>>>大夕張掲示板へ(書き込みはこちらです)   

2001年    
大夕張掲示板Index題名一覧へ/ 7月 8月

平成13年 8月 先頭にもどる


(1402)恥は忘れない 投稿者:久々湊 真一  投稿日:08月31日(金)12時23分35秒

最近、ある方から「昔の事を良く憶えていますね」と、お褒め(?)のメールを頂き
ました。Over50から、記憶力の減退に悩む(汗)私としては、意外な言葉でした。
そんな訳で、何故なのかを良く考えてみました。
結論 ≪憶えている事は「失敗したこと」「恥をかいたもの」ばかりである(巧く
いった事は殆ど憶えていない)と判明≫ きっと「人様に良く思われたい」性格が、
これに反する出来事を忘れさせないのでしょう(笑)。
そこで、私が最も良く憶えている「大夕張時代最悪」の思い出を書きます。

夕張東高1年の終わりに(何故その気になったのか憶えていませんが)生徒会の
会計に立候補をした。困ったのは、応援演説者を立てねばならぬ事だった。
お願いをしたS君、O君には「大勢の前で話すのは苦手だ」と断られてしまった。
この状況を冗談混じりに父に話すと、「俺が原稿を書いてやるから、これを参考に
演説して、と頼んだら」。父は、あっという間に応援演説用の原稿を書いた。
結局、親しくはなかったけれど人前で話すことに慣れているK君に、原稿と一緒に
応援演説を依頼した。
当日になり、応援演説が始まった。K君は声高らかに「諸君!今手に持っている原
稿は、久々湊君から、これでやってくれと頼まれたものだ。では読む、○×○×。
諸君は、こんな風に自分で自分を褒め上げる久々湊に、清き一票を入れるのか!」
会場である体育館が大きく湧いた。K君は英雄になり、薄ら笑いを浮かべて壇から
去った。私は奈落の底に突き落とされたが、次に自分が演説をせねばならない。
逃げ出したい気持ちを必死に押さえて、しどろもどろになりながら、所定の時間を
終えた。K君を恨むよりも、あんな奴に応援演説を頼んだ自分に腹がたった。しか
し選挙結果は、同情票が集まったのか、高得票で当選をしてしまった(笑)。

16才の少年が心に追った傷は、なかなか癒えなかった。友人関係も、この事件を知
らない転校生とのつきあいに力が入った(逃げた)。又、「人に良く思われたい症
候群?」も、この事件の反動で猛烈に繁殖した(赤面の至り)。そして、「委員な
んか二度とやるものか」と強く決意をした。筈でしたが、大学生や社会人になって
から、同種の委員に立候補をしていたのでした(爆)。

「恥」は同じことで成功体験を積む事により、少しづつ癒されるのですね。
今で言う「リベンジを果たす」ことは、たいへん重要なことと思います。
一方、今になって考えると、この出来事を契機に「打たれ強い体質」が養成された
ようにも思われます(笑)。

(1401)大夕張ダムとシューパロ湖 投稿者:飯田雅人  投稿日:08月29日(水)23時05分14秒

新大夕張ダムともいえるシューパロダムの建設が進む大夕張ですが,
夕張川上流二股地点は昭和のはじめ頃からダム建設の適地として確認
され,昭和10年代以降も不足する夕張川流域水田のかんがい用水の補水
対策として何度もダム建設が道庁に陳情されたそうです。
昭和14年以降の日中戦争で話は中断するも,戦後,あらためて大夕張
ダム建設の気運が高まり昭和29年着手,昭和36年に完成を見たという
ことです。手元の東京都の古書店よりネットで見つけた『大夕張ダム
物語』という本には,建設にいたる苦労や完成後に果たしている大き
な役割などが書かれています。
炭鉱の町とはまた違った側面から鹿島という土地の歴史を感じます。

またこの本には難工事ゆえの尊い13名の殉職者の方々に並んで,ダム
湛水後水難に合われて亡くなられた14名の方がでています。
当時,そういえば,水難事故が多かったように記憶しています。ダム湖
故の事情でしょうが,久々湊さんのお話を聞いて合点がいったような
気がします。ユーモア交じりに書かれていますが,本当に恐ろしい目に
あわれたのですね。

そのためか,当時支笏湖や父の故郷の栃木県田沼で手漕ぎボートに乗った
思い出はあるのにシューパロ湖でのボートは思い出にありません。

(1400)コノドントという化石 投稿者:小野 美音子  投稿日:08月29日(水)20時40分11秒

奥山様はじめ化石探検会に参加なさる皆様、おばんです。
ある所で「官行」のことを「観光」と信じていたと告白をしたばかりに
学術的なお知らせに載ることとなり、恥の上ぬ・・あ、いえ、名誉な事と
恐縮しております。
当日は天候に恵まれ、バスの中もこの上なく楽しく、現地でも化石が
あった!あった!と盛り上がられ、太古の生命の記憶というロマンを辿る
「観光」そのものだったというお話をひそかに期待しております・・。

群馬県大間々町に古生代石炭紀や中生代に広く分布したコノドントと
いう化石の博物館があります。私が見た時は黒っぽい灰色(石灰岩層?)
の石の中の直径1ミリに満たない小さな化石でした。地質の年代を特定
するのにとても有用だそうです。
地元の高校の林先生が1958年に発見しました。
ぜひ心の隅に置かれまして、「化石がみつからなかったー」と泣きそうに
なった時は、虫眼鏡でお探し下さい。それでも見あたらない時は
「石の内部にあるんだー」と心を強くしていただきたいと思います。
「虫メガネ」が必要ですので興味のある方はお忘れなくお持ち下さい。

   http://www.town.omama.gunma.jp/conodont/

(1399)シュ-パロ湖 投稿者:久々湊 真一  投稿日:08月29日(水)12時14分17秒

昭和41年。大学の夏休みに、大夕張の実家に帰省した時の思い出です。家に入ると
思いがけない人がいた。従妹のN子が遊びに来ていたのだ。金魚の糞のように私に付
き纏った洟垂れのN子が、美しく変身していた。「シュ-パロ湖って駅が出来たのね」
「うん、行ってみようか」てな会話があって、散歩がてら行くことになった。
シュ-パロ湖駅には誰もおらず、太陽が湖面にキラキラと反射していた。「あら、ボ
ートがあるわ!乗ってみない?」「よっしゃー」と乗りこみ、漕ぎ出す。「湖の下
に樹があるじゃない」「向こう岸まで行こう」と、ここまでは良かった。
漕ぎ方が巧くなったのか、何やらスイスイ進む。いや、まてよ、引張られているぞ。
実はダムの水を放出していて、放出口にグイグイ流されていたのです。上流に向っ
て必死に漕ぐが、全然進まないじゃぁないの。俺は完全な金槌、N子も金槌だったよ
なー。もし、これで死んだら「禁じられた従妹同士の愛。報われないのを苦に心中
か?」週刊誌の見出しが、頭の中でチカチカ点滅した(笑)。
しかし、オールを目茶目茶に動かしているうちにフッと軽くなり、何とか危険地帯
から脱出できたのでした。

10年程前に、私が住んでいる日立市の駅前に、セントラルフィットネスクラブが出
来た。この看板を見たときに、四半世紀前のシュ-パロ湖の出来事を思い出した。
「金槌のまま一生を終えるのも寂しいよなー、よし、入会しよう」と水泳教室の門
を叩いた。美人のインストラクターのお陰もあって、四泳法を全てマスターした(
特に、平泳ぎは自分に合い、長距離も泳げるようになった)。
始めて25mを泳げたときには感激!感激!でした。何歳になっても、新しい事が出
来るようになるってのは、嬉しいものです。

(1398)鹿島にいってきました 投稿者:添田定雄の孫  投稿日:08月29日(水)01時45分55秒

久しぶりの投稿になります。
大夕張鉄道の元鉄道員 添田定雄の孫、五野上良です。

去る8/21に北海道ヒッチハイク旅行の目的地である鹿島の春日町(だと思われる
ところ)へいってきました。ここは、母、添田やす子の生れ故郷でもあります。
沼の沢のユースに泊まり、そこで自転車を借りてこいでこいでこいで、、、

ついに春日町(だと思われる場所)までいってきました。
噂どうりなんもないところでしたが、母の生まれた土地が見れて感動しました。

途中で南部の高橋商店にお邪魔してお話を聞いて
南夕の詰め所で祖父を知る鈴木さんにも会って
春日町でやっていた床屋さんにも行ってきました。

ダムに沈む前に母と叔母達をつれてもう一度いきたいものです。

(1397)シューパロ塾『化石探検会』 投稿者:奥山道紀@シューパロ塾  投稿日:08月28日(火)22時06分42秒

秋の気配がする今日この頃ですがシューパロ塾の『化石探検会』を下記
の通り開催しますので、多くの皆様の参加をお待ちしています。
                          
                          記

1.化石探検会
昨年12月、「化石のいろいろ展示館」において、夕張市内で採集された化石
や夕張の地質・石炭などの学習をしましたが、今回は同館館長の高橋賢一さ
んのご指導により、鹿島と本町地区の2ヵ所で化石の現地学習を行ないます。
多くの皆さんのご参加をお待ちしています。

・ 日  時  9月2日(日)午前10時出発 

・ 集合場所  夕張市南部連絡所前(南部東町) 

・ 持ち物    長靴、雨具、軍手、タオル、昼食、飲み物、
             岩石ハンマー(主催者で用意しますが、お
            持ちの方はご持参ください)汚れてもよい
            服装でお越しください。 

・ 参加料   1人500円(高校生以下200円)。マイクロバス
            代・傷害保険料などが含まれます。 

・ 申込期限  8月31日までに事務局伊藤さん(01235‐5‐5011)
            へお願いします。  

・ 雨天時  現地学習を中止し、屋内での学習会に変更しますので、定刻まで
      にお集まりください。当日のお問い合わせは伊藤さんまでお願い
      します。

※小野様、当日は「観光」でなく、「官行」の奥まで化石採取に入って来ます。 

http://plaza22.mbn.or.jp/~Noritax_World/shuparo.html


(1396)子亡き夫婦のある日の哀と安堵 投稿者:小野 美音子  投稿日:08月28日(火)09時43分19秒

子供を失った母は父の出勤後、昔風の舅と狭い家に一緒にいるのを辛く
思う時があり、映画館に行ったことがありました。気兼ねなく涙を流せた
からです。しかしそれも舅の意に染まず、母は妙法寺へ向かいました。
裏からそっと納骨堂に入り亡き子の骨と共に一夜を明かしました。

父は夜通し捜し歩き、妙法寺に3度も行ったのですが納骨堂には気付かず、
線路や沢も捜しました。夜明け近く、小僧さんが母を見つけ、部屋に通し
布団を敷き休ませてくれました。目覚めた時、いつのまにか父が枕元に
座っていました。 母は、" 帰るのを延ばしたい・・" と一瞬思った
そうですが、その日は米の配給日で帰らざるを得ませんでした。
物資の乏しい時代は母の意を通すのを許しませんでした。

子だけでなく母まで失っては大変と必死の捜索をした父の切ない心情も
母が見つかった安堵に変わりました。そして生き抜く糧を得るために
二人でとぼとぼと千年町から緑町の*社宅まで歩いて帰ったそうです。

*父は当時三菱青年学校勤務の社員だったので社宅に住んでいました。

(1395)鹿島について 投稿者:高橋 博美  投稿日:08月26日(日)13時45分05秒

 北海道の地名はアイヌ語から転化したものが多い。
夕張も当然、ユーパロ(鉱泉の湧き出るところ)から来たものだが、細かな地名
となると、ゆかりのある本州の地名などが当然多くなる。
鹿島は夕張の芦別側の一番奥にある地名で普通、大夕張と呼ばれた地区だが、
住所的にはどこにも大夕張は出てこない。
正式名称である鹿島といってもピンとこない人の方が多い。
夕張岳の麓で、シューパロ湖の水辺にある地域だ。

 夕張には鹿のつく地名が他に鹿ノ谷があるが、これは単純に昔、鹿が多く生息
していたとの話であり、鹿島とは意味が違う。
鹿島といえば茨城の鹿島市で鹿島神社などが想い浮かぶが、関連はあるのだろう
か。

  由来について考えて見たい。
まずこの地に最初に来た和人は誰でいつ頃であろうか。
言える事は農業関係の人ではありえない、まったく耕地に適した場所は少なく、
気候も不適である。
石炭で来たのでもない、石炭は後からである。
地名にもそれが現れている。
大夕張とは明治39年頃あたりから使われはじめているがそれは鉱山会社の名称
からである。
  では何かというと、それは砂金である。
白金(プラチナ)も採れた。
その名残りで夕張岳の麓には白金の沢というのも在り、実際に昔の採取跡が見ら
れる。
記録的には明治7年(1874)、アメリカ人の鉱山地質学者が炭坑地質を発見
したことになっているが、最初に居着いたのは砂金採取の者であり時期的には
1600年頃からだと思われる。

 松前藩の記録では寛永12年(1635)、二代目藩主、松前公広の命を受け
た家臣がアイヌ人数百人に数年間にわたり夕張岳を中心に砂金の採取をさせたと
ある。
当時、蝦夷地は徳川家康よりその30年ほど前に松前藩が所領を安堵され、その
時期、蝦夷地の鉱山や漁場の開発が盛んであった。
当時は石炭の需要はさほどなく、鉱山開発の目的は、金と銀であった。
石炭はその副産物であったが、その後世界的な産業革命の流れから石炭が主役に
なり、夕張自体が大きく発展するのは明治に入ってからである。
 松前藩のことだが、この藩は江戸期、唯一の無石で大名格(一万石)になった
藩で米ではなく、主要産物で石高が計られた。
幕末には三万石になっているので実態は本州の同格の藩よりは豊かであった。
植民地主義的な抑圧と搾取でもって運営していたが、その後、一時、江戸幕府が
直接蝦夷地経営を目指した時期があり、転封のさたもあったが、結果的に幕府は
大きな負債を抱え、すぐに松前藩に所領を戻す事になり明治までつづく。
夕張は松前から離れすぎ、藩の主要な漁場とも遠く、運上場所も設けてなかった
ので殆ど管理などしていなかった。
逆にいえば、当時の鉱山開発者(山師)にとっては当てれば濡れ手に粟の場所だ
った。
当時の山師は江戸はもちろんだが甲斐などに多くいたが技術的には砂金採取では
なく鉱山採掘で、鹿島に来た人はまともな藩からの人たちではない。
後で松前藩が乗り出すのはそれらの人達から情報を得たためであり鹿島という名
はその時点で存在していた。

 では鹿島というのはどこの場所をさしていたのだろうか。
砂金は川で採取するのだが今でも川には鹿島という名称はない。
採取場所はもっと小さい沢でなければならなく鹿島はもともとは鹿島沢、鹿島の
沢から来ていると思われる。
調べて見ると大正12年(1925)鹿島沢採炭坑道開鑿という記事が見られる。
やはり鹿島は沢の名前から来ている。
松前藩が砂金採取する前にその沢にいた人は鹿島という人なのか、それとも鹿島
に由来する関係の人なのだろうか。
また、松前藩でアイヌ人を指揮した家臣が鹿島氏なのか
、と書き進んでいると重要なことが頭に浮かんだ。

 その疑問とは「だからどうした」という深い疑問である。
この考えが頭に浮かんだ時点で私はなぜか、大阪漫才かしまし娘を思い出し
「よしえでーーす」と口走り、布団に入るのであった。

(1393)シューパロ川の灯籠流し 投稿者:小野 美音子  投稿日:08月26日(日)10時11分27秒

お盆も過ぎシューパロ川に秋風が吹く頃となりました。彼岸を渡った魂は
忘れ去られることを寂しがると聞きます。私には麻疹の予防注射がもとで
赤ん坊の時に亡くなった兄がおり、毎年妙法寺の灯籠流しに参加しました。
まだ日の明るいうち、妙法寺には沢山の檀家の人々が集まりお上人さんを
先頭にぞろぞろとシューパロ川へ向けゆっくり歩きました。
川岸へ着き、手に持っていた灯籠を組立て、読経を聞いているうちに
あたりには夕闇がせまり、灯籠に蝋燭のあかりが灯されました。

側にはお寺の跡取りの青年僧の国康さん(沖喜久恵先生の弟)がいらして、
幼い私に「このあかりは亡くなったお兄ちゃんの所に届くのだよ」
と言ってくれました。私には掌に乗る小さな骨箱の兄しか知らず、
不思議な気がしました。
やがて無数にも見える灯籠が後から後から流され、その幻想的な美しさに
息を飲みました 。

この世で会うことのなかった兄のその名前は漢字を変え、音の響き
だけを残し、私と顔立ちの似ている次男に付けられました。
兄の魂は私の家に遊びに来ると自分の名が色々な調子で呼ばれ、
賑やかな思いをしながら、息子の成長を見守ってくれていると思います。
***********
久々湊様、お父様の記事をどうぞ御紹介して下さいませ。

(1392)私の恩人3 投稿者:久々湊 真一  投稿日:08月25日(土)17時53分55秒

宝町一丁目に、新聞記者をされていた(と記憶する)佐藤貞雄さんがおられまし
た。父の知り合いでもあり、何度かお宅にお邪魔をしました。
私がここで見た(驚いた)世界は、今振り返ると、大変重要な出会いでした。それ
は、新聞のスクラップブックでした。切抜かれた新聞記事は、各々コメントが附さ
れて綺麗に貼られ、ジャンル(?)別の見出しがついていました。本棚には、この
スクラップブックがずらりと並んでいて膨大な数があり、圧倒されました。
佐藤さんはプロ意識(良い記事を書くため)により、自発的にかつ楽しみながら
スクラップをされていたようです。私にとっては、プロとは何なのかを考える契機
にもなりました。

後に、仕事で資料を集めたり整理をする機会には、佐藤さんのスクラップブックを
思い出しました。そして、整理の過程で「こうすれば良いのか」とか「次はこうし
よう」という仕事のアイディアが何度も閃きました。収集整理は一見苦痛に思われ
ますが、視点を変えると楽しいものだと判り、佐藤さんの意図が理解できました。
ただし、この影響は趣味の世界にまで伝播しました。クラシックのLP,CDのデータ
ベース化などは、女房に「好きねぇ。又やってるの」と罵倒されて(笑)います。

父が亡くなった(平成2年)時に、佐藤さんから『あるもの』が届きました。
父が活躍したことを記載している「大夕張時代の新聞」の切抜き記事でした。
不覚にも これを眼にした時に、我慢をしていた涙がこぼれ落ちました。

(1391)私の恩人2 投稿者:久々湊 真一  投稿日:08月24日(金)12時20分30秒

三菱大夕張病院の鈴木昭先生を知ったのは、私が鹿島中3年の時でした。この時に、
病弱であった母が急に体調を崩し、入院かつ危篤状態になったのです。
当時内科部長であった鈴木昭先生が、「この注射で大丈夫でしょう」と言われて処
置。しばらく時間が経過した後に、母の顔に赤みが戻ってきました。こうして母は
危機を脱することが出来たのです。

夕張東高3年の時に、何の用事だったのかは失念しましたが、鈴木昭先生の車に乗せ
ていただき、札幌に同行したことがあります。この車中では、先生との間で「政治」
「経済」「芸術」等の話が はずみました。私が知らなかったこと、深く考えてもみ
なかったこと、単純な視点しか持っていなかったこと、に多々気がつきました。
そして「教養」とは何か、「人物」とはどの様な人なのかを理解しました。人間と
して「先生のようになろう、なりたい」と目標を持ったのです。

今になって、そうなれたか?の答えは「否」ですが(笑)、青春時代に具体的な目
標が持てて 少しでも努力をしたことは、私の財産となっています。鈴木昭先生は、
母の命の恩人であるとともに、私の視野を広げてくれた恩人でもあります。

(1390)夏休み 投稿者:石原 賢治  投稿日:08月23日(木)23時23分10秒

まだまだ暑い日が続きます。台風一過でほんのり秋の気配でもと思いますが、もう
少しがまんでしょうかね?北海道はもう2学期も始っている様ですが、私の子供達
は、まだ夏休み中です。まだ、子供がちびの頃は朝6時30分のラジオ体操に参加
すべく半分眠った状態でも無理やり起こし公園広場に連れて行きました。
だんだん大きくなるにつれ、言うことも聞かなくなり、そして私自身怠け者の本性
で早朝の体操とは縁が遠くなりました。新聞でも、一昔前と比べラジオ体操人口は
減っているようです。深夜のテレビなどの影響でしょう。就寝時間が遅くなって
いるようですね。実家の親と話した時も、近所の公園で行っている体操も時間を
ずらし7時始めで、土日祭日は休みいうことですから、子供主体から管理者の
ノルマ低減になっているんでしょうね。
昔の話、自分達、毎朝6時30分にあの音楽が流れますと余裕有れば公園で待って
いましたし、寝坊すれば歌の間に起きて走って参加でした。
中学3年までの参加でしたが、3年になると体操もせず後ろで喋りばかりしていた
ようで、何のための体操か解りませんね?
高1の時ですからS47年でしょうか、全国の巡回体操が鹿島小グランドで開催
されたと思います。自分は九州旅行をしていましたが、親戚宅で開催日を覚えて
いましたんで、聞いた覚えがあります。もちろんラジオの前ですが。
司会の体操先生が目の前にボタ山(ズリ山)が見えるという事をいっていたような
気がします。従兄弟達を前に、北海道の兄ちゃんのところが、ラジオ中継されて
いると自慢した覚えがあります。

(1389)報告 投稿者:元清陵町民  投稿日:08月23日(木)19時04分53秒

以前シューハ゜ロ湖の森林鉄道の橋梁群のことについて尋ねた者です。
返答ありがとうございました。
しかし時間が少し取れたので8年ぶりに来訪しました。
本町南側の斜面は公園化整備ですっかり変わってしまい驚きました。
問題の橋についてですが、既に大シューパロダム堰堤の基礎工事が
谷底で始まっており、一部保存を望みたいところですが、後2、3年
の内に解体されると思われます。
鹿島及び明石地区の更地化工事、果ては道路の歩道の撤去工事がほぼ
完了しています。
間もなく道路の大規模な切り替え工事が始まるでしょう。
時々魚釣りに行ったものですが、流れる時間とともにすっかり景色
が変わってしまうのでしょうね。

(1388)私の恩人 投稿者:久々湊 真一  投稿日:08月21日(火)13時18分34秒

私の乳幼児時代は、「死んでもおかしくない」虚弱体質だったそうです。当時の写
真をみると、首に真綿を巻いているものが多く、何やら情けなくなります。小児喘
息も持っていて、呼吸が苦しかったことを、朧げに記憶しています。幼稚園には、
「身体が弱すぎて預かりかねます」と入園を拒否されました。
そんな私も、義務教育のお陰(笑)により鹿島小学校の一年生になりました。

一年の担任は、池田久子先生でした。こういう虚弱な生徒ですから、非常に手が掛
かります。熱を出して寝込み、頻繁に学校を休む。学校に来たら来たで、青い顔で
フラフラし、今にも倒れそうな様子。と、大変な苦労をおかけしました。しかし、
久子先生は忍耐強く私を励まし、愛情深く見守って下さいました。当時の通信簿を
見ると、「元気が出てきましたね。もう少し積極的に意見を言いましょう。」と記
入があります。
担任のご縁(ある意味では印象深い生徒?)により、池田先生ご一家とは、家族ぐ
るみでお付き合いを頂きました。当時、守先生・久子先生の間には、敦子ちゃんと
いう赤ちゃんがいました。今は、50近い年齢なのでしょうね。守先生は、このころ
写真に凝っておられたようです。手元に鹿島小学校の校庭で守先生に撮って頂いた
写真があります。「同級生とジャングルジムで」「母と校門近くで」の二葉です。
どちらも笑顔が素晴らしい瞬間を捉えています。守先生の人柄が引き出した笑顔で
しょう。今見ても素晴らしい写真技術です(プロ写真家の弟が感心しています)。
数ある写真の中で、私が最も大切にしている家宝です。

私はその後、運にも恵まれて順調な人生を歩んでこれました。出発点において池田
久子先生の『愛情と励まし』が無かったら、こうはいかなかったでしょう。
池田先生は、私の大事な恩人であり、非常に感謝をしています。

(1387)幼き日にかえって・・・ 投稿者:飯田雅人  投稿日:08月16日(木)20時41分45秒

けんちゃんのおじさんからのメッセージが届き感激です。うちの母も懐かしがって
おりました。そういえば,石原さんの家は九州出身だと聞いてはいましたが,みな
さんスキーが上手だったことを思い出しました。
おじさんの思い出を拝見して,やっぱり当時すでに大人だった方の目で語られると
また一味違うなと思いました。
炭山駅下の沢など自分は船を浮かべてあそんだり,鬼ヤンマを捕まえる遊び場の記憶
がそのすべてです。
そんな当時の大人の世代の視点でこれからも大夕張のお話を聞かせていただければと
楽しみにしています。
-----------------------
けんちゃん!おじさんからのメッセージありがとう!

(1386)お盆が終わると 投稿者:久々湊  投稿日:08月16日(木)13時09分30秒

時々、女房のお供をして近くのスーパーに出かける。近頃は色々な食材が一年中置
いてあって季節感が無いなぁ。女房に「旬の物を買うよう」言いますが、こだわる
(←この言葉嫌い、一生懸命な人を揶揄する響ある)んだから云々、と相手にして
貰えません。結局、購入品の選択は女房一任と決着。私は、暇に任せて大夕張の食
材と当コンビニ陳列品との比較検討を「ひそかに行う」という次第。以下は、この
ような背景で思い出したものです(汗)。

<蕗>
大夕張のフキは、太くて大きい。葉も巨大であり、俄雨時には、傘の替わりに利用
したものです。そして、かなりの太さの物まで、食べることが出来ました。蕗の皮
むきは、母の指示により私の仕事でした。何本も剥いていると、指先が痛くなり・
真っ黒くなり・青臭い匂い(←これ中々とれない)がついた。
蕗は、本州では細いものしか売っていないようだ。太いものは硬くて売り物になら
ない為、置かないのでしょうか(不明)。ゆえに、本州の細いふきは、すぐに煮え
てしまい、クニャクニャで歯ごたえが無い代物に成り下がる。大夕張のシャキッと
した蕗が懐かしいですね。

<山葡萄>
大夕張の山葡萄は、小粒でまん丸(パチンコの玉くらいか)であり、口に入れると
酸味と苦味が強かった。黒粒(濃紺)と白粒(薄緑)があり大量に繁茂していた。
祖父が生きていた頃に「葡萄酒にするから採ってこい」と言われ、ナップザック
(←これ懐かしい)をかついで、満タンに採ってきた。
祖父の勧めと「ウマいゾー」の甘言により、作った葡萄酒を思いっきり飲みこんだ
筈だが、あまりのマズさに、そこいら中に吹き出してしまった(笑)。
今振り返ると、小学生が味わうのは、どだい無理な話でした。しかし、祖父の飲み
ッぷりから推定すると、本当は美味かったのかもしれないなぁ(謎)。

大夕張は、お盆が終わると すぐに秋の気配がしたなぁ。。。。

(1385)大夕張の思い出 投稿者:石原 浩二  投稿日:08月15日(水)23時29分26秒

私はこのHPの掲示板に時々登場する石原賢治の父親です。
昭和33年に九州の崎戸鉱業所(長崎県)から赴任し、昭和48年の閉山後高島鉱業所
(長崎県)に転任しました。
大夕張在勤16年間に富士見町6丁目,2丁目,3丁目の社宅に住み、最後の3丁目の社宅
は、啓心寮の裏手にあるブロック2階建で飯田さん宅は1階、私どもは2階で
こういった形で再会出来て大変懐かしく思います。
大夕張は私のサラリーマン生活で最も永い勤務場所で懐かしく、思い出もたくさん
あります。
1.朝、出勤時に望む夕張前岳が綺麗でした。
2.スキーを年間100日は楽しみました。
3.四季の変化がはっきりしていて、春の新緑、秋の紅葉(特に炭山駅の下の沢の
    紅葉)は今でも目に焼き付いています。
4.職場でも社宅でも皆さん人間味あふれる方たちが多く、その良さは終生忘れ
    られません。
拝見するこのHPに登場される皆様は、在勤時の子供さん達でしょう。
飯田さんをはじめ、宇良田さん、成松さん、里見さん等お父さんは懐かしい方たち
です。
私は在勤中、毎年大晦日の松明スキー、裸参り(3回出場)や山内駅伝に参加
したことが懐かしく思い出されます。
思い出帖や大夕張写真館の裸参りの写真に出る、吉田さん・小林さん・成田さん達は
懐かしい方たちです。
大夕張鉱業所は人材豊富な職場でした。そういった職場に勤務出来て大変良かった
と思います。私世代以降の方でパソコンに興味をお持ちの方もあると思いますので
そういう方を掘り起こせればと期待しています。
このHPは長男の賢治に教えられて知りました。
時々ではありますが、パソコンをさわって、このHPを見ることで昔を思い出し
ています。

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
親父殿からのファックスが有りまして、忠実に書き込んでおります。
掲示板のプリントを送っていましたが、実家にパソコンセットしましたんで
見ることも書き込むことも出来ます。
実家に帰る度、操作方法を伝授しています。

(1384)こんなお盆が... 投稿者:斎藤 敏幸  投稿日:08月15日(水)21時54分23秒

お盆になると,都会へ出て行ったこの街の子供たちが,家族を連れて両親のもとへと帰っ
てくる。この街の人口が一気に膨らむ。同窓会で仲間たちと酒を飲み交わす。少し歳を取
ったけれど,元気な恩師を囲んで思い出話に花を咲かせる。

暗くなると,鹿島小学校のグランドに集り,盆踊りを楽しむ。両親たちも負けじと,太鼓
を叩いたり,お囃子を取ったりして,踊りを盛り上げる。老いも若きも一つになり,この
街のお盆を楽しむ。

翌日は,官行の川原で川遊びを楽しむ。いつもゲームに夢中になっている子供たちも,大
自然に包まれ歓声をあげる。
夜は池田屋食堂でビールを飲みラーメンを食べる。おばちゃんの元気な顔を見る。そして,
鹿島小学校の坂道にある出店へと行く。本間商店のおじさんもまだ現役で店を出している。
この街を支えてきた大人たちは,誰もがまだ元気で声をかけてくれる。
やがて,神社から花火が打ち上げられる。見事な大輪が輝きを放ち,鹿島小学校の校庭を
照らし出す。
「どうだ,お父さんの生まれ故郷は,凄いだろう」と子供たちに誇らしげに言ってみる。

お盆が終わると,両親に見送られ大夕張駅から汽車に乗る。子供たちは,別れを惜しみな
がらも,蒸気機関車がめずらしくはしゃいでいる。

「こんな,お盆があったなら...」
両親の住む港町に車を走らせながら,助手席でふとこんなことを考え憧れていました。

(1383)ちゃんと聞けばよかった・・ 投稿者:長谷川潤一  投稿日:08月15日(水)21時49分44秒

昨日、息子の夏休みの自由研究が終わったということで、たぶん大
夕張は晴れていて暑い!と一方的に思い、官行に泳ぎに行きました。
先客がいて、よく聞くと同期の田辺君でした。
昔、大夕張で遊んだところは、みんな大人になってもリピーターで
来るんですよね。虻と戦いながら泳いだ帰り、グランドによって行
こうと思ったら、校門あとにワゴン車が横置き。草を踏んで上がっ
ていくと、アシスタントの女性の方でしょうか走ってこちらへ来ま
す。「映画の撮影中なんです」と困ったように言われました。そし
て、「カーット!」の声、赤アロハが監督さんなんでしょうか、記
念碑のところにいるみんなの視線がこちらへ・・。「お盆で帰って
る人たちが、まだ上がってくるかも知れないよ・・」と一言、記念
碑には寄れずにそそくさとグランドを下りました。いったいあそこ
で、どんな撮り方で、なんという映画を誰が撮っていたのかは、謎
になってしまいました。その後の話しでも何でも知りたいです。
あとの祭り、ならぬ、あとのお盆?

(1382)早速第一号 投稿者:成田正史  投稿日:08月08日(水)11時52分08秒

飯田さん早速作って戴いてありがとうございます。大変感謝いたします。
早速第一号を書き込みいたしました。
今後とも宜しくお願いいたします。

http://www.khobho.co.jp


(1381)大夕張告知板 投稿者:飯田雅人  投稿日:08月07日(火)22時58分02秒

成田さん,みなさんこんばんは。
8月7日は北海道の七夕で,大夕張もこの日,今日,あの「ローソク
ダーセ〜,ダーセ〜よ〜」の声が響いたのでしたね。
今日の北海道新聞のコラムにこの風習は青森地方から伝わったのでは
というようなことが出ていましたが,大夕張には青森をはじめ東北出
身の方々も多かったように思います。
さて,成田さんのご提案を生かすことができたからどうかわかりませ
んが,『大夕張告知板』のページを作ってみました。
同窓会や同期会,大夕張関係のイベントや集いがあればその連絡等に
使っていただければと思います。また,「あの人は今」では,消息を
知りたい方について書いておくことでいつかレスがつくこともあるだ
ろうくらいな気持ちで使うといいかなと思ったりします。
どれもどの程度使えるかわかりませんが,スタートさせます。
とりあえず,成田さん,9月15日の同期会の案内を書いておいて頂
ければと思います。よろしくお願いします。

(1380)26年生半世紀同期会開催 投稿者:成田正史  投稿日:08月07日(火)20時55分03秒

飯田さん皆さん大変恐縮です、
大夕張ゆかりの昭和26年(1951)生が20世紀をちょうど半世紀生きた記念に、同期会を行います。
その案内をこの掲示板ではなく、住民登録欄に記入させていただいた事を
お詫びいたします。
この掲示板の進行が早いため、ここに書き込んでもすぐに埋もれてしまう、
ということからの確信犯ですが、お許しください。
日時9月15日(土曜日)18:00より、
会場ホテルサンフラワー札幌
言い訳ですが、大夕張出身者にとって「ふるさと大夕張」は、
パブリックな存在だと思います。
こんな利用をお許し戴けますよう宜しくお願いいたします。
ところで丸山さんが書き込まれている村山先生は、中学1年時の担任
でした。あれから40年近い事を考えると、
ちょうど担任のころに生まれた長女の未来ちゃんもそんな年齢になったのか
と思うと感慨ひとしおです。
よく出てくる野村先生も担任ではないですがお世話になりました。
司馬遼太郎とのその後の話しには敬服させられています。
それから正木先生は小学校1年2年の担任でお世話になりました。
皆元気なようで何よりです。
恩師の先生方へ改めて案内が届くはずですので、元気な顔を見せていただければ、
と思います。

http://www.khobho.co.jp


(1378)シューパロ湖に関すること 投稿者:宇良田 彰  投稿日:08月05日(日)22時59分26秒

私にとってシューパロ湖というと何故か「西田幸子」を条件反射のように
思い浮かべてしまいます。その理由はここでは言いません。
シューパロ湖に掛かる三弦トラスト橋は土木工学にとって興味ある対象のようですね。
シューパロ湖に関するURLを下記に認めます。ご存じの方もいらっしゃるかと
思いますがご容赦下さい。違った視点で見ている方々がいらっしゃると再認識させられます。

下記のURLをcopy&pastでジャンプして下さい。ご使用のブラウザーによっては
そのままリンクできるかも知れません。

@http://www.dokokyo.or.jp/kikanshi0003/cover.htm
 「シューパロ湖に浮かぶ三弦トラスト橋」というタイトルで日本大学の
伊藤先生が個人的意見も添えて掲載していらっしゃいます。

Ahttp://plato.mat.muroran-it.ac.jp/ishigaki/hobby/rail/lost/oyubari.html
 三菱大夕張鉄道と夕張森林鉄道に関するページです。写真が結構よく撮れています。

Bhttp://www.railway-ageo.net/off2/yubari1.html
 シューパロ湖畔から望む三弦橋

Chttp://www.tukamo.org/shuparo/shuparo.htm
 「ダムに沈み行く街」

(1377)南大夕張駅観光スタンプ 投稿者:奥山@三菱大夕張鉄道保存会  投稿日:08月03日(金)11時07分41秒

飯田さんの書き込みにもありましたが、改めて観光スタンプを紹介させていた
だきます。
三菱大夕張鉄道保存会では、かつて南大夕張駅に設置されていた「観光スタン
プ」を復刻制作しました(図柄はリンクを参考にして下さい)。
三菱大夕張鉄道は明治44年の専用鉄道開通以来、「石炭輸送」が主役でした
が、昭和36年に大夕張ダムが完成すると観光客誘致のために翌37年6月1
日に「シューパロ湖」駅を開設しました。
同時に南大夕張、明石町の両駅に「夕張岳」や「二股ダム(大夕張ダム)」
「シューパロ湖」の風景を配した観光スタンプを設置、来訪者に親しまれまし
た。図柄は当時大夕張駅勤務の蛯名氏の考案によるものです。
昭和62年7月の同鉄道の廃止でその行方も不明で、存在も忘れ去られようと
していましたが当会ではかつての図案をもとに南大夕張駅のスタンプを復刻し
ました。
本来なら客車に設置すべきですが、普段は無人のため盗難も心配され「絵はが
き」(想い出の駅)の販売を委託している夕張市南部新光町(体育館横)の
「高橋商店」さんに設置させていただいてます。
是非、来訪の記念にして頂ければと思います。
また、「明石町」駅の観光スタンプも近々、復活させる予定です。

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/5963/Stamp.html


(1376)村山 貢先生 投稿者:丸山直記  投稿日:08月02日(木)13時55分32秒

鹿島小学校と鹿島中学校で美術を指導して下さった村山 貢先生の
絵があるページを見つけました。
すてきな絵です、見て下さい。
私にはとても思い出がある先生です。
http://www.webone.ne.jp/~eciea/guide/glass.html
http://www.webone.ne.jp/~eciea/guide/machimura.html

(1375)大夕張 投稿者:佐々木 洋子  投稿日:08月01日(水)21時22分29秒

皆様、こんばんは。千葉県の佐々木です。
7月20日から30日まで、北海道に行って来ました。
札幌の叔母の家に泊めてもらい、あちこち旅しました。
稚内や留萌、小樽や積丹そして富良野や十勝川温泉などなど盛り沢山でした。
涼しい北海道から帰ってきますと、暑さが身にしみます。
アーチーチーアーチです。今日も暑かったです。

26日にいとこの運転で、母と大夕張に行ってきました。
事前に飯田さんからメールで、お話を伺っていたのでとても助かりました。
ありがとうございました。
千年町のきり助が無かったら、草がボウボウでどこだかわかりません。
歩道橋も鹿島小学校も、無くなっているのは知っていましたが、やはりとても
寂しかった。道路は工事中でした。山積にされた土砂は何の為でしょうか?
開拓の方へ行って見ますと、山菜取りをしている方を見かけました。
母がお話を伺うと、千年町に住んでいた方たちでした。「スナックりり」の叔母を
知っていると話してくれました。
発電所のそばや駅前通りを車でうろうろしましたが、とにかく草がボウボウで
道路が狭かったです。私は川や山に行って見たかったのですが、誰もいないのに
何かあってはいけないと母が心配して断念しました。携帯電話も圏外ですし・・・
もっといろいろ奥の方まで行きたかったなー。熊は出ますか?
山に黄色いハンカチが見えました。校庭の記念碑の裏にあった思い出ノートに
書き込みしました。2年前に行ったときは気がつかず、残念に思っていたので
なんだかうれしかったです。天気が曇り時々雨で、夕張岳が見られず残念でした。
帰りに高橋商店で記念スタンプを押して、ポストカードを買って来ました。
おば様とお話ししてきました。やはり道外からも皆さん尋ねてこられるそうです。
いつまでも大夕張、忘れたくないですね。
来年も北海道に行けたら、絶対また大夕張に行こうと思っています。

飯田さんお薦めの夜の大夕張は、ちょっとご遠慮させていただきます。
一人ではいやです。みーんなでならいいかな?

(1374)Re結城様 投稿者:久々湊 真一  投稿日:08月01日(水)12時42分51秒

残念ながら、私は結城先生を憶えておりません。校内のど自慢大会の時には、
どんな歌でも見事に伴奏をつけられる 先生がおられました。もしかしたら、
その先生が結城先生だったのかもかもしれません。一周忌とのこと(合掌)。

平成13年 7月 先頭にもどる


(1373)Re.結城さん 投稿者:高橋歌子  投稿日:07月31日(火)19時21分43秒

はじめまして!
わーい!わーい!ここにもひとり大夕張出身のパドラーが!
てなかんじでとってもうれしいです。
しかも那珂川でカヌーなんてうらやましいです。

6月にシューパロ川下ってきました。
私は初めてだったんですが、三笠カヌークラブの人たちがよく下っているようで
す。8月にも三笠の、主催はわかりませんが、子供向けのカヌーイベントの候補地
にもなっているようです。
鹿島東小学校より上流は、夏になると極端に推量が減るので、5月末頃までがベス
トシーズンです。
国道と林道の分岐点あたりはけっこう開けているのですが、そこより下流は側溝を
どーっと流れているようなかんじで、ボイルがけっこうきついです。
落ち込みや岩はなく、ただひたすらダバダバです。倒木に気をつけさえすれば大丈
夫でしょう。
ある程度の技術があればOKですが、初心者は無理でしょう。

じゃ私は関係ないわ・・・という人もいらっしゃるでしょうが、そんなことはあり
ません。
ニセコ界隈の業者に頼んでラフトやダッキーで・・・という方法を使うと初心者
でもOKです。

鹿島東小学校より先は、私は下ったことはありませんがMCC(激流大好き)の人
によると「川的にはつまらなかった」と言う話なので、どちらかと言うと初心者向
きのように思われます。両サイド崖なので上陸ポイントを選ぶのが難しいと思いま
す。

私の所属するアウトドアクラブでは来年の五月の第三週あたりで「大夕張でキャン
プ&シューパロ川下り」を予定していて、いまからワクワクしています。

もし、こちらにいらっしゃることがあれば、出来る限りのサポートはしますので
ご連絡ください。(川に関しては私がサポートできるほどの腕はないので、あちこ
ちのカヌークラブに声をかける程度ですが・・・)

(1372)南大夕張・高橋商店 投稿者:飯田雅人  投稿日:07月31日(火)18時59分57秒

三菱大夕張鉄道保存会のHPで南大夕張駅の観光スタンプが復刻されたとのアナ
ウンスされていました。「大夕張資料室」に掲載されている観光スタンプは正
木先生から頂いた葉書に載っていたものをスキャンしたものですが,実は後日
談がありまして,大夕張ヤマの会に参加させて頂いた時,昨年の交流会に参加さ
れた祐子さんのお父様の蝦名さんとお話することができ,その際,蝦名さんが
考案されたものだったということです。「資料室」に載ったものをご覧になって
懐かしく思い出されていたということでした。
その復刻された観光スタンプ,南部の高橋商店に置いてあるそうです。先日,
高橋商店の山影さんに伺ったのですが,高橋商店には,大夕張に向かう方々が
けっこう立ち寄られていくそうです。そして,大夕張のこと,大夕張を出てか
らのこと,自身の半生を語られていくそうです。ふるさとに帰るとはきっとそう
いうことなのでしょうね。

山影さんご自身も「夕張岳のふもとで生きた人々」という本を自費出版され,
ています。はしがきの中で,書かれた「消えてゆく。忘れられてしまう。この
地に住った人々の生活が。」という言葉が胸をつきます。本の中に多くの人た
ちの大夕張・南部での暮らしが記録されています。

大夕張に向かう際には,ぜひ一度立ち寄ってみてください。

(1371)はじめまして。 投稿者:五野上良  投稿日:07月31日(火)01時30分06秒

はじめて投稿します。五野上良(ごのかみりょう)というものです。
私の母(旧姓添田)は大夕張の春日町に小学校(鹿島)6年生まで住んでいましが
その後横浜へ引っ越し、今は東京で暮らしています。

引っ越してから母は1度も大夕張に戻ってはいません。
そのかわりと言うわけではありませんが私はこの夏に
母の生れ故郷を訪ねてみようと思っています。

と、そんないきさつでこのホームページに辿り着きました
母にこのページを教えたらかなり感激していました。

またこのページをちょくちょくみに来ます。
それと大夕張に行ってきたら旅行記をホームページに載せる予定です。
とりあえずリンクをはっておきます。

http://www.bon-hair.co.jp/ryo


(1370)おひさしぶりです! 投稿者:  投稿日:07月30日(月)22時36分53秒

先生!覚えていますか?
元6年2組の「川崎 鉄也」ですよ!
前からページがあると聞いていたので探していたら見つけました。
すごいですね。このページ。
訪問者もたくさんいますしね!
いつか会ったら声かけてくださいよ!

僕もパソコンたくさんやってます。
「鉄」と名乗っています。

このページを見たら、大自然にいる気分です。

(1369)ちょっとだけ追加 投稿者:丸山直記  投稿日:07月30日(月)17時26分23秒

高校から歩いて帰るとき前方の山が狭まっているところがあり、
そこで雲がちょうど途切れて狭まった山の間に青空が見えることが
ありました。そこが青い海の様に見えました。
たまらなく海への憧れを感じたものです。

(1367)ちょっとだけ「みかんの花咲く丘」について 投稿者:丸山直記  投稿日:07月30日(月)09時33分52秒

たしかにこの歌は私も好きでした。
きっと大夕張に無いものが沢山歌われていたからでしょうね。
私はこの風景は和歌山県のものと信じていました。
別に根拠は無かったのですが。
和歌山県出身の友人に、そのことを言うと、
「そんなロマンチックな所じゃねえよ」と言いました。

(1366)昭和30年代鹿島東小学校のこと 投稿者:結城雅司  投稿日:07月30日(月)01時19分21秒

飯田さん、ご無沙汰していました。
時々拝見していたのですが、ここしばらく、投稿していませんでした。
千年町のブロック住宅の写真ありがとうございました。
もうなくなってしまったようですね。
私の生家だったのですが、残念です。
数年前、父・母それと家内と長男を連れて廃墟となっていた、
私の生れ落ちた生家を訪ねました。
さすがに、中まで入ることは出来ませんでしたが、
複雑な気持ちで、数十年ぶりに対面した記憶が蘇ります。
「みかん花咲く丘」の「久々湊」様の投稿を拝見し、ひさびさに
投稿いたします。
父は、昭和30年代前般、鹿島東小学校の教員をしていました。
小学校の先生なので、担当教科があったかどうかわかりませんが、
多分、音楽関係を受け持っていたと聞いております。
たぶん「のど自慢大会」などは、率先してピアノを
弾いていたものと想像いたします。
父、「結城淳二」は、昨年8月15日に他界いたしました。
今は、東京御茶ノ水の教会の屋根裏で、私達家族を見守って
います。
鹿島東小学校から夕張第一小学校へ転任後、教職員をやめ、
札幌へ出てからは、私達家族共々、数奇な人生を歩むこととなり、
人生最後の数年は、身を削る病と闘いながら、ふるさとから遠く離れた
八王子の病院で、あっけなく息を引き取りました。
ただ、孫2人を含めた家族で見送ることが出来たのは幸いと思っています。
もう一年たってしまいました。
私は、昭和34年生まれで、3年間ぐらい大夕張で生活いたしました。
幼かったので、千年町のこと・東小学校のことはほとんど記憶がありません。
数枚残された写真と、父が、東小学校のグランドで撮ってくれた8ミリフィルムが
唯一の記憶の証となっています。
フィルムは現在も保管しているのですが、映写機が壊れてしまい、ここ10年くらい
8ミリを見ていませんが、確か、父の教え子、女の子二・三人と一緒に鉄棒・運艇
で遊んでいる姿が映っていたと記憶しています。
父が生前中に、大夕張時代の話をもっとよく聞いておけばよかったのですが、
残念ながら、その機会はありませんでした。
どなたか父の記憶がありましたら、お教えいただければ幸いです。
母は、現在でも当時の生徒様、数名の方から、お便りを頂いて
いるようです。
父の話を聞くのは、嬉しいような、怖いような。ドキドキしています。

PS
現在、大夕張の川は、カヌーの隠れたメッカのようですね。
私もカヌーをやるのですが、ダムが完成する前に、是非とも
トライしてみたいです。
(いつもは、那珂川でやってます。)
情報ありましたらよろしくお願いします。

(1365)山間にかかる雲 投稿者:飯田雅人  投稿日:07月29日(日)07時55分50秒

昨日子どもを石炭の歴史村に連れて行きましたが,夕張は山間に雲がかかり,
気温も18℃前後でした。晴れている札幌を半そで半ズボンで出発したのが,
失敗で体が冷えてしまいました。帰りはユーパロの湯で体を温めてきました。
最近の投稿でEriさんのような世代の方が大夕張に関心を持っていただける
というのはとても嬉しいです。どんなことを調査されていたのでしょう。
三弦橋のことですが,私が知っているシューパロ湖にかかる鉄橋は今の所当
時のままだと思います。奥の方や,これからどうなっているのかは,地元の
方々がきっとご存知でしょうね。
南部小学校ですが,それらしい写真があったので,メソさんのコメントをつけ
てアップしました。いかがでしょうか。
自分は南部小学校は南大夕張駅の上の方にあった小学校ということしかわか
らないので,思い出などある方はまたコメントつけて下されば助かります。
小野さん,久々湊さん,保存会の掲示板の方どうもありがとうございます。
僕も泉町の方から走る列車を見てみたかった・・・。

(1364)Re:みかんの花咲く丘 投稿者:小野 美音子  投稿日:07月29日(日)07時53分07秒

みかんの花咲く丘・・いい歌ですよね。私も大好きで良く歌いました。
久々湊さん、最後まで歌えなくて本当に残念でしたね。
家に童謡歌手の川田正子、孝子姉妹が歌っていたレコードがあり、パチパチ
した雑音とともに楽しんで聞いてました。ちょうど童謡絵本もあり
絵の中では、黒い煙をはいたお船は外国船に見え、ハイカラでどこかの
港から異国へ行くのかな〜と思っていました。

私には、志をたてる真面目な気持ちや発想がなかったので、久々湊さんの
解釈に又々感じ入りました。
恥ずかしながらのんき者の私には夢破れる物語は及びもつかず、美しい
思い出のある丘に来て、亡くなったお母さんのやさしさを懐かしんでいる
歌なのねと単純に捉えていました。
志をたてて頑張らなかったので、憧れの教会の優しい河村先生や
ピアノの美しく聡明な岩佐先生のようになれませんでしたが、
それも人生なのねーと自分を慰めております。

久々湊さんのおっしゃる通り戻るべき故郷は無く本当に残念ですよね。
心の故郷だけがここにあるのが救いです。

追伸、鉄道保存会の掲示板に泉町のところにさしかかった時に鳴る
   汽笛のことで駄文を書きました。久々湊さんならもっと詳しい
   思い出がおありではないかと期待しています。

(1363)みかんの花咲く丘 投稿者:久々湊  投稿日:07月28日(土)00時35分30秒

片付けものをしていたら、茶色に変色したノートが出てきた(東小3年の時のも
の)。この中に、「蜜柑の花咲く丘」の歌詞を書き写した部分がありました。

歌詞1番    みかんの花が 咲いている  思い出の道 丘の町
      はるかに見える 青い海   お船が遠く かすんでる
  2番  黒い煙を はきながら      お船はどこに行くのでしょう
      波にゆられて 島のかげ   汽笛がぼうと なりました
  3番   いつか来た丘 かあさんと  一緒にながめた あの島よ 
      今日も一人で 見ていると  やさしい母さん 思われる
蜜柑がとれる温暖な地方で、海と島が見える場所(愛媛県?)。大夕張とは、なん
と違う所なのだろう。憧れいっぱい!の好きな歌でした。

昭和30年代中頃、鹿島東小学校では、校内のど自慢大会が行われていました。昼休
みに校内放送のマイクに向って、各クラスの代表者が歌や楽器演奏を披露する。
高橋圭三アナとそっくりな、那須野功先生の名司会が光っていました。どういうわ
けか、私もクラス代表の一人に選ばれて、この「蜜柑の花咲く丘」を歌ったのでし
た。忽然と眼前に現われたノートは、歌詞を3番まで憶えるために書いたものだっ
たのです。変声期前のキンキラ声で頑張ったけれど、1番の歌詞を歌い終わらない
所で、突然鐘2つの終了。。。3番まで懸命に憶えた努力は、何だったの?との
「苦い思い」も一緒によみがえった、懐かしい一瞬でした。

「蜜柑の花咲く丘」の詩を、40数年振りで、再度読み返しました。
当時気がつかなかった情景が、目に浮かびます。『主人公は志をたてて故郷を後に
したが、夢破れて故郷に舞戻る。母は既に亡く、船影も見えない。』 なにやら悲
しげな物語が、想像させられます。
しかし、戻るべき故郷の存在は、大夕張人よりも恵まれているのですよー(笑)。

(1362)南部小学校が見たい・・・ 投稿者:メソ  投稿日:07月26日(木)15時16分56秒

原始の林めぐらして〜・・・・もう何にもありませんでした。廃墟でもなんでもなく
最初から何もなかったように・・・・運動会・・あのグランドには何人の人がいたので
しょうか?今から30年くらい前1クラス40人くらいで1学年4〜5クラスだったから
生徒だけでも800人くらいはいたと思います。にぎやかな思い出がたくさんあるだけに
寂しい気持ちで一杯になります。南部小学校がみたいです・・・・あの坂道を登りたい
です。

(1361)三弦橋 投稿者:元清陵町民  投稿日:07月25日(水)19時48分08秒

 はじめて投稿します。私は15年程前まで清陵町に住んでいたものです。
私の同じ夕張出身の友人よりシューハ゜ロ湖のシンホ゛ルである大夕張森林
鉄道の三弦橋は既に解体されたと聞きましたがいつ頃解体されたのか知りた
いのですが、何方か知りませんでしょうか?解体されたのなら湖の上にそび
える橋がもう見られないとなると非常に残念でなりません。

(1360)大夕張!! 投稿者:Eri  投稿日:07月25日(水)13時04分08秒

はじめまして、私は現在東京に住む高3のえりといいます。
中学2・3年の時に札幌市に住んでいて、そのときにシューパロダムのことをしり、
そしてその町が数年後には湖底に沈むということを聞き、不謹慎ながら(?)とて
も興味をもち、すぐさま北海道庁や北海道版朝日新聞、そして果てには数回父にせ
がんで大ゆう張りに連れて行ってもらい、実際あそこを見、歩いたことがあります。
今、あそこはどうなっているのでしょうか?
思わぬところでこのようなホームページを見つけられて、嬉しいです。
あの、ダムを下ったところにホテルがありますよね。スキー場も併設する。
あそこに泊まり、スキーをした数週間後に大夕張のことを知り、そしてかってに
自分で調査している時もあそこを利用しました。
何かにつけて、私の頭にのぼってくる大夕張シューパロダムですが、今はもう湖になっ
てしまいましたか?
あの、何十年かタイムスリップしたような空間。目をつむると今でも思い出せます。

(1359)夢にみる涼しい大夕張の大気 投稿者:小野 美音子  投稿日:07月25日(水)00時52分33秒

赤城山のふもと、国定忠次親分、草津、伊香保の名湯で有名な群馬も
今日は40度の暑さで全国ニュースになってしまいました。
猛暑の中、息子の中体連最後の応援に3日間市民球場に通いました。
大量の氷、保冷材、ドリンク、弁当、果物をせっせと運び熱中症対策という
大夕張では考えられない母親の仕事がありました。氷水につけたタオル
を沢山用意するのも最初は「えっ、そこまでするの?」と思いましたが、
酷暑を味わい、納得しました。

3年部員がたった5名の(レギュラー争いなど無く)弱小お坊ちゃん
チームが、奇跡的に勝ち進み、部員50名以上の強豪チームも倒すという
嬉しい番狂わせがあり、ファインプレーやヒットがでるたびに仲間の
お母さん達と一緒に狂喜して、日頃の上品な(???)主婦の姿は
どこへやら・・上州はかかあ天下の国らしく「郷に入っては郷に従え」
とばかり、母親パワーも全開することになってしまいました。

焼けたフライパンの上にいるような暑さの中で夢に想うのは、涼しい
大夕張の大気です。久々湊さんと同じく暑さには弱いのですが、今回は
何とか乗り切りました。
後はひきこもり主婦になりたいと思うばかりです。(そうもいかず・・)
***********
カルピスは乳酸菌飲料というCMを見てもう一つの材料、ガラスの瓶に
入った透明な液体の乳酸菌を思い出しました。

(1358)もう1回夕張岳の思い出の補足 投稿者:石原 賢治  投稿日:07月23日(月)23時55分22秒

7月20日に投稿した分の補足です。夕張岳などの絵を譲っていただいたことを
記載しました。実家の親父殿からの指摘ですが、絵には『Y.野田』とサインが
記載されているようです。職場は安全灯担当されていた方のようです。
美しい絵を有り難うございます。

(1357)旧営林署建造物保存に関するシンポジウム 投稿者:奥山道紀@三菱大夕張鉄道保存会  投稿日:07月21日(土)02時57分19秒

22日に三菱大夕張鉄道保存会では車両の補修作業を行いますが、続いて
24日午後6時30分より「シューパロ塾」で南部地区に残る営林署建造
物の保存活用に関するシンポジウムを行います。
南部地区には森林鉄道の機関庫をはじめ数棟の営林署の建物が残っていま
すが、これらは昭和初期に建てられた貴重な遺構です。
夕張・大夕張両営林署を引き継いだ空知森林管理署夕張事業所も7月末で
廃止されますがシンポジウムでは「石炭」と共に夕張のもうひとつの主産
業であった、これら林業遺産を活用した「まちづくり」を考えます。
場所は南部コミュニティーセンターで、問い合わせは塾長の正木英造氏に
お願いします。
電話は01235−5−3041です。

蛇足ですが、営林署の江沢さんは高山植物の研究者とも知られ、過去に夕張
岳の高山植物のガイドブックも出版しています。

(1356)大夕張という環境 投稿者:久々湊 真一  投稿日:07月20日(金)12時48分27秒

内地に来てみて、大夕張との違いに戸惑うことが、多々ありました。
なるほどと思ったことに、内地の四季があります。季節を振り返ると、大夕張は
『春、秋、冬、冬』であったように思われます。但し、個人的には、夏は大嫌いで
す。私は身体の温度調節機能が不充分なのか、暑さに弱いのです。汗もほとんどか
かず、体熱を下げられないようです。大夕張の寒い場所で育ったので、汗腺が細く
て汗がかけない(熱を逃がさない)構造になっているのかもしれません。

一方、内地は個人主義が多く、人情味が薄いような気がします。温暖で何不自由無
い環境で生活が出来ますので、「協力して何かをやる心が育たない」ためでしょう
か。環境が厳しかった大夕張は、例えば隣の雪かきを一緒に行うなど、「助け合っ
て生きていくことが当たり前」でしたよね。

環境は、人間の「身体」にも「心」にも、大きな影響を及ぼしているのでしょう。
大夕張のひんやりした空気と、住んでいた人達の暖かさが懐かしいですね。

(1355)もう1回夕張岳の思い出 投稿者:石原 賢治  投稿日:07月20日(金)11時52分46秒

飯田さん、早速に資料提供有り難うございます。夕張山地というぐらいで
高い山が連なっているので確かに解かりづらいのかもしれませんね。
小野さんの、投稿にビックリしました。山の仕事師さんは今でも現役で山登り
されているなんてお年は存じませんが、若い時からの鍛え方が違うのでしょうね?

夕張岳は高山植物の宝庫のようで、山頂近くにお花畑なんていう場所が
ありましたね。そんなことも考えずに当時は登ることを主体に考えていました。
それから、高校2年の時でしょうか、友人と再度トライアルしました。
その時も、霧で下界を望むことは出来ませんでした。山頂から、大夕張の町並みや
東側の富良野とかいった町を見てみたかったのにかないませんでした。
それきり夕張岳登山とは縁がありません。

閉山で大夕張を去る時、父親がある方の紹介で絵の上手な方から、
大夕張在職記念に油絵を何点か有償で譲って頂きました。
夕張岳やシュ-パロ湖を描いたもので、季節もいろいろ有ります。
自分は冬の絵が好きでした。趣味で描かれていたようでお名前は
失礼ながら忘れてしまった様ですが、坑内の入坑時に着ける
安全灯(ヘッドキャップ)の充電ですとか維持管理をされる職場に
いらっしゃった方だそうです。

そういえば、絵と別にアンモナイトの格好良い化石を貰ったこと思い出しました。
教科書に載せてもいいような化石でした。絵共々実家に保管してあります。
大夕張は化石の宝庫だという文章を見かけましたが正にその実証ですね。

(1354)夕張岳のことで・・ 投稿者:小野 美音子  投稿日:07月18日(水)21時01分49秒

石原さんが夕張岳で出会われた江沢さんは何という奇遇でしょうか、現在
実家の隣にお住まいで、御夫妻揃って母にとても良くしてくれています。
おっしゃるとおり、夕張岳の仕事師の雰囲気は今も漂っています。
貴重な高山植物を盗掘している人を見つけると、迫力のある大きな声で
「何やってるんだー!」と声かけ戒め、盗掘していた人達はその高山植物
保護への情熱に満ちた声に縮み上がったらしいと聞いております。

石原さんの投稿の事をお伝えしたら、30年前の事を覚えてらっしゃり
岩山を案内し、富士見町の子がいて(石原さんのことかな?)卒業式に
駆けつけたらとても喜んでくれたと懐しそうにお話なさっていました。
内川様が夕張岳に登られた同じ日の遅い午後に江沢さんも登られましたが、
雨が降ってきたので引き返し残念だったので近々また登られるそうです。

内川様が夕張岳から見られた大夕張が緑色になり、鹿島小の青い屋根も
無く、地図に無い町と目が悟った瞬間・・・とお書きになったのを拝見
したときは何とも言えない寂しい思いが込み上げて来ました。

残念ながら私は登ったことがありませんが、先日の日曜日の朝、NHKの
TVで夕張岳にしか無い貴重で美しい花々を紹介しており、夕張岳登山への
憧れが強くなってきました。白いユウバリソウの何と美しかったこと・・。

そして大夕張映像舘の精根込められた素晴らしい映像。真っ白な前岳と
夕張岳。また小さなカットの隅々までにも飯田さんの思いがあふれて
いるのを感じました。本当にありがとうございました。

(1353)反対からみた夕張岳 投稿者:飯田雅人  投稿日:07月18日(水)20時09分57秒

石原さん,自分も子供の頃,裏から夕張岳を見るとどうなのかよく思っていま
した。大人になって富良野に初めて行った時,一番初めに探したのは夕張岳で
した。でも,その時も,そして今も連なる山々のどれが夕張岳なのかよくわか
りません。ネットで検索しても,芦別岳の左側に見えるらしいのですが,条件
がよくないと見えないらしいのです。
山に詳しい方や,富良野近辺に住んでいらっしゃる方ならきっとすぐわかるの
でしょうけど・・。

ネット上ではみた(裏の)夕張岳の画像は金山の西の高台から見たという画像
が下のところにありました。大夕張から見るのと左右反対ですね(あたりまえ
か・・・)

http://douspo.aurora-net.or.jp/mt/no97/mid.htm


(1352)記憶の私書箱 投稿者:宇良田 彰  投稿日:07月17日(火)23時14分39秒

昭和30年代の半ば、小学生の頃の遊びはお金の掛からない身一つで出来る
創意工夫に富んだそれはそれはクリエイティブなものだったと...今になって
感心しています。正確かどうかは自信ありませんがバック・トゥー・ザ・フューチャーで書いてみます。

《にくだん》
チョークのような石墨で大きな円を書き、その周りに波線を左右に自由に書いて左右合わさる
所から休憩するための中くらいの円を書きます。大きな円と描いた線の外には同じ下図の人数が
配置してゲームスタートです。外の敵をタッチして捕まえ大きな円の中に取り込むという単純な
ゲームです。外の敵は、必ず大きな円の先端にあるプレートを踏んでから大きな円内のエリアを
一生懸命タッチをかわしながら前方の中くらいの円まで到達し、大きな円の中の人が攻めてくる
人をタッチするのに一生懸命になっている隙を狙って中央突破し、踏んで入ったプレートを踏めば
ゲームオーバーというかなりハードな遊びでした。さすがにこの遊びは男子のみでやっていましたが・・・。

《しのーぶ》
この遊びは、男女混合で遊んだ記憶があります。
誰かの家の玄関に数珠繋ぎになって並び一番先頭の人が誰かの家の名前を言います。すると最後尾の
人がその家の玄関まで駆けていって玄関にタッチして戻ってくるまでに自分の好きな所に隠れます。
隠れた人を捜してタッチすると先頭と最後尾の人が入れ替わってゲームが続きます。
かくれんぼの変形でしようか・・・・。
ちょっと記憶が怪しいので誰か詳しく覚えている方がいらっしゃったら投稿してください。

飯田さんが言われていた「くぎさし」はよくやった遊びですが、ちょっとルールがちがっていた
ように思います。

(1351)夕張岳の思い出 投稿者:石原 賢治  投稿日:07月17日(火)23時11分33秒

暑い日が続きまして夏真っ盛りの感ですね。夕張メロンの季節になりました。
ふるさと小包のゆうパック版で昨年同様、夕張郵便局扱いで夕張メロンの申込みを
見かけました。
背景に夕張岳をしっかり写しています。思い切って夕張郵便局にどこで写真を
撮ったのかと伺いましたら、あっさりと大夕張というところですと
回答いただきました。
想像ですが、場所的には明石町か東高の跡あたりでしょうかね?
まあチャンスがあれば一度郵便局でご覧下さい。

わたくし、夕張岳は小学生中位まで前岳とダブっていました。手前のとんがり山
のほうが高く見えましたし、格好も良いと思ってましたもんですから。
そう、前岳が夕張岳と思っていました。
学校の絵の時間で写生する時は、いつも前岳プラス後ろの山(夕張岳)と
左右の山々を描いていたような気がします。

初めて夕張岳に登ったたのは、中学3年の時でして、クラスの男ばかり8名位と
担任の金子先生、それに東小学校のアイカワ(合川?)先生に
同伴いただきました。
2泊3日の夏休み早々の行事でして初日の昼頃、麓の山小屋に着いて夜には
登山したと思います。熊に出くわすといかんので、ラジオをガンガンかけて
登りました。結局早朝に登頂したと思いますが、霧で何も見れませんでした。
翌日の夜は皆で焚き火などで雑談して、夜を過ごしましたが、同じ山小屋
に宿泊されていた営林署の方が、中学生が何か悪いことでもしてるのかと
勘違いされたのか、火のことが気になられたのか、早く寝ろと怒られました。
翌日、夕方に迎えの車が来るまで退屈にしてましたら、前夜の恐い営林署の方が
前岳近くの岩山に連れて行って下さる事になり、皆で向かいました。
岩山も大きな岩でそれに登るだけでも結構大変でした。
そこから見渡す眺めは絶景でして、あの道が官行に繋がっていると説明を
受けました。
記念写真も写してもらい、前夜のもやもやもすっきりした気持ちでした。
エザワさんとおっしゃるガッチリした体格の山の仕事師さんでした。
その後、そのことはすっかり忘れていましたら、中学校の卒業式の時、
わざわざ、岩山に登った時の記念写真を渡しそびれていたと、とどけに来て
下さいました。参加者一同、大いに感激し、各人写真を頂戴いたしました。
夕張岳に関わる思い出話です。

追、夕張岳を大夕張と反対側、つまり帯広とか富良野から見るとどのように
見えるのでしょうか?まず見えるのでしょうか?行ったことが有りませんので
どなたか、御教示下さい!

(1350)昭和30年代 投稿者:飯田雅人  投稿日:07月16日(月)20時57分09秒

・・の少年としては,久々湊さんや高橋さんの言われるような遊びなつかしいです。
そこで自分もあえて,「至難の技」に挑戦してみます。

<くぎさし>
「陣取り」に似ているかもしれませんが,自分たちは「クギさし」と称して遊んていた
遊びがあります。人数によっ2人対戦のときは「一」,3人対戦は「_|_ 」,4人での
対戦は「上」5人での対戦は「正」という字(記号)を書き,その頂点から各自スター
トして,相手の行く手を遮り,相手が進めなくしたら勝ちというものでした。相手の進
もうとしている道をできるだけ狭めるために,クギをコントロールして突き刺すことが
勝つための技でした。

<び〜玉野球>
エポック社の野球盤が出た当時,欲しいとは思ってもそれを買ってはもらえませんでし
たが,さほど残念とは思いませんでした。
なにしろ,ビー玉と小さなシャベルがあれば家の前が立派なグランドになり,野球盤と
同じことができました。
ピッチャーマウンド,1塁,2塁・・・を初め内野手の位置には穴を掘り,外野手の守備
範囲は線で囲み,スタンドも線を引いて決めます。
そしてビー玉をピッチャーマウンドからバッターに向かって転がし,バッターは,小枝
や薪の一片をもって打ち返します。打った球が穴に入ったり,外野守備位置内に入った
らもちろんアウト,内野の穴の間を抜けると,守備と攻撃のビー球の腕の見せどころで
す。返球のビー球と,打者のビー球がどちらが少ない回数で早く塁の穴に入れることが
できるかで,セーフとアウトが決まります。
あとは,野球のルールと同じようにやっていきます。うまくビー玉を打ち返すことがで
きたら爽快,相手より先にビー玉を穴の中に落とすことができればこれまた楽しく,こ
の遊びは大好きでした。でも,難点は時間がとてもかかりすぎることで,いつも日没コ
ールドになっていたように思います。

高橋さんの「十字架」,鹿島小学校のグランドで遊びの時間,みんなでやっていたよう
に思います。学級でやっていたのか,全校でやっていたのかはっきりしませんが,みん
なで大勢で遊んだことを覚えています。

久々湊さんのようにうまく遊びを言葉にすることはできませんでしたが,今でも遊び方
をこのように説明できるということに驚きです。

川さん,昨日自分も大夕張を抜けて富良野に行ってきました。その時南部地区の「川遊
びの会」や釣り人や,結構多くの人たちがシューパロ川の川原で楽しんでいるのを見か
けました。その中に川さん親子もいたのですね。

(1349)食憶12・川原の鍋 投稿者:長谷川潤一  投稿日:07月15日(日)23時22分10秒

息子が楽しみにしていた樽前登山が都合で中止、かわりに何かしようかという
ことになり、先週、宿泊研修でカマド係りをバッチリやりこなしたという息子
の腕前を確かめるため、思い出したのが「炊事遠足」。炭火の焼き肉でもなく、
海の幸ありのバーベQでもなく、もちろんおしゃれなアウトドアでもなくて、
米、味噌、鍋釜背負っての、そうです、あの「炊事遠足」です。陽の当たる中
ほこりの舞い上がる道を官行や白金へと、学年別民族大移動のように歩きまし
たね。班分けをしてメニューを決めるんですが、「カレーライス」「ブタ汁」
「ジンギスカン」、この三大メニューからの呪縛は逃れられませんでしたね。
購買会が安い、生協はまけてくれると買い出しに行き、鍋は×君持つならば、
具は○さん、スイカは重いから男子が交替で行くとか、楽しかったです、はい。
今日は、朝からバタバタとカレーライス遠足用の買い出しから始まりました。
まず、カレー用牛肉(ブタでしたよね当然)、定番のバーモントカレー甘口、
福神漬け、家になかったニンジン、ボトル飲料数本、必須アイテムのアルミ鍋
24a級二つ。その他持ち物は、米3合、水10g、タマネギ3個、イモ6個、
食器、マッチ(着火ガス系は邪道!)、片手ノコ(流木薪切り用)などです。
舗装された道を滑らかに官行までドライブ、イタドリやササに擦られながら、
官行の川原へと降り立ちました。ちょうど昼時、そこそこの天気、ウグイスが
鳴き交い、虻さんブンブン、冷たいシューパロ川。息子と薪拾い、ノコ講座、
カマド囲ってマッチで火起こし。ご飯鍋に石のせて、野菜の煮え具合を見なが
らの火力調節、その合間の川遊び、単純にワクワクしてカレーの出来上がり。
けど、鍋釜背負って、暑い道なりをなんだかんだと、みんなと歩いた時のほう
が楽しかった。今はない、学校行事の楽しい思い出ですねー、ほんとに。

(1348)昭和40年代も 投稿者:高橋歌子  投稿日:07月15日(日)20時45分37秒

それやっていました。
ただ、陣取りは女子はしてませんでした。
その代わり「十字架」と言う遊びがありました。
四角の中に十字架を書いて、鬼は十字架の中だけしか動けず、みんなは鬼に
捕まらないように四角の中をぐるぐる回る・・・という遊びだったと
思います。
遊びは次の世代にも伝えられていくものなんですね。

たまに夕方暗くなるまで子供と公園で遊ぶんですが、そこで遊んでいる子供たちが
「ブランコに乗って誰が一番と置くまで靴を飛ばすことが出来るか?」とか、
上がっちゃいけない屋根に登ったりとか、「私もやりました」と言うようなことを
ちゃんとやっていました。

(1347)大夕張の素朴な遊び 投稿者:久々湊 真一  投稿日:07月15日(日)00時42分40秒

団塊の世代(私の年齢のもの)は、昭和20年代末に小学生となりました。戦後の混
乱から一息ついた時期ですが、敗戦による貧しさの影がまだ残っていました。
子供達は手近なもので工夫をして、遊びに興じていました。そういう素朴な遊びを
思い出して書いてみます。

<けんぱ>
地面に直径30cm位の○1ヶと○2ヶを互い違いに10列ほど書く。○の部分はケン
(片足/ケンケンと呼んだ)、○○の部分はパ(両足)で進む。ガラス片や石片の
目印を手前から順番に○の中に投入れる。これが入っている○は踏まないように進
む。というルール。一番奥に大きな○があって、ケンケンで折り返し元の位置に戻
ってくる。うまく戻れたら、自分の目印を拾い、次の○に投げ入れる。

<陣取り>
地面の上にお互いの城を書き、その間に道・川・橋などを書きこむ。五寸釘を地面
に突き刺し直線で結び道の上であればセーフ、川や橋にかかればアウト。敵の城に
早く五寸釘を突き刺した方が勝ち。刺し方が難しい。五寸釘を人差し指と中指の間
に挟み、上から振り下ろして地面に真っ直ぐ突き刺す。振り上げたときは、釘の先
が空の方を向いており、振り下ろした時は半回転して地面に垂直にならねば、うま
く刺さらない。刺さらぬ時は、アウト。

<ゴム跳び>
ズボンのゴムをつなぎ合わせたものか。二人でゴム端を持ち、水平に保つ。低い位
置からだんだん高くしていく。これを飛び越える遊び。女の子は、挟み跳びといっ
て、足を高く上げてゴムを足先に引っ掛けて股の間に持ってきて、反対の足を抜き
取るという芸当がうまかった。ために、男の子は、なかなか勝てなかった。

<じゃんけん>
ジャンケンをして、勝った方が前に進む。グーはグリコ(3歩)、チョキはチヨコ
レエト(6歩)、パーはパイナツプウル(7歩)と言いながら、文字数だけ歩く。
学校からこれをやりながら帰ったが、意外と差がつかないものでした。

これらは見て憶え、まぜてもらい(←これ大夕張語?)遊んだ。見るだけで簡単に
把握できた単純な遊びなのに、文字で書き表すのは至難の技です(笑)。

(1346)大夕張幼稚園の思い出 投稿者:小野 美音子  投稿日:07月13日(金)14時23分21秒

私の幼稚園の運動会は、とっても地味でした。場所も室内でいつもの
お遊戯場。応援もなく、園児服で、まるで普段のそのまんま〜。
今日は運動会なんだーと自分に言い聞かせながら走った記憶があります。
賞品が用意されていたのがいつもと違うところでした。

お歌の指導は主に金井君江先生がなさり、伴奏は若い先生がしていました。
「歯磨き歌」の時に、皆さーん歯を磨いて来ましたかー?と聞かれると
良い子でウソつき?のみなさんが元気にハーイって答えていました。

「象さん」「お馬の親子」「蝶々」「チューリップ」「手を叩きましょう」
「ぎんぎんぎらぎら夕日が沈〜」「七夕」「ひな祭り」「ジングルベル」
など時々手遊びを加え、楽しく歌いました。「かもめの水兵さん」の時は
右隣の男の子が、急に集中力を無くしてチョッカイをかけてくるので
体をずらしました。多分〜白い帽子、白い服、白い靴〜の部分が急に
速くなるので、小さな挫折を味わいたくなかったのかもしれません。

その頃、指人形が流行りだし、先生方も黒い幕を張って舞台を作り、熱演
して下さいました。動物や食べ物が出て来る物語は楽しかったのですが、
「ヘンゼルとグレーテル」の時だけは、おばあさんの声が気味悪く、絵本
だとお菓子の家が夢のように描かれてたので、絵本に軍配が上がりました。
紙芝居も楽しみで、キンダーブックも嬉しかった記憶があります。

一番印象に残っている行事は、赤鬼、青鬼がやって来た豆まきでした。
うなり声をあげる様はとても恐ろしかったです。家では殼付落花生を
使いましたが、園では大豆で先生がポケットにひとつかみづつ入れに
きてくれ、その時こぼれた豆を拾おうと夢中になり、私って欲が深〜い
のね、と始めて意識した記念日でもあります。
たまに、お弁当持ちの日がありお弁当箱の赤い色も思い出されます。
靴入れ袋はやけに大きく長靴対応型だったのも北海道らしいですね。

親の送迎もなく「子育て楽だったっしょ」と母に言ったらトンデモナイ!
と返されましたが今よりはるかに手間がかからなかったのは事実でしょう。

(1345)きもだめし 投稿者:久々湊 真一  投稿日:07月12日(木)12時24分38秒

飯田さん、小野さん、拙文にお褒めを頂き、THANKSです。 『ブタもおだてりゃ
木に登る』と言いますので、木に登ってみま〜す(笑)。
================================================================

錦町にあった本覚寺は、「算盤塾のお寺」の呼称がピンとくるかもしれませんね。
この本覚寺には、向って一番右側に 納骨堂がありました。本堂の家屋とは、少し離
れていて、ぽつんと建っていました。ここは、お墓を持っていないお宅のお骨や 一
時預りのお骨を納めてある、神聖な場所なのです。

算盤塾が終わり真っ暗だったある夜。一緒に塾通いをしていた仲間から「納骨堂一
周の肝試しをやろう」と提案がありました。私は、やりたくなかったけれど、女の
子もヤル!YARU!と言いだして、結局全員一致でやることになりました。
いつのまにか、男の子は「先に」一人で 女の子は二人で一周すると決まりました。
自分の番になり、心臓がパックンパックンしています。お堂の方は見ないようにし
て、笹薮を睨みながらの「へっぴり腰」で回りました。
女の子の番になりました。二人のルールなのに、五〜六人がくっつくようにしてス
タートをきりました。「きったネーなー」と誰かが言い「脅かしてやろう」と誰か
が言いました。そこで納骨堂の真後ろに行った頃に、O君が笹薮めがけて石ころを思
いっきり投げました。次に、残っていた全員で「出たーー」と、大声を上げたので
す。『ガザッッ』『出たぁー』の効果は絶大で、女の子達が真っ青な顔をして、雲
の子を散すようにこちらに走ってきます。そして そのまま我々の前を通り過ぎて、
坂を下り 疾走して行っちゃいました。あんまり焦せって逃げたので、坂の途中で
転ぶ子もいました。残った我々は、「悪かったかなぁ…」「うん、そうだねぇ…」
と言いながら、帰りました。
案の定、翌日からしばらくの間、女の子達に口をきいてもらえませんでした。

小学生時代の男の子対女の子。こんな図式の経験って、もっと沢山あったような気
がします。甘酸っぱいような、くすぐったいような不思議な思い出です。

(1344)手作りのカルピス! 投稿者:小野 美音子  投稿日:07月11日(水)23時15分19秒

歌子さんちで作っていたカルピス、うちでも作っていましたよ。
クエン酸の白い粉末を吉井薬局から買い、エバミルクの缶詰め(練乳)
と砂糖、もうひとつ材料があったような・・?
クエン酸のさじ加減で酸っぱくなったりマイルドになったり。
ミルクの味がして市販のカルピスより美味しかったですね。
すっかり忘れてた懐し〜い味! 歌子さんのおかげで思いだしました。

あと冬に、ドーナツ状の鋳型に、スポンジ生地を流し込んでストーブの
上に乗せ、途中でひっくり返して作ったカステラ。きめも粗く、バニラ
エッセンスなんか使わないから卵くさかったけれど、赤毛のアンの気分。
けれどすぐに兄達の食べっぷりを意識せざるを得なかった。

こちらでは、梅のシロップやあんずのジャムを作りますが
目分量でいい加減に作るので毎年少しづつ違う味。
これも性格が出てしまいますね。

(1343)時代おくれ 投稿者:宇良田 彰  投稿日:07月11日(水)22時53分18秒

「一日二杯の酒を飲み・・」で始まる故人「河島英五さん」の曲をよくカラオケで
歌います。
「時代おくれ」というこの曲のタイトルは、歌う者にとって色々な意味合いを
込めて歌われる曲だと思います。
故郷の想い出に何ら抵抗なく思い至らす人、忌まわしい想い出としてうち消そうと
している人、人生の心模様が様々に行き交い、それはそれは十人十色だと思います。

私の場合、この曲をマイク片手に歌うとき心の片隅に現れる残像は、リクレットです。
というのは、「妻には涙を見せないで 子供に愚痴をきかせずに」の部分で
ちょっと引っかかるものがあるのです。
でも、この曲が醸し出す雰囲気が好きで十八番として歌っているのですが・・・

たぶん、自分のあるべき姿を願いつつこの曲に酔って歌っているのでしょうか・・?
でも、「時代遅れの男になりたい・・・」という歌詞はなぜか共感する部分があります。

(1342)夏休みのお昼ご飯 投稿者:高橋歌子  投稿日:07月11日(水)21時30分09秒

私が子供の頃の夏休みのお昼ご飯といえば「冷麦」
あのピンクとかぐりーんとか入っているやつですね。あれでした。
なにが美味いんだか、色つきのを妹と取り合ったりしてました。
それで、毎日毎日「冷麦」
「たまには違うものが食べたいよ〜」
母に訴えると
「今日は違うよ!今日は、そ・う・め・ん」

学校があるとき、土曜日のお昼ご飯の定番と言えば
「じゃがいものふかしたの」
たまにかぼちゃも入っていました。

おやつと言えば「かんかい」とか「たらのみりん干し」とか。
南部せんべい、源氏パイ、ちょっとリッチに「ブルボンのホワイトロリータ」

母はよく「カルピス」のようなものを手作りしてくれました。
どちらかというと森永の「コーラス」に近い味でやや酸味が強かったように
思います。
その飲み物は大夕張を出てからは一度も作ることはなく、大夕張の思い出の味と
なってしまいました。

(1341)もう、抱腹絶倒ね! 投稿者:小野 美音子  投稿日:07月10日(火)14時05分58秒

昨日から、笑いっ通しでおなかの皮がよじれていましたが、今日、さらに
笑いのパンチが来ました! もう 抱腹絶倒のおもしろさ!
読まれた皆様の全てが笑いで満たされ憂さを忘れさせてくれたはずです。
久々湊さん本当にありがとうございました。
もうひとつリクエストしたくなりました。ぜひいつか本をお書きになって
下さい。出版記念会には、出不精で華やかな席が苦手な私も駆けつけさせて
いただきます。私の嗅覚と勘が大夕張文壇の至宝、夕輝文敏様の次に
デビューする方は久々湊様しかありえないと申しております。

奥様に思いっきり負けていらっしゃると楽しそうに告白して下さいまし
たが、まんざらでもなさそうですね!
夫婦って勝ち負けじゃないから、負けたフリして実はとっても幸せ〜〜
と読ませていただきました。
我が家は、「男の人がイバっている家はよくないねー」とお姑さんから
ありがたいお言葉を頂戴しております。あとは御想像におまかせします。

(1340)父権の軽重 投稿者:久々湊 真一  投稿日:07月10日(火)12時07分17秒

仮装行列では、お姉さん・お母さん達の活躍に的を絞って書きましたが、この背後
には、父親連の深遠な考えと指示があったようです。現代と一番違うのは、父権の
重さでしょう。父親が何かを指示すると、皆が従った時代だったですよね。
振付トリオは、町内会長の娘さんとその友達です。たぶん父親から説得されて一肌
脱いだのでしょう。本人も、踊りや振付が好きだったようで、その辺を父親に看破
されて(どう依頼したのでしょうかね。小遣い?)こういう運びになったと思われ
ます。お父さん達は、酒を飲んで仲間と雑談ばかりしていた印象ですが、『色々と
考えをめぐらし、的確な手配りをしていた』事に思い当たります。

小野さんは鋭いですね。泉町仮装行列に例を取っても「においを嗅ぎつける嗅覚
および勘の鋭さ」には、大変驚きました。旦那さん、負けてしまうかも(失礼)。
うちの女房は小野さんと似ている部分があり、私、思いっきり負けています(笑)

(1339)たなばた 投稿者:飯田雅人  投稿日:07月09日(月)22時10分29秒

久々湊さん,楽しい話,うちでは受けまくってます。ありがとうございます。
父さん母さんだけでなくそんなギャル達(!!)が地域の行事に参加しみんな
で作り上げていくところに今で求められている『地域の教育力』が確かにあっ
たのですね。中学生のボンズ達(すみません若かりし久々湊さん達!)が神妙
な顔で指導を受けている様が目に浮かんでまた笑いが出てきそうです。

七夕のページを皆さんの写真と投稿でUPさせていただきました。北海道の七夕
は8月7日で本州に比べると確か一月遅れでしたね。皆さんが書かれているよ
に缶に穴をあけて作ったカンテラをもって,またある時は赤い提灯にローソク
を灯してまわったように覚えています。その頃住んでいたのは富士見町の6丁目
で一番山側の方に住宅がありました。5丁目や線路にまで続く坂道を一軒一軒
練り歩く楽しかった思い出とともに,夜に響いた虫の音やカエルの鳴き声が
暑かった夏の一日の終わりに涼しく聞こえてきたことを覚えています。

(1338)泉町仮装行列始末 投稿者:久々湊 真一  投稿日:07月09日(月)12時41分28秒

小野さんのリクエストにお答えして、泉町の仮装行列につき記載します。既に書い
てあったのですが、品が無いので掲載を見合わせていたものです(一部表現に不適
切な部分があることをお許し下さい)。    
        
何の仮装を行うかは、町内会の三役が決めたようで、「今年は××をやれ」と有無
を許さぬお達しがありました。    私の場合、中一はフラダンス、中二はインデ
ィアンの踊り、中三は人生一代(赤子〜老人までの仮装)の出し物でした。    
最高学年は、プラカードを持つことになっていたので、私が仮装したのは前2つの
「裸セット」です。    
泉町には振付が上手い、二十歳前後のお姉さんトリオがいました。当時としては、
非常に斬新な振付でした。お姉さん達がやって見せますが、ポーっと見ていると
「ホラ何してるのヨ、やりなさい」と尻への平手打ちと厳しい叱咤がとびました。
フラダンスは腰の振り方が足りないと、前後左右に動かす練習をやらされました。
(腰振り動作は、紅顔の美少年?には、羞恥と抵抗がありました)    
手・指の振付には、「水平に!柔らかく!」の叱咤が飛びました。中学生は難しい
年頃ですよね。おとなしく言う事を聞き、指示通りに行った事を驚きます。
美人のお姉さんの威力? 当時の大人達は、どうやれば「難しい年頃の少年が素直に
言う事を聞くか」を知っていた節があります(笑)。        
当日は、パンツ一丁になり顔や身体に模様を書かれて、お母さん達が作った衣装
(腰蓑)を付けて出場しました。  
インディアンの踊りも、同様にお姉さんトリオによる、一層厳しい振付指導が待っ
ていました。(翌年にお姉さんトリオの一角が結婚して、最後の振付となった)  
フラダンス同様、パンツ一丁になり、一層どぎつい化粧を施されて、出場となりま
した。仮装行列はグランドを一周しますが、ポイントで踊りを披露します。ずいぶ
ん受けましたが、受け方が異常なんですね。何やら、観客がこちらの方を指差して
笑い転げている。隣には、同級生のT君がいるので「何だろうね」と言おうと、彼の
方を見て驚いた。パンツから『もろに○○ポコが顔を出して揺れている』ではない
か。T君は、たまたま兄貴のパンツを穿いていたようで、前穴の部分が大きく開いて
いたのです。彼に教えて、はずれていたMボタンを掛けさせ、あんまり動くなよと諭
しました。彼をインディアン集団の真中に隠し、なんとか終わらせることが出来ま
した。汗、汗、汗でした。        
        
仮装行列を振り返ると、舞台裏の女性パワーが力強かったですね。お姉さん達によ
る振付は勿論のこと、衣装・弁当(練習しているといつのまにか菓子やお握りがき
た)など、お母さん方の熱心さが思い出されます。

(1337)久々湊真一さまへ 投稿者:小野 美音子  投稿日:07月08日(日)23時06分15秒

お返事をありがとうございました。答えは「当たり」ですが、兄ほど情熱
を注ぎまくる「〜狂」まで至りません。名前の美音子は気に入ってますが
親の願いのみが込められてますので、名前負けかな?という本当の事は
思わないようにしてます。兄の家は義姉も姪もバイオリンが上手で、姪は
オーケストラをバックに演奏できる腕前ですが、音楽と違う道を歩み始めま
した。兄は果報者で親○カそのもの、私は叔母○カ一歩手前位になります。

吉田秀和氏がお元気で何よりでした。本屋さんで白い大全集を見かけると
少し立ち読みします。どうして音楽の文が書けるのか不思議です。

大夕張でピアノの先生だった岩佐潤子先生には心から感謝しています。
〜ネコ踏んじゃった〜の世界から良く引き上げてくださいました。
東小の石垣さんという同学年の方が私の番の前にいつも習っていました。
夕張市民会館で発表会があり、園美ちゃんのママにグリーンの服を縫って
もらい緊張しながら弾きました。その時、夕張市の文化奨励賞というのに
輝いた能勢優子さんという1年上の方の演奏が心に残っています。
潤子先生はその後函館で結婚され、お相手の広瀬龍太氏は昭和50年頃、
小説で北海道新聞の文芸賞を受賞なさった英文学の先生と記憶しています。
一度、先生のお宅へ寄せていただきましたが、お幸せそうでした。

追伸、「知られざる泉町」の中にあった仮装行列のお話が面白そうですね。
   そのうちにいつかお聞かせくださいね。お願いします。

(1336)小野美音子さんへ 投稿者:久々湊 真一  投稿日:07月07日(土)23時56分02秒

小野さんの名前は、美音の子ですから、「音楽もお好きなのでは」と推定していま
したが当っていたでしょうか?
吉田秀和館長とは、小野さんが言われる通り「高名な音楽評論家でライオンヘアー
の方」です。水戸では、館長の職務と兼ねてでしょうか、奥様と一緒に鑑賞されて
いる姿を良く見かけます。(首都圏は、会場に行くまでが大変なので、聴かれるも
のを厳選しておられるようです。)
お兄さんの丸山直記さんがこれほどのクラシックファンとは露知らず、いささか驚
いています。クラシックがお好きということは「私と、大夕張の各所で遭遇してい
たのだろう」と思われます。私は丸山さんと違い、ただ聴くだけの人ですが、非常
にクラシックが好きです。音楽談義もしたいのですが、大夕張とは別な次元の話に
なりそうです。お兄さんには、飯田さんのホームページから離れて、あとで個別に
連絡を取ります。

(1335)たなばたの思い出 投稿者:小野 美音子  投稿日:07月07日(土)10時20分34秒

兄の投稿の「新世界」で思い出したのは、母の盲腸の手術日の朝飯どき
励ましに兄がレコードをかけようとしたら、A面の曲が「未完成」でした。
こりゃ手術が未完成じゃまずいね、B面にしようかと変えたら「新世界」で
新世界に行かれちゃもっとまずいね、と皆で笑ったことがありました。

さて、今日は七夕ですね。緑ケ丘のブロック2棟8軒で心に残る七夕が
あります。当時小6の兄が企画し音頭を取って皆が楽しみました。
兄達が大きめの笹を用意し、皆に願い事の短冊を書くように言いました。
そしてそれは星山さんへの階段のところにきれいに飾られました。

リンゴ箱のステージで小さい子供たちに歌うよう兄が司会をしました。
なんとごほうびがでるというのです!ゆかたを着てる子もいてムード満点。
木下兄弟や関村姉弟、私達兄妹は恥ずかしながらごほうびにつられて
一生懸命に童謡を歌いました。見物人の親達も楽しそうに拍手〜拍手〜
今は亡き川添登志子先生や関村さんのおばさんの姿もありました。

茶封筒に入ったごほうびの正体は兄達が机の引き出しをゴソゴソして
見つけた使いかけの鉛筆にサックをはめたもの、古そうな消しゴム、
中軸の調子の悪い万年筆。木下さんも供出してくれてそちらは
もう少し良い物でした。それを嬉々としてもらった素朴な子供達。
緑ケ丘の雰囲気がなごやかな時代の思い出です。
*********
久々湊様、吉田秀和館長さんて、小泉さんも驚くライオンヘアーの
大芸術評論家ですか?新聞にお年を召したので音楽会に行くのが億劫と
お書きだったので案じていましたが水戸で御活躍なのでしょうか。

帶向商店が誰かのいたずらで莫大な値でネットに売りに出たそうです。
不動産屋さんが購入したいとみえたそうですが、もちろんそのつもりは
なく、奥様はびっくりすると同時にその値段にまたびっくり ・・!
お店を発展させた奥様は現在旦那様の介護に尽くされております。

(1334)同級生の方々へ! 投稿者:ヒロ 三浦  投稿日:07月05日(木)21時48分30秒

「とらやのパン」覚えていますか?夜はダンスホールもあったなー
山奥に美味しいパン屋さんがありました!
本名は「日比野 亘」君です、自分と同じ鹿島中21期生なんですねー
小学校〜東高校まで過した仲間で部活は野球部で大活躍されたそうです?
その彼が本当に久々に北海道を訪れる事となりました。
現在の彼は東高校卒業以来、千葉県君津市在住で所在がわかったのは
ごく最近の出来事でした、都内で開かれる同期会へも参加されています
そこで、ささやかな歓迎パーティーを開きます
発起人は同期生の山本謙也君ですが、この掲示板を通じて多くの
方々へ案内が出来ればと...考え投稿させて頂きました。

詳細は下記の通りです

7月20日(金曜日)午後6時から
ススキノ ホテルサンフラワー札幌
中央区南5条西3丁目
会費:4,500円

お越しいただける方、お問い合わせは自分のアドレスへ連絡を御願い致します。

fwnt9814@mb.infoweb.ne.jp

出席可能な方は出来れば7月15日までに連絡を御願い致します。

(1333)おぼえています。N響公演 投稿者:丸山直記  投稿日:07月05日(木)09時19分49秒

おぼえていますよ。N響の公演を。
大夕張からバスをしたてて行きましたね。
いまでもプログラムを覚えています。
モーツアルトの交響曲第41番「ジュピター」
そして潮田さんのブラームスのヴァイオリン協奏曲
後半はベートーヴェンの「運命」でした。
アンコールはなんだったけ?
指揮はアレキサンダー・ルンプフでした。
彼は今ウイーンにいると聞いています。
潮田さんはボストンですね。

クラッシック音楽で大夕張のおもしろい出来事は
私はお金を貯めてはカタログを見てレコードを注文していました。
「新世界」交響曲や「クロイツェルソナタ」などなど。
ある日、父が帰ってきてこう言いました。
レコード店の女性店員さんが「お宅の息子さんは学のあるレコード
ばかり買いますね。」といったそうでうす。
う〜ん、こんな表現もあるのですね。
あの頃買ったレコードには愛着があります。
CDに買い換えても手放すことができませんし、演奏も同じものを選んでしまいます。

私は現在、アマチュアオーケストラの団長をしていますが、
選曲はついシベリウスとかグリークとかの寒い国の曲を提案しがちです。
ほんとに音楽は風土と結びついているものですね。

(1332)過去の延長線上の「いま」 投稿者:久々湊 真一  投稿日:07月04日(水)22時10分36秒

私の年代の者は、残念ながら米谷先生に教えを受けませんでした。我々の頃は、鹿
島中の音楽の先生は、上村(かみむら)先生でした。先生は、授業やプライベート
で度々ヴァイオリンを弾いて下さいました。手が届くような至近距離での演奏であ
り、強烈な音楽原体験でした。私ごとですが、先生には私の駄作(作曲の宿題)を
誉めて頂いた事があります。この縁で未だに下手な作曲を手がけています(汗)。
最近は良い作曲ソフトがあるので、随分便利になりました。

夕張東高には、クラシック音楽ファンの先生が、大勢おられました。先生方のお誘
いのお陰で、『岳富町の小原楽器で行われたレコードコンサート(?)へ参加。夕
張へ行き潮田益子の演奏会を鑑賞。等々』 音楽とふれあう、豊かな機会が持てま
した。
現在、住まいの近くに水戸芸術館(吉田秀和館長)があります。潮田益子は、水戸
室内管弦楽団の専属メンバーであり、春・秋の定期演奏会で元気な顔を見せていま
す。昨年、潮田益子リサイタルがあったので楽屋を訪ねて色々なお話をしました。
夕張での演奏会も憶えており、あの頃からのファンであることを大変喜んでくれま
した。

「大夕張での原体験がベースにあり、この延長線上に『いま』がある」のですね。
音楽の切り口でも、このことを再認識しています。

(1331)文集「ヤマの子」 投稿者:高橋歌子  投稿日:07月02日(月)07時46分36秒

昨日、実家の押入れを整理していましたら、東小学校時代の卒業文集と
「ヤマの子」と題する文集が三冊出てきました。これは小学5〜6年に
担任だった吉田要作先生がまとめたものです。
B4判の茶色の紙にガリ版で印刷され、まるで活字を使ったかのように
きれいで丁寧な字で埋められています。「ヤマの子」は夏休みや冬休み
の間に作られていたようです。
内容は生徒の書いた日記が多くをしめ、他に詩や感想文、自由課題など
が書かれています。ひとつひとつの作品にはコメントも添えられていま
した。
文集によると吉田先生はたくさんの宿題を出した・・・らしいのですが、
大夕張時代に家で勉強した記憶がほとんどありません。ただ文集を読み
返すと、一生懸命に書いた文とただ思いつくままに書いた文との差がはっ
きりとわかります。
「できたことを全部書くわけにいかない。書きたいできごとをえらぶわけ。
それをえらんだときの作者の心の中が大切。」と言うコメントは、今の
私の書く文にも充分通用するものです。
こんなに熱心に指導をしてくれた先生に対し、当時何も考えずてきとうな
日記を書いていたことや、いまだに成長していないことに、なんだか申し
訳ないような気持ちでいっぱいになりました。
これらの文集を読むと、当時の学校行事や班でのトラブル、友達関係など
がまるでカラー写真を見せられたかのように鮮やかに思い出されます。
当時の吉田先生の情熱と小学生時代の思い出を封じ込めたこの文集は、私
にとって永遠の宝となっています。

(1330)「陽のあたる教室」 投稿者:宇良田 彰  投稿日:07月01日(日)22時49分13秒

先程まで、BS11で放映していた「陽のあたる教室」を見ていて米谷先生の
ことを思い出しました。
中学生の頃、音楽の先生でイタリアのオペラ歌手のようにまるで口の中に拡声器でも
入っているような通る声で歌っていたというのが私の記憶です。

当時の私には、鹿島中学のコーラス部を率いていたという印象でしたが、
確か、NHKのテレビに出演されたことを覚えています。米谷先生がテレビに出演する
というので、家族そろって見た記憶があります。その時の印象はこんなすごい先生が
いたんだというのが正直な気持ちです。

「陽のあたる教室」の主人公は、声楽ではなく楽曲で多大な影響を教え子に
与えたという設定でしたが、音楽の持つ力は偉大だと思います。

中学校時代の先生で印象に残っている社会科の小林 一先生のことを思い出しました。
小林先生は、英語と芸術にも造詣が深く、先生の部屋に友人と遊びに行ったときに、
確か、ニューヨークタイムス誌を購読していたのを記憶しています。

皆様の投稿を読むと、私の記憶の不確かさをあらためて思い知らされます。
三菱という企業城下町だった大夕張の中で、企業人、公務員、商人という職業の
ジャンルを飛び越えて複雑に絡み合った当時の事柄が今になって思うと、
そうだったのかと思うことが色々と思い知らされる毎日です。

小野 美音子様のご指摘もなるほどそうだなと自分なりに納得しています。
私は、大夕張出身であるということを自分の心の中のステータスとして
何時までも大事にしていこうと思っています。

大夕張で一生懸命に頑張っていらっしゃった先輩諸氏に敬意を表します。

(1329)緑色のまち 投稿者:内川 准一  投稿日:07月01日(日)21時06分43秒

友人の希望で30日の土曜日、夕張岳に登ってきました。
曇りの予定が、昼前からぐんぐん晴れて思いもかけない絶好の日和。
気持ちよく高度を稼いで、望岳台に着いて、休みながら大夕張を探しました。
悲しかったですね。
なかったのです。「大夕張が無い」のでした。
緑一色の中のわずかの変化を辿って目を凝らしたあたりは、
付近にくらべて幾分明るい緑色。
「あのあたりが大夕張」とわかるまでに、結構かかりました。
以前には見えていた、懐かしい鹿島小学校の「青い屋根」が、今はない。
大夕張が消えようとしています。
飯田さんの「名文」を思い出しました。
「地図から消える」という意味を、目が悟った瞬間でした!
うすい緑も毎年少しづつ濃くなっていって、
いつか山の緑と見分けがつかなくなる日が来るのでしょう。

見回せば、鬱蒼とした緑、無風。静かな山。
見上げると、頭上には、いつの間にできたのか、一筋のジェット雲がありました。
(昔、晴れた夕張岳の上には、いつもジェット雲が出ていたものでした。)

(1328)音楽会事件を経ての師弟愛 投稿者:小野 美音子  投稿日:07月01日(日)08時16分29秒

母からこの話を聞いた時、面白いけど出すのはやめておこうと思いました。
けれど兄の投稿で師弟愛が続いていたことがわかり、人への信頼の回復と
いう人間賛歌が書けそうだと思い直しました。兄からは話を聞いてません
がなるべく身贔屓しないよう客観的に書きたいと思っています。

高い音楽性と実力で飛ぶ鳥落とす勢いの米谷先生は、鹿島中の合唱部を指導
なさっていた頃、教師であると共に芸術家でいらっしゃったそうです。
兄も良く響く声質なので、部に貢献しているという自負を持っていました。
音楽会が間近のある日、兄が風邪か何かで練習を休んでしまいました。若い
先生は強気な発言をして、兄などいなくても・・の様な事をうっかり喋ら
れてしまいました。それを仲間から聞いてアタマにきた兄は、音楽会には
出ないぞーと宣言してしまいました。そうしたら、俺も出ないー、俺もー
と仲間が増え男声パートが殆どいない悲惨な音楽会になってしまいました。

音楽会の講評は鹿島小校長の岩佐佐汰吉先生がなさいましたが正直で立派な
酷評だったそうです。米谷先生や、真面目な女生徒も可哀想でしたが、当時
鹿島中にいた父も何とも言えない立場に立たされたかもしれません。ただ
双方を良く知ってたので兄にも理解を示していたような気もしています。
岩佐校長先生の娘さんの潤子さんにピアノを習っていた私も潤子先生に
お兄ちゃん合唱部なんですって?とさりげなく聞かれ影響がありました。

兄やその仲間には、痛快かつ、ほろ苦い思い出だと思いますが、私が
素晴らしいと思うのは、そんなことがあったにもかかわらず、師弟の交流
が復活し、お互い煮えくり返る程怒ってもいずれわかりあえる日が来ると
信じることができる、人間性への信頼を確かに感じられたことです。
米谷先生は素晴らしい先生でその後の活躍からも、敬愛を集め、また
兄達も大人になりました。人の心は傷つきやすく難しいですが、こじれた
ままにしないようつとめたいですが・・。

先頭にもどる