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2002年    
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平成14年 2月 先頭にもどる


(1790)さっそく練習?しました…土屋様 投稿者:千古のみどり  投稿日:02月28日(木)21時34分53秒

 さっそく、我が家にある『ヒットポップス大全集』の中から『終着駅』を
二度ばかり練習してみました。
♪一度離したら〜 二度とつかめない〜愛という名のあ〜たたかい
 心の鍵は〜(サビにつき熱唱)
ついでに『恋の奴隷』も歌ってみました。奥村チヨの歌は、この二曲でした。
ちなみに佐々木新一の歌は『恋の山手線』ではなく、『あの娘たずねて』
だったと思いますが…。
勉強はにがてでしたが、歌ならかなり覚えていますよ。

こんな暖かい二月、凍れない北海道は初めてです。
『撒き餌』の効果はどうかは、『撒き餌』によるかもしれませんが、少なくとも
過去に食べたかった『ジャムパン』では食指は動かなかったと思いますよ。
それでも、今時、寂しかったといってもらえるなんて、果報者の鶴だと思います。

 『中高年対応型』のコンパニオンでも、「それなり」のところでは「それなり」の
「ニーズ」があるようですね。不況の折り、ありがたい話です。
「なんとやらの夕べ」というのは、お酒好きの方には垂涎ものではないでしょうか。
それこそ『撒き餌』になって、どなたかが、かぎつけてくるのではないでしょうか。
チャットの方で、やけに日本酒で盛り上がっていたことがありましたよね。

(1789)『それ』って、なぁに 投稿者:久々湊 眞一  投稿日:02月28日(木)20時56分18秒

小学校5年の時に、何故か化学者に憧れて、試験管やらビーカーを買ってきた。
長年シコシコと貯めていた小遣いを、思い切り良く全部これに充てたのでした。
「何に使うの?」と両親から咎められたが、案の定、実験のアイテムも無くて
「ただ透明の容器を眺めて磨いて、ニタニタしていた」だけであった(笑)。
目盛りのついたビーカーは、母が調理(分量測定)用に流用したので、全くの無駄
とはならなかったが、試験管は限りなく無用の長物に近かった(汗)。

しかし、学校へ向かって歩いていた冬の朝に、突然これらの容器の使い道を思いつ
いた。学校では、隣席のE子(何でも知っていた!)に作り方やら材料を「それと
なく」相談したのだった。学校が終わり脱兎の如く家に帰って『それ』の材料をか
き集め。そして、いよいよ試験管とビーカーのお出ましです。
まずビーカーに材料を入れ、少し暖めながら透明のガラス棒で攪拌して『それ』の
元を作る。この液体を試験管に注ぎ入れ、割り箸が真中になるように立てる(これ
が難しい、輪ゴムを利用した)。そして試験管を外に持っていき、雪の中にすっぽ
り埋めてセット完了。数時間置くと『それ』が目出度く出来あがります。
もうバレバレかしらん。
『それ』は、牛乳と砂糖を原料とした『ミルクアイスキャンディ』でした。ところ
が、試験管からキャンディが中々抜けないのです。大夕張の厳寒はすさまじく、か
ちんかちんに凍りついていたのです(試験管って丈夫ですね)。ぬるま湯につけて
ソロソロ抜きましたが、やや細身の長〜いアイスキャンディが出来あがりました。
味は良かったと思いますが、苦労した分、旨いと感じたのかも(笑)。
大夕張人は、結構、似たような事をやっていたのかもしれませんね。

つまらぬ推理仕立文で遊んでみました。飯田さん掲示板で遊んですみません。

(1788)Mt.レースイ来月末で休止・・・ 投稿者:飯田雅人  投稿日:02月28日(木)20時11分30秒

ここ数年,冬の大夕張に行くことを口実に,夕張のMt.レースイに何度か
家族で行っています。12月には,高橋歌子さんの投稿にもあったように
大勢のサンタクロースがスキー場をにぎわしました。
札幌から近いし,がんばってほしいのですが・・・。

http://www.hokkaido-np.co.jp/Php/kiji.php3?&d=20020228&j=0024&k=200202276772


(1787)夕張岳の花 はがきに 投稿者:高橋歌子  投稿日:02月28日(木)20時09分40秒

道新読んでいる方は知っているかと思いましたが、道外の方も多いよう
なので・・・

自然保護団体ユウパロコザクラの会が、札幌の写真家梅沢俊さんが夕張
岳で撮った高山植物の絵葉書を作り、販売しているそうです。
もちろんユウパロコザクラもあります。
六枚入りを二種類、各三千組作ったそうです。
二種類一セットにして700円で販売。送料140円。
申し込みは郵便振替02740−0−59435 ユウパロコザクラ絵はがきへ。

(1786)拝啓 千古のみどり様 投稿者:土屋 望  投稿日:02月28日(木)17時53分28秒

雪に埋もれてしまったのか、それとも早とちりで一足も二足も早く
シベリアへご帰還召されたのか、近頃ちっともその優雅なお姿をお
見かけ出来ず寂びしかったのですが、お元気そうで何よりです。
茶殻の代わりに泣き所の「ジャムをタップリ塗ったとらやの食パン」
を撒き餌におびき出そうかなどと、姑息なことを考えておりました。

今、掲示板で話題になっている「北国の青い空」..いいですね〜。
全然関係ないかも知れませんが、歌っていた「奥村ちよ」は私と生年
月日が一緒です。
飯田さんが書かれていた「終着駅」も奥村ちよの歌で♪落ち葉の舞い
散る停車場に〜♪..「たいしていかった」です。
その内に、zinyちゃんを出し抜いて、ホテルサンフラワーの「なじみ亭」
で『中高年対応型コンパニオンメンバーと銘酒「鍛高譚」の夕べ』を三浦
支配人には内緒で開きますので、その折には「北国の青い空」を歌って聴
かせてもらえませんか?..「恋の山手線」もなかなか良いけどね。

zinyちゃんは中学生の頃から風呂巡りをされていましたか..ン〜。
今の渋さはその頃から育まれていたんですね..。

(1785)田中さんへ 投稿者:野口美代子  投稿日:02月28日(木)12時30分44秒

家のパソコンここ2日位開いてませんでしたので、田中さんのメールまだ読んで
いません。家へ帰るの楽しみです。(会社にて)
あらたにzinyさんも加わって、誰かなとわくわくしています。
もうちょつと書いていたいのですが、今日は昼休みもちっとばかし大忙しです。

(1784)もちろん待っていますよ!zinyちゃん。 投稿者:千古のみどり  投稿日:02月27日(水)22時57分27秒

 常盤町のお風呂の終い湯で、バスケ帰りのzinyちゃんの声を
私は聞いておりました。
 我等ホテルサンフラワーの、寒冷地対応型?じゃなくて、
中高年対応型のコンパニオンとしては、万全を期してお待ち申し上げております。

(1783)Northern・songs 投稿者:奥山道紀  投稿日:02月27日(水)20時03分32秒

新谷保人氏の「Northern・songs」に飯田さんのホームページの
紹介があり、トップページのメロディについても触れられています。
桂さんと同じ意見ですが、私も同感です。

http://www3.ocn.ne.jp/~swan2001/ns010503.html


(1782)北国の青い空で二人が終着駅に 投稿者:飯田雅人  投稿日:02月26日(火)22時14分42秒

歌の部分にさっそく反応してしまいました。
次のページのリンクをコピーして貼り付けてください。

歌は,時代の記憶をよびおこします。


【北国の青い空】
http://www.fukuchan.ac/music/j-sengo2/kitaguninoaoisora.html

【北国の二人】
http://www.fukuchan.ac/music/gs/kitaguninofutari.html

【終着駅】
http://www.toshiba-emi.co.jp/otoku/rm/toct0217_01.ram

(1781)北国の(青い)空 投稿者:ziny  投稿日:02月26日(火)21時45分29秒

zinyもまぜてください。私も同級生でーす。野口さん、話は変わりますが、申し
訳ありません。
私は代々木町なのですが、何故か、3時半?、3時?からの一番風呂を浴びた帰
り道だと思いますが、とらやのパンや、市民図書館あたりで、何故か、つくづく
と空を眺めた記憶があります。多分、今頃の季節、中学の友人と風呂屋めぐり?
をしていたときのことです。もう、37,8年まえの薄い記憶ですが。

会館前の弥生の湯、坂の下の春日の湯、プールの後の栄の湯、消防の横の緑の湯
、中学でのバスケの後の常盤の湯、富士見の内風呂などなど鹿島は草津並みでし
たね。
その頃の北国の空は、青いと言うよりも、哀愁のあるうすい青い色・・この掲示
板のバックカラーみたいな感じがしました。今、関東ですので確かに緯度の違い
を感じます。

でも、私にとっての大夕張の空の思い出は、電信柱の裸電球にシンシンと降り注
ぐ粉雪の空ですね。
北国の青い空とともに、こんなフレーズも記憶の中から蘇りました。

♪ 雲が流れる 北国の街へ あなたが生まれた 心の国へ〜  ♭

斉藤さん(保と同級かな)が言うとおり、
今年も生まれ故郷・こころの国へ帰れるといいですね。みどちゃん・・まって
てね。j子ちゃん今年も帰ろう。・・・・

                         (※)最初の空を見たときの湯は、宝の湯でした。


(1780)快い響き〜お帰りなさい 投稿者:斎藤 敏幸  投稿日:02月26日(火)20時31分33秒

千古のみどりさん,「お帰りなさい」とても快い響きですね。このHPにぴったりの言葉だと
思います。

大夕張の温もりと自然に育まれてきた全国に離散した子供たちが,大人になってまたいつか
「ふるさと大夕張」に帰ってくる。
そんなとき,HPの住人たちは「お帰りなさい」と言って迎え入れる。その言葉の響きが帰っ
てきた子供たちの心に確かな故郷の灯を燈す。
そして,少し現実の生活で疲れた心を満たし,明日からの人生をまた力強く歩んで行く。

これからも,沢山の子供たちが巡り合い,何度も何度も「お帰りなさい」が言えますように。
三浦さん,野口さんへ,そして近い内にここに辿り着くであろう人たちに,僕からも「お帰りなさ
い」を送らせていただきます。

(1779)又また野口さんへ 投稿者:田中  投稿日:02月26日(火)16時24分49秒

どんな人かな??なんて色々想像すると楽しいでしょう!!
千古のみどりさんも私も同級生です。めがねをかけた小柄な人・・・残念ながら
はずれです。その人は多分私の想像が正しければ菊池久美子さんです。
ごめんなさい菊地さん名前を出してしまい。。でも菊地さんも行方が判りません。
どなたかご存知でしたら、お知らせ下さい。
早速ですが個人的にメール出しました。まだ開いていないのでしたら
なるべく早く確認下さい。正しく届いているでしょうか?
お返事お待ちしています。

(1778)千古のみどりさんへ 投稿者:野口 美代子  投稿日:02月26日(火)14時34分17秒

ありがとうございます。
お帰りなさいと書かれてどきどきしてしまいました。
ぺンネームから察して東高卒ですね。「千古のみどり」は東高校歌の歌い始めで
すから。忘れてはおりません。私の事思い出して下さってありがとうございま
す。卒業アルバム等を見たりしたら、田中さん・みどりさんの事が分かるかも知
れません。今しばらく時間を下さい。本名と顔を探し当てて見せましょう。
ナンテね。ちと難しいかな。夢が実現することを願って。
・・・大変でしたか・・・・と問われて
 大夕張の生活の方がよっぽど大変でした・・・・ナンテ言うと母(81才埼玉
県熊谷に健在)に怒鳴られそう。
 高卒で東京へ出て感じた事。東京は文化・教育水準が高く今勤めてる会社は学歴
も高く、学歴社会の一面を見ている様な気がします。東高は普通科だったので進学
目的の面もありましたね。進学しないのだったら商業のほうが良かったかと思う事
もありました。働きながら夜ビジネススクールに通ったり通信教育で簿記の勉強を
したりもしました。若い時1・2度転職して今の会社に至っています。
独身ですので、女一人東京で生きてきたのは大変でしょうと思う人もおりますが、
それなりに住みやすい部分もあります。「東京に憧れて出てきたの」などと言う
のは地方から出てきた人です。本当の東京生まれ東京育ちの人はそのような意識は
あまりないようですね。田舎からすると東京は会社・お店・学校などが沢山あるの
で勉強や働きに来てそのまま住みたければそこに住むも良し、田舎へ帰るんなら
それも良しと言う感覚ですね。田舎もんにしては街の生活には早く溶け込んだと
思うのですが。私が20・30代の頃は企業と言うところは、女性は親元通勤・短大
卒という枠みたいなものがありましたね。田舎から出てきてアパート暮らしで良く
やってるね。エライネ。なんて地方出身の人に言われましたね。田舎も都会も人間
する事差はないでしょう。朝おきたら顔洗って会社か学校行ってお昼に夏たら昼ご
飯・・なんて言うと、それはごもっともですの答えでした。
会社勤め長いとやっぱり主婦業は楽かななどと思ったりもします。
この続きはまた。

(1777)野口さん、お帰りなさい! 投稿者:千古のみどり  投稿日:02月25日(月)19時29分45秒

♪風に巻かれた〜私の髪ぃに…
確か、そんなフレーズで始まりましたね…
35年の時を超えて、はじめはぼんやりと、昨日ハッキリと野口さんの
お顔を思い出しました。
順ちゃんが野口さんを思い出したとき、夢をみました。
東京で野口さんと、別の友人と3人で会って、なぜかカレーを食べながら
昔話をしていました。

紹介でこのHPを知った人、自力で探した人、偶然見つけた人…
全国に散らばった、故郷を無くした大夕張の人…
一人、そして又一人と帰ってきます。
この飯田さんのHPでは住人が、諸手を広げて抱きしめてくれます。
お帰りなさい…大変でしたか…。
どうぞ、ふるさとの温かさに浸かって、ゆっくり休んでいって下さい。

(1776)丸山さんそして妹さんへ 投稿者:野口 美代子  投稿日:02月25日(月)12時47分31秒

投稿ありがとうございます。
丸山さんに妹さんがいらしたのは知りませんでした。
丸山さんもたぶん私の顔はそんなにはっきりとは覚えていないと思うのですが
思い出して下さりそして投稿ありがとうございます。
東京へ出て来て、夕張を知る人は沢山いますが、大夕張を知る人はいません。
私の会社の上司が知っていました。以前は三井系の会社にいて北海道の炭鉱の
中へ見学に入ったことがありその時大夕張炭鉱を知ったそうです。青森出身の人
です。もう一人は地場産業とか地域振興の調査研究をしている人で大夕張に仕事
で行ったことがあると言ってました。大夕張のことを聴くとちょっと懐かしかった
です。

(1775)田中順子さんへ 投稿者:野口美代子  投稿日:02月25日(月)12時30分56秒

覚えていてくださりありがとうございます。
河村先生が亡くなった事もどこにいらしたのかも知りませんでした。
生きていらしたら70才位かなと思っておりました。
田中さんのお名前は生憎記憶にありません。ごめんなさい。
もしかして眼鏡を掛けて小柄な方?振り返ると30年以上も前のことですものね。
個人的にもっとお話を聴きたいのでメ-ルをいただけたら嬉しいです。
メールアドレスは bc015493@imclub.ne.jp  です。
私は東京は北区の赤羽に住んでいます。JR赤羽駅から歩いて数分のところです。
横浜へは電車で1本50分程で行けますヨ。

会社は港区の浜松町・世界貿易センタービルの近くです。
帰る道すがら浜松町の駅の向こうにライトアップされた東京タワーが見えます。
一瞬 札幌のテレビ塔にダブってしまいます。
初めて札幌へ遊びに行った時のことが巡ってきます。広い道路に花があちこち咲き
赤い大きな鉄塔(テレビ塔)に驚いたり、何よりもあの大夕張から出てきてまぶし
かったのは、三越か五番館のショーウインドウの輝きでした。
大夕張から札幌に出るのは、汽車で岩見沢周りで半日位かかったものでした。
バスで2時間位で行けるよう道路が開通したのは中学1年位(昭和37年?)
の時だったように覚えています。お祝いの旗行列に参加しました。

(1774)噂のなおきです。 投稿者:丸山直記  投稿日:02月24日(日)13時32分44秒

野口様、田中様、良く覚えていらっしゃいましたね。
妹の言うようにミサのお手伝いをした覚えはありませんが、
教会の劇をお手伝いした記憶があります。
あれはたしか細川ガラシャ夫人の話だったと思います。
私の記憶ですがガラシャ夫人は私の上級生(お名前を忘れましたが)が
演じられたと記憶していました。
野口さんが書かれていました河村先生には生前に
お会いしたかったですね。
教会は私にとっては別世界を覗くようなところでしたね。

このHPを読んでおりますと「記憶の島」が次第につながってきます。

(1773)野口美代子様 投稿者:なおきの妹  投稿日:02月24日(日)11時15分59秒

野口さんの牛乳配達でその節はお世話になりました。
堀田さんの牛乳はとても美味しかったですね。
教会でもすれ違っていたかもしれませんが、私のほうは野口さんより6才下で
その他大勢の中にいたので視野に全く入っていなかったでしょうね。(笑)
最近、母から聞いて思わず頬がゆるんだのですが、兄はミサの時、
神父様の介添え少年として、黒いロング服に白いスモックの様な
衣装を着て、蝋燭の火を消したりしていたようです。
現在の姿からはとても想像できません(笑)兄は東京におり、掲示板にも
仕事の手があいたら、ひょっこり現れるのではないかと思います。

あの頃、兄が貰ってきた教会新聞にアメリカのユーモア漫画が載っていて、
とても楽しかった記憶があります。カラーで黄色、青、黒のコントラストが
はっきりしていて、車や冷蔵庫が故障して主人公が困ったシーンなどに
豊かで進んでいたアメリカが感じられました。大夕張時代、うちには
洗濯機や(←脱水は無く、手回しローラーでした)ラジオはありましたが
冷蔵庫すら無かったので、今のパソコン生活は夢のようです。
その新聞は私が教会に通うころには残念ながら配られなくなりました。

若くしてお亡くなりになられた弟さん、さぞ無念だったことでしょう。
心よりご冥福をお祈りいたします。弟さんの思い出もそのうち聞かせて
下さいませ。

(1772)焼き鳥の『たつみ』 投稿者:飯田雅人  投稿日:02月23日(土)23時56分19秒

三浦さんの書き込みを読んで,焼き鳥の「たつみ」を探しましたが
わかりませんでした。ですが,寅次郎さんの投稿で岳富町の地図を
見ると,「スマートボール」と「田村商店」の間・・というよりスマ
ートボールのとなりに『山田』とありますから,おそらくそこが,
山田さんのおばあさまのお店だったのですね。

中学校時代,よく岳富町を通り,当時は道路の両側に歩道もありまし
たが,その際には,いつも商店の店先の方を通りました。どういうわけか
線路の土手下側の歩道は歩いた印象がありません。商店街は間口がけっこう狭く
たくさんの店があったように記憶しています。そんな店のいろんな看板
や暖簾を,”ウォッチング”するのが楽しくて通ったような気がします。

岳富町の宝町側は,飲食店が多く,夕方ともなると,店先に暖簾が下が
り,少しあけられた戸口から,いいにおいをさせていて,自分はすかせた
お腹を鳴らして家路をいそいだものでした。

そんな記憶の中に焼き鳥の『たつみ』はありました。

(1771)大夕張寅次郎 様 投稿者:三浦浩信  投稿日:02月23日(土)22時39分35秒

祖母のお店「たつみ」のことをご存知の方がおられて
とても嬉しく思います。
祖母にとって私は初孫だった為、とても可愛がってくれました。
そんな祖母の体調が優れなく、またそんな時にこの場所を思い出し
投稿してみて良かったと思います。

また叔母のことについてのお言葉ありがとうございます。
まだ40歳代での別れは、私にとっても残念でなりません・・・

叔父(山田豊)は、現在札幌でやはり高校の事務の仕事をしています。
そして現在、白髪は増えたものの体型など変わらず
時々一緒に酒を酌み交すこともあり、元気でおります。
叔父との思い出は、昭和40年代ブルーバードの助手席に私を乗せ移動中
踏み切り事故に遭遇したのを憶えています・・・(笑)

私は39年生まれで大夕張には幼い頃にわずかしかいなかったのですが
母や親戚などは「そんなに幼い頃のことをよく記憶してるね」と
驚かれるくらいに、なぜか思い出が多く自分自身
不思議に思えてなりません。

寅次郎様のことは、早速母を通じ知らせたいと思います。
ありがとうございます。

http://www3.ocn.ne.jp/~pretty/


(1770)三浦浩信様 投稿者:大夕張寅次郎  投稿日:02月23日(土)21時54分03秒

「たつみ」は岳富町にあったように記憶しています。
叔母さんの山田久美子さんは、東高の2期生でバレー部で活躍されていました。
とても元気で溌剌とした高校生時代のお姿を思い出しますが・・残念です。
ご冥福をお祈り致します。
叔父さんは、東高で事務のお仕事をしていらしゃった山田さんですよね。
眼鏡の痩せ型の体型で、当時は車をとても大事にしていたことを、三浦さん
の投稿を読みながら懐かしく思い出しました。

三浦さんは39年生まれですか・・若くっていいですね。
39年と言えば、私は東高で部活に没頭しながらも幼い恋に胸を痛め、
未来と将来の区別もついていなかったし、大夕張の外にある社会にも
生活にも思いも及んでいなかった頃でした。
今は、大夕張から遥か遠く離れた地で現実の日々に流されてはいますが、
このHPで懐かしさに触れては、日々減少を続ける脳細胞に無駄とは思い
ますが、水を撒いてやっています。

(1769)南部上空熱気球が飛ぶ! 投稿者:飯田雅人  投稿日:02月23日(土)19時41分28秒

南部に熱気球!すごいですね。
どんな景色が眼下に広がるのでしょうか。
明日は所用があっていけないので,
「誰か写真取ってきてみせて〜」
と叫びたくなる心境です。
きっと明日は大勢でにぎわうのでしょう。
終了後のシューパロ塾のページから目がはなせませんね。
-----------
掲示板での土屋さんのコメントから野口さんや田中さんのやりとり,
その他にも新しく書き込まれた方々の書き込みや再会の様子を拝見し
ていると心がポカポカしてきます。

よかったですね!

(1768)明日・南部に気球が来ます 投稿者:奥山道紀  投稿日:02月23日(土)17時58分53秒

先にも案内しましたが、明日南部に気球が来ます。
午前10時から、子供を優先に先着順の搭乗となります。
乗田さんのホームページ(↓)には気球も飛んでいますが
南部上空から眺める夕張岳やシューパロ湖の景色も格別でしょう。

http://plaza22.mbn.or.jp/~Noritax_World/3rd_yukimaturi/3rd_nanbuyukimaturi.htm


(1767)やっぱりあの野口さん!! 投稿者:田中  投稿日:02月23日(土)14時47分10秒

東京浮草さんのお名前でずっと通されたら、あの野口さんとはずっと判らずに
いたでしょうね。土屋さんのお陰かしら?それと飯田さんのお陰ですね。
当時とても落着いていらしたので、私よりずっと年上かと思っていましたが
ひとつしか変わらないのですね。ひとつ年下の順子と申します。
たぶん 野口さんは覚えていないと思います。無理に覚えていると言わなくても
いいですよ。私の記憶は教会からみの事ばかりなのですが・・・
クリスマスの生誕劇には丸山さんは欠かせない存在だった様に記憶しています。
毎年出ていらっしゃるので ヨゼフ様なのか羊飼いなのか、はたまたどこかの国
の王様なのかはっきり分からないのですが・・・たしかセリフが無いと言われた
野口さんはマリア様の役ではなかったでしょうか???
私からは野口さんや丸山さんは先輩として良く見えていましたが、先輩達から
してみると全然視野の中には無かったと思います。
どうして野口さんを覚えていたのかと言われると、やはり教会があったから
ですね。野口さんが線路でお会いしたという方はきっと河村先生ですよね。
先生はご存知かと思いますが、5年ほど前にお亡くなりになりました。
あの頃の野口さんのお顔は、はっきり思い出す事ができます。
とても 優しそうでちょっと淋しそうでした。憧れの先輩でした。
でも 今はきっとすれ違っても分からないかも知れませんね。
私は、横浜に住んでいますので機会があったら一度お会いしたいですね。

(1766)はじめての投稿です 投稿者:三浦浩信  投稿日:02月22日(金)18時55分28秒

以前にもここの掲示板は見たことがありますが、はじめて投稿します。
私は、昭和39年に代々木アパートというところで生まれました。
祖母は当時"たつみ"という焼き鳥屋を経営しており
私は、祖母の家に幼い頃しばらく滞在していた記憶があります。
母は男1人・女2人の3人兄妹の長女で、旧姓「山田秀代」と言います。

私の記憶の中に、今でも当時の事で憶えていることがあります。
@お風呂・・・街の両端に1軒ずつ・・ここで溺れました(笑)
Aお肉屋さん・・2人の男性兄弟?・・一緒に遊んでいただきました
Bおもちゃ屋・・2軒あったような・・紐引きやクジ引き・プラモデルも!
Cバチンコ屋・・祖父が他界する前よく一緒に連れて行ってくれました
当時は玉を指ではじいて入れる方法の為
幼ない私は数個の玉を同時に入れ、はじけなくなりました(笑)
Dたつみのお客さん・・そんな私にディズニーのパチンコのおもちゃを
買ってくれたお客様がいました
Eつばめさんのお姉ちゃん?・・ちょっと離れたところに住んでいて
遊んでくれた記憶があります。
F♪シューパロ〜に風渡り・・・♪

現在私は岩見沢市で商売をしています。(これも祖母の血統でしょうか?)
母と祖母も岩見沢市に住んでおりますが
最近祖母が精神的に弱ってきているようで入院をしています。
また叔母である母の妹(久美子)も若くして他界してしまいました。

大夕張の事は幼き頃のことで、わずかな期間のことしか
記憶に無いはずなのに、ついつい懐かしくて書いてしまいました・・・
なぜか懐かしく、なぜか涙が出てきそうになる事があります。

幼き頃の私が記憶した大夕張はたくさんの暖かい人々の住む
活気に溢れたとても懐かしい場所。
当時は"ひろちゃん"と呼ばれいろいろな人にお世話になったよう思います。

長くなりましたが最後にこの場をお借りして「大夕張ありがとう・・」

http://www3.ocn.ne.jp/~pretty/


(1765)田中様へ当たっています 投稿者:野口美代子(東京浮草)  投稿日:02月22日(金)13時09分58秒

そうです。たぶんそうだと思います。
小学校5年〜高校2年の初めまで通っていました。母が宗教嫌がるので止めま
した。お下げ髪でした。
 高校3年の時堀田牛乳店で1年ほどアルバイトをしました。
夕方30本ほど線路の上のほうの家に学校が終わってから配達に行きました。
1軒だけ高校の先輩の家がありまして、集金に行くといつもはお母さんかお父
さんが出て来るのに1度だけ先輩が出て来てくれて、ちょっと恥かったですね。
丸山なおきさんと言いました。その時は北大に行ってました。お父さんか音楽の
先生でした。中学の頃だったと思うのですか、丸山さんも教会へ遊びに来ていて
クリスマスの時生誕劇に一緒に出ました。セリフは全然なかった記憶です。
堀田牛乳店のアルバイトの話に戻りますが、もう卒業と言う最後の集金の時、各
家庭からもった集金のお金がたった1円何処かで落として足なくなってしまいま
した。近所で遊んでいた弟に家から1円持ってくる様に言ってお店の近くの線路
の際で待っていた所へ教会の先生(女性・飯田さんが通っていた聖心幼稚園の所
有者あるいは経営者)が通りかかりました。「本当は線路を通ってはいけないと
思っていたのですがどうしても今日は線路を通りたくなったの。野口さんに会う
ためだったのね」ともう2年近くも教会へは行ってなかったのに、私のことを忘
れずにそして会えた事を喜んでくれました。
堀田牛乳屋さでその日の配達を終えてお店へ戻ると子供の勉強を見てくれなんて
言われまして小学校の女の子の勉強を見てあげました。東京へ行くと言ったらお
餞別1000円下さいました。あの頃の千円は今の千円の何倍も価値がありました。
有線放送と言うのか牛乳を配達していると歌が流れてきました。北国の青い空でした。
まさに晴れた日は青い空に白い雪でした。
東京へ出てきて、北国の青い空を聴くと、堀田牛乳屋と教会と故郷の風景とが輪に
なって思い出します。あの頃の未来への不安もちょっぴり伴って。
1円持って来てくれた弟は1993年にガンで他界しました。結婚するのが遅かっ
たので男の子が2人いますがまだ小学生なので、もう少し大きくなったらこのHP
を教えてあげようと思います。これがお父さんの故郷だよーーと。

田中さん!!
どちらの田中さんでしょうか。何かお知らせください。

(1764)土屋さんどういたしまして 投稿者:野口美代子(東京浮草)  投稿日:02月22日(金)12時07分15秒

人違いでも、私の投稿を読んで下さっていただきありがとうございます。
フィ−リングが私と似た方が何処かにいらっしゃるのですね。
字を書くの恥じ掻くの大好きです。
これからも書き込みするつもりですので、読んで下さい。
大夕張出身の人で、まだこのHPを知らない人がいるので知らせるてあげ
ようと思っています。そうしたらだんだん輪が広がって消息を知りたい人と繋がるかもしれ
ません。

(1763)野口美代子様 投稿者:久々湊 真一  投稿日:02月22日(金)12時02分53秒

私を憶えてくれていて、うれしいです。当掲示板は、我々よりも少し若い世代が
主力のため、私は親戚の者とよく間違われます(笑)。又、出て下さいね。

(1762)海岸列車の女を読みましての感想 投稿者:石原 賢治  投稿日:02月21日(木)23時53分51秒

松本清張ばりのお題で始まる物語ですが、パソコンプリンター8ページでA4版も
あっという間に読んでしまいました。
ところどころの大夕張バージョンは当然でしょうが、ラストのハッピーエンドは
水戸黄門の印籠よりも心温まり、すがすがしい思いでした。
主人公さんになりかわり、本当に良かったですねと思いましたよ。
読み終えてほのぼの気分になれました。

夕輝様、有り難うございました。

(1761)野口様 投稿者:田中  投稿日:02月21日(木)21時28分27秒

野口様 私が覚えている方かどうか分かりませんが、もしかしたら高校生の時
教会に行っていませんでしたか?とても物静かで落着いていた女性と記憶して
います。人違いでしたらごめんなさい。

(1760)南部地区雪祭りのご案内 投稿者:奥山道紀  投稿日:02月21日(木)20時40分36秒

夕張映画祭も無事終了したようですが、秋のシューパロ展に続く南部地区冬の
祭典が下記の通り行われます。白銀の夕張岳・シューパロ湖等故郷の風景も歓
迎してくれるものと思いますので、ご家族で参加頂ければと思います。

               記

2月24日(日)午前中 南部が熱い=今年の南部雪まつりには『熱気球』
が来ます!!
1、日程 2月23日(土)午後5時30分〜午後7時 前夜祭(映画など)
     2月24日(日)午前10時〜午後1時  熱気球・雪中運動会など
2、場所 夕張市南部東町 南部市民運動広場 (駐在所横の南部グラウンド
・元の大夕張営林署南部貯木場跡)
3、行事
【前夜祭 (2月23日)】
◎雪のスクリーンで映画上映会(子供向けアニメ、記録映画の上映=昨年汽車
フェスタの際に客車内で写したビデオを上映します)
◎アイスキャンドル  (出品者には参加賞授与)
◎甘酒・ポタージュ (無料)
【熱気球・雪中運動会 (2月24日)】
◎熱気球 (午前10時〜)
◎郷土芸能、幌南太鼓・南部獅子舞の実演
◎ジャンボ滑り台
◎シューパロ塾による郷土研究成果発表
◎雪中運動会 (雪中パークゴルフ・雪原競争など)
◎豚汁・甘酒・ポタージュ (無料)
4、駐車場
南部コミセン他、シューパロダム建設事業所の駐車場を利用できます。
主催: 南部地区雪まつり実行委員会
協賛: 夕張シューパロダム建設南部地区対策委員会・夕張商工会議所・
シューパロ塾・南部商工振興会・遠幌地区連合町内会・南部連絡協議会
社会福祉協議会南部地区協議会・南部シルバークラブ・南部地区各町内
北海道教育大学生涯学習教育研究センター・三菱大夕張鉄道保存会
幌南太鼓 南部獅子舞保存会・南大夕張神社

(1759)陳謝 投稿者:土屋 望  投稿日:02月21日(木)17時47分34秒

人違いをしてしまいご迷惑をお掛けしましたのに、ご回答を戴き
大変恐縮しています...深謝!
東高時代の部活の後輩と勘違いしてしまった次第です。
野口さんのノスタルジア溢れる投稿に、又出会えることを楽しみ
にしています。

(1758)土屋 望さんへ 投稿者:野口美代子(東京浮草)  投稿日:02月21日(木)12時54分42秒

東京浮草こと野口美代子(独身なので旧姓云々はありません)です。
ダサイペネームなどつけなくても良かったなと後で思いました。
昭和24年大夕張栄町生まれ、鹿島小学校・鹿島中学校・夕張東高4期卒業、
そして上京。閉山の昭和48年まで両親は栄町に住んでいました。
残念ながら土屋さんお尋ねのKKさんではありません。早くこのHPに出会
えると良いですね。私は会社の昼休みインターネットで遊んでいて偶然発見
しました。誰に聞くこともなくこのHPに出会うのはよほど幸運なことです。
飯田さんそして菊地さんには感謝の限りです。

また゜隅々まで読んでいませんが、住民登録を見ますと久々湊さんは私が
東高1年の時3年だったようですね。かすかに名前に記憶があります。
シバレル話同感です。そして同じ様な事をしたもんです。

家にパソコンありますが、会社の昼休みに読むのがとっても楽しみです。
昼休みがもう終わるので。又後ほど。

(1757)happyさんへ 投稿者:ももママ  投稿日:02月20日(水)21時17分53秒

こんばんわ、
何と!驚きでいっぱいです。世間は狭いと申しますが、
まさしくその通りですね。
happyさんが、会っているのは私の姉です。
私は、貴方のお父さんや亡くなられた叔父様との交流はほとんど
ありませんが、姉は、結構沢山の思い出があるような雰囲気です。
今回の事を姉に話ししたら、○○○ちゃんでしょう・・・
とのことでした。
それにしてもびっくりですね。IT時代といえばそれまでですが、
今回ほどインターネットの威力を感じたのは始めてです。
昨年は、私の母も大病をし、貴方のお父さんにも
ご心配をいただきましたが、お陰様で完治しました。
よろしくお伝えいただければ幸いです・・・・
さっそくの書きこみ本当にありがとうございました。
また、書きこみして下さいね。

(1756)東京浮草 様 投稿者:土屋 望  投稿日:02月20日(水)17時58分51秒

「故郷との邂逅」をお書きになられた東京浮草様。
人違いでしたら御免なさい。
あなたはKKさんなのではないでしょうか...。
文章を読んでいて、そう感じました。
もし、KKさんだったら懐かしい...。

(1755)ももママさんへ 投稿者:happy  投稿日:02月19日(火)22時47分02秒

はじめまして!!
私は夕張出身の父を持つ淡路島生まれの娘です。
実は、私の父は錦沢寺の長男です。ももママさんの書き込みをみて
嬉しくなり書き込みしました。
もしかしたらお会いしたことがあるかも知れませんね。
ももママさんは私の父をご存じですか??

今は淡路島で住職をしています。
子どもは私(27歳)と兄(35歳・なんと今日誕生日)の2人です。
そして今はかわいい3人の孫のおじいちゃんです。
来年還暦です。

私は去年、父の弟の四十九日で札幌に行きました。
もしかしてものすごく親しい親類の方でしょうか???
もしよろしければまたお返事下さい!!

(1754)錦沢遊園地 投稿者:奥山道紀  投稿日:02月19日(火)22時32分56秒

ももママさん、初めまして。
夕張市の掲示板
http://www.dolphin.co.jp/hpr/yubari/newbbs/index.html
にも「錦沢寺」の関係者の方の書込みがありましたが、お知り合いでしょうか?
夕張市史によると
【錦沢寺】(真言宗高野山派)昭和5年星野玄昌によって富野227番地(錦沢)
に創設され、本間信義があとを継いだ。夕張鉄道の廃止により昭和48年に廃寺と
なり、その本堂は栗山町大井分の孝恩寺に移された。
とあります。現在、錦沢周辺では道道札幌夕張線の改良工事が進んでいます。
新道は旧夕張鉄道(サイクリングロード)を大きく南に迂回し、錦沢を橋梁で跨ぎ
ますす。千代田の夕張隧道の隣に新しいトンネルの工事も進んでます。
錦沢と云えば、シューパロ湖と並んで数少ない夕張の行楽地で、休日となれば多く
の市民で賑わいました。
「ゆうてつ50年のあゆみ」掲載の錦沢の様子です。
http://homepage2.nifty.com/sususama/nishikizawa1.jpg
http://homepage2.nifty.com/sususama/nishikizawa2.jpg
http://homepage2.nifty.com/sususama/nishikizawa3.jpg
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http://homepage2.nifty.com/sususama/nishikizawa1.jpg


(1753)消えた缶ビール 投稿者:久々湊 真一  投稿日:02月19日(火)17時56分53秒

本州に来て暫く経ったある日『寒さに対する自分の感覚が、内地の人と多少違う』
事に気がつきました。内地の人は氷点下になると、全部「寒い」の一言になってし
まって「どのぐらい寒いのか(寒さの程度)」をあまり区別していないようです。
私は、例えば氷点下5℃と氷点下20℃の違いが、肌で判ります。スキーのエッジに指
を触れて、皮膚がくっつくか・つかないか。立ちションをして黄色い氷柱が立つか
立たないか(品が無くて失礼)、等々。これらは、大夕張で自然に会得した感覚で
あり、前者が所謂「シバレル」なのでしょう。子供の頃は、シバレ現象を利用した
遊びもやりました。風呂(宝町公衆浴場)に行き、帰りにタオルを広げて持ってい
ると、カチンカチンに凍って板状になりました。この応用で『タオルを筒状にして
下げ』凍らせながら持ちかえり、刀の代わりにして、家の前で弟とチャンバラごっ
こをした事もあります。こんな話を内地の人に言ってもピンと来ないどころか「変
な自慢をしている変わり者」と見られてしまいます(汗)。大夕張人には、この話
は良〜く判りますよね(笑)。

一方、天然の冷蔵庫としても、雪を利用しましたね。
正月帰省時(学生時代)の思い出です。友達と山スキーをやることになり錦町の裏
山に登りました。スキーは寒いものと思われますが、実は非常に汗をかき、身体が
熱くなります。で、これに備えて、缶ビールを持参しました。山の麓で『少しだけ
頭を出して缶ビールを雪に埋め』冷やしておき、滑り終えた時に喉の乾きを癒そう
との算段です。まさに雪は天然の冷凍庫ですよね。登っているうちに、チラホラ雪
が舞ってきたので、程々の所で登るのを中止しました。点の様な大夕張の町並みを
眺め、後は一気に滑り降ります。途中から雪が強くなり視界が悪くなったため、慎
重に降りてきて、無事ふもとに到着!!
さー「ビールで乾杯」と埋めた辺りを見たら、降り積もった雪に完全に覆われてい
て『どこに埋めたのか判らない』のです(汗)。捜せども吹雪いてきたため、スゴ
スゴと家に帰りました(涙)。
<天然冷蔵庫の利用は、何があっても判る目印をつけよ>との教訓でした(笑)。

(1752)いいださんありがとうございます。 投稿者:ももママ  投稿日:02月19日(火)07時17分11秒

ご挨拶が遅れました。私は夕張市の現マウントレイスイの近くで生まれたようです。
この記憶は全くありませんが・・
その後、日吉という所に住みました。幸せの黄色いハンカチのロケ地そのものです。
若菜東小学校へ入学しました、小2の時大きな台風でボロ家は壊れ、南部へ転居しました。
小学三年のとき赤平市へ転居しその後赤平の高校を卒業し札幌へ出ました。現在50才にな
りました。貧しい家庭で育ちました。
夕張には、親類もおり、中学くらいまでは、年に数回行っていましたが、その後はずーっと
ご無沙汰でした。
今から10年近く前でしょうか?南部小学校が廃校になりましたね。その後、何にもなくなっ
た学校を見に行きました。校歌の石碑を見て涙が流れました。
たまらなく懐かしくなり母を連れていったのですが・・・
その時、日吉にも立ち寄りました。黄色い旗を眺めながら、遠い記憶がを追いました。この
たび、思いがけずこの掲示板に出会い、郷愁の念で一杯です。
錦沢!!懐かしい、ありがとうございます。プリントして母にも見せます。
お寺の、叔父さんも,おばさんも、とうに亡くなりましたが、スイッチバックの汽車で、駅
を降り、山を2つ降りお寺に着きました。楽しみのない時代というよりも貧しい生活の中
本当に楽しみでした。掲示板の皆様しばらくお邪魔させてください

(1751)錦沢公園のことなど 投稿者:飯田雅人  投稿日:02月18日(月)22時14分30秒

錦沢公園と思われる写真を下のリンクに置いておきましたが,ももママさん
どうでしょうか。
冨野に住んでいた祖父母を訪れた時や,行楽に出かけた記憶があります。
大夕張では見たことのないほど,大きく感じられた立派な公園でした。

東京浮草さんと同じような思いで見える大夕張の光景いっぱいあります。
これからもお話しをどうぞお聞かせください。


ワカサギは当時,食卓にのっていました。つくだ煮になっていたですよね。
あれは,今思えばシューパロ湖のワカサギだったのでしょうか??

延岡さん貴重な情報ありがとうございます。あの放送は,音楽の後,
閉山放送のニュース,そして,大夕張の歴史を振り返る特別番組となって
います。沈痛な思いで聞かざるを得ないのですが,その中にも鹿島東の小学生
の表現力の素晴らしさに改めて心打たれます。

http://ooyubari.cool.ne.jp/nisiki/1.htm


(1750)校内放送 投稿者:延岡ツトム  投稿日:02月18日(月)21時14分56秒

当方「レトロな校内放送」HP主宰の延岡ツトムといいます。
大夕張の音:校内放送テーマ曲
これは「小学校(中学校もおなじ)学校放送・行事用レコード」にある
「校内放送テーマ音楽1.2.3.4.5.6」の4だったと思います。
60年代おわりから70年代にかけて全国的によく使われた音楽集です。
とうじのイメージがうかんで来ます。

http://member.nifty.ne.jp/NOBE2/


(1749)シュ−パロ湖のワカサギ釣り 投稿者:泊川俊徳  投稿日:02月18日(月)12時51分08秒

自分は 釣りは やらないのですが 現在のダムが完成した当時 昭和30何年
でしたっけ? ワカサギの稚魚を放流した事を思いだしました ダムに氷が張ると
氷上に風よけを作り 氷に穴を開けてワカサギを釣る風景が 冬の風ぶつしの感
じでした  今も ワカサギは釣れるのてしょうか シューパロ湖で 最近 
ワカサギ釣りの話は聞きません  昔話に成ってしまいましたね

(1748)飯田さんへ 投稿者:ももママ  投稿日:02月18日(月)06時32分59秒

錦沢のことがカキコされていましたが、私の思い出の場所です。遠い昔のことですが、
駅の下のほうに池があり、小さなお寺が有ったのをご存知ですか。
小さいころ、何度も連れられていったあのお寺は、親類だったんです。

(1747)故郷との邂逅 投稿者:東京浮草  投稿日:02月17日(日)19時56分12秒

先週の13日に会社の昼休みにインターネットで遊んでいましたら、偶然
菊池さんのHPを発見!続いてこの大夕張掲示板を拝見させていただきました。
私は昭和43年に夕張東高校を卒業して上京、そのまま東京に住み着いてしま
いました。閉山直前の昭和48年に1度大夕張へ帰郷しましたが、それが最後
便りも途絶え微かにダムに沈むと言う噂を聴いただけで新聞・テレビの報道も
知らずにおりました。
 そしてこの故郷の便りを読んで見て、心の奥に湧き上がるほのぼのとした思い
に涙ぐみつつ、大夕張をこんなにも慈しんで下さる人が沢山いらっしやると知り
感動を覚えました。私の心の中には本当はずっと北海道で(大夕張の近くで)暮
らしたかったんだと言う無意識の思いが有ったことを改めて知りました。
子供の頃私の家は何かとごたごたしていて、早く大人になってこの街を出て行き
たかったものでした。皆さんの投稿を読んで、私は自分を育ててくれた故郷を捨
てたような悔いの様なものがこみ上げて来てしまいました。
 東京へ来てからも何度か大夕張へは帰りましたが、札幌から夕鉄か三菱バスで
通った石狩平野の地平線に沈む夕陽も大夕張と共に思い出しておりました。
大夕張の自然のダイナミックさ。山の壮大さも本州では北アルプス辺りまで行かな
ければ見られません。冬の降るような星空も素晴らしかったですね。本当に星が降っ
てくる様な煌めき。美しい音が聞こえてくるようでした。
顔がしばれるのも忘れて真冬の星空を見ていましたっけ。あんな星空はめったに見
れる処はありませんでしょうね。ラッセル車が雪煙を真っ青な空に吹き上げて走っ
て行ったり、道路の際に積み上げられた雪だまりに青い影を落としてたそがれて行っ
た大夕張の冬。冬ゆえに春の喜びも大きかったですね。積もった雪の下から流れ出
てくる雪解け水と共に吹いてくる春の生暖かい風がほっとしました。振り返ると何
もかも愛しいです。
 ここに投稿されている方達は私よりも15年位若い人達の様ですね。学校の先生の
お名前が出てきても知っている先生がいらっしやいません。転勤とかで既に居ない
ようです。もっと沢山の人が見て投稿してくださればと願っています。
堀田牛乳屋さんは覚えてました。私は昭和24年生まれの現在52才です。女です。
それでは又、夏の思いで等を。

(1746)阿久津 誠さんへ 投稿者:折笠輝雄  投稿日:02月17日(日)18時45分26秒

伝言板としてお借りします。
私は 14回幌南中学卒業生で浜館先生の担任でした。
阿久津 誠さん もしこのメッセージを見られましたら
私のメールに返信頂けますか?
夕張のHPを何度か拝見していましたら、阿久津さんの投稿を見つける事が
出来ました。平成8年に夕張で同期会が有りました。その時の名簿には住所が
載って居ませんでしたね。
私は今静岡県に居ます。確かA組 御所脇恭子さんと同じクラスと思いましたが
彼女も私の近くの富士市に住んで居ます。
もし宜しければメール頂けますか?お待ちします。

(1745)氷点下の炸裂音 投稿者:泊川俊徳  投稿日:02月16日(土)11時50分49秒

札幌に来てから 聞く事も無くなりましたが 大夕張に住んでいた頃 寒い真冬
星の出る 放射冷却で ダィヤモンドダスト現象の日 山の方が かんしゃく玉
が破裂した感じの音が 山に響きます 生きた立ち木の中の水分が膨張して
立ち木が裂ける音が さむーい日に聞こえました 札幌は大夕張より暖かいのですね 
立ち木の裂ける音は聞いた事は無いです

掲示板 時々 参加させて貰うのですが 誤字 がタマタマ有ります ご勘弁して 
くださいね 文才が無い者ですから 間違いが多くてね

以前 兔の耳の値段 200円位ではと言う話ですが 40年前後前の記憶で 正直な
話 はっきりしません 確かに営林署で引き取ると言う話は聞いた事が有ります

(1744)思い出ノート  投稿者:泊川俊徳  投稿日:02月16日(土)11時31分16秒

思い出ノート 今年も完成して 13名の方々に こちらから一方的に送りました
例年通り ノートをそのまま ワープロで書き移しましたが 誤字脱字 文章の
間違いが有ると思いますが ど素人の作業でしたので 間違いも笑って見てください 
今年は ふるさと物語 大夕張ロケ中の写真も載せましたので 例年より
彩りも良いと思います 自己満足の思い出ノートも 来年は どうか? 
考えています 以前 テレビ等て ダムに沈む街として報道回数も多く取り上げ
られ 大夕張を訪ねて来る人も多かったので 珍しさで書いてくれる人も多い
かったのですが 最近は 街の感じが 一辺して小学校の校庭が何処に有るか
分からない人も多く成りました 何十年振りで訪ねて来た人にとって 大夕張は
代わり過ぎましたね 出切れば続けたいのですが  迷う所です

(1743)夢の街 投稿者:飯田雅人  投稿日:02月14日(木)22時04分30秒

小野さんがいうところの,まさに「大夕張文壇の至宝」夕輝文敏さんの『海岸列車の女』
をアップしました。
函館本線沿線に住み,マイカル小樽になじみのある自分にとっては,身近な舞台に展開
するお話は,一気に読んでしまいました。
内田美香は,まさに私にとってのふるさと大夕張なのだとそんな思いで読ませていただ
きました。

長谷川さんの食憶は炭鉱の定番のお弁当のおかず『筋子』の話から始まり,最後は『シロップ』
『病院食のみそ汁の匂いが漂う売店で飲んだフルーツ牛乳』でした。
『筋子』は私にとってあこがれの弁当のおかず,『シロップ』は薬局で特別に飲ませてもらっ
た父の味,『病院食の匂いとフルーツ牛乳』は,付き添いの病室で飲んだ喜びと悲しい思い
につながるものでした。

大夕張風味いっぱいの食憶,ありがとうございました。

(1742)闇を掘る 投稿者:斎藤 敏幸  投稿日:02月14日(木)22時03分29秒

ある雑誌に藤本監督の次の一文が掲載されていました。とても,心に響く文章ですので,
皆さんにもご一読いただければと思い,一部を掲載させていただきます。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
炭鉱に希望探した七年間
「闇を掘る」を撮り終えて

北海道の炭鉱を舞台にしたドキュメンタリー映画「闇を掘る」がようやく完成した。一年
間の準備の後、撮影を始めたのは一九九五年三月、空知炭鉱の閉山からだった。クランク
アップは二〇〇〇年三月、釧路市にある太平洋炭鉱の採炭現場の撮影であった。完成まで、
七年間にわたる映画づくりとなった。
私は、ドキュメンタリーは希望を描くものだと固く信じている。だが、この映画づくりで
は、なかなか希望をみつけられなかった。
炭鉱は、大勢の職人たちが働く地下の大工場だった。だから、閉山してもひとりひとりの
腕に職人の技が残っている。その技で、アートを作り、炭鉱が消えた跡を埋めようという
のである。
省 略

二〇世紀末、個はばらばらとなり、一人ひとりが「私たち」が今もしっかりと息づいてい
る。
炭鉱を描くこと。それは、人と人が深くかかわって生きる「私たちの時代」を描くことで
あり、その時代を生きぬいた人間たちのエネルギーに希望を見ることであった。そのため
に、七年間の歳月が必要だったのだ。
日本では、炭鉱の時代は終わった。しかし、「私たちの時代」は、またよみがえると思わ
れてならない。炭鉱の人々が抱え持っている「私たちの記憶」は、その時代への豊かな贈
りものである。
(監督)藤本 幸久
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
長谷川さん,食億の連載ご苦労さまでした。

(1741)食憶減退・風邪の味 投稿者:長谷川潤一  投稿日:02月14日(木)02時17分14秒

皆さま方、インフルなど召してはいませんでしょうか。この時期になると思い
出す「風邪」の味?私はいろいろあります。蜂蜜、水飴、麦芽糖、サクマのド
ロップ、不二家ポップキャンディー、喉へのいたわりにレロレロと。砂糖つき
梅漬け、のりたま、江戸むらさき、お粥を少しでも食べるためにと。おろし金
のすりリンゴ、ミカンの缶詰、高熱などダメージが強いときの高級気付け用に
桃缶、パイン缶。今でもいろんな薬のお世話になっていますが、忘れられない
薬の味?に「アスピリン」があります。家に常備していたのは、吉井さんで買
ってきたもので10pぐらいの濃い黄色の紙筒に入ったものでした。表面に細
かい字で何やらびっしりと書かれ、見てるだけで効いてきた気分になる・・。
明治の「カルミン」をひとまわり小さくして分厚くした大きさ、子どもが服用
時には半分に割れるように谷線が入ってました。とっても苦くてなんかカビ臭
く、扁桃腺が腫れた咽で飲む込むにはしんどかったけど、スーパーな薬でした。
扁桃腺の腫れがひどくなるとすぐ、病院のお世話になりました。子どもの頃か
ら見た目も大柄で、内科や耳鼻科と病院は慣れて平気だったせいか、すぐに太
い静注、薬もカッキリと紙で折り込んである、舌がつっぱるようなすんごく!
苦い粉薬でした。ここに、不謹慎と言われるかも知れませんが、子どもの頃に
あこがれた幻の味があります。それは、あの小さな窓口から手渡されていた、
子供用の「水薬」です!今で言うところのシロップ薬です。手のひらぐらいの
サイズからその半分ぐらいの小瓶まで何種類かあり、いかにも職人の手作りと
いうかんじで透明エンボス加工の出っ張った目盛り付きガラス瓶。コルクの栓
がしてあって、ちょっと泡立っていた葡萄色の中身。小さな荷札みたいなのが
ついており、名前と一回に飲む量が書いてあったと思います。よっぽど、春日
町のいとこがもらったやつを舐めてやろうと思ったぐらい。そこまでホイドと
いうよりは「水薬」のほうが子供用だから、甘ーく、とっても優しーく、気持
ち良ーく、効きが良いんだなー、と子供心に思ったからです。手術室の前を通
り病棟へ行く廊下の階段を降りた左角、病院食のみそ汁の匂いが漂う売店で飲
んだフルーツ牛乳も風邪の味のひとつです。皆さん方の子どもの頃は風邪の時
の定番の味は何でした? 今もきっと伝授してるでしょ、自分も家族にも!。

勝手に番号付けて連載形式にしていましたが、ネタ切れということでこれまた
勝手にお終いにします。飯田さん、取りまとめのお手数をお掛けしてどうもす
いませんでした。少しでも思い出して笑って下さった方、ありがとうでした!

(1740)北海道人気質と大阪人気質 投稿者:大阪の小林  投稿日:02月13日(水)22時21分32秒

こんにちは。大阪の小林です。

昭和40年の夏、南部の貯木場の休憩所で休憩していたときの話です。
営林署員の材木の体積測定のチーム2,3人と私たち学生3人とがお菓子を食べ
ながら雑談をしていました。そのうち、いつも我々の世話をして下さっていたF
さんが、「小林君は大阪だね」と訊ねられました。「はい」と私。「大阪の人は
さ、こうしてみんなでお菓子を食べるとき、袋の口を相手の方に向けて、さあ、
どうぞってやるんだね。でも、北海道じゃさ、こうやって」と、ビリッと菓子袋
を大きく裂いて広げられ、「さあ、どうぞってやるんだ。」と言われました。
これには何だか、妙に感心してしまった記憶があります。北海道の人たちは気持
ちが大きいんだなぁ、と。

その後も北海道では、しばしば大陸的な気質に触れた思い出があります。そう言
えば、本州のことを「内地」って呼んでおられましたが、今もそうでしょうか。

(1739)皆様お懐かしゅうござんす。 投稿者:池田正史  投稿日:02月13日(水)10時26分04秒

お久しぶりです。お元気の
御様子です、いつも懐かしさから時々覗いていますよーん。
なぜか涙が出て来ます、なぜ?
いっしょにイタカラサ、うんうん納得かな。
おもいは永遠で消えないものでして、いまだに引きずる
ものです。ある意味ではいい所で
甘い環境でした。山、川、自然諸々熊親父かな!
でも、皆がんばる雪んこですからね、初春の、いつとけるかな、雪やなぎ。

(1738)確かに転校しました 投稿者:市橋 勝  投稿日:02月12日(火)18時19分51秒

としも元気そうで何よりです。
確かに、私は中一の時に、同じ夕張市内の丁未というところに引っ越し、中学校も
北陵中学校という小さなところに転校しました。
転校の時には、みんなでお別れ会をしてくれて、泣きそうになったのを覚えていま
す。
あれから流れ流れて、なぜか今は広島の地まで来てしまいましたが、今も相変わら
ずでやってます(笑)。
としは、今、埼玉にいるのですか。
日本全国、どこにいてもこの不景気ですから、大変だと思います。
どうか元気で頑張って下さい。

もう、大夕張に行くこともなかなかないですが、こういうHPで「再会」できると
いうのは、本当に夢のようです。

(1737)市橋勝君へ 投稿者:本間としひろ  投稿日:02月12日(火)09時09分40秒

勝!元気でなによりです。確か、中学1年の時に転校していった記憶が
あるのですが?勝の家の前にあった風呂屋のお湯がすごく熱かった記憶
があります。本当に懐かしいですね。

(1736)Re.東町・新緑町の写真 投稿者:奥山道紀  投稿日:02月11日(月)20時57分34秒

昨日、南部で大夕張営林署OBを交えて林業の学習会がありました。
小林さんが、アルバイトをした貯木場(現在は広場)も営林署事業所(担当区・
製品事務所)等も全て閉鎖された今ですが、改めて鹿島・南部地区の歴史を学ぶ
事が出来ました。
1.「官行」とは営林署の事で、大夕張では炭山周辺の貯木場、千年町の営林署
周辺の一部も「官行」と呼んでいた。
2.種類によっては「山土場」に置くと「ぼける(劣化)」する木があるので、
それらは伐採後直ぐに「貯木場」へ降ろした(写真の疑問が判りました…)。
3.滝ノ沢、金尾別など森林鉄道の入っていない、沢の木は架線集材(ケーブル)
で尾根を越えて森林鉄道のある、白金沢、下夕張側へ搬出した。
4.造材作業の前には、山の神(炭鉱の神様と同一)に安全祈願し、鳥居を設け
た。
等でした。当時の南部貯木場の写真を入手しましたので、飯田さんに送付いたし
ます。

(1735)森林の音 投稿者:飯田雅人  投稿日:02月11日(月)19時42分49秒

山の中にあった街大夕張,啄木鳥の木を打つ音や,チェーンソーの木を切る音も
日常的な大夕張の音でしたね。小林さんの投稿を読んでいて思い出しました。

森林鉄道が走っているのを実際に見たことがないのですが,足下にシューパロ湖を
渡る話を聞いて,当時からそして今に残る三弦橋と重ねて想像し,ぞっとする思い
が伝わってきます。
これに比べるとディズニーのアトラクションなんて全然たいしたことない・・
なーんて。

当時山の中に入って,作業をされていた方も多く,いろんなエピソードがあった
のですね。ビリビリ感電する話,思わず笑っちゃいました。続編を期待しています!

(1734)懐かしい名前が 投稿者:市橋 勝  投稿日:02月11日(月)13時10分43秒

久々に見に来てみると、本間君の名前がありますね。
私の思い出の中では、本間君と工藤君は、「常磐組」としていつも一緒という
イメージがありましたが、本間君は長い間大夕張に残っていたのですね。
マンガやイラストが得意で、よく黒板に絵を描いて遊んでいた記憶があります。
何度か喧嘩もしたような記憶があるのですが、思い違いかも知れません(笑)。
ともかく、みんな元気そうで何よりです。

(1733)東町・新緑町の写真 投稿者:大阪の小林  投稿日:02月11日(月)01時29分36秒

こんにちは、大阪の小林と申します。
今回、飯田さんが「東町・新緑町」の表題で南部の貯木場の写った写真をアップ
ロードして下さいましたので、筆をとりました。

小生は、昭和40年7月中旬から8月中旬までの1ヶ月間、南部にありました大
夕張営林署の南部貯木場で大学の友人2人と共にアルバイトをしました。当時の
貯木場の写真や、写真をお送りした経緯はこのホームページの思い出帖にもアッ
プロードして頂いておりますので、詳しくはそちらをご覧頂くとして、当時の思
い出話を少し。

我々学生の主な仕事は貯木場の材木の体積(材積)の測定補助と計算業務でした
が、森林鉄道で山の中に入り、殺虫剤の散布作業などもありました。貯木場には
小さな機関車と客車や屋根のない貨車などが置いてありました。エンジンの付い
たジープの様な形をした自走式トロッコもあり、我々3人の学生が山に行ったの
もこのトロッコに乗せられてでした。
山に入ったときの印象は、青い空、白樺林、泥や馬糞に群がる何百匹もの紋白蝶
樹木のにおい、静寂、すごいスピードでカーブを曲がるときの恐怖、鉄橋を渡る
ときの足下のシューパロ湖など、これらが今も強烈に残っています。

山の中で殺虫剤散布を営林署の職員がされるのを手伝った後、森林鉄道の線路に
沿って連絡用の電話線を張るのを手伝わされました。ちょうどカーブの向こう側
に署員がおられたため姿は見えません。電話線を電話機につなぎ、もういいだろ
うとハンドルを回すのですが応答がありません。何度も試みているうちに向こう
から署員が走って来られ「いい加減にしろ、線をつなごうとしたらお前達がハン
ドルを回すからビリビリ感電してつなげないじゃないか!」と怒鳴られました。
電話線をつなごうとして、その度に飛び上がっている姿を想像して思わず笑って
しまったため余計に叱られましたが、今思い出しても吹き出してしまいます。
ちなみに、当時の移動式の電話はハンドルを回すと発電されベルが鳴る仕組にな
っていました。今なら携帯電話やトランシーバーがありますが。
ほかにも面白い思い出がありますが、今日はこのあたりで。

(1732)『東町・新緑町』 投稿者:奥山道紀  投稿日:02月09日(土)23時30分47秒

思い出帖『東町・新緑町』(南部)拝見しました。
昭和50年代の写真ですが貯木場に木材が積み上げられています。
森林鉄道は既に昭和40年頃に廃止されており、トラックだと消費地に直送出来るので…、少し意外に感じました。
貯木場の背後に新緑町の炭鉱住宅が広がっています。昭和44年頃新鉱が出来、
住宅が新しく建ち並び三菱(鉱)バスの「新緑町」バス停が置かれたことを思い
出しました。
ところで、「新緑町」(労務の詰所もありました)は住所的には菊水町の7丁
目を名乗っていたようですが、如何でしょうか?
(現在も同地区は菊水町になっています。)

(1731)手配出来ました 投稿者:ロケットマン  投稿日:02月08日(金)22時02分47秒

色々 お世話に成り 山と渓谷社の本とビデオ 道新の本3冊 手配しました。
後は 届くのを待つだけです。また本日 「ユウパリコザクラの会」への入会
手続きをしました。
5月の20日過ぎ位に 夕張へ帰る予定です。殆ど知らない故郷を 見つめ直す為の
写真行です。戻りましたら報告させて戴きます。 それではまた

(1730)昭和38年10月釣りテングでにぎわう里見公園 投稿者:飯田雅人  投稿日:02月08日(金)20時33分59秒

本間さんが,書かれた里見公園,佐藤貞雄さんの書かれた『岳麓の里』にもその記述
がありました。以前,奥山さんより送っていただいた資料の中に,里見公園の記事を
見つけましたので,掲示板の方に引用します。

-------------------------------
家族連れがいっぱい
  里見公園 釣りテングでにぎわう
-------------------------------
鹿島常盤町にある里見公園はいま子供たちや家族連れの釣りテングの人気を集めている。
この釣り堀はシューパロ湖での釣りが危険なところから同公園の松尾三四治さん(68)
妻のサトミさん(63)の二人が始めたもので,4つの池にコイ,フナ,ウグイ,キンギョ,
アメマス,ヒメマスをたくさん放した。
子供は一日20円,大人は50円で,一日を楽しめるとあって,弁当持参で来る人もあり,
連日70人ほどの人でにぎわっているが,親たちはこれなら安心して釣りにだせると大喜
び。
(昭和38年10月15日)
********************************************************************************
そして その下には池の土手の上で釣りざおをたらす,学生帽をかぶった小学生や中学生
たちの写真が「釣りテングでにぎわう里見公園」というキャプションと共に載っています。

私の父も釣りが好きでした。しかしそれが元で体調を壊してしまったこともあり,晩年は
海釣りにいけなくなりました。そんな父が休日には自分用の釣り竿を用意してくれて
親子で,里見公園では餌も売っていたように思いますが,早朝から餌のミミズを取って
出かけていったこともありました。

富士見町の6丁目に住んでいた頃のことでした。

(1729)続_日本の百名山 投稿者:久々湊 真一  投稿日:02月07日(木)17時27分14秒

夕張岳に関する皆さんの情報Thanksです。私も、お花畑の高山植物を写真に収めた
いと考えていました。役に立たないかもしれませんが、本の情報を追加します。
朝日新聞社から、続_日本の百名山というシリーズが新たに始まりました。これに
夕張岳が取上げられます。このシリーズは、毎週1冊のペースで発行されており、現在
はNo4号まで出ています。夕張岳はNo22号の予定ですので、今年の6月末頃に発行さ
れると思います。A4サイズの薄い小冊子ですが、写真が豊富に載っており登山ルー
トや案内図も入っています。但し、No22号は3ヶ所の山の合併号ですので、たいした
情報は入っていないかもしれません。ちなみに値段は、No4号が¥560でした。

尚、私は着々と情報のみは集めていますが、何時になったら行ける状況に
なるのか今の所、全く不明です(苦笑)。。。

(1728)カラスの襲撃 投稿者:石原 賢治  投稿日:02月06日(水)22時35分33秒

ちょっと前に、泊川さんがカラスを話題にされていましたのでそれに便乗。

小学5年の頃、ソロバンを習っていまして、ある日曜日に鹿島中で昇級試験が
ありました。早めに家を出て、歩いて中学校へ向かいました。
岳富町を通る時、何を血迷ったのか、歩道の上の擁壁伝いを歩いていました。
そう、鉄道のすぐ脇道を歩いたのです。これは、正式な道ではありません。
暫らく歩くと突然頭の上をかすめる何かに気が付きました。
学校の制帽をかぶってました。周りを見渡すと、カラスの軍団が自分を取り
巻いていました。下の歩道を歩いていたグループがその状態を見ていたようで
早く逃げて下に降りて来いという声をかけてくれました。
それから一目散で走り擁壁の低くなった所で下に飛び降りました。

聞いた所、カラスが自分のかぶっていた帽子を狙い急降下し足で掴みかけたが
未遂に終わった様子。以前、子ガラスのことで帽子をかぶった人に恨みが有り、
よくいたずらするような事を聞きました。
私自身はそんなことは身に覚えがありませんが、カラスは帽子をかぶった人という
ことでしっかり敵対イメージあったのでしょう。
それ以後、カラスを見ると瞬間的にあの時のことを思い出します。
それはさておきその日のソロバンの昇級試験はどうだったのかは
覚えていません。
それにしてもカラスは多かったですね。

(1727)俺も 投稿者:工藤雅之  投稿日:02月06日(水)21時12分44秒

トシ、歌子さん俺もいっしょです。うめ組 近江先生 伝法先生 八幡先生
吉田先生なにげにトシも歌子さんもずっといっしょだったんですね。
幼稚園の頃の思いではいつもトシといっしょにつり橋の所からバスに乗って
いってましたね そして中学から乗ってくるシュウ(畠山しゅういち)に
一番前の席をとっておいてもらって2人で前の席に座ってましたよね
あとは音楽の発表会にスキーで足の骨を折ってでられなかった事もありました。
そしてトシと松本先生の家によく遊びにいったと思います。先生のつくった
ゼリーかプリンが楽しみでした。思い起こすと大夕張にいた頃一番いっしょに
遊んだのはトシだね

(1726)さとみ公園 投稿者:本間としひろ  投稿日:02月06日(水)18時14分19秒

小学校低学年の時は、よく常磐町のさとみ公園で遊んでおりました。
つり橋を渡り、右手に小さい池があり、蛙・ヤゴ・たにし等を取って
遊んだり、突き当たりの大きな池では、貸し竿で釣りをしたり、貸し
ボ-トで川へ行ったりして、とても楽しかった思い出が一杯です。
さとみ公園に管理人の家があり、お盆の時に各家を回って[ロウソク]
をもらって歩いた思い出があるのですが、その管理人の家ではロウソク
ではなく、10円をもらい皆で大喜びをした事がありました。
当然、そのお金で福田商店か所商店へ向かったのは言うまでもありません。
そう言えば、さとみ公園から上の道路へつながっている細い道に白い
十字架が立っていたのを覚えています。

(1725)北海道議会議員 投稿者:奥山道紀  投稿日:02月05日(火)21時58分26秒

>市会議員の石川十四夫

大夕張(三菱大夕張労組)からは大浦貞助さんが出ていましたが
石川十四夫氏も北海道議会議員です。
当時夕張市区は2人区で革新からは大浦さん、保守からは石川さん
という構図でした。
大浦さんは亡くなりましたが、石川氏は現在も夕張商工会議所会頭
(確か消防団の団長も)としてご活躍です。また、骨董品を集める
のが趣味で、昨年歴史村にそのコレクションを展示した「生活歴史
館」がオープンしました。

(1724)小学4年まで一緒です! 投稿者:高橋歌子  投稿日:02月05日(火)20時22分58秒

本間さん、第二聖心幼稚園から小学4年まで一緒だったんですね。
ちなみに幼稚園は「うめ組」でした。
その5年間の中で、一番記憶に残っているのが「伝法啓子先生」です。
若くてスリムでお洒落な先生でした。
ロングのフレアスカートに長めのスカート。
自分の身近にいる女の人は、子供かおばさんかおばあさん。
若い女の人っていうのがすごくうれしかった。
それで「アコーディオン」がとっても上手。
音楽を本当に楽しむことが出来ました。
あの時本当に学校が楽しかったな。

(1723)喫茶『ひまわり』 投稿者:飯田雅人  投稿日:02月05日(火)19時45分20秒

中学校卒業後,大夕張を出て大学4年の春に自動車の免許をとりました。
ほとんど単位も取り終えてできた空き時間で,購入した中古車に乗って,
大夕張を出て以来はじめて自分の足で大夕張に向かいました。昭和54年の
ことでした。

住んでいた富士見町の辺りは一面草木が生い茂り,カトリック教会だった
ところが,ボランティアの宿泊所になり,『過疎対策云々〜』という看板を
見たりして,街が小さくなってしまっているのを実感しました。

その日は暑い日で,栄町商店街の一角に喫茶店を見つけ入りました。
メガネの福川か,三津野電機の辺りにあり,店を半分に仕切ったような狭い
店内だったと記憶しています。
アイスコーヒーを入れておばさんの印象が今でも残っています。
「僕はここの出身です・・・」と心の中で叫びながら,実際には何も言わずに
店を出,大夕張を後にしました。

(1722)担任一覧 投稿者:本間としひろ  投稿日:02月05日(火)18時25分08秒

私は、昭和37年1月に常磐町4丁目で生まれ、第二聖心幼稚園〜鹿島東小学校
4年迄〜鹿島小学校卒〜鹿島中学校卒〜夕張東高等学校卒と18年間暮らしてお
りました。投稿されている[高橋歌子さん]とは同級生でした。ちなみに、東小
での担任の先生は近江先生(1・2年)伝法先生(3年)八幡先生(4年)でした。
4年生の途中で緑町1丁目12番へ引越して鹿島小へ転校しました。担任は浅野
先生、5・6年は谷口先生でした。中学1年は小見先生、2・3年は成田達(有名な
国語のモッサ先生)、栄町へ引越して、東高校1年佐藤先生(サトシン)2・3年は
四戸先生でした。知っている先生がいましたか?
ちなみに、大夕張で喫茶店が出来たのは、インベ−ダ−ゲ−ムが流行した昭和54
年[ひまわり]の開店でした。そう言えば、市会議員の石川十四夫ていたよねぇ!

(1721)有難う御座いました 投稿者:ロケットマン  投稿日:02月04日(月)22時28分59秒

早速 色々教えていただき有難う御座いました。奥山さんからは ご丁寧にも 
メ−ルもいただきました。苫小牧に本屋をやっている友人も居ますので 行く
までに下調べ ガンバリます。

(1720)びてつバスツアー 投稿者:奥山道紀  投稿日:02月04日(月)22時17分34秒

2月からバス事業の規制緩和が開始されましたが、春の訪れを前にひとつのバス
会社が姿を消します。
美唄市の「びてつバス梶vですが、その前身は三菱鉱業美唄鉱業所の石炭輸送線
でもあった美唄鉄道鰍フ自動車部門ですが、昭和25年には三菱鉱業鰍ノ吸収さ
れ大夕張と共に三菱鉱業株唄鉄道・大夕張鉄道と名乗っていました。
美唄でのバス運行開始は昭和23年の美唄〜東明間ですが、大夕張でも31年よ
り大夕張鉱業所〜中学校・明石町間で運行を開始し36年には夕張市内での路線
拡充を意識し、それまでの車体表記を「美鉄バス」から「三菱(鉱)バス」に変
更しています。
昭和37年には大夕張〜夕張間、40年には特急札幌線も開設し、鉄道と共に地
域住民の貴重な足となってきました。炭鉱閉山後は三菱系列の北菱産業などが経
営を引き継ぎましたが、現在は東急系列の会社となりダム水没に伴う住民移転で
平成9年11月に夕張から路線を撤退しています。
3月末の廃業に合わせ北海道乗物愛好会では下記の通りツアーを計画しています。
日時は3月31日、札幌〜大夕張〜栗山〜美唄〜札幌の経路ですが旧南大夕張駅
にも立ち寄る予定です。参加希望者(申込先・費用等の詳細)はリンク先で確認
願います。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~daibus/soumu/kanren/hna/bitetsu331-2.htm


(1719)夏山ガイド 5 投稿者:高橋歌子  投稿日:02月04日(月)21時05分51秒

北海道新聞の本はネットで買えます。
下のリンクをクリックして、総目録の「園芸、趣味、スポーツ」というところに
あります。
道外の方は代引きで送料380円かかります。

http://www.aurora-net.or.jp/doshin/book/


(1718)夕張岳登山ガイド(2) 投稿者:奥山道紀  投稿日:02月04日(月)20時49分40秒

≫以前スキー場開発で夕張市を二分したことがあったが、帰りの途中でふと
≫振り向くと今までの出来事など知らん姿で見送ってくれる美しい山容である

小野さんも下記に書かれていますが、夕張市当局(スキー場開発派)を飛び越
して文化庁に掛け合い、夕張岳を天然記念物指定に導いたのが「ユウバリコザ
クラの会」です(下記にリンクを入れました)。
梅沢さんも「夕張岳が夕張市にあるのが悲劇だ…」と言っていたそうですが、
その地道な活動には頭が下がります。「夕張岳の高山植物」の絵はがきも発売
しています。保存会と同じく南部新光町(旧三菱南大夕張体育館横)の高橋商
店さんで扱ってますので、よろしくお願いします。

※小野様 あの横の方は全く関係ありません。記事をスキャンする時に余分に
やってしまいました(^_^;)

http://www2.ocn.ne.jp/~kozakura/


(1717)夕張岳登山ガイド 投稿者:奥山道紀  投稿日:02月04日(月)20時38分15秒

ロケットマンさん、こんばんは。
夕張岳の登山ガイドですが「山と渓谷社」から何冊か刊行されていると
思います。地方新聞社(道新は北海道ではメジャーですが(^_^;))
地方出版物扱いですので、そちらでの入手はネットで直接購入などしな
い限り手間がかかるものと思います。 

http://www2.ocn.ne.jp/~kozakura/


(1716)江澤さん、NHK出演回顧録 投稿者:小野 美音子  投稿日:02月04日(月)20時19分17秒

おばんでございます
結城様の118番の投稿で、大滝かおるちゃんと河井ゆう子ちゃんの
ことをお尋ねでしたが、かおるちゃんはニセコ町、ゆう子ちゃんは
尼崎で、現在子育て中です。大泉ひとしちゃんとは緑ヶ丘にいた頃、
遊んだことがありますが、きれいでお洒落だったおばさんが懐かしいです。
今どうなさっているのか私も知りたいです。
結城様のお母様のお顔を、私の母はおぼえているようです。

ロケットマンさんのお役に立たないかもしれませんが、ちょうど石原さんも
投稿されたので、元大夕張営林署の江澤さんがNHKの「花の百名山」に
出演された時のことを書いて送って下さいましたので紹介致します。
(山と渓谷社からビデオが市販されてますが、TVでも時々放映しています)

「花の百名山」      江澤弘志

平成7年6月末日〜7月上旬にかけ、夕張山岳会主催の山開きに参加した。
その時に、山岳会長からNHKで放映する為の案内役を再三にわたり、
依頼された。ちょうど8年3月末で40年勤めた職場を退職する運命でも
あるし、ひとつここらで最後のご奉公のつもりと引き受けてしまった。

山開き後、天候が一段と悪く、エンタープライズ社の面々が十勝岳で
足止めになっているとの無線が入りやむなく待つことにした。
3日後にようやく現れたのは夜の7時も回ったころである。
早速、明日の打ち合わせと準備、終了したのは9時を回った時間である。
次の日、市営ヒュッテを出発したのは朝4時である。

撮影班は3人でそれぞれの機材を持ち、私の後を追うようについてくるのが
見える。標高1,300m付近からは一緒に行動を共にする。
夕張岳の生い立ちや動植物の説明をしながら途中撮影にとりかかるが、
目的はユウバリソウである。ようやく目的地に着いたのは10時を回っていた。
いろいろ説明しながら一足早く頂上をめざした。
霧の発生と太陽光線による「ブロッケン現象」が現れ、早速撮影し、
成功をおさめる。

ユウバリソウの説明場所では、ぎこちない説明の為に何回もカットの連続で
あった。多少ムッとなり俳優でもないのにお前さんたちのイメージ通りに
いかない旨を伝えると、
「江澤さんの今の雰囲気で説明してください最高です!」
と言われ、おだてられてるのか、馬鹿にされているのか(笑)、
ちょされているのか、複雑な気持でその場は無事終了した。

以前スキー場開発で夕張市を二分したことがあったが、帰りの途中でふと
振り向くと今までの出来事など知らん姿で見送ってくれる美しい山容である。
振り返れば朝4時から夜8時までの16時間の長時間を費やしたが、10分程度の
放映には、何かしら物足りなさを感じている。

(1715)Re:ロケットマンさん 投稿者:高橋歌子  投稿日:02月04日(月)20時12分38秒

ちょっと値は張るんですけど。(2000円くらい)
「梅沢俊」さんという人の本に北海道の山の花について詳しく書かれて
います。
北海道新聞社から出ている「夏山ガイド 5」には夕張岳の登山ガイドが
詳しく出ています。
他にもいろいろありますが、Yahooで「梅沢俊」を検索するか、
北海道新聞社のHPを見ると詳しく出ています。
少しは役に立ちますでしょうか?

(1714)結城雅司様 投稿者:久々湊 真一  投稿日:02月04日(月)18時11分04秒

結城さんの記憶にある久々湊は、残念ながら(笑)従弟の久々湊佳貴です。
過去に、2001.5.30(1244)と2001.4.14(1182)に書きましたが、1182を下記に
再録します。「みなと印刷」よりも「教員住宅」の方が有名かしらん(汗、汗)。

--------------------------------------------------------------------
(1182)片山さんへ 投稿者:久々湊 真一  投稿日:04月14日(土)19時06分00秒

片山さんが確認を求めている対象は、従弟の久々湊佳貴のことだと思われます。
彼は、私の父の弟(昭三叔父)の息子です。大学で建築を専攻しエンジニアになり
ましたが、現在は某建設プロジェクトで、フィリッピンに駐在作業中と聞いていま
す。彼の姉の佳世子は、結婚して札幌に在住しています。
昭三叔父さんは、鹿島小学校で教頭を勤めましたが、転勤後に校長で定年を迎えま
した。現在は、北海道北広島町で悠々自適の生活を送っています。

(1713)教えて下さい 投稿者:ロケットマン  投稿日:02月04日(月)08時46分18秒

初めまして そして おはよう御座います。
夕張市の落書き帳に このハンドルネ−ムで投稿している 新千代田出身 長野
県在住のものです。趣味で野の花を撮っています。奥山さんはもうご存知ですが
高校までしか夕張に居なかった為 清水沢のダムまでしか知りません。
夕張岳の花を撮らせて貰いたいと思っています。何か良い案内書が有りましたら
教えていただけないでしょうか。宜しくお願いします。こちらからは車です。

(1712)ウサギのぴょん吉 投稿者:石原 賢治  投稿日:02月03日(日)23時47分41秒

ウサギの話題がありましてそれに便乗します。

小学校2年、3年の頃の話で近所のTさん宅で、ウサギを飼っていました。
そこのお兄さんによく遊んでもらってまして、ウサギが子を産んだと聞き見に
行きました。ウサギは非常に感受性が強いのか、人に子を見られると食い殺す
とかで、網には布で目隠しされて外から見えないようになってました。
そんなことで生物の神秘をかいま見たんでしょうか、親にしつこく頼み込み
我家にもウサギを飼うことが許されました。

父親にウサギ小屋を作ってもらい、物置にくくりつけ、私がぴょん吉と名付けた
ねずみ色のウサギさんを飼うことになりました。
購買会のうらの精米所から藁をわけて頂き、布団にしました。
糞尿の関係で、ひんぱんに入替は必要でした。
食料は野菜をバリバリ食べていたと思います。
山の畑に行き、どなたかの畑の人参を失敬したこともありました。
母が購買会へ買い物に行った際に、ウサギさんへと売れ残りの野菜を頂いたこと
も有りまして、ウサギだけじゃなくわたし等の腹に納まったことも有ったと
思います。

1月の日曜日の朝、その日は快晴でしたが猛烈に寒かった気がします。
雪の季節になりますと、だんだん面倒になりだしたんでしょうか?
世話が大変なんですね。
藁をしょっちゅう貰いに行くのも億劫になりだし、新聞紙でベットを
作っていました。
ぴょん吉は冬対策か運動不足かわかりませんが、丸々に太った状態でありました。
おそるおそる、小屋の扉を開けてぴょん吉を見ますと、硬くなって動かないの
です。もしや凍死か?と思い、扉はそのままで、慌てて家に戻り親に報告
しました。そして、すぐに、ぴょん吉の小屋へ戻ると居なくなっていました。

すぐにあちこち探し回りましたが、気配すらありませんでした。
白色ではなかったので目立つはずですが、さっぱりわかりませんでした。
外敵の野犬か何かに襲われたのか、鍵が開いたのをもっけの幸いで飛び出して
行ったのかわかりませんでした。
その日は、ずっと泣きべそ状態で過ごしたのだろうと思います。
結局、ぴょん吉はその後どうなったのか解りません。

(1711)同じ家にすんでいた? 投稿者:結城雅司  投稿日:02月03日(日)19時18分58秒

また、書き込み致します。
結城雅司です。
この掲示板のおかげで、ほぼ30年ぶりに、片山範子様と
連絡をとることが出来ました。
飯田様・片山利明様 ありがとうございました。
おかげさまで、母と昔話に花が咲きました。
本間としひろ様、私の勘違いでなければ、「マーちゃん」と
「まぁちゃん」はお人違いかと存じます。
でも、43歳になり、「まぁちゃん」と呼ばれたのは、
恥ずかしくもあり、懐かしくもあり、大変嬉しいものです。
女房に、からかわれております。
さて、久々湊真一様、毎回、心がなごむ投稿ありがとうございます。
先日、千年町の住宅地図を拝見していて気が付いたのですが、
私と同じ、「ブロック住宅」にお住まいされていたのではないでしょうか?
私の生家は、東小学校の向かいにあった教員ブロック住宅、川側棟奥の二階
で、一階は「湯浅すみと」君が住んでいらっしゃったと記憶しています。
昭和34年(父母は昭和32年から居住していたと思います。)そのブロック住宅の
客間で生を受け、昭和37年ぐらいに、夕張市旭町に引っ越しました。
地図を見たところ、「久々湊」の名前がありましたので、おそらく私たち家族の
後、お住まいになったのかと思います。(間違いだったらごめんなさい。)
当時の記憶はあまりありませんが、居間の真中にあった柱に、小さな穴が
あいていまして、糸を通し、マッチの空き箱をその糸に通して「ケーブルカー」
といって遊んでいた記憶があります。あの「穴」覚えていますか?
あと一階玄関前に、「にわとり」がいたのを覚えています。
赤い「とさか」が恐怖でした。
あと、「川に行ってはいけません。」と母からきつく言われていたのですが、
近所の子といっしょに東小学校近くの橋を渡り、川遊びをしていたとき、
その友達が、川へ落ちてしまい、「溺れた」のを記憶しています。
(大事には至らなかったようです。)
溺れたのが誰だったのか、その後どうなったのかまったく記憶がないのですが、
大騒ぎになったことだけ覚えています。
遠い、私の「スタン・バイ・ミー」なのです。
溺れた方、ご記憶がありましたらご連絡ください。
40年ぶりにあらためて「謝罪」。

(1710)ありがとうございました。 投稿者:草野 貴志・桂  投稿日:02月03日(日)16時42分41秒

遅ればせながら・・・
飯田さん、小野さん、
ありがとうございました。
暖かいお二人のお心遣いに、
寒い冬でも心はポカポカになりました。
何て素敵な大人なんだろう・・・☆
私もそうなりたいと思ってやみません。
(と、言う私達も、29歳と30歳ですが(^^;)(^^;)。)

菊代さん、いつも可愛いメール、ありがとうございます。
そして千古のみどりさん、やっぱり「行くなら二人で!」
という話になり、チケットが取れたら二人揃って
今週末お伺いするかもしれません。
すでに気持ちは千歳まで飛んでいます(笑)。
2.3日中にはお返事できると思います。

(1709)兎のこと・・など。 投稿者:ziny  投稿日:02月02日(土)02時02分44秒

冬、八百五十へ行く道や、神社の上の方には兎の足跡がよくありました。
小学校の石炭庫、物置?にも兎とりのハリガネの罠があったよな記憶がありま
すね。でも、200円もしましたか?

陽ちゃんのお兄さんのいうとおり、鹿島の冬の子供たちの仕事は、ジャンプ台作
りでした。坂道・・私はりき(じき)しんの坂でした。道を90度に横切りジャン
プ台を作りましたね。たまに、馬車や車が来ると潰されましたが。

『しろ』作り、これも鹿島の子供の最高の仕事でしたね。かまくら・・なんて軟
い言葉はあいません。町内・外対抗で雪玉を凍らせての戦争(潰しあい)なんか
もしましたが、何故かけが人はなかったです。
びしょびしょに濡れ、ストーブの周りはほしものだらけ。片栗粉湯『くず湯』が
ほんとに美味しかった。あれはサッカリンかな?

今回新しく、コークス工場の写真がでていましたが、ここでは高校3年、昭和43
年頃、コークス取りのアルバイト、『出面取り』でいきました。なつかしいです。
左側にもう一棟あったような気がしますが。でも、冬のマイナス10度くらいの
時でも焼けどしそうなくらい熱かったですね。

その手前では坑木(8尺、6尺)担ぎもやった。バイト代は十字屋でバッシュを、
またその先の楽器屋さん?でギターを買うのに使ったのかな?

(1708)マ-ちゃんへ 投稿者:本間としひろ  投稿日:02月01日(金)08時51分14秒

マ-ちゃんとは、確か小学校4年生ぐらいから会っていないと思うのですが、
お互い子供も大きくなり、大変な世代(中年)に突入しましたね。
今度、市橋勝を交えて飲みに行こ−ぜ!

平成14年 1月 先頭にもどる


(1707)久しぶり 投稿者:工藤 雅之  投稿日:01月31日(木)21時36分44秒

トシボー元気ですか 年賀状は、毎年交換していますがもう何十年も会って
ないですね、おふくろとおばさんは去年会ったみたいです。今度メールが
できるようになったらアドレスのせますからメールください。トシは、知って
いるかわかりませんが同級生が何人か登場しているので掲示板にも投稿して
みてください。本当にみんなに会って昔話いっぱいしたいですね、絶対今度
会おうね。とりあえず市橋君は、トシの事覚えてるみたいよ 
それでは今日はこの辺で失礼します。

(1706)大夕張の冬の遊び 投稿者:久々湊真一  投稿日:01月30日(水)23時02分48秒

もうすぐ冬のオリンピックが始まります。大夕張っ子は、何やらワクワクしますね
(笑)。前祝に「大夕張の冬の遊び」を思い出して書いてみましょう。

<ジャンプ>
大夕張の子供は、小学校入学前後の年齢から、手作り台によるジャンプで遊んだ。
ジャンプ台を作る手順は次のようにして行う。(1)ジャンプをする場所を決める
(身近にある手ごろな斜面利用、町内でだいたい固定していた)。(2)ジャンプを
するもの全員が、スキーを履いて斜面と直角に雪を踏み固める。
(3)坂の2/3あたりの位置に台を作る(回りの雪を小山になる程かき集める)。
いつものメンバーの中には、ジャンプ台作りの名人がいて、スコップで直角平行に
溝付きの美しい台を作っていた。たまにジャンプ台の上で転ぶものがいて、美しい
台を台無しにしていたような(笑)。
誰が遠くまで転ばずに跳べるかを競ったが、最長不倒点には、木の枝を挿して目印
とした。私は平均以下であまり得意ではなかったが、上手な者は、他の町内の台へ
武者修業(?)に行った。上級者は、こういう修業を経て大夕張スキー場公式ジャ
ンプ台への登場となる。

<雪の城>
内地ではカマクラと呼んでいるが、大夕張の子供達は城と呼んでいたように思う。
雪がある高さ以上に降り積もったら、雪をくりぬいて城を作った。一般的な城の構
造は、だいたい次のようなものであったと記憶する。
(1)入り口から入ってすぐの所に、子供が立って5〜6人入れる大きさの大広間があ
る。ここは、仲間との遊びの打合せや、お気に入り?の女の子と餅や蜜柑を食べた
り等の、ちょっとした社交サロン(笑)であった。
(2)大広間の脇には、目立たぬよう小さな入り口がある。これはトンネル状になっ
ていて、這うように進む。分かれ道があったりして、迷路のようになっていた。
(3)正しく行けた場合は、目出度く「秘密の部屋」に到着出来るという次第。
迷路や秘密の部屋は、競い合って工夫を凝らして作り、自慢しあった。女の子は
大広間には入れたが、秘密の部屋には、つれていかなかったような(笑)。
夜中に水をかけて氷らし、城を頑丈にした思い出もある。

(1705)昔話し 兔の耳の値段 投稿者:泊川俊徳  投稿日:01月30日(水)10時42分02秒

昭和35年頃の話です 山の立ち木の被害 植林した木等 兔が新芽や表面の皮を
食べて立ち枯れの被害を防ぐため 兔の捕獲を営林署で進めていて 捕獲した兔
の耳を営林署の係りへ持って行くと 35年当時 1匹 200円前後だったように
記憶してます と言っても 兔は 中々捕まりません 山中の兔は 素早く走り
追いかけては無理 商売で捕獲してる人は居ないようでしたし 近所でも 兔の
耳を営林署に持って行って お金を貰ったと言う話は聞きませんでしたが
お金が貰えたと言う話は 本当のようでした

こんな話知る人居るでしょうか

(1704)「林業の歴史を学ぶ会」 投稿者:奥山道紀  投稿日:01月29日(火)23時12分19秒

シューパロ塾では2月10日に「林業の歴史を学ぶ会」を行ないます。
広大な森林面積を有する夕張市は、林業も石炭産業とともに地域経済を支えてい
ました。市内には二つの営林署があり、南部・大夕張地区は大夕張営林署が管轄
していましたが、昭和57年夕張営林署に統合され、昨年森林管理署の合理化によ
り、ついに夕張事業所・南部作業所ともに廃止されてしまいました。
今回の学習会では、大夕張営林署に勤務されていた宮崎辰雄さん(夕張市)、駒場
和雄さん(岩見沢市)、菊地和博さん(岩見沢市)の3人の方々をお迎えし、かつて
の大夕張地区の林業にまつわるお話しをしていただきます。
また、当日は南部地区に残されている旧営林署担当区事務所の保存と活用につい
て、皆さんと意見交換したいと考えています。
  
                  記

1.日  時:平成14年2月10日(日)午後1時
2.会  場:南部コミュニティーセンター(夕張市南部東町)
3.参加料:300円(高校生以下無料)
4.問い合わせ先:事務局 伊藤勲(電話01235-5-5011) 

http://plaza22.mbn.or.jp/~Noritax_World/shuparo.html


(1703)としちゃん!ご無沙汰してました! 投稿者:片山範子  投稿日:01月28日(月)16時39分23秒

色々お手数お掛けしていたのですね。ありがとうございます。
父の三十三回忌で、おじさん、おばさん、お兄さんにお会いして、懐かしく
ホント時の流れを痛感しました。おじさんに父の面影を重ねて、胸が一杯でした。
貴重なテープがあるのですね、機会がありましたら、是非見せて頂きたいです。
おついでの時でけっこうですので、宜しくお願い致します。

(1702)「2001北のくらし大賞」奨励賞授賞式 投稿者:奥山@三菱大夕張鉄道保存会  投稿日:01月26日(土)23時39分42秒

既に読売新聞北海道支社主催「ふるさと大賞2001」奨励賞受賞については
報告いたしましたが、先週18日授賞式が東急ホテルであり出席して来ました。
主催者として読売新聞北海道支社支社長矢後勝洋氏、来賓として北海道知事掘達
也氏からお祝のお言葉を戴きましたが、共に「北海道も、まだ捨てたものではな
い。不況・不況と云われるが、自分たちの生活だけでなく、地域のため、社会の
ために活躍している団体・個人が沢山ある」との主旨でした。
大変、光栄なお言葉ですが、これも皆さんの支援・協力のお陰と感謝しておりま
す。報告が遅くなりましたが詳細は下記に掲載してありますのでよろしくお願い
致します。

http://www1.mat.muroran-it.ac.jp/ishigaki/gio/kita/kurashi.html


(1701)範子さんへ 投稿者:片山利明  投稿日:01月26日(土)13時20分25秒

範子さん、ご無沙汰しています。結城さんへ住所を連絡してよいか、確認の為に
何度か連絡を試みたのですが、連絡が取れずにそのままになっていました。
結城さん、大変申し訳ありませんでした。
それから、私の実家に範子さんが鹿島小学校の運動会に参加している映像と
お父様のお葬式の様子を記録したビデオテープがあります。
悲しい記憶の映像の為、父は『消してしまえ』といいますが、
範子さんの承諾なしにそんなことは出来ません。
お返事をお待ちしております。

(1700)結城雅司様 投稿者:片山範子  投稿日:01月24日(木)20時05分03秒

大夕張で暮らしていた、私達家族のことを覚えていてくださる方がいらして、
とてもうれしく、胸があつくなりました。小野様、田中様、そしてこの場を
造ってくださった飯田様、ありがとうございます!
そして、結城さんのまぁちゃん!(小さい頃こうお呼びしてました)
ご無沙汰してました。お父様お亡くなりになったのですね・・残念です・・
心からお悔やみ申し上げます。お母様はおかわりありませんか?
私達3人は元気です。このページのこと話しましたら母が大変懐かしがって
おりました。父が亡くなった後、慌ただしくこちらにまいりましたので、いろいろ
お話したい事があったようです。お互いもう43歳。こうして昔のことを思い出して
いると信じられない気分です。
昭和40年は、雪が多い年だったそうで、とうぜん四月には転勤の辞令が出たのです
が坂の上だった緑ヶ丘から引越しできず、父だけが赴任して私は五月から、夕張
第一小学校に転校したと思います。担任は武藤たみ先生でしたよね・・

どうぞ、お母様に宜しくお伝えくださいませ・・
そして、お互い親孝行したいですネ!

(1699)片山範子様 投稿者:結城雅司  投稿日:01月24日(木)12時57分17秒

ご無沙汰してました。結城です。
ISPをちょくちょく変え、メールアドレスを変更してしまい、
ご迷惑をおかけしたようで申し訳ありませんでした。
片山範子 様 お元気ですか?
このページで、範子さんの従兄弟の方とご連絡をとり、範子さんの消息を
尋ねていましたが、残念ながら連絡を取ることができないでいました。
たまたま本日掲示板を拝見していましたら、範子さんの書き込みがあり
ましたので、早速、書き込みました。
大夕張時代の範子さんの記憶はありません。夕張第一小学校で、
同級生になってからの記憶となります。
ただ、お父上の記憶は、鮮明に残っています。
私の父も一昨年夏に他界し、大夕張とのかかわりも記憶の世界
だけになっていくようです。
今は、多摩ニュータウンに住み、都心との往復を繰り返す毎日です。
埼玉の方にいらっしゃると聞いています。
もしよろしければ、ご連絡お待ちしています。

(1698)(無題) 投稿者:泊川俊徳  投稿日:01月24日(木)11時05分20秒

飯田さん 何かと手間を取らせました 再放送の件 出来ればと思いましたが
  飯田さんが言う通り 役者さんの覚せい剤事件て逮捕では 再放送も残念
ながら駄目でしょう 再放送しても シラケてしまい新鮮な感じでは見れない
でしょうね タレントさん 役者さん何か ちょと名が売れると覚せい剤
大麻等と職業病なのでしょうかね
せっかくの番組 ケチ付いてしまいました 感じです

放送が終わって 二週間 皆さんがNHKに資料として写真等 返還されました
でしょうか 思い出ノートと写真が まだ 戻って来ません NHKで まだ
別の番組でも予定が有るのでしょうか 思い出ノートを 又 書き写して
皆さんへと思ってるのですが 来週にでも手紙でも出してみようと思ってます

再放送 リクエストの件に付きまして 飯田さんには 気を使わせましたね
有難うございました 
又 パソコンの使い方が イマイチ使い慣れず 読みづらい事があり
修復の事も まだ分からないままです 今後 宜しく お願いします

(1697)どこかでみんなつながって・・ 投稿者:小野 美音子  投稿日:01月23日(水)22時29分06秒

田中様、ありがとうございます。こちらこそ今年も宜しくお願致します。
田中様の絵手紙やガーデナーぶりは素晴しく、私がもっと画像処理が
上手であれば、皆さんにもご覧になっていただけるのに・・と思って
います。(あっ、田中さんの著作権大切にしなきゃ! 笑)
今年はそこで画像と音楽関係が上手になりたいです。
音楽は久々湊さんのあとを追ってソフトと遊んでみましたが、野暮用
多くなかなか進みません。そのうち何とか・・。

田中様は沖先生御夫妻と先日、楽しくお過ごしになられたそうですね。
お子さんのたくやちゃんとは、時々一緒に遊び、私が帰ろうとすると、
「もっと遊んでって〜!」と手を何度も引っ張られた記憶があります。
珍しいカラフルなおもちゃが沢山あって羨ましかったです。
(たくやちゃんが3、4歳頃なので私のことは覚えていないと思います。)

こうしてみると、どこかで誰かとみんなつながっていてビックリです。
毎日「ふるさと大夕張」を見ずにはいられない中毒症ですが、
かなりのビックリ症も併発しています。(笑)
(こっそり感涙症も・・・としさんや皆さんもそうでしょ!?)
     
遠藤様のご冥福を心よりお祈りいたします。

(1696)小野 美音子さんへ 投稿者:田中 紀子  投稿日:01月23日(水)16時35分51秒

今年も宜しく、お願いします、美音子さんの投稿は私の遥か昔の記憶を、
思い出させてくれます、菊池先生は中3の時の担任でした、後に東京に行かれ、
ました、
お亡くなりに成りましたが、ずーと年賀状は交換しておりました
そして、片山範子さんのお母さんは、古屋さんのお嬢様ですネ、
よく知っております、昔戦争中、布団の綿工場をしておりました、出征兵士の妻
達は、今で言う、パートに布団作りにいっていました、
懐かしく思い出しております、
又、沖先生夫婦のお話ですが、20日、苫小牧で、喜久恵さんの母方の法事で、
お見えになり、19日の夜、3人で会食して、懐かしい大夕張の話で、お酒を
飲み楽しい時間を過ごしました、
先生とのお話の中で今の人生が有るのは、あの大夕張で育んだ、原点があったから、だとしみじみ思います、
陸の孤島と言われた街で皆が助け合いながら、又祭りなどは町をあげて皆、苦労を
忘れ楽しみました、又悲しい炭鉱事故などあったときは、子供ながらに、
どうか坑内に残されている人が、無事であるようにと、心から思いました、
そんな結束の強い街でしたので、今だに同期会などは大勢の仲間が、集まり
懐かしい思い出を語り合います、
先日残念ながら、同期の富士見町にお住まいの、遠藤宜世さんが、お亡くなりに
なり、葬儀に出席しましたが、東京、千葉、函館、・・各方面から40余名も
集まりました、恩師の中川先生も駆けつけてくださいまして、
その夜は会場に泊まり、お通夜をしました、
祭壇に皆で「鹿島中校歌」原始の森の・・・・・を捧げ涙し冥福を祈りました。
悲しいお知らせですが、同じ大夕張人の皆様ですので聞いてください。

(1695)懐かしい町内地図 投稿者:久々湊 真一  投稿日:01月23日(水)12時45分34秒

『散歩道』の町内地図を懐かしく拝見しています(随分充実しましたね)。
飯田さん、又々感謝です。
掲載されている地図は昭和43年のものですが、眺めているうちにある事を思い出し
ました。同時期の昭和41年に、私は郵便配達のアルバイトをしたのです(夏休みの
帰省時)。大夕張郵便局には、戸別の詳細地図が備え付けてありました。一家全員
の名前が入った非常に詳しくて精密なものでした。難しい苗字や名前にはフリガナ
が附ってありました(ちなみにうちの名前もフリ仮名付きでした(笑))。
配達物の住所・氏名をこの地図で確認して頭の中に入れ(禁持出)、自転車orバイク
(赤色専用車)で配達を行います。配達ルートの設定(どの巡路が一番効率的か)
が、ゲーム感覚?で楽しかった記憶があります。配達物の中には、就職した同級生
からの両親に宛てた小包もあり「これを少しでも早く届けるにはどうしたら良い
か」などと私情も交えて考えたものです(笑)。

届けた先の人が引っ越していたこともありました。
該当の表札が無くて、場所の憶え違いをしたのか?と一瞬青くなりましたが、念の
ため隣家に聞いて判明したのでした(汗)。隣家に教わった引越先住所をメモに書
き取り、局員に報告しましたが「アルバイトでこれだけ気が利くのは始めてだ」
と誉められたのが嬉しく、今でも憶えています(笑)。この情報は、早速、郵便局
備え付けの詳細地図に反映されました。
郵便配達の方のご苦労の一部を知った、貴重な体験でした。

(1694)幻の街 投稿者:飯田雅人  投稿日:01月22日(火)22時35分43秒

片山さんの投稿に以前の片山利明さんの投稿や,結城雅司さんの書き込みを思い出して
いました。結城さんはメールが戻ってきてしまいます。お元気でしょうか。
片山さんと小野さんは,ということは,ご近所だった・・・・ということなのですね。
片山さん,大夕張の思い出をぜひ聞かせてもらえることを楽しみにしています。

『散歩道』の地図で小野(丸山)さんの家は,てっきり山側のブロックだと思っていて,
たまたま一軒空家だったので,そこにこっそり入居してもらいましたm(__)m
あ〜あ勘違いでした。

最近はHPの地図に炭鉱住宅をどんどん建ててみなさんに入居していただきたいと思って
いるほどです。

20年程前だったでしょうか『幻の街』というような題でドラマがあり,内容は樺太から
引き上げてきたある男が元住民を訪ねながら住んでいた町の地図を書き上げていくといっ
たものだったような気がしますが,今ならそんな主人公の行動も理解できるような気が
します。

(1693)そうでしたか・・ 投稿者:小野 美音子  投稿日:01月22日(火)22時33分33秒

片山さんのお父様はこの掲示板で拝見していたオートバイでお亡くなりに
なられた東小の先生だったのですね。さぞ無念だったことでしょうね。
お母様や範子さんの驚愕や悲痛を思うと、私の母でさえ当時かなりショック
だったそうなので想像がつきません。お父様は母の印象では中肉中背で
端正なお顔立ちで、感じの良い方だったそうです。お母様には範子さんが
その後の大きな心の支えだったことでしょうね。お母様がご健在の
御様子で何よりです。今お母様はどちらにいらっしゃいますか。

菊池先生の家には、なぜか行ったことがあります。優しい上品な奥様で
お豆のお菓子をお皿に入れてくれ、それを下のお兄さんが私の前に置いて
くれた記憶があります。私の家より家具があって、お姉さんがいるらしく
帰って来れば遊んでもらえるのにな〜と思った事があります。

範子さんの1年生のときの担任の「なべやきくえ」先生は妙法寺の娘さんで
結婚されて沖先生になられていたと思います。去年9月ころ弟さんの
国康さんのことを投稿しましたので良かったらご覧になってくださいね。
沖先生は細面の美人、国康さんは丸顔大きな目で兄弟似てない印象です。
私の兄弟3人も全然似ていませんが、なぜかまだ兄弟やっています(笑)
母は去年77歳の喜寿を迎え、とても元気で私達は圧倒されてます(笑)
お母様にどうぞよろしくお伝えくださいませ。

(1692)再放送 投稿者:飯田雅人  投稿日:01月22日(火)21時28分09秒

泊川さんから,先日,ふるさと物語の再放送の要望がでていました。

>パソコン 今一 使い慣れて無い為 文章が途中で変に成り 修復出来ない事が 
>度々 読みずらい事が有ると思いますので失礼してます 先日の途中の文章は
>ふるさと物語 もう一度 総合テレビ 再放送のリクエストしてみませんかの文章
>の話でした 衛星放送の為 見たくても 見れない人が沢山だったと思います
>折角の番組 大勢の大夕張 出身者の方に見てほしいです 皆さんの力で もう一度
>総合テレビで再放送 感動を もう一度

要望先にNHKエンタープライズの電話番号が掲載されていましたが,NHKエンタープライ
ズには残念ながら番組編成権がないということです。

電話やfaxはNHKで以下の番号で受け付けています。

<昼間>03−3465−1111(代表)
受付時間:午前9時〜午後10時
<夜間>03−3465−9090(留守番電話)
受付時間:午後10時〜:午前9時
<FAX>03−3467−1988
24時間受け付け。

ということで,ここに泊川さんの投稿を再録させていただき連絡先もあらためて掲載
しました。19日の投稿については混乱してもいけないので,削除させていただき
ます。よろしくお願い致します。

それでは,もう一度見てみたいので,さっそく電話を・・・・といきたいところですが,
なんと昨日の夕刊に和歌山の梅干屋の俳優さんが「大麻」事件で逮捕されるという残念な
記事がでていました。いい役を好演していたのに本当に残念です。

このことに伴って,近々の再放送はなくなったでしょう。返す返すも残念です。

(1691)小野美音子様 投稿者:片山範子  投稿日:01月22日(火)13時53分25秒

早速ありがとうございます!そうでした・・あの住宅「ブロック」ってよんでましたよね。
我が家は坂の上一番奥の2階におりまして、1階には菊池先生のご一家がお住まいでした。
今でもお付き合いがあります!母に聞きましたところ、丸山先生のご家族覚えておりまして、
美音子さんにはお兄様がお二人いらした筈といろいろ思い出したようです。
昭和40年5月に旭町に引越して半年もたたないうちに、父が交通事故で亡くなりましたので、
私にとって大夕張はたくさんの楽しい思い出が詰まった、大切な大切な故郷です。
そんな思い出を少しずつここに投稿できたらと考えています。
どうぞ、これから宜しくお願いします!

(1690)昔話  カラス 投稿者:泊川俊徳  投稿日:01月22日(火)10時29分06秒

昭和30年代 大夕張の人口が多い時代 ヒッチコックの映画 鳥 もびっくり 
春日町の山に 朝夕 空が真っ黒に成るくらい 無数のカラス 自分はこの年に成
るまで あれほどのカラスの群れを見た事が無い 当時の大夕張に住んでいた人
皆さん同じと思います 無気味な位の数でした
人か少なく成るとカラスの数も減って行くようです さすがのカラスも 氷点下
30度前後に成ると 電線や立ち木から落ちてきます 寒さに耐え切れなず凍死
します
今は あの数のカラスは めったに見る事は無くなりましたです

(1689)堀田牛乳の味 投稿者:宇良田 彰  投稿日:01月21日(月)21時55分09秒

子供の頃、堀田牛乳を毎日飲んでいました。
その味は今でも脳裏の片隅に残っていて
濃くがあって町村牛乳にも負けず劣らずの
味でした。私の身体の骨格の一部を形成して
くれたのは堀田牛乳だと感謝しています。
ビバ! 堀田牛乳!

(1688)片山範子様へ 投稿者:小野美音子  投稿日:01月21日(月)20時40分59秒

今日、住民登録をなさった片山さん、はじめまして!
片山さんが緑ヶ丘のどこにお住まいだったのかと、散歩道を久しぶりに
拝見してみたところ、ページのデザイン変化に驚き、また43年には消えて
いるはずの我が家が「あったー!!」と2度ビックリいたしました。
飯田さん、ありがとうございました。 私の家は(旧姓丸山)
正確にいえば星山先生の階下で、隣が野村先生、斜め上に堀田先生が
いらっしゃいましたが、感激は大きく、そこらへんなので嬉しいです(笑)
片山さんは坂の上のほうのブロックにお住まいだったのでしょうか?
私の母がお母様のお顔を覚えているようです。
ぜひぜひ、片山さんのお話をお聞かせ下さいませ。

(1687)(無題) 投稿者:泊川俊徳  投稿日:01月21日(月)18時59分00秒

ふるさと物語 今日 ビデオで見ましたか 何て表現して良いか分かりませんでした
 もう少し長く放送してると思ったのですが 意外に短いので 残念でした
沢山の人が集まってくれたのですが 3日間のロケで ビデオを写して ほんの
数分で終わり 役者さんの出番が長過ぎた感じもします 草野さんも 少ししか
写ってませんでしたね 一時間半番組と聞いていたのですが もう少し長くても
良かったのでは 子役の娘さんも 2日続けて寒い思いして 写ったのは わずか
でした 集まった人数と時間を考えたら もう少し長く編集して欲しかったです
まぁ 良い経験させて貰いました

残った ロケ ビデオテープで もう一本の番組が出来ても可笑しく無いと思います
30分位写すのかと期待してたのですが 残念です 九州の方は倍以上長かったですね
番組に参加された方々 本当に有難う ご苦労さんでした 
草野さん お互い 良い思いでが残りますね これからも大夕張に お遊びに来て
くださいね

(1686)BS2の件 投稿者:丸山直記  投稿日:01月21日(月)14時05分32秒

まだ録画をきちんと見ていないのですが、なによりの収穫は
飯田さんのお顔を拝見できたことです。
泊川さんもわかりました。
私の同級生の泊川均君とはご親戚ですか?

(1685)堀田牛乳 牛乳キャップ 投稿者:飯田雅人  投稿日:01月19日(土)23時53分21秒

チャットの方では,お酒の話題で盛り上がっていますが,堀田牛乳の牛乳キャップを
資料室の方に掲載しました。
写真を送っていただいていた時に,見た瞬間,今まで忘れ去られていた記憶が,突然
蘇るという経験をさせていただきました。
この牛乳キャップにはお世話になったなあ・・・。きっとみなさん子供時分集めて遊
んだ方も多いのではないでしょうか。
キャップの中心に爪楊枝や,マッチの棒をさしてコマ遊び,キャップに刻みを入れて
そこにゴムを引っかけて飛ばして遊んだり,人差し指と親指ではさんで飛ばしたり・・

今も牛乳ビンには同じようなキャップがついていますが,使って遊んでいるような子供
達は見たことがありません。

『大夕張ミルクプラント』とかかれているところがなかなかいいです〜。

(1684)ひたすら懐かしい限りです 投稿者:高橋歌子  投稿日:01月19日(土)22時41分44秒

美音子さんの投稿は今まさにそこであった出来事のようで、それに比べると
私の記憶力の悪さにはがっかりしてしまいます。

断片で思い出す冬の大夕張は

教室の後ろはシベリア並みの寒さなのに、最前列ストーブ前は熱くて顔を
上げていられなかったこと。
ストーブの熱でグニャグニャに曲がったペンケース。
放課後、学校の二階の窓から飛び降りたこと。
ミニスキーで学校のスキー場で滑ったこと。
校庭での雪像つくり。
栄町方面に沈む夕日。黒い山に赤く染まった空。

夕飯によく出た子持ちハタハタがいっぱい入った鍋。

石炭ストーブから出す真っ赤な豆炭。
手縫いの袋に入れたあんかや湯たんぽを布団の真ん中に入れたこと。
布団に入ると背中は温かく、足元には熱い湯たんぽ。
分厚い丹前。

(1683)荒川商店の思い出 投稿者:小野美音子  投稿日:01月19日(土)21時53分24秒

人懐っこい丸顔のおばさんはいつも笑顔で店番をしていました。
マンボ、くじ、おもちゃの指輪、ジュース、駄菓子など子供には楽しい
お店でした。母と寄るとくじをタダで引かせてくれ、それが最近不思議に
思い出され、母に聞くと、千年町あたりでおばさんが友人と会う時、
仕事を終え、急ぎ支度で出て来て、途中でお財布を忘れたのに気づき、
うちに借りに来ることがたまにあり、それで私にサービスしてくれたの
かもね、と懐かしそうに話し出しました。生まれて初めて赤い缶コーラを
飲んだのも、荒川商店の店先でした。不思議な味だったなー。

飲兵衛さんのおじさんはたまに酔っ払って寿司折を持ってにぎやかに
やってきました。寝入りばな「あの、だみ声はおじさんかな?」と布団の
中で思っていると、いきなりふすまを開け起こしにきて、「さあ、寿司
あるから、起きて食べなー!」と、まるでどたばた喜劇のようでした。
後にも先にも、お寿司を食べるのにあんなにハプニングだらけで食べた
ことは無く、これも大夕張ならではの懐かしい思い出です。

てっかちゃん(てるかずさん)というおばさん似の息子さんと一緒に撮った
写真もあり、てっかちゃんがスコップを持ってカメラに向かっておどけ、
私が面白そうに見ている写真だったような・・。
あー、みんな懐かしい・・・

(1682)(無題) 投稿者:泊川俊徳  投稿日:01月19日(土)11時29分32秒

パソコン 今一 使い慣れて無い為 文章が途中で変に成り 修復出来ない事が 
度々 読みずらい事が有ると思いますので失礼してます 先日の途中の文章は
ふるさと物語 もう一度 総合テレビ 再放送のリクエストしてみませんかの文章
の話でした 衛星放送の為 見たくても 見れない人が沢山だったと思います
折角の番組 大勢の大夕張 出身者の方に見てほしいです 皆さんの力で もう一度
 総合テレビで再放送 感動を もう一度

(1681)感動しました 投稿者:山口  投稿日:01月17日(木)23時57分18秒

どうも、ご無沙汰しています。大阪の山口です。
私も録画してもらってドラマ見ました。
みなさんが駅前通りを歩くシーンや小学校で校歌を歌うシーンでは
胸が熱くなりました。
市橋さんと同じくあの白い犬のことは気になっていました。
雪の大夕張でこちらをじーっと見ていたあの犬のようでしたが・・・
ともあれ撮影に参加されたみなさんお疲れさまでした。

(1680)私も拝見しました 投稿者:市橋 勝  投稿日:01月17日(木)18時15分15秒

BSの「視聴者参加番組」を、私もチラと見ました。
飯田さんが、HPの画像の印象よりも若い方だったのが妙に印象的でした(笑)。
すみません。変な感想で。

何にもなくなった大夕張を駆けている白い野良犬がチラリと映ったのですが、
あの犬は、2年ほど前の夏に友人の車でブラッと大夕張に行った時にもいた
ように思うのですが、気のせいなのかな。
あの大雪の大夕張を、なんにも民家がない中でどうやって生き残っていたの
だろう?ひょっとしたら誰かの飼い犬なのかな?
あり得ないですよね(笑)。
ただ、もしもあの犬なら、生き残っていて欲しいという気持ちがあります。

というような、あの番組を見ていた(たぶん全ての)方々とは全く異なる
感慨を持ってあのドラマの大夕張シーンを眺めていました。

(1679)ふるさと物語見ましたよ! 投稿者:石原 賢治  投稿日:01月16日(水)23時12分02秒

皆さま、書き込まれてますようにワクワク状態でBS見ました。自分なりにドラマの
ストーリーを想像していましたが、少々違っていました。
某芸能人が大夕張出身者になって、過去を思い出すなんてことを考えていました。
テレビ画面から鹿島小学校の校歌を聞けるなんて最高状態でした。
大夕張のイメージは画面のとうり、夕張岳と鉄橋(三弦橋)に始まり、
大夕張駅前の通りに繋がるのでしょうか!
鹿島小のグランドも校舎なき後は記念碑も建ち、寄り添える場所になって
いるようですね。
飯田さんとも一方的にテレビ上で30年ぶりに再会させていただきました。

チャットで、最近の大夕張の写真の中から壁紙に採用された話がありましたので
さっそく真似しました。
もち、夕張岳ですよ。他の、写真も試しましたが、これが一番良かったようです。
会社のノートパソコン上で活躍しています。といっても、解るのは自分だけです。

(1678)保存車両の雪降ろし 投稿者:三菱大夕張鉄道保存会事務局@今井  投稿日:01月16日(水)21時29分31秒

 恒例になりました三菱大夕張鉄道保存会の保存車両の雪降ろしの日程が決定
致しましたのでお知らせ申し上げます。

 日時:平成14年2月2日(土曜日) 午前10時〜

 場所:夕張市南部東町 旧三菱鉄道南大夕張駅構内
    夕張市清水沢より芦別方面へ約7.6Km
    南部市街を過ぎたら左側。すぐわかります。

 持ち物等:
    雪かきスコップ等、昼弁当は各自持参願います。
    当日の天候は予測がつきませんので暖かい服装で
    参加願います。(暑かったら脱げばよい。裸は困
    ります)
    ビール等の差し入れ大歓迎です。でも、????。
    おなじみですが、冷やかしも大歓迎!
    熱いヤジが寒作業での効率のUPにつながる・・・

 注: 夕張市南部にはコンビニはありません。
    最終コンビニは夕張市清水沢の夕張高校付近に
    セーコーマートがあります。(南清水沢)
    ラーメン屋さんは清水沢にあります。
    温泉は夕張市日吉(若菜・平和地区)にあります。

    有志による三菱(鉱)バスの雪降ろしもあるかも
    知れません・・・。

 2月は鉄道保存会の雪降ろし大会に始まり、シューパロ塾の勉強会、南部
雪まつりとイベントが続きます。
 2月は南部がア・ツ・イ!

(関連HP掲示板に同内容書き込み)

(1677)感動しました 投稿者:久々湊 真一  投稿日:01月15日(火)22時36分27秒
BS2を拝見しました。じっとしておられず、いつのまにか投票もしてました(笑)。
本番組は、「あなたにとって、故郷は何なのか」を問うものであり、素晴しい企画
でしたね。そして、テレビと同時進行で「自分にとっての大夕張の重要性」を噛み
しめていました。全国に散らばった元住民の多数が反対すれば、大夕張のダム水没
は阻止出来るのだろうか?

感動的なシーンがたくさんありました。特に、3話のヒロインが「そうめん道路」
を歩く場面には、ジーンときました。この舞台は、都会への若者流出と嫁不足に悩
む四国の片田舎。昔のままの故郷があるってのは羨ましいなぁー。原型を留めない
大夕張を故郷とする者には、この対比に嫉妬心さえ浮かびました(汗)。

ドラマのトリとなる大夕張のシーンは、録画したものにより数回見ました。実は、
小野さんに頂いたビデオを見るため、昨年末にVTRを新調したのです。これが思わぬ
ところで役立ました(笑)。小野さん!これも合せて感謝します。
何度も見ているうちに、飯田さん、デブマンさん、みどりさんなど、当掲示板のVIP
の方々の顔を、しっかり憶えてしまいました(笑)。

(1676)土屋先輩お久しぶりです 投稿者:ヒロ 三浦  投稿日:01月14日(月)22時14分23秒
土屋先輩アケオメです!
ハイッ元気ですよー
自分も見ましたが、かなりヤバイなーて感じです。
結構、顔ぶれは良く分かる感じで
チョッピリ ホット一息です。
いわゆるTV写りが良い!??のかな?
これから当分はエンドレス状態で回す方が多いんでしょうね!
VTRデッキの酷使に注意しましょう (=^・^=)!!

(1675)泊川さんへ 投稿者:土屋  投稿日:01月14日(月)21時05分07秒
泊川さん!格好良く映っていましたよ・・・夕張岳と同じくらいに。
番組を録画しましたので、ビデオをお送りしましょうか?
泊川さんは主役でしたが、通行人役の私はビデオを一時停止しないと
分からないくらいでしたので、校歌を歌うシーンを一時停止して見て
いて気がついたら、私の顔のすぐ後ろにヒロ三浦さんの顔がクッキリ
と映っていました・・お元気ですか?

番組の中で私の声も流れたのですが・・・30年も連れ添った女房も、
37年も後輩をしている平池君も「亭主だ」とか「先輩だ」とか分かっ
てくれませんでした・・・哀しいことです、寂しいことです。
それに比べてJ子君!!あんたは偉いし、いい耳してる!

(1674)Reふるさと物語 投稿者:小野 美音子  投稿日:01月14日(月)16時20分27秒
泊川さん、こんにちは〜!!
先日は泊川さんや飯田さん、草野さん、皆さんをおがみながら
テレビを見ました。
とても良く映っていましたよ。バイクに乗っていらっしゃるところも
なかなか格好良く、また、泊川さんのお話もしっかりしていて
味わいがあり、感心して拝見しました。

総合放送で見られるようにきっとなるよう私も願っております。
夕張岳の「花の百名山」の時も最初は衛星放送だけだったそうですが
現在は総合でも時々やっているそうです。元大夕張営林所の江澤さんが
そうおっしゃっていたことを思い出しました。

(1673)ふるさと物語 投稿者:泊川俊徳  投稿日:01月14日(月)15時33分59秒
ふるさと物語 満足の出来る仕上がりだったでしょうか 
残念ながら自分は見られませんでした 知り合い数人に
見てねと言うと 衛星放送写らない方が多く 静岡県
浜松市舞阪の知り合いが見てくれました 自分が 
中々 出てこないので心配したようです こちらから 
8時過ぎに チラッと出てくるはずだからと電話しました 
本当に自分が出たのか 本人が見てないので分かりません 
自分は 鶴瓶の家族に乾杯を見てました ただ残念でした 
見たくても見られない人が沢山居たと思います 
今後 是非 総合テレビで再放送 お願いしたいですね 
総合テレビでは かなりの視聴率が期待されたと思います 
九州佐賀県の故郷に持つ 方々も同じ思いだと感じます 
ふるさとから離れて暮らす人達が テレビに故郷が写るとなると 
他の番組は さて置いて見ると思います   
1月12日の感動をもう一度 是非 再放送を テレビ局に
お願いしたいですね 皆さんで リクエストして見ませんか 
見れなかった人達の為にも 皆さんの力で 総合テレビでの
再放送 リクエストして見ましょう 住所は このHPに先週 
委細しましたので まだ 見れると思います 是非 是非 
是非に

(1672)BS2見ました、 投稿者:田中 紀子  投稿日:01月12日(土)23時24分08秒

ロケに参加しましたので、とても楽しみに、今夜の放送を待っておりました、
朝からそわそわして、落ち着かない一日でしたが、
とても記念になりました、あの日校庭に集まった皆様もそれぞれの家で今夜
は、大夕張の思い出話に花を咲かせている事でしょう、
テレビ画面に映し出された夕張岳の美しい姿を見て、こんな素晴らしい
故郷を持っている事を誇りに思いました、大夕張に乾杯。

(1671)『私のふるさと物語』 -思い出ノート- 投稿者:飯田雅人  投稿日:01月12日(土)23時03分25秒

4分15秒。このシーンをPC上で,秋の夕張岳とシューパロ湖の
三弦橋から始まる美しい冒頭のシーンから,イタヤカエデの下で歌っ
た鹿島小校歌『ああ,大夕張』で終わる最後のシーンまで,何度も
何度も見返しながらこれを書いています。
みなさんの言葉の一言,一言が,あらためて心に染みます。
画面に写るみなさんの笑顔,様々な表情を見ては,10月の感動を
思い返しています。

ドラマを見ていた時は,画面の中に出てくる顔,顔を見ているだけで,
過ぎてしまいましたが,近藤正臣さんのナレーター,みなさんの一言,
美しい大夕張の映像とBGM,と,それぞれに聞いたり見たりしながら楽
しんでいけそうです。
結構4分15秒の楽しみ方は多く,そう考えると長い!

ネット版『思い出ノート』ありがとうございました。一応本日の午前
0時で,終了させていただきます。書き込んでくださった方ありがと
うございました。

このシーンのこと,もっとよく知りたい方は私の方にメールをいただけ
れば,折り返しお知らせします。

(1670)まさしくまさしくあの声は・・・ 投稿者:J子  投稿日:01月12日(土)22時19分50秒

家のテレビはBS放送が見られませんので、娘の家で小さくなって放送を見させて
もらいました。孫や婿殿は他の番組が見られないので 仕方ないと諦めて風呂に
入ってくれました。いつもマンガばかり見ている孫が今日は文句も言わずに
見せてくれました。やっぱり私の孫だけあります。えらい!!
最初の声は H君次はみどりちゃんにTさんだったかな・・・又後でビデオを見
なおします。ああテレビに出てる私の友達・・ちょっと興奮気味の私に娘は
呆れ顔。『ママも行けばテレビに出られたのに』。。。なんて言われてしまい
ました。声だけで友達がわかるなんて私の耳はまだ健在かな・・・

(1669)ロケ風景を見ました。 投稿者:伊藤臣  投稿日:01月12日(土)21時33分40秒

大夕張住民登録されている皆さん遅まきながら新年おめでとうございます。
またロケ情報有難うございます。
おかげさまで一月12日のBS2見ることができました。
なつかしい風景、夕張岳の前岳、学校のグランド・・・・・・
飯田さん始め皆さんありがとうございました。
田中先生ご夫妻の元気な姿を見せていただきました。
(先日懐かしさのあまり先生に電話しました。)
とりあえずお礼と本年のご健闘を願います。
本年もよろしくご指導のほどお願い致します。

sinya1990@dab.hi-ho.ne.jp


(1668)高橋商店 投稿者:なりたまさし  投稿日:01月12日(土)21時23分14秒

大夕張で唯一残っていた建物”高橋商店”高橋商店の息子”カッコ”
の年賀状によると、昨年12月に取り壊されたそうです。
昨年9/16に行ったときには残っていたこと自体驚きましたが、
これで建物は皆なくなったのだろうと思います。

(1667)あの声はもしや 投稿者:なりたまさし  投稿日:01月12日(土)21時15分15秒

今見終わって、また巻き戻して見ていました。
トラヤのジャムに心を残していたのは、もしや千古のみどり様では

(1666)遅ればせながら、寅次郎さま 投稿者:千古のみどり  投稿日:01月12日(土)18時37分41秒

それでも、我々は『旨い酒を飲ませてあげよう!』という寅次郎様の、温かい思に
心より感謝申し上げます。もつべきは良き先輩と…
 『失地回復』とかおっしゃっていましたが、当初より『失地』ではなかったと推察されます。
午前3時迄付き合って、唄を聞いてくれるとは、素晴らしい奥方様と姫君様ではありませんか?
それも一重に寅次郎様の、日頃の思い遣りと、働きによるものと思われますが…

 なぜ今「ケメ子の唄」なのか?…私は知っている「ケメ子の唄」悲話…を
『やっちゃった事』に自覚がないようなので、果たして私(達)に悲話を
披露した事を覚えておいでかどうか…
いずれにしても『校歌』に『ケメ子の唄』…
楽しいお酒だったのでしょうか?

(1665)私のふるさと物語(2) 投稿者:奥山道紀  投稿日:01月11日(金)19時42分11秒

いつの間にか、番組案内が消えていました。
以下にも案内があります。
ハイビジョンとBS2の同時放送なのですね?

http://www.nhk.or.jp/bs/htdocs/lineup/h_eiga.html


(1664)私のふるさと物語 投稿者:奥山  投稿日:01月11日(金)12時14分44秒

いよいよ、明日放送ですね。
下記に紹介がありました。

http://www.nhk.or.jp/bs/osusume/index.html#secondtopic


(1663)雪祭り 投稿者:泊川俊徳  投稿日:01月10日(木)10時57分47秒

雪まつりと言えば 今や 札幌の代名詞ですが 昔々 大夕張でも 雪祭りを
鹿島小学校の校庭で雪像を作ってました 昭和35年前後が盛んだったようです
栄町が人数も多いのて 雪像も二基作ってました 栄町の雪像は大きかった事を
覚えていますが 昭和41年前後になると すっかり雪像も小さく成り 雪祭りと
しては盛り上がらず 一時 校庭をスケートリンクにと水を撒いた時期も有りま
したが雪祭りも自然消滅した感じですね 人口も少なくなり 札幌への交通も
便利に成り札幌雪祭りを見にいくように成りました 大夕張出身者でも若い人は 
大夕張の雪祭りを知らない人も多いと思います

神奈川の新婚さん 草野さん 今度は 札幌の雪まつりに来ませんか 衛星放送
のアンテナ付けましたか 昨年は 二度 三度大夕張りに来たので財布も寂しく
成ったと思います しばらく財布に貯めてください

大夕張 昔話しでした
昔話しの話ねたを考えるのも 中々 昔の事忘れてしまい出てきません

(1662)メールアドレス 投稿者:飯田雅人  投稿日:01月09日(水)23時54分32秒

今までメールをいただいた方や住民登録,掲示板に書き込みされた方には,
こちらから時々一方的ではありますが,メールを差し上げています。
(たいした内容でも,回数もそれほどではありませんが・・・)

ところが,このところ数年前に掲示板に書き込まれた方や,住民登録後,
アドレス変更になった方もおられて,結構戻ってきてしまいます。

まだ掲示板や住民登録などしていないけれど,私にアドレスを知らせて
いただける方や,アドレス変更になっている方はこれをご覧になりまし
たら,書き込みや,メール等でお知らせ願えませんでしょうか。

(1661)有難うございます 投稿者:東京のチャコ  投稿日:01月09日(水)22時07分35秒

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
いつも、いつも色々な情報を送りいただき感謝いたして居ります。
何年か前には大夕張の掲示板が有るのは判ってましたが、私には無縁かなと。思い
余り気にもせず、年のせいか?
それが昨年伊藤臣和さんよりメールを頂き、正直言って驚きました。
弥生町の方で、私も弥生町に住んでいましたので、もしかしたら私の弟の年代かも
と思って見たり、又飯田さんにもメールを頂き大夕張の事が知り、
テレビ放映される事今から楽しみにしてます。
やはりBSを付けている人は、付けていない方の方が多いですね。
NHKの総合テレビで再放送されることを望みます。
此れからもよろしくお願い致します。
私は19年生まれ 東京に住んで35年位経ちます。

(1660)北海道産業考古学会講演会 投稿者:奥山道紀  投稿日:01月07日(月)22時51分22秒

あけましておめでとうございます。
こちらは、映画ではなく「講演会」の案内です。
北海道産業考古学会では、「北海道三菱系炭鉱における立坑開発技術を顧みて」
と題して下記の通り講演会を開催します。

              記
日 時   1月26日・土曜日 13時30分〜16時
場 所   北海道クリスチャンセンター506号室
      札幌市北区北7条6丁目 北海道大学生協向かい
講 師   元三菱鉱業社員・川口喬氏。
連絡先   事務局・山田氏(011−727−7145)

会員外でも聴講可能ですので、興味がある方は山田氏へ連絡願います。
大夕張でも遠幌川を遡った、850の裏側に立坑がありました。興味深い話
が聞けるかも知れません。

(1659)拝啓 千古のみどり殿(その2) 投稿者:大夕張寅次郎  投稿日:01月07日(月)22時08分03秒

無謀にも、年も押し詰まった29日の25年会の忘年会に参加されたとか...。
雪掻きで顔も台無しだろうと...。
ママさんダンプを押す手も凍ばれてるだろうと...。
自分では勿体なくて飲むことの出来ない「シャンパン」をお送りしたのに、乾杯の
時に飲んだだけで残ってしまい、残りはすべて自分が飲みましたと...M氏からの
チクリの情報がありました。

私の年末は、日頃の行状の償いをすべく、風呂掃除・窓拭き・買い物・洗濯にいそ
しみ、我が家での失地回復に努めておりましたが、順調に失地回復したのも束の間
のことでした...。
5日の朝、ご機嫌良く目覚めて台所に足を踏み入れてみると、ナント酒ビンが散乱
しているのです。
こんなに誰が飲んだのかと、不安を胸に抱きつつ奥方1名・姫君2名の起床を待
ったのですが...不安は見事に的中!!

冷たい眼をした女性陣3名が口を揃えて言うのです。
「最初はケメ子の唄よネ」、「夜中の3時に一緒に歌えってネ」、「最後は大夕
張の歌よネ」、「原始のナントカで...ああ〜大夕張ってネ」
やっちゃいましたョ...新年のたった4日だけで終わってしまった今年の失地
回復。

みどり殿!
「酒選びの失敗に失地回復の失敗...ゆるくなかったんだヮ〜僕の年始年末」

(1658)『闇を掘る』神戸で上映 投稿者:寺田牧夫  投稿日:01月07日(月)13時30分18秒

遅まきながら、明けましておめでとうございます。
昨年、ひょんなことから大夕張を20数年ぶりに訪れ、皆さんとお知り合いになれ、
新しい世界が開けました。飯田さんにはお会いできなかったので、本年はまた再訪
して多くの方とお話ししたいと思います。その節はよろしくお願いいたします。


新年に監督の藤本幸久さんよりご案内いただきました。

神戸アートビレッジセンター (新開地から徒歩3分、JR神戸から徒歩10分)
tel 078-512-5500 URL=http://kavc.or.jp

2/13(水)〜18(月) 連日14:30/18:00より

前売り¥1400 当日一般¥1700 学生¥1400 シニア(60歳以上)¥1000

で『闇を掘る』が上映されるそうです。関西地区の方はご覧になるチャンスです。
また同時に映画の中にも出演されている、早川季良さんのコールレリーフ(石炭画)展も
共催されます。

今後、3/1〜10に新潟、7/3〜14には福岡で上映予定とのことです。
また道内での旧産炭地での上映も春から積極的に始めるそうです。地元の報道にご注意ください。
大夕張出身の方はもちろん、大夕張に興味のある方、無い方何方が見ても考えさせられる映画です。
藤本監督に今後も良い映画を撮って頂くためにも、多くの方にご覧頂きたいと思います。


藤本監督は現在、太平洋炭鉱の行く末を続編として製作すべく記録中とのことです。

(1657)Re乙女の姿・・・ 投稿者:小野美音子  投稿日:01月06日(日)17時32分35秒

Zinyさん、皆様、遅ればせながらあけましておめでとうございます。
思い出ノートのZinyさんの「ふるさとを想う」の詩もとても素敵ですね。
また、Zinyさんのお父様の百人1首のから札読みの・〜夕張川に身投げ
するとは、人の命の惜しく〜のところ、思わず笑いが・・(上手ですね!)
私の父もそういえばカラ、カラ、カラと下駄の音なり〜と平凡にやって
いたのを思い出しました。
「乙女の〜」の札は人気の的でしたね。私は年下で弱かったのでこの札
だけを死守した記憶があります。兄が高校生になると家でしなくなり、
栄町の石崎美智子さんのお宅でさせてもらった思い出があります。
お世話になりました。大夕張を去る頃はクラスも違い、春休み中で
ちゃんとした挨拶もせずに、お別れしてしまったので心残りです。

あの思い出ノートを持った少女、とっても良い表情ですね!!
どなたのお嬢さんなのでしょう? 少女の方を向いているおかっぱの
お嬢さんには昔の私の姿を感じました。いつも大きい子のすることを
見ていて、羨ましかったり、いつかきっと私も・・と思ったり
様々なことを思われているかもしれません。

まだ家の子供たちが小さくて百人1首が出来なかった頃、回文かるた
というのに夢中になったことがあります。お暇のあるかたや小さい
お子様のいらっしゃる方、回文をお楽しみ下さい。

  ユズ湯のなか ほかほかなの ユズ湯
  良いしらせ、わぁ! しあわせらしいよ
  ちからためせ、せめたら 勝ち
  平和いのる 夜の祝いへ        (回文作成、中田芳子)

PS 乗田さんのトップページに泊川さんのお写真が載っていました。

(1656)乙女の姿・・・・・・ 投稿者:ziny  投稿日:01月06日(日)00時55分16秒

あけまして おめでとうございます

この寒い時期は家の中で遊ぶことが多く、昔、お正月はカルタ遊びで過ごした方
も多いと思います。

我が家ではよく百人一首をしました。
また、町内会対抗試合にも、出さされ、詰所の冷たい畳の上で戦いをした記憶が
あります。1チーム3人で、攻め(5,6枚)、中堅(15枚くらい)、守り(30枚く
らい)でしたかね。50枚の札を分けて持ちました。
小学校後学年の頃、30年後半ですね。

おかげでほとんどの句は覚えましたが、下の句だけです。こちら本州では上の句
から読んで下の句の札を取るのですが、北海道では下の句を読んで、その読み手
の音、韻で下の句が書かれた桐の板の札を取るという独特のものでしたね。
上の句が読まれないのでまともにかみ、しもとも覚えてるのは何枚にもなりませ
ん。結局、これは何故だったんでしょうね。上の句を覚えなければこちらでは話
になりませんね。

今は亡き親父の読みを思い出します・・『♭〜から、から、空らと、 空札
(からふだ)一枚、♯〜この寒空(さむぞら)に夕張川に 身投げするとは・・
・人の命の惜しくもあるかなあ・・・〜』〜人の命の 惜しくもーあるかな・・
・〜おっとめの姿・・・しばしとどめん・・・・ハイィ・・パシィ・・ばたばた
・・トントン・てな感じでしたね。(上の句がないので自作で作って読んだみた
いですね)

この句だけは何故か、上の句から覚えてました。
『天津風 雲の通路 ふきとぢよ 乙女の姿 しばしとどめん』
 
桐の板のタバコの箱の大きさくらいの札でしたので、畳のうえで直接すると畳が
ぼろぼろになってしまいましたね。   お正月時期の遠い思い出でした。 

(1655)あけまして、始めまして 投稿者:赤西裕之  投稿日:01月05日(土)21時27分00秒

皆様はじめまして。  わたくしは兵庫県西宮市に住む北海道大好き人間です。
現在、大阪市内の特別養護老人ホームに勤めており、社会福祉士の取得めざして
勉強中です。その受験資格取得のために受講(通信教育)している学校が札幌の
学校で、スクーリング(面接授業)受講のため、一昨年、昨年の夏と2回、札幌を
訪れ、9日間づつ滞在しました。ここで北海道の人(北見、旭川、札幌)とも友達
になれました。  残念ながらまだ夕張市は訪れたことがありませんが、次回はぜひ
寄ってみたいと思います。

わたくしの夕張市に関する知識は少ないのですが、夕張メロンとかつて炭坑で
栄えたことぐらいは知っています。  あっ、それから私と同じ年のかつての
アイドル「ザ・リリーズ(双子の)」や昭和40年代に活躍した幕内力士
の朝登関、大雪関の出身地ですね。

そちらは今、マイナス10何度ですか、寒いですねー。こちらはマイナス1度
で、新聞は「今年一番の冷え込み、おお寒い!」と書き立てております。
これからの夕張市の情報を楽しみにしております。  ではまた。

(1654)(無題) 投稿者:泊川俊徳  投稿日:01月05日(土)11時23分40秒

もう正月 5日です だいたい6日まで休みの人が多いですかね 月曜から仕事
休みで気が抜けて 仕事もする気が無くなるのでは
来週 土曜いよいよ NHKでの番組が楽しみですね しかし 衛星放送を見られ
ない人は せっかくの番組も見られなくて残念です 皆さんでNHKに 総合テレビ
でも放送してもらうように 番組リクエストしてみませんか

総合テレビで放送出来るか 
分かりませんが 皆さんでリクエストすれば再放送も 早く成るかも知れません
せっかく 皆さん大夕張に集まったのですから 何するか分からないで集まった
人もいたと思いますがね 皆さんでリクエストしてみましょう

(1653)Re:ヒロちゃん・・? 投稿者:菅井宏史  投稿日:01月03日(木)00時46分54秒

飯田さん、そして皆様、あけましておめでとうございます。
いつも大夕張に関しての最新情報を色々と御提供下さり有難うございます。
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

佐々木江里子さん、懐かしく、嬉しくご投稿の文面拝見させて頂きました。
そうそう西岡さんでしたね。地図に載っている「有沢」というお名前では
なかったはず、とずっと思っていたもので・・、お世話になったお隣りの
お名前の記憶をやっと取り戻すことが出来ました。当時はいつも遊んで頂
いたり、色々と教えて頂いたりで、本当にお世話になりました。有難うご
ざいました。
あれから35年以上も経ってから、今こうしてお礼を言わせて頂けることが
嬉しくてなりません。それもこのHPがあればこそ。飯田さんには改めて感謝、
感謝です。
私の兄は「和史(かずし)」ですので、たぶん「かずしちゃん」と呼んで頂い
ていたと思います。今は千葉におります(私は奈良県在住)。
典彦おにいちゃんにくれぐれもよろしくお伝え下さい。

(1652)この年末年始 投稿者:千古のみどり  投稿日:01月02日(水)23時18分12秒

 ご挨拶がおそくなりました。
(バックミュージックは宗次郎です。しばし巷の喧噪を離れて…)
昨年後半は、飯田さんのhpを見させて戴き、又、参加させて戴き
たくさんの感動をありがとうございました。
本年もこれに懲りずに??宜しくお願い致します。

 暮れの30日、近所から蓬のあんこ餅7ヶのお裾分けがありました。
大夕張を出て以来初めてのことです。
まだこんな習慣が残っていました。ちょっと感無量(涙)

 暮れの29日、例のサンフラワーで25年会の忘年会がありました。
兼業主婦にもかかわらず、無謀にも出席しました。
(さすがに女性は少なかった)
なので30日はよれよれで、掃除がはかどらない…
(だから早く帰れって…)
そのおり、先輩の某氏より、高級シャンパンの差し入れがありました。
そのお心遣いにまた(涙?)
御懸念のとおり、一部その上等な味が解らない者もおりましたが、
田舎者??ゆえ、御勘弁下さい。一同心より感謝申し上げます。

 草野様、何も無くなった大夕張の、多分最も最近の
今では、夕張岳の次に大夕張の象徴となった、いたや楓の木の下で
撮った写真入りの年賀状、大夕張の人からも、もらったことがありません。
貴方は大夕張人より、大夕張人です!!(涙、涙…)

(1651)あけましておめでとうございます☆ 投稿者:草野貴志・桂  投稿日:01月01日(火)13時02分34秒

昨年はたくさんの方にお会いすることが出来まして
本当に夢のような、素敵な一年でした。
どうぞことしもよろしくお願いします!

お正月の間にBSアンテナ取り付けるぞぉ〜☆

(1650)明けまして 投稿者:泊川俊徳   投稿日:01月01日(火)12時42分00秒

全国の大夕張 出身者の皆さん 良い新年を向かえられましたでしょうか 
帰省したくても もう大夕張には 帰る社宅も無く 今は 白い雪原だけです 
天気が良ければ 雪風景の夕張岳が美しい姿が見られるとおもいます
神社の黄色い旗は 多分 スキーに来た人が ロープを切り 無残に雪の下に
成っている事でしょう
今年も 春の連休から 原付デブマンとして行きますので 何時もの皆さん 
ラッセル車のシュ−パロ塾の皆さんの整備姿も見られる事でしょう
全国の大夕張出身者の皆さんにとって 今年も それぞれの土地で 良い年で
ありたいですね

秋田の佐々木さん 神奈川の草野さん 富士市の立川さん
千歳自衛隊の山口 勲さん 今年も元気でね  又 小学校の記念碑の場で
元気で逢いたいですね

(1649)新年明けましておめでとうございます 投稿者:佐々木真由美(海野)  投稿日:01月01日(火)12時29分01秒

大夕張の家族の皆様、明けましておめでとうございます。
昨年は、大夕張ロケでの思い出、皆様とお会いできた事、
本当に、よかったです。今年は、まずは十二日の放送が楽しみですね。
このホームページに出会えた事は、幸せです。今年も、皆様が幸せでありますように・・・。

(1648)明けましておめでとうございます 投稿者:佐藤 次男  投稿日:01月01日(火)09時43分54秒

大夕張ファミリーの皆さん
明けましておめでとうございます。

昨年は大夕張の輪が広がった1年となりました。
今年も皆さん宜しくお願い致します。

(1647)Happy New Year!! 投稿者:ヒロ みうら  投稿日:01月01日(火)01時19分48秒

明けましておめでとう!イエッー

佐々木 江里子さん、ようこそ「ふるさと大夕張」へ!
久々に同期生が登場、ホンマうれしい限りです (^_^)v
ここには素敵な仲間が一杯います
今ではここが自分のふるさとはここになりました。
今年も大夕張家族の輪を大きく広げてゆきたいですね
2001年最後にまた一人仲間がふえた最高の2001年でした
そして、もっと素敵な2002年にしましょうね!

(1646)おめでとう! 投稿者:成松泰彦  投稿日:01月01日(火)00時06分24秒

おめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
とにかく飯田Worldジャックだ!

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