は岐線料金とせず、岐線料金を含め
通洞・清水沢駅間1屯当り搬出料金80銭と協定せり。
 後昭和14年11月20日には南大夕張駅構内に、昭和15年9月1日には
遠幌駅構内に御料岐線を敷設、今なお夕張岳山麓の原木搬出を行えり。
 
8、 メートル法の実施

 昭和9年10月1日より特殊事項を除きメートル法を実施、専用鉄道の
哩程を廃止し総て粁程に改正せり。

9、 遠幌加別川橋梁架替工事

 遠幌加別川橋梁は明治45年10月竣工せしものなるが、昭和9年橋脚に亀裂あるを発見
架替のことゝし、その昔馬鉄当時吊橋のありし個所に昭和9年10月着工、
昭和10年1月18日完成、更に軌条敷設及びペンキ塗装工事の残工事を
4月25日より着手し、同年5月19日完了に付試運転の上即日列車の運転を開始せり。
本工事により従前の橋梁前後の曲線は修正され直線とせり。

10、 香椎沢橋梁流出

 昭和8年8月、6日以来の降雨に引続き7日以来の豪雨により専用鉄道各所損壊、
4号香椎沢山側土砂崩壊のため、8日午前8時直前橋梁橋脚損壊し
列車運転不能となり、昼夜兼行復旧に当り30日に至り工事落成、
31日午前7時より列車の運転を開始したが、比間出炭は抗外貯炭とし
操業を持続せり。


11、 葡萄山隧道崩落

 当所石炭の増産を唱える折柄、葡萄山隧道前後の路線勾配が
輸送力を阻害するため、隧道を廃止する目的を持って昭和8年10月16日より
隧道附近前後の勾配並びに曲線修正による外線工事中の処、
軟弱な土質を切土のため昭和9年4月6日朝隧道内煉瓦積に亀裂を生じ、
翌7日午後5時10分頃中央部約27間(約49米)に亘り崩壊交通社絶(謝絶)せり。
よって昼夜兼行応急対策として夕張川岸の断崖に枕木サンドルによる
迂廻仮線を布設、17日午後6時仮工事を完成同30分列車の運転を開始せしが、
この間出炭は抗外貯炭として操業を継続せり。
 後外線附近改良工事に着手、昭和8年9月落成のため15日午後4時
切替を行い、更に夕張川岸擁壁設置工事に着手、一部を残し10月中旬完成、
残工事は昭和10年7月完成引続き伏樋工事に着手10月23日悉く完成せり。
 後昭和36年4月、営林署より要請あり隧道前後を閉鎖せり。

12、 雪害事故とラッセル車

 昭和10年1月22日夕刻より大吹雪となり、翌23日も依然猛烈となり
専用鉄道各所に吹溜りを生じ列車不通、24日に至るも開通不能のため
1、2番方共採炭休業、総動員をもって除雪に当り消防組その他の
援助により全線600余名を配し復旧に努め、同日午後9時漸く列車の
開通を見、吹雪は24日午後10時漸く止めり。
 本雪害事故に鑑み昭和11年7月、国鉄において廃車とせる木製雪掻車
(形式キ1 番号28)を払下げ入線、昭和15年胆振縦貫鉄道に
譲渡売却する迄4ヶ年に亘り、当鉄道の降雪期路線の安全を確保せり。

                                  続きます。

(226)29年ぶりの再会だね。俊坊! 投稿者:飯田 雅人  投稿日:12月16日(水)22時07分19秒

こんばんは。キック!いや,やっぱり俊坊かな。おひさしぶりです。
大夕張では,家がすぐとなりで,いつも行き来していた頃の,懐かし
い思い出がいっぱいです。
以前,確か一度俊坊が札幌に来た時に電話もらったことあったね。
でもそれも10年以上前のような気がします。
岡本康くんや俊坊と年賀状のやりとりだけは続いていたけど,こうして
身近に話ができるのも本当コンピュータの発達,時代のおかげかな。
康くんとも,メールのやり取りできるようになっているので,俊坊が
メールのアドレスを取得したら3人でお話できるかもしれないね。
俊坊の写っている写真がけっこう僕のアルバムに多く残っています。
このHPでも使わせてもらっています。
29年ぶりの再会,とっても嬉しいです。
これからもよろしくね。

(225)幼稚園、小学校の記憶 投稿者:菅井宏史  投稿日:12月16日(水)09時57分29秒

以前、2回ほど書き込みをさせていただいて以来、久しくご無沙汰していま
したが、再びお邪魔します。

皆さんの大夕張に関する様々な思い出、また最近は、今井さんの「山史」の
連載、或いは「交流会」の報告等、どれも大変興味深く、楽しく、懐かしく、
そして羨ましく拝見させていただいております。ありがとうございます。

ついに無人の地となった我々のふるさと大夕張。それでもふるさとはふるさ
と。やはりそうなってもまだ行きたい、行かなければという思いに駆られま
す。ただそうしたくてもそうおいそれとは行けない人が多いのも事実です。
私もその一人です。普通はそれで終わりなのでしょう。そうしてその故郷の
記憶というのはそれぞれの人の中だけのものとなってしまうのでしょう。

しかし我々は今、いつでもすぐに帰ることの出来る、すばらしい「ふるさと」
を持っています。昔のままの大夕張がそこにあります。思い出を共に語り合
える多くの仲間がいます。HP「ふるさと大夕張」は正に我々の故郷そのもの
ではないでしょうか。この故郷は是非失いたくないものです。

その「ふるさと」の村長さん<?>(飯田さんのことですが)より、
昭和47年当時の富士見町上空を映した航空写真をメールで送っていただき
ました(ありがとうございました)。私の住んでいた6丁目の家をはじめ富
士見町全体の様子がはっきりと写っており、懐かしく、幼稚園から小学校の
4年生まで当時(昭和38、9年から43年ころにかけての時期)の思い出
にしばし浸ってしまいました。思い出すままに書いてみます。ちょっと長く
なるかもしれませんが・・

<幼稚園時代>
私は聖心幼稚園の第一期生でしたが、園児の記憶というのははかないもので、
何組だったか(桜組だったかな?)、お世話になった先生のお名前も思い出
せません。お顔はよく覚えているのですが・・。幼稚園で思い出すことは、
ベレー帽を被り、弁当の入ったかばんと、小さなお便り帳入れのようなもの
を左右に首からかけて毎日通園したこと(当時は行きも帰りも子供達だけで
した)、お絵かきで、当時テレビでやっていたスーパージェッター(流星号
と言いましたっけ?あの主人公の乗っていた車のような円盤のような乗物、
それが特に好きでした)や鉄人28号などのアニメの絵をいつも描いていた
ことや、クラスのみんなが毎日アーンをして先生から肝油をそれぞれ口に入
れてもらっていたこと、弁当を食べる前に必ず十字を切ってお祈りしたこと、
イエス誕生の劇をしたこと(私はちなみに東方の三賢者のうちの一人でした)、
などそれほど多くはありません。当時のアルバムが今手許にないため、今思
い出せることはこれくらいです。

<小学校時代>
無数の思い出がありますが・・

1)先生と教室、そして思い出
小学校1、2年は桜組で担任は長谷川先生、3、4年は竹組で米沢先生が担
任でした。長谷川先生はスポーツ刈りの若々しいおにいさん、米沢先生はベ
テランのおじさんという感じの先生で、両先生とも本当にすばらしい先生で
した。今このお二人の先生はそれぞれどうされているのでしょうか?

1年桜組の教室は体育館への入口に近いすなわち南側の一階でした。この教
室と共にある記憶といえば、授業中おしっこが我慢できず、先生にも言う勇
気が無く、何と教室の中でしてしまったという人には言えない(言ってしま
いましたが・・)はずかし思い出があります。

2年の時の教室は東側の古い校舎の確か一階でした。この教室の中の状況と
して今でも思い出すことは、宿題を忘れたのか、何が原因だったか忘れまし
たが、4、5人の男子が(私もそのうちの一人)教室の前に立たされ、長谷
川先生から「ハイ、歯を食いしばって」という声と共にビンタをもらったこ
とが何よりも鮮明に思い出されます。痛かったなあ。

3年竹組は、北側の正面玄関に比較的近い1階か2階にありました。この教
室と共にある思い出は何と言っても、憧れていたクラスメートの白鳥洋子
(陽子?)さんが東京方面へ転校してしまうということで、お別れ会を教室
でしたことです。私は仲間数人で当時流行っていたタイガースの「モナリザ
の微笑み」をほうきを持って歌ったのですが、その時歌う私を見つめる彼女
のすてきな眼差しを今でも忘れることが出来ません。結局、この思いを告白
することは出来ませんでしたが、彼女は何を思って私を見つめていてくれた
のでしょうか?勿論その時私だけをずっと見つめ続けていたわけではないの
ですが・・。私にとって「初恋」という言葉はあのすてきな眼差しとその後
いつも隣り合わせとなりました。

4年竹組の教室は西側に面した校舎(給食の調理場があった所)の2階か3
階の一番北側でした。この教室(これが鹿島小学校における私の最後の教室)
での記憶は、授業中に突然あの十勝沖地震に見舞われたことです。教室が大
きく揺れはじめて、先生の指示で机の下に入ったこと、少し揺れが治まって
全校児童がグランドに集合したとき、小学校の正面上部の壁にひび割れが走
っていたことを思い出します。
こうして振り返ってみると小学校の4年間に校舎の東西南北を一通り経験し
ていたことに気がつきました。

2)ドッジボール
鹿島小学校ではなぜかグランドや体育館の中一杯を走り回りながらドッジボ
ールをしませんでしたか?後に転校した先の小学校で行われていたドッジボ
ールは、バレーボールに似たスクエアーコートを使って、その中と外に敵味
方がそれぞれ別れての行ういわゆる正統的なそれで、ドッジボールというの
は走り回りながらするものだと思っていた私にはちょっとしたカルチャーシ
ョックでした。また、鹿島小学校ではもっぱら野球をやっており、ソフトボ
ールというのをした記憶がありません。転校先の小学校ではじめてソフトボ
ールを経験したのですが、これらの事は鹿島小学校で、私の周囲においてた
またまそうだったのか、あるいは鹿島小学校が全体的にそのような状況だっ
たのか、どうだったのでしょうか?どなたかその辺の事情をお教え願えませ
んか?

3)給食
鹿島小学校の給食のミルクはお椀の形をした金属の食器に入れてもらう脱脂
粉乳でしたよね。途中から瓶入りの牛乳に代わったのかもしれませんが、脱
脂粉乳のことしか記憶にありません。ちなみに転出先の小学校はその時すで
に瓶入りの牛乳でした。

4)マラソン大会
富士見町の道は確か鹿島小学校のマラソン大会のコースになっていましたよ
ね。それとも低学年だけのコースだったのかな?とにかく私の通学路を走っ
た記憶があります。大した距離ではありませんでしたが、生まれてはじめて
マラソンを体験し、折り返し過ぎから急に腹痛を起こしながらも、一応完走
したように記憶しています。それが1年か2年の時で、4年生の途中まで小
学校に在学していましたが、このマラソン大会に参加した記憶が何故かこの
一度きりしかありません。喘息持ちだったせいかその後は見学していたのか
もしれませんが、その辺の記憶は定かではありません。

5)そろばん塾
富士見町のお風呂屋の南隣の集会所でそろばん塾が行われており、私も小学
校の2〜4年あたりに通っていたのですが、そのそろばん塾の先生のお名前
が思い出せません。眼鏡をかけたちょっと甲高い声の男の先生でした。どな
たか知っておられる方おりませんか?このそろばんの関係で常盤町の中学校
に何度か昇級試験を受けに行ったことも思い出しました。

長々とすいません。今回はこれくらいにしておきます。

(224)山史 (6) 投稿者:今井 一郎  投稿日:12月16日(水)07時59分52秒

山史(6)

三菱鉱業株式会社 大夕張鉄道

自、明治39年〜至、昭和38年  58年史
   (前投稿からの続きです)

(9) 橋梁基礎工事

 鶯沢より宝沢に至る橋梁基礎工事中、鶯沢は梅原組に請負はしめ
昭和2年8月22日着工より順次進められ、同年11月25日これを完了せり。
更に宝沢は昭和3年5月1日大井組をして着工、同月25日これを完工せり。

(10) 橋梁架橋工事

 橋梁は鋼製上路式結構径間48呎及びロールIビーム19呎6吋の2種を使用、
橋台は基礎コンクリート上に鋼材を組立てるものにして、本道は勿論全国にも
希なものであり、渓沢水路面上100呎以上の高所に架設される様は一大偉観を
失わず、全長6哩区間に橋梁の数8個所を有するもその類例が少ない。
 橋桁は横河橋梁会社に於て加工、海路室蘭港を経て南大夕張に輸送、
昭和2年12月中旬より昭和3年2月初旬に亘り10数回分送到着、
南大夕張より書く橋梁現場に至る搬入方法は、南部在住請負人佐藤庄太郎に
指定請負わしめ、昭和3年2月初旬より3月初旬に至る硬雪期間中、馬鉄線上に
馬艝をもって運搬せしめた。
 架橋工事は小樽の橋本組に落札、昭和3年4月1日鶯沢架橋工事着手より
順次進められ、8月13日宝沢架橋工事をもって完了せり。
各橋梁の中心哩程及び橋長は次の通り。

番号  橋  梁  名   中心哩程     橋 長    径間 連数
               哩  鎖 節 分   呎 吋 分   呎 吋
1    鶯    沢    5.54.74.5   165.0.0   19.6×8
2     吉 野 沢   7.02.83.8   187.9.0   48.0×3
                          19.6×2
3 五十鈴沢  7.39.68.5   264.1.5   48.0×5
                          19.6×1
4 香 椎 沢  7.67.80.9   264.1.5   48.0×5
                            19.6×1
8    明 石 沢  8.22.15.4   060.0.0   19.6×3
5 旭    沢  8.43.47.5   236.4.5   48.0×4
                             19.6×2
6   竜 田 沢  8.76.30.0   291.3.0   48.0×1
7 宝    沢  9.43.89.5   242.0.0   48.0×5

(11) 軌条敷設工事

 軌条敷設工事は直轄作業として昭和3年5月3日、4哩55鎖より作業開始、
トロリーによる繰延法により順次延長し、6月1日に至り6哩70鎖吉野沢附近の
馬車軌道との接合点に達し、こゝに用度係の臨時中継倉庫を設け、
6月1日より美鉄より借受けの3080号機関車に8屯積無蓋貨車を連結運転、
材料及び物資の輸送を行い、以北は馬車軌道により中継搬入せしため、
以南の馬車軌道を撤去せり。
 更に8月2日より以北の軌条敷設工事を続行、下旬に至り9哩10鎖附近に達し、
再び仮中継所をこゝに移して以南の馬車軌道を撤去せり。
9月下旬、軌道敷設は北部駅(現大夕張駅)構内に達し構内配線工事も完了、
11月27日には通洞駅(大夕張炭山駅)構内終点10哩65鎖に達し、
当初目標の昭和4年9月完了に先立つこと10箇月にして北部延長工事を竣工せり。

(12) 巨熊射殺と香椎沢山火
 
 昭和2年は早春より通洞方面において熊の出没頻繁にして、入山時常に脅威を感ぜしが、
9月8日早朝、定夫中鉢芳治、仝船場石太郎の両名は竜田沢附近に於て工事中、
険を犯して巨熊1頭を射殺せり。
 昭和3年8月20日、4号香椎沢橋梁上、軌条敷設工事中橋脚附近より原因不明
(煙草の吸殻と推定される)の出火により、東南の風に煽られ瞬く間に山手御料林に延焼、
一時殆ど絶望と思われたるも幸い風向きの変化と各員必死の奮闘により7、8町歩の
延焼に止まり午後1時鎮火せり。

(13) 機関車及びその他の車両

 建築列車用蒸気機関車3080号は、元より美鉄において運転不能なるものを
応急修繕の上、昭和3年6月1日より無理に使用したもので、運転中屡々
故障を生じ且つ蒸気漏洩のため6哩間を一気に運転するを得ず。
途中停車により蒸気の快復を待ち再び運転を再開する状況にして、
9201号蒸気機関車を使用する10月末に至る5個月間を辛じて運転を継続せり。
10月24日、予て払下出願中の9201号蒸気機関車が到着、
これに若干の修繕を加え10月31日より運転を開始したが、
これより先建築列車に便乗する者多く、線路も稍整備せるをもって12月12日から、
美鉄より同時払下の客車1両を連結1日4回の運行をなし、
更に翌昭和4年2月4日より客車2両を連結運転せり。

(14) 大夕張駅及び通洞駅

 北部駅は中心粁程9哩60鎖、主として旅客の乗降及び購買会用品等
少量の貨物を取扱うを目的とし、通洞駅は中心粁程10哩40鎖とし、
10哩25鎖より終点10哩65鎖に至る大構内とし、一般乗降客を取扱わず
専ら石炭積出し及び砿業所物資の積卸しを行う目的として5個の配線を行えり。
 昭和4年1月22日、従来の大夕張駅を南大夕張駅と改称し、
新に北部駅を大夕張とし更に通洞駅の名称を付せり。


(15) 送炭開始

 昭和4年5月7日、美鉄より9237号蒸気機関車及びト号車2両の
譲渡引渡しを受け、北部選炭場の使用と相伴って昭和4年5月8日、
9201号蒸気機関車の運転する建設列車をもって待望の北部炭送炭を開始せり。

         続きます。

追伸
  前回の投稿で、炭山駅脇の元三菱バスの事を書きましたら
三菱バス保存に関わっておられる坂井さんからメールを
頂きました。
 来春、函館で保存されるとのことです。
 ありがとうございました。

(223)DIR 雅人 投稿者:kikuti tosihide  投稿日:12月15日(火)22時32分12秒

大変ご無沙汰しております。富士見町の俊坊ですよ。
年賀状を書いているうちにホームページに気が付き
書いています。
まだただで入り込んでいるのでアドレスがありません。
体験時間が終了してどこかでアドレスを取得したら
また書き込みを入れておきます。
父と母は25年ぶりに大夕張を訪問したそうです。

(222)すごい!!田中雅美選手 投稿者:中島 早苗  投稿日:12月12日(土)01時42分39秒

お久しぶりです。
交流会の大成功、おめでとうございました。
楽しかったお話は十分に聞かせていただきました。
「ウラヤマシィ〜!!」の一言につきます。
次回は必ず参加させていただきますネ。
ところで、
以前に姉が投稿した中でもありました、田中氏のお嬢さんで水泳に頑張っている『田中雅美選手』のことですが・・・
アジア大会の大活躍、すごいですね。とってもうれしくて・・・・
みなさんと一緒に喜びたくて、PCに向かってしまいました。
田中氏は鹿島中学校時代、男子バスケット部の鬼顧問として有名でしたが、私たちスキー部の監督でもあり大変お世話になった
先生です。
私が、インターハイで北海道へ行った時に、二日間だけ自由時間をもらい、大夕張の田中氏の新婚家庭にお邪魔しました。
奥様は女子体育を教えて下さった宮崎先生で、私の大好きな先生でした。
お二人の間には生まれたばかりのかわいい女の子がいて、私に
も抱かせてくれたのです。
赤ちゃんを抱いたのは初めての事でしたので、すっごい緊張したのを今でも覚えています。
その赤ちゃんが今では世界に翔たく大きな女性になろうとは・・・
誰が想像したことでしょうか?
すごいゾ!!雅美ちゃん!!
がんばれ!!雅美ちゃん!!

(221)山史 (5) 投稿者:今井 一郎  投稿日:12月10日(木)07時53分41秒

山史(5)

三菱鉱業株式会社 大夕張鉄道

自、明治39年〜至、昭和38年  58年史
   (前投稿からの続きです)

(4) 馬車軌道

 通洞に至る鉄道予定線は、険崖あり渓沢ありて起伏甚だしく、
急速に工事を進むるを得ず。開坑準備に必要の機械、物資の緊急搬入のため
鉄道建設に先立ち、7万余円の予算を持って昭和2年9月1日より着工せり。
馬車軌道は45封度軌条をもって軌間2呎6吋、5哩65鎖附近に手動巻上機を設置。
川側低地まで急坂を降るスイッチバックとし、これより北部に向い6哩70鎖附近に於て
鉄道予定線に至り、渓沢は山側を迂廻しつゝ仮桟橋を施設、全力を挙げて工事を進め

10月12日通洞附近に達することを得た。
 馬車軌道完成により請負人佐藤庄太郎をして機械及び物資の搬入を開始せしが、
5哩65鎖附近の馬匹難所である巻上線脇の岩山上に佐藤組馬頭観音を建立せり。

(5) 第2期道床工事

 第2期道床工事は5哩75鎖より7哩10鎖に至る1哩15鎖間とし、6哩55鎖までは梅原組、
以北を大井組に請負はしめ、昭和2年9月1日着工、翌昭和3年6月15日これを完工せり。

(6) 第3期道床工事

 第3期道床工事は7哩10鎖より10哩16差に至る3哩06鎖の区間としたが、
本工事中最も大なるをもって請負人の人選には相当の考慮を払い、
入札の結果小樽在住の橋本組に決定。昭和2年11月4日着工せしが、
土質甚だ不良にして法面崩壊のため切取土砂著しく増加、竣工予定期日に
遅れる事2旬にして昭和3年9月21日これを完了せり。

(7) 第4期道床工事

 第4期道床工事は10哩16鎖より終点10哩65鎖に至る49鎖の区間とし、
第3期工事と同様橋本組に決定。昭和3年7月23日着工せしが、
工事区域は全般にわたる湿地帯にて切土個所より噴出する水量多く
工事甚だ困難を加えたるも、昼夜兼行の努力により同年10月25日漸くこれを完了せり。

(8) 渓沢の名称

 渓沢は工事中の沢より順7号の沢と仮称せしが、昭和2年11月4日
勝呉所長により次の如く名称を付された。
      1号の沢  鶯     沢
      2号の沢  吉  野  沢
      3号の沢  五 十 鈴 沢
      4号の沢  香  椎  沢
      8号の沢  明  石  沢
      5号の沢  旭     沢
      6号の沢  竜  田  沢
      7号の沢  宝     沢
            名  取  沢 
             初  音  沢

 明石沢は当初暗渠布設の予定なりしも、途中これを橋梁に変更のため
後これを8号の沢と称し、又名取沢は以前に地形の沢又は鳴海の沢とも称せり。
(地形の沢の語源は地形測量隊より出ず)

                       続きます。

  追伸

    昨日、フラフラと大夕張に行ってまいりました。

    鹿島生活館は解体中、炭山駅は解体終わって、
    残材が燃やされていました。
    砿業所の事務所も解体中。

    廃バスファンのはしくれとして気にかかっていた
    雪で潰れかけた車庫に保存されていた、元三菱バスの
    廃車となった、イサオ製作所の自家用バス。
    フロントガラスに「立入禁止、三菱バス保存会」
   の張り紙があったことで、ホッとしました。
    あれくらい保存状態の良い同形式は無いですから。
    どの地で保存されるかわかりませんが、保存会の
   方に感謝します。
    美鉄バスも、三菱色はなくなりましたから…・。

(220)12月5日の交流会 投稿者:佐藤 次男  投稿日:12月08日(火)22時33分40秒

先日12月5日 札幌にてこのHPでも呼びかけた交流会をおこないました。
世代もばらばらで、大夕張という繋がりのもと、15名の方が参加してくださり
とても楽しい時間を過ごすことができました。

池田屋のおばさんも、昔とぜんぜん変わりなく会った瞬間「あ!池田屋のおばさんだ」
と感激してしまいました。
正直に言って会うまでは、おばさんどんな顔していたかなと思っていたのですが、
会った瞬間、おばさんの記憶が鮮明に思い浮かんできました。

それぞれ参加してくださった方とお話をしたり聞いていると、意外な所で繋がりがあり
たとえば、参加してくださった方の一人は、私の同級生のいとこでその方の親が
近所に住んでいたり、他のところでは「え!君はXXの弟かい。」など参加された方の
同級生の弟さんがいたりしていました。

大夕張で過ごした時は、違うけれど参加された方々と共通の思い出を共有している
ということを実感でき大変楽しい有意義な日を過ごすことができました。

飯田さんをはじめ今回参加してくださった皆さん本当にありがとうございました。

(219)久しぶりに投稿します。 投稿者:西村武博  投稿日:12月08日(火)22時14分25秒

投稿は、2度目です。久しぶりにこのホームページを拝見し
投稿記事が飛躍的に増えているのに驚きました。成松さん等の
記事にあります池田屋さんのおばちゃんは、私の同級生の
お母さんに当たり、お世話になった記憶があります。息子さん
とは、野球部の仲間で親しくしていました。また、投稿にあり
ます岡本さんも同学年で、代々木アパートの向かい側4階同志
でやはり野球をして遊んだ記憶があります。
私は、道内なのでこの夏に暇がある時に何度か大夕張へ
足を運びました。行く度に感じたことは、懐かしいという感情
と、寂しいという感情の入り交じったものです。
大袈裟に言うと、ここでの生活は何だったのだろうかと考えて
しまいます。冬は極度に寒くどっさり降る雪。家の裏側は、
除雪をしないと屋根と地面がくっついてしまうことがあった。
逆に夏は暑く部活動の練習では、死ぬかと思ったことがある。
小学校、中学校はクラス数も多く僕たちの学年はF組まで
あった。先生も変わった人がいっぱいいて、...
しかし、今行くとそこには何も無いのです。まるで嘘の
ように静まりかえっています。暗くなると気味が悪くなる
だろうと思うほど何も無く人もいません。都会生まれの人
には、故郷が無くかわいそうということがありますが、
故郷が有って消えていくのも別の意味で寂しいものです。
ついつい暗い話を書いてしまいましたが、仕事で辛く
なった時等に思い出すと少し気が休まるのは、やはり
故郷大夕張です。

(218)思い出のおもちゃ箱を開けて 投稿者:成松 泰彦  投稿日:12月08日(火)13時14分53秒

先日、飯田さんのこのHPで知り合った?まだ見ぬ方々と会う機会に恵まれ
参加させていただきました。
同じ頃、同じ思いをしていた方、早くから大夕張を離れた方等々、世代を超
えて…   
私自身、15年しか暮らしていなく離れた後の生活の方が長くなってしまって 
いますが、皆さんふるさとを思う気持ちは一緒でした。
外は凍えるような寒さなのに、池田屋のおばちゃんを中心に暖かくそして
懐かしい話しに、そこだけ花が満開に咲いていました。

斎藤さんもおっしゃっていましたが、パソコンという画面だけの付き合いで
終わるはずの私達が「大夕張」という絆のもと集まり、生の声を聞いて会話
し、みんなで思い出の宝箱をひっくり返して本当に楽しいひとときでした。

たとえば、僕らの世代の会話……
同級生の恵美子さんが「ねぇ、ねぇ、台所の水道の横に大きなカメが置いて
なかった?」って。「そう言えば、ひしゃくで水を汲んだよな、でもどうし
て水道があるのにカメがあったんだ?」って具合…
すかさず、ちょっと前の先輩達が「僕等の時代は1件、1件に水道はなくって
外付けの水道から自分宅用の長いホースを引っ張って、各自そのカメに水を
ためたんだよ」、「そうそう冬は凍結防止のために、水を出しっぱなしにし
てたよね」って。
恵美子さんが友人に同じような会話をした事があるそうです。そうしたら
「えっ!家に水道がなかったの?」で、会話が途切れてしまったとか… 

            …≪皆、大爆笑≫…

「大夕張で育った人間じゃなっかたら、なかなかわかんないよな〜」
その通りでありました。             等など

今回企画してくださいました、斎藤さん、次男君本当にありがとうございま
した。
そして、まだ見ぬ皆様へ…  
今度はぜひあなたの思い出箱を開けてくださいませんか?

(217)温かくて楽しい時間 投稿者:斎藤 敏幸  投稿日:12月06日(日)23時51分46秒

沢山の人々が離散した閉山から25年の時間が流れた1998年12月5日,大夕
張と関わりのある15人の仲間が交流会に集まりました。
上は67才から,下は1才7ヶ月の幼児まで世代を超えた人々の集まりです。大夕
張で過ごした時間の長さも交友関係もそれぞれ違いますが,このHPを通じた絆に
より集まることができました。

パソコンを終了させれば画面が消え,全てのライン切れてしまう。ただそれだけの
機械の箱です。でも私達はこの機械を通じて,飯田さんのHPと出会うという偶然
に恵まれ,旧知の友であるかのように心を通わすことができました。

池田屋食堂のおばさん(池田やえさん)もお元気でした。現在67才ですが,今で
も現役で仕事をされております。
それぞれが兄弟,姉妹,友人の話をすると皆どこかで繋がりがありました。まだ学
生の頃は,そんな繋がりが閉塞的で窮屈に思え反発したこともありました。
でも参加者全員が確認できたことがありました。それは,今各自の中にある人間的
で良い部分は,あの小さな街の中で育まれたということです。
たぶん,このことに気づいた時点で,大夕張は私達の中で永遠の命を持つことがで
きたのだと思います。

本当に,温かくて,楽しい時間を共有することができました。
今回参加できなかった方も,次回はぜひ顔を出してみてください。
池田屋食堂のおばさん,飯田さんをはじめ参加者の皆さん,ご苦労様でした。

(216)山史 (4) 投稿者:今井 一郎  投稿日:12月06日(日)16時05分03秒

山史(4)

三菱鉱業株式会社 大夕張鉄道

自、明治39年〜至、昭和38年  58年史
   (前投稿からの続きです)

第3章 北部開発
  
1  北部開発計画

 大正7年頃より北部開発計画あり、その調査を開始したが、
この産炭を如何にして搬出するかが当時の大きな課題であった。
 その第1次案として、北部、万字間に鉄道を建設する事とし
万字の石川呉服店を根據として調査を開始するも急坂のため廃案となった。
 大正8年、第2次案として独逸人「ベンネッケ」氏により通洞案
(現在の鉄道をもって夕張川本流を溯り、通洞をして北部炭田に達するもの)が
立案されたが工事の着手には至らなかった。
 第3次案として、大正10年頃、現遠幌駅附近より遠幌加別川を溯り、
北部炭田鹿島沢附近に達する鉄道を立案測量を開始したが、
全線40分の1(1000分の25)の急勾配となる上、延長40鎖(800米)に
及ぶ隧道の外、2、3ヶ所の隧道を必要とする悪条件のため実現に至らず。
 更に大正12年に至り第2次案を最良とし実測を再開せるも遇々関東大震災のため
中止のやむなきに至れり。
 大正15年8月、俄に北部開発の議起こり、採炭方法は緒案再検討の結果
第2次案の通洞案に決定。専用鉄道は既成線4哩55鎖地点を起点とし、
夕張川本流に沿い6哩10鎖を延長、昭和4年9月完工の目標をもって
大正15年11月上旬より工事を開始せり。
 
2、 北部延長工事
   (1)第1期道床工事
   
 道床工事は延長6哩10鎖にも達する長区間のためこれを4期の工事区間 
に区分せり。
 然るに二股を去る僅に56鎖なる途中(5哩31鎖より5哩40鎖に至る)
に青葉峠(俗称ダニ峠)の険崖あり。これを開鑿しなければ一切の機械及び
物資を搬入する事を得ず。4哩67鎖より5哩75鎖に至る1哩08鎖間をして
第1期道床区間とし、4哩67鎖より5哩42鎖までを大井組に、以北は梅原組をして
大正15年11月上旬より着工、断崖に命綱を用うる難工事であったが遂にこれを
克服。昭和2年8月31日これを完了せり。
 当区間に於ける工事中、土工の切土誤魔化しのためか、中心杭を
川側に振られ、予定の8鎖(半径160米)曲線が6鎖半(半径130米)となり、
軌条布設の際判明せるも修正の暇なく、8鎖曲線として監査を免れたが、
後、列車運転に際し第2、第3動輪にフランジのない9200形式蒸気機関車の
脱線する事屡々であったが後これを正規に修正せり。

   (2)専用鉄道延長認可

昭和2年3月17日付をもって、鉄道省陸運監督局に対し、
二股・通洞間専用鉄道敷設免許の申請を提出するも、
工事に当り認可を受くる暇なく、一時これを物資運搬道路開鑿の名儀の下に
御料地を借地し工事を進めしが、昭和2年6月15日監第1494号を持って
正式免許を得たので、線路中心より左右各20間(36.36米)を借地し
工事を進めることゝせり。

(3) 大夕張砿業所独立と鉄道係設置

 昭和2年4月8日、本店技術部より技師、沢田梅太郎氏来山、
はじめて工事予定線を踏査帰任、4月10日には旧大夕張炭砿直轄の鉄道係を設け、
事務所を用度係事務所(既成線終点4哩70鎖の山川附近)内に置くこゝとしたが、
翌5月中旬専用鉄道工事担当者として沢田技師正式発令、同月22日着任した。
更に従来美唄砿業所の支抗として稼業を続けてきた大夕張炭砿は、
昭和2年6月10日付をもって新に参事、勝呉英初代所長を迎え
大夕張砿業所として独立したので、北部大夕張開坑事業は一切当所に移管され、
超えて7月11日新に鉄道係を設置沢田技師を鉄道係主任として専用鉄道延長工事を
推進することゝせり。鉄道係事務所は工事の進展に伴い
昭和3年5月、明石沢橋梁下流約50米地点に移転し、測量隊の合宿と併置したが、
昭和4年10月北部事務所(現本事務所)落成により移転せり。

(215)楽しい会でした 投稿者:飯田 雅人  投稿日:12月06日(日)13時47分06秒

昨日はあの池田屋のおばさんを交え,みなさんの
ふるさと大夕張への熱い思いや,
『化石とり』『スキー場』『べんじょば』『魚つり』
『お祭り』などなど・・・・
尽きることのない豊かな思い出ばなしを聞くことが
できて,とても楽しかったです。
どなたかもおしゃっていましたが,豊かな自然と,
エネルギッシュでありながら,大らかな大人社会の
中で私達は育ってきたのだなとつくづく感じます。
あったかくて,ぬくもりのある雰囲気に時のたつこと
も忘れてしまいました。

これまで,投稿やメールを通してお話していた方々と
実際にお会いしてみると,初体面なのに旧知の間柄の
ように感じ,不思議な感じがしました・・・。

これっていいものだな,とその時思いました。
昨日はどうもありがとうございました。
そして,これからもよろしくお願いいたします。

(214)松田憲典君を知りませんか? 投稿者:仙台市 鳥崎  投稿日:12月04日(金)00時09分36秒

はじめまして。
私は仙台市に住むトリサキというものです。高校の同級生をさがしています。
   
    NHK学園出身の松田憲典君32才。実家は岩手県。

夕張で小学校の教師をしているはずです。
誰か、彼を知っている方がいましたらメールで連絡下さい。
おねがいします。

(213)品川さんを知りませんか? 投稿者:今井 一郎  投稿日:12月03日(木)20時02分17秒

 皆さん、おそらく予想外の大雪で苦労されていることと思います。
 私の記憶では、南部は江別の倍、鹿島は南部の倍雪があったと思いますが、
今年は実際どうなんでしょうか?
 私は、自宅のある大麻の公団で借りている2台分の駐車場と、除雪当番だった故
入口の前と、野幌の事務所の前の除雪でクタクタです。
 今頃、南部の幌南住宅の管理人をなさっているS氏(元 南大夕張駅勤務)を
たずねると、「今年は雪が少ない。札幌なんか大雪でひどいべ」と、毎年私に言います。
 彼は、雪が多いと「田舎」。雪が少ないと「都会」。の感覚で、意地っ張りなんですね。
 
 南部からシューパロ湖の湖岸を北上すると、路肩の雪が心なしか多くなって
いるような感じがして、時々、キツネやリスなんかが山側からころがってきて、
ほのぼのしていたら、明石町に入ると「ドーン」ってな感じで驚いた記憶があります。
 積雪地の皆様は腰痛、及び筋肉痛にご注意下さい。

 ところで話は変わりますが、実は私は三菱の鉄道に入る前に、南大夕張の下請の
T産業で、主に南1卸6片〜7片あたりの仕繰で拡大と盤打をやっていたことが
ありまして、丁度、大夕張放火殺人保険詐取事件でテレビがその報道をやっていた頃です。
 T産業で「トミー」と呼ばれていた先山の別れた奥さんと子供が殺され、今年、
主犯の日高夫婦が死刑執行された事件ですが、
私は、当時直轄の組合の鉄道自治会の事務局長をやっていた方と知り合い、その
力添で鉄道課に入る事ができましたが、その後、あの62名が亡くなったガス突出
坑内火災事故でT産業での仲間は殆ど亡くなってしまいました。
 九死に一生を得た品川さんという方がいて、暫くは面会謝絶になっていましたが
その後、南部の炭鉱病院の大部屋に移ったといううわさを聞きお見舞いにうかがいました。
 目と鼻の穴と口を残して、体中、包帯で、それ自体私にとってはショックでしたが、
品川さんは「オレ以外、みんな死んじまった」と、包帯のなかの目に涙を浮かべたのです。
今でも忘れません。
 大夕張掲示板をのぞくうちに気になってきました。品川さん、今、なにやってるのかなって。
 品川さんは大夕張時代は経理課にいたそうですが、どなたか消息をご存知の
方はいらっしゃいませんか?
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