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2001年    
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平成13年 6月 先頭にもどる


(1327)図書館と桜荘 投稿者:飯田雅人  投稿日:06月30日(土)00時26分52秒

鹿島図書館は中学校へ通うようになって通学の途中にあり,昭和45年頃一時よく
利用していました。ただ勉強のために真剣に使っている先輩達の姿とは違い,自分
の場合はもっぱら週刊ベースボールや,肩のこらない本をめあてに,当時よくやって
いた川西商店での立ち読みと同レベルの娯楽追求型だったような気がします。
ですが,久々湊さんがおっしゃるように,大夕張でここだけの図書館のあの雰囲気の
中でいろいろ学ぶばせてもらったと思います。
久々湊さんや丸山さんの投稿で図書館のページを作らせていただきました。
高橋さんの「桜荘の庭」の写真では,一人のかわいい少女の後ろに朝日荘と千年町浴場
が見えています。
図書館やこのあたりは,鹿島中の通学路としても思いが残っている道です。

(1326)宝町の図書館で 投稿者:丸山直記  投稿日:06月29日(金)09時32分25秒

お話しに出ていた宝町の図書館には私の記憶が正しければ
中学校の音楽の先生でした米谷先生の奥様が結婚前に司書を
されてましたね。
米谷先生は、みなさんもご存じかと思いますが札幌の白石東高校で
吹奏楽を指導されすばらしい業績をあげられました。
退職される前はよく東京に大会でいらっしゃり教え子たちが集まり
昔話をしました。
色々痛快なことがありました。
先生は音楽室で良くオペラのレコードにあわせて練習していました。
私が憶えているのはヴェルディのリゴレットでした。先生はバリトンで
したので主人公になりきっていましたね。
また先生が合唱団のメンバーでテレビに出演されソロを歌われたのを
憶えています。出演の数日前からはマスクをして小声で話していました。
あれは大夕張では一大事件だったのです。
生徒達が休んでテレビを見ていたというのが問題視されましたが、
芸術に接することは決して悪いことではないと言う校長先生の
判断で一件落着でした。
米谷先生はそのことがとても感激したと後に語っていました。

(1325)宝町の図書館 投稿者:久々湊 真一  投稿日:06月28日(木)23時00分37秒

宝町から千年町へと抜ける途中に、図書館がありました。志村パン屋さんの近くで
す。私は、鹿島中2年の頃から頻繁に利用するようになりました。「学校から帰宅
する途中で寄り、学校の宿題を片付けてしまう。家に帰ったら遊びに集中する。」
との、不謹慎な動機でした。

動機は不純でも環境が育ててくれるものってあるのですね。「回りに迷惑がかから
ぬ様、静かにしなくては」「本は大切にしなくては」等のマナーの面。「こんな本
があるのか」「ずいぶん多くの人が、この本を読んでいるんだなー」等の興味の広
がりの面。など、場所を借りただけなのに、新たな視点を多々教えて貰ったような
気がします。
ある時、一緒に利用していた友達から「あの人、知ってるか?」と小声で話しかけ
られました。時々見かける人でしたが、名前を知らなかったので首をふると。「星
山忠二(漢字合っているかしら?)さんだよ」との答え。「すごい秀才である」と
先輩方から名前を聞かされていた人でした。星山先輩は、分厚い辞書を2冊テーブ
ルに広げながら、何かを書いていました。

当掲示板で星山先生と子供さんに関する消息を読みながら、この時の風景および
憧憬の気持ちを思い出しました。

(1324)知りませんでしたへの返信 投稿者:小野 美音子  投稿日:06月25日(月)23時36分38秒

宇良田様、今晩は!
私は、自分で述べられる場合は全く別なのですが、よそのかたの学歴を
第三者の私がみなさんの前で申し上げるのは避けてきたほうなんですが・・
でも、京都大学ということでおゆるし願うことにしたいと思います。
京都大学に入られたのは、御次男の方です。
お兄ちゃんはこの文の通りということで御理解くださいね。
またお話しましょう。お休みなさい。

(1323)知りませんでした。 投稿者:宇良田 彰  投稿日:06月25日(月)22時21分27秒

小野さま、貴重な情報ありがとうございました。

私は、高校を卒業して以来、星山先生とは疎遠になってしまい交流がありませんでした。
ただ、誰から聞いたのかは覚えていないのですが、ご長男の忠博さんが京都大学に合格
されたとの情報は今もはっきり覚えています。

星山先生もご長男も他界されていたことを知らなかったことを悔やみます。
星山先生からは、ある意味で学問とはこのようにして学ぶのだよ・・・と
教えられたのかなと今になって気づきました。
今日は、これ以上書くことが出来ません。失礼致します。

(1322)星山さんのお兄ちゃん 投稿者:小野 美音子  投稿日:06月25日(月)21時14分27秒

久々湊さんのおっしゃる通りきっかけって大切ですね。そのお陰で忘れ去ら
れるはずだった思い出が甦りあらためて心に刻み込まれます。そしてまた、
もし飯田さんがいなかったら・・もしダムに沈みゆく街じや無かったら・
もし両親が・・・もし・・・多くの「もし」が重なり絡みあって今日の
めぐり会いがあると思うと不思議でしかたがありません。

夢の中のお兄ちゃん〜星山先生の御長男にあたる忠博さんのことですが〜
私は忠博さんが高校生の頃までは時々姿を見かける事ができました。
その後、関西方面の大学へ進学なさいました。小さかった私には大学の
意味もわからず、どこかへ行っちゃったお兄ちゃんは遠くでお嫁さんと
幸せに暮らしているのだろうと思い込んでいました。

夏休みに帰省された忠博さんが、庭で薪を割っているのを見かけた私は、
嬉しくて側へ寄り訊ねました。「お兄ちゃん、お嫁さんはどうしたの?
今、どこにいるの?」 「う〜ん、まだいないんだよね。みねちゃん、
〜大きくなったらお嫁に来てくれる?」・・・言い方は優しくても
かまわれているのはすぐにわかりました。けれどその穏やかで優しい
口調に合わせた答えがみつからず私はしどろもどろになっていました。
その様子が面白かったらしく、忠博さんから聞いた星山夫人と母が
笑い話のたねにしたそうです。

三十数年後でしょうか、TVのニュース速報のテロップが流れました。
〜高速道路で大型トレーラーと乗用車が死亡事故・・星山忠博さん〜
ハッと胸を衝かれました。思い出に残る会話はそれだけでしたがすぐに
お兄ちゃんだとわかりました。

その後、随分経ってから、星山さんのおばさんと東京で再会をしました 。
順調だった忠博さんの事業をたたみ、従業員に退職金を払い、遺された
奥様や子供さんの生活のめどもつかれたとのことでした。

再会の後、私の所へおばさんからピンクの絹の布地が届きました。
忠博さんは40代で逝かれ、私の姑も43才で夫が逝きました。
響きあう心のおかげで、その布地は姑の手で子供の入学式に着てゆく
私のスーツに仕立てあげられました。洋服ダンスがあいて、
私にはもったいないような美しいピンクのスーツを見るたびに
忠博さんの御冥福と遺された御家族の幸せを祈らずにはいられません。

(1321)2001年6月24日大夕張にて 投稿者:飯田雅人  投稿日:06月25日(月)19時46分08秒

昨日は午前中だけでしたが,三菱大夕張鉄道保存会の活動に参加させていただきまし
た。活動の様子は保存会のHPをご覧下さい。

札幌に戻る前に大夕張に寄っていきました。大夕張は夏草も生い茂り,ルピナスを初め
色とりどりの花があちこちに咲いていて,鳥達のさえずりも変わりなく聞こえていまし
た。
鹿島小グランドに言ってみると,原付きデブマンこと泊川俊徳さんに出会い,しばらく
お話しすることができました。また,先にグランドに来ていたビデオカメラを抱えた実
年の男性の方ともお話ししていると,偶然にも先日池田憲治さんの同期会で幹事をされ
た尾崎さんという方でした。この方は泊川さんの長兄の方と同期だということで,イタ
ヤカエデの木の下で3人のお話が盛り上がってしまいました。
尾崎さんは,ビデオに大夕張の風景と昔の写真を入れて同期会に参加された方に送るん
だとおっしゃっていました。また,泊川さんは,先日PCを手に入れてネットにつなぐ
ため格闘中だそうです。また,記念碑の台の石の上にはヤスとガラス箱のようなものが
きれいにならべて置いてありました。池田さんのカジカ漁の置き土産でしょうか。

いつまでいけるいけるかわかりませんが,当分はイタヤカエデの木の下が大夕張談義が
できる貴重な場になりそうですね。旧神社の下あたりに付け替え道路が通るようですが
グランドの一角になにかそんな場所が残るといいですね。

(1320)1970年の頃 投稿者:宇良田 彰  投稿日:06月24日(日)22時43分16秒

1970年は、世田谷の下北沢にいました。
札幌から東京に移り、一種のカルチャーショックを受けていた時代でした。
目的が定まらず、単位を取るために学校に通う毎日でした。
目的が定まっていないということは、色々なことに手を出しては火傷をし、
熱いと感じて手を元に戻すことに似ています。

でもこの時期はよく本を読みました。
読んだ本もジャンルが極めて広範囲でした。借金をしてまで本をむさぼり読んで
記憶があります。

この当時は、ソニーのから出ていたオールトランジスタのラジオを手に入れ、
よくポップスを聞いていました。ドン・マクリーンが歌っていた「アメリカンパイ」
とか(この曲はたしか菅井さんが歌名を忘れていた曲)、ジャニス・イアンの
「at seventeen」、アル・スチュワートの「Year Of The Cat」、リン・アンダーソン
の「I Never Promised You A Rose Garden」などなど・・・。もちろん、日本の曲も
よく聞いていましたよ。

年に2度の帰省の途中で、札幌から夕鉄バスに乗り換え、雪景色の中を山奥へ入って
行くときには、何ともいえない気持ちを抱いたことが今でも生々しく思い出されます。

1960年から1970年代の曲を手に入れようとすると今では大変です。
ちなみに「イチロー」が活躍している大リーグの試合の合間に「ローズ・カーデン」や
「イアー・オブ・ザ・キャット」が演奏されているのをご存じですか。
私は試合を見るのも理由の一つですが、実は、これらの曲を聴くのが本当の
理由かもしれません。

最近は、アメリカのメール友達を通じてこれらの曲(MP3形式)を手に入れています。
但し、個人的に楽しむだけの目的ですが・・・。

(1319)「炭鉱(ヤマ)の老兵」 投稿者:奥山道紀@三菱大夕張鉄道保存会  投稿日:06月24日(日)18時25分20秒

昭和46年に鉄道雑誌「旅と鉄道」に発表された大夕張鉄道の乗車記「炭鉱
(ヤマ)の老兵」が再収録された鉄道ジャーナル別冊「列車追跡」が先日発売
され札幌市内の書店で入手してきました。
懐かしい写真や当時を偲ぶ文書が掲載されています。

(前略)ひとまず先に車内に乗り込む。車内は古めかしく、お世辞にも綺麗とは
言えない。しかし、磨きぬかれた骨董品のような感じはする。座席の背もたれに
は無数の傷があり、その上を何度もニスが塗り変えられた形跡が見られる。これ
は三十数年ものあいだ使われている、そのあかしなのだろう…と思ってその傷を
見ると、たんなる傷でないものもあった。「タカシ君大好き」「僕ハ何ノタメ生
キテイルノダロウカ.僕ハマダ子供ダ.デモ、アト1年(解読不能)スコシワカ
ルノダロウカ?」こんな落書きなのである。前のは、この列車で通学する夕張東
高校の女生徒が、「もしかしたら、見てくれないか」という思いを込めて書いた
のだろう。あとのほうもたぶん高校生が、初めてぶつかった存在の疑問に、思わ
ず書いてしまったものだろう。客車は、乗客たちの年輪も刻んでいたのである。
(以下省略)

ラジオから「ローズガーデン」や「17歳」が流れていた昭和46年、この客車
には夕張南、東、工業高校への通学生で溢れていました。
乗客の年輪を伝える車両を何とか後世へと伝えていきたいと思います。

http://www2.odn.ne.jp/rj/tuiseki_ad/tuiseki1.html


(1318)70年代はじめ頃 投稿者:菅井宏史  投稿日:06月24日(日)01時30分32秒

ポップスの話題に煽られて久々に出させて頂きます。飯田さんどうもです。
1970年(小学校6年の時)が私のポップス開眼でした。「ベストテン
北海道」というのが平日の毎日午後5時でしたでしょうか(?)HBCラジ
オで、和洋混合でその日のベストテンをやっていましたよね。70年当時
のベストテン入りした曲で「雨の訪問者」(フランシスレイ楽団)や「明日
に架ける橋」(サイモン&ガーファンクル)、青い鳥(ザ・タイガース)
なんていうのを覚えています。あと70年の曲だったかどうかは定かではあ
りませんが、「イエローリバー」(誰でしたっけ?)、1910フルーツガム
カンパニーというグループのなんとかという曲(トレインだったかなあ?)、
「ヴィーナス」「悲しき鉄道員」(ショッキングブルー)、「霧の中の二人」
(マッシュ・マッカーン)、「魔法」(ルー・クリスティー)、「イーズィー
カム・イーズィーゴー」(ボビー・シャーマン)、アメリカンパイ(誰?)、
「ノックは3回」「幸せの黄色いリボン」(ドーン)、「二人の天使」
(サンプルー楽団)、等々次々と思い出されます。
ちなみに1970年にはテレビでは確か土曜日の午後(だったと思いますが)
に「只今ヒット中」なる歌謡曲のベストテンものをやっていたと記憶しており
ます。そこでは「真夜中のギター」、「風」(フォーククルセーダース)、
「フランシーヌの場合は」、「生きがい」(由紀さおり)<これは小学校の
我がクラスの卒業文集のタイトルを「生きがい」と私が命名したということ
で良く覚えてます>、「京都の雨」、「明日と言う日は明るい日と書くのね。
…」で始まる歌(題名忘れました)等の曲がその番組と共に思い出されます。
中学校に入ってからはもっぱらラジオ少年になっておりました。夜の10時
くらいから「ザ・パンチパンチパンチ」「日立ミュージックインハイフォニッ
クス」「青井君と佐藤君」などを聞いた後、深夜放送(セイヤング、パック
インミュージック、たまにオールナイトニッポン)に突入するという毎日を
送ったものです。
すいません。ついつい止めどもなく・・。ちなみにこの頃はすでに大夕張を
離れておりました。

(1317)きっかけって大切ですね 投稿者:久々湊 真一  投稿日:06月23日(土)10時56分13秒

宇良田さんが言われるように、小野さんや高橋さんの投稿があると華やぎますね。

>小野さんへ
我々じゃり軍団は、上の子が下の子や女の子の面倒を見るのを当たり前と思ってい
たので、好奇心旺盛な?小野さんが目の前にいれば、きっと色々な所へ連れていっ
た事でしょう。「目の前にいなかった=契機がなかった」きっかけって大切ですよ
ね。一方、女の子の「ゴム跳び」や「あやとり」に誘われて、一緒にやったりもし
ました。そんなきっかけで、両種目とも、結構上手いのです(笑)。

住民登録をして3ヶ月になるのか!小野さんに言われて気がつきました。実は、大
夕張の掲示板は一年位前から知っていました(読むだけの人でした)。
住民登録をしたのは、佐々木榮一から大夕張の絵葉書(駅のシリーズ)セットを
プレゼントされたのが「きっかけ」です。書き込みをするようになったのは、小野
さんの質問に答えるのが「きっかけ」でした(引っ張り出された?(笑))。また
最近、頻繁に書き込んでいるきっかけ(理由)は、3つあります。
1.我々の同級生は当掲示板に全く音沙汰が無い(忙しいのか、恥ずかしいのか、
IT時代に乗り遅れたのか、、、)。寂しいので、ちょっと頑張ってみた。
2.書きこんでいる人は、富士見町と千年町におられた方が中心。泉町はともかく、
錦町や宝町の人達に、書いてもらいたい(呼び水として、ややローカルな話題を書
き込んでいますが、ネタが切れそう(笑))。
3.私は両親とも亡くしてしまい、両親の持ち物を少しづつ見ていまますが、捨てら
れないものばかり。これって、大夕張が思い出される作業なんですよ。

(1316)おもいでぽろぽろ 投稿者:斎藤 敏幸  投稿日:06月22日(金)23時42分00秒

週末の夜は娘と一緒に,宮崎アニメ「おもいでぽろぽろ」を見ました。主人公の小学生時
代の回想のシーンを見ながら,自分もふと同級生たちのことを思い出していました。

今週の月曜日は,旧友と酒を飲み交わしていました。彼こと「小倉力君(つくば市在住)」
は,鹿島小学校1年梅組(三好力夫先生)でおよそ半年同級生として親交を深めた間柄で
した。短い間の付き合いでしたが,このHPを通じて3年前に再会を果たすことができ,
今では大切な友人となっています。

僕の手元には,仲間たちの協力により作成した同級生の名簿があります。鹿島中学校22
期会の名の下に作成していますが,途中転入転出を含む大夕張を共有した同級生たちの名
簿です。今日現在,男子173名中86名・女子162名中76名の住所が確認されてい
ます。閉山により全国に離散したため,およそ半数の仲間が未だに同期会等の案内を手に
することができません。
特に,閉山前に坑内事故により大夕張を去った仲間,家庭の事情により故郷を後にした仲
間たちの消息はほとんどがつかめていない状況です。
同期会を担っている幹事一同の気持ちは,一人でも多く仲間たちの所在を確認し,同期会
の案内を手元に届けることです。みんな,どこかの地で,ふるさと大夕張へ思いを寄せて
いるはずです。

娘と「おもいでぽろぽろ」を見ながら,未だに同期会の案内を届けることができない同級
生たちのことを考えていました。

(1315)「こぶし」がまわらない私 投稿者:宇良田 彰  投稿日:06月22日(金)22時59分20秒

飯田様、奥山さま、「ローズガーデン」の曲を歌っていた女性ボーカリストを
教えていただきありがとうございます。カラオケで歌うと最後まで歌えるのですが
なぜか、歌手名が出てきませんでした。

私は演歌の「こぶし」をまわせません。なぜか、直線的に歌ってしまいます。
音楽は大好きです。出不精の私ですが、好きなものには心が動くらしくて、
高橋まり子、石川鷹彦、・・・年に数回コンサートに行きます。
特に、高橋まり子のコンサートチケットを手に入れるのは大変です。

観客の年代層は40代半ばから50代後半が多いです。
女性が多いのには圧倒されます。
伊勢正三の「ほんの短い夏」は大夕張の短い夏とイメージが個人的にダブリます。
でも、歌詞は都会の喧噪を歌っているのですが・・・・。
世の中には色々な才能を持っている人がいて、アン・マレーが歌っている
「スノーバード」を完璧に歌う女性が私の部下の中にいて、英語がペラペラの
彼女にいつも助けられているていたらくです。

私の場合、どうも、音楽とイメージが常にダブってしまいます。

(1314)メタノール工場 投稿者:中山隆一  投稿日:06月22日(金)22時01分49秒

思い出帖の事...私、春日町の出身でしたので他の街はあまりクリックして
いませんでした。ところが先日富士見町に住んでいた小溝さんが我が町に
帰ってこられて、お食事をした関係で富士見町をのぞいてみたらなんとメタノール
工場の写真があり感激しました。40年頃の写真ということですので私どもは
勤務していました。菊池くんとあるのは菊池茂さんのことでしょうか?
そうでしたらその頃、工場長をされており現在は愛媛県でお元気のご様子です。大夕張
のHP、ほんとうに有り難いです。HPを覗いた日は大抵夢に出て
きます...不思議ですね。メタノール工場は私の青春そのものです。ありがとう!

(1313)わたしはテレビっ子 投稿者:高橋歌子  投稿日:06月22日(金)18時46分29秒

年代的に夫と同年代の人が多いようですね。夫、昭和三十年生まれ。
夫はギターが好きで毎日のように青春時代に好きだった曲を弾き語っていました。
フォークソングやビートルズなどで、最後に必ず「僕らのフォーク村〜」で終わる曲を
歌っていました。
山に登っているときでさえ歌っているので仲間と一緒になって
「やめて〜」「力抜ける」
と訴えると歌わなくなりました。ちょっとかわいそう。
今は私が出かけているときに、息子に向かって弾き語りしています。

大夕張時代、私は小学生。
ちょうどカラーテレビが出てきた頃です。
「おはよう子供ショー」「おかあさんといっしょ」「(うつみみどり時代の)
ロンパールーム」「巨人の星」「キックの鬼」「水戸黄門」などなど
「おかあさんといっしょ」の体操のコーナーに出たという子がうらやましくて・・・
桜荘で一番初めにカラーテレビを買ったのは、確か東小学校の石野先生のお宅だと
記憶しています。一度(何度もかもしれない)お邪魔して見せてもらいましたが
いつも見ている白黒と違うカラーの美しさに驚いたものです。
我が家では1969年アポロが月に行った年に買ったと思います。
UHBははいらなくて、テレビ欄を見てはため息をついていました。
ある日、テレビのケーブルのところに切り替えスイッチをつけてもらい
やっと見られるようになりました。
雪の降る日、ストーブががんがんと燃え、テレビでは札幌オリンピックというのが
大夕張での忘れられない一日の記憶です。

(1312)1971年ヒット曲 投稿者:飯田雅人  投稿日:06月21日(木)23時59分10秒

寝ようと思っていたら,「ローズガーデン」に思わず
反応してしまいました。

大夕張での中学校生活を終え,親元を離れて大夕張を
出たその年,中学浪人(当時この言葉は珍しくはなかっ
た・・と思うけど)しながら当時の洋楽を聞きまくっ
ていた。お気らくで楽天的な浪人生活。
 当時の曲名を聞くだけで真っ赤な夕焼けに向かって
バカヤローと叫びたくなる。
-------------------------------
イマジン(ジョンレノン) 
オールドファッションドラブソング(スリードッグナイト)
メロディーフェア(ビージーズ)
ブラウンシュガー(ローリングストーンズ)
天国への階段(レッドツェッペリン)
マミーブルー(ポップトップス)
ローズガーデン(リンアンダーソン)
スーパースター(カーペンターズ)
吹けよ風、呼べよ嵐(ピンクフロイド)
名前のない馬(アメリカ) 
17歳(南 沙織) 
あの素晴らしい愛をもう一度(加藤和彦・北山 修)
おふくろさん(森 進一)
さらば涙と言おう(森田健作)
戦争を知らない子供たち(ジローズ)
出発の歌(上条恒彦+六文銭)
翼を下さい(赤い鳥)
真夏の出来事(平山三紀)
また逢う日まで(尾崎紀世彦) 
メリージェーン(つのだひろ)
-------------------------------
以上,とあるHPに載っていたデータですが,
私と同年代の人は力いっぱい叫んでください。

(1311)Re「ローズガーデン」の心です 投稿者:奥山道紀  投稿日:06月21日(木)23時31分28秒

>アイ ベッグ ユア パードン・・・で始まる曲「ローズカーデン」を思い出し
>ました。
>歌っている女性ボーカリストの名前を忘れましたが

リン・アンダーソンです。

(1310)「ローズガーデン」の心です。 投稿者:宇良田 彰  投稿日:06月21日(木)22時51分58秒

アイ ベッグ ユア パードン・・・で始まる曲「ローズカーデン」を思い出しました。
歌っている女性ボーカリストの名前を忘れましたが、実は、レディファースト
と書くところをファーストレディーと書いてしまいました。

アップロードした後で気づいたので、しまったと思いましたがまあいいやと思いつつ
やはり小野  美音子さんは鋭い・・・。でも、私の心は純真です。
小野さんがおっしゃってたようにこれだけのサイズに膨らんだサイトを維持管理するのは
大変だと思います。実は、私も同期会のホームページを開設しようと2年前に色々と準備
しましたが結局は自分のパソコンの中に眠っています。
言うは易く行うは難しです。

今までは、傍観するだけの立場でしたが、この掲示板に投稿されている方々は
生き生きと生活されているように文面から感じ取れます。

話は変わりますが、佐々木様が蛍のことを言って居られましたが、実は、生まれて
初めて蛍を見ました。感動しました。
仕事で愛媛県の大洲市という所に出張し、接待で行った山の中の一軒宿で宴会をして
いたとき、窓の外に光が動いていて目の錯覚かと思いましたが、トイレに行く途中で
でも同じような光景を目にしたので、下の方まで降りていったらそこはもう別世界
でした。何十匹かの蛍が飛び交っていて、それはそれは感動しました。
明石町でホタルを見たと書いていらっしゃいましたが、子供の頃に見れなかったことを
悔やみます。ちなみに、大洲市はかの有名なドラマ「おしん」の生誕の地です。

(1309)愛知の佐々木さんへ 投稿者:ヒロ 三浦  投稿日:06月21日(木)21時28分36秒

佐々木さん、今晩は− 昨年8月に鹿島小でお会いしてから
もうそろそろ1年もたった頃でしょうか?
「蛍・・」北海道ですと沼田町で見ることが出来ますね・・・
でも、直にこの目で見えたのはホンノ一瞬でしたが本当に不思議な輝きですねー
書き込みを見て、フッと「光博」君の事が思い出されます
この時期になると「蛍」になって戻ってくるのかなーなんて・・
一緒に過した時間の中で俺達の思い出の中で何時までも輝きつづけています。

(1308)星山先生 投稿者:丸山直記  投稿日:06月21日(木)20時22分41秒

う〜ん、憶えていますよ。
星山先生の生物の実習、植物細胞の原形質流動の観察でした。
植物の細胞が切り取られた後でも細胞内で水の流れが顕微鏡で
見えるのです。
驚きましたね。まだ生きていたんです。
星山先生とは私が20年前に京都にいた時に大阪で会いました。
その時は同期生の長谷隆一君と砂川正義君でした。
その頃、星山先生は寝屋川にお住まいでした。
最後に地下鉄で先生を送った時のにこやかな表情をまだ鮮明に
憶えています。
野村先生の奥様は確かに妹の言うように雰囲気が違いましたね。
おふくろ風に言えば「モダンだねー」ですね。

(1307)緑ヶ丘の小路への返信 投稿者:小野 美音子  投稿日:06月21日(木)12時00分16秒

宇良田様のファーストレディは奥様か恋人ですよね。どうか忘れてたなんて
告白せずにお大事になさって下さいね。掲示板のファーストレディは飯田様
の奥様ですよね。内助の功のお陰で私達も楽しませていただいてますから
札幌の方へ足やお尻を向けないようにしたいと思っております。。

久々湊様とお話させていただく様になって3ヶ月ですね。大夕張で一軒だけ
の印刷屋さんなので、父の様な地味な教員にはありがたい存在でした。
古き良き時代、先生達は多少の飲み代を浮かそうと業者が複数だとサービス
を付けてくれる所へ流れる事もありました。父は世渡り下手で、余分な
交渉事をせずに済む、久々湊さんとのお付合いを喜んでいました。むしろ
学校のわずかな予算の中から随分無理をきいていただいたと思います。
研究会や行事などのたびに細かく気を使っていただき、母とまで世間話が
できる程、綿密な連絡をして下さったのだと、今にして思います。
母と購買会へ行く途中に、お父様とすれ違ったことがありましたが
髪を短めの七三に分け、中肉中背でサッサッと、足早に歩かれていたのが
印象に残っております。

緑ケ丘の鉄の橋近くの野苺や化石のあるあの秘密の場所はまぎれもなく
久々湊さん達の秘密の場所でした。久々湊さん達の「達」の中に
もちろん私達緑ケ丘の子供も一部、含めてもらっていますが・・!。
ただ野苺はたべちゃ駄目よと言われていたので食べなかったので残念。
あの時に知りあっていたら美味しい物を沢山教えてもらえたのに・・
・・でも、当然、足手まといですよね。

さて緑ケ丘版井戸端噂話 〜私の家の2階に星山先生がお住まいでした。
そこへフランス人形のような美しい御夫人が歩いてこられました。
その方が、野村崇先生の奥様だったそうです。
星山さんには東京オリンピックの時TVをよく見せていただきました。
宇良田様は星山塾にいらしてたのですか?とすればエリートですね。
TVも買えない家の兄は入塾許可が貰えませんでしたが、私のピアノの
お月謝に当てることができ、私としては良かったと思っています。
良い意味での上昇志向、向上心にみちた御一家で、私の家の転勤後の
年賀状に創立数年の小さな夕張東高校の進路や教育実績が注目され、
札幌南高校の先生が視察にこられたと書かれてありました。
奥様には10年前位に、東京でお会いしました。懐しかったです。

(1306)ファーストレディを忘れていました。 投稿者:宇良田 彰  投稿日:06月20日(水)23時36分10秒

チャットと違って掲示板は複数の文節からなる不特定多数のコミュニケーションです。
不特定多数という意味ではチャットも同じですが、一つの掲示に込める心意気はハイ
です。でも、たまには、酔った勢いで書いてしまいしまったと思うこともたまに
ありますが・・・・・。

最近の掲示板は、私が書いた掲示で「おじさんモード」になってしまいました。
やはり世の中は男と女で成り立っています。
女性の投稿を期待します。

もし、話の内容が極めてドメスィックでしたら申し訳ないと謝ります。
と言いつつ、懲りずにまた言ってしまいます。
星山先生の思いでその一。

・英語の教科書でチャプター1をすべて暗記して明日朗読せよ。
という命題には参りました。間違うたびに拳骨が飛んできて私は泣きました。
実はこの話、星山先生が家庭教師を副業で為さっていたときの話です。

50行近い英文を暗唱するということは大変なことで怠け癖がついた私は
何度も殴られた記憶があります。
でも、今になって思うと、この勉強方法が一番だったと思っています。
語学は、頭で思考するのではなく耳で修得するのだということを
知りました。

でも、年に2〜3度、エジプトやコロンビアから国際電話が掛かってくると
パニックになってしどろもどろです。
対応マニュアルを作成しましたが、そのマニュアルのことを忘れてしまい
やはりダメです。やはり、耳で聞いて即対応できることが大事だと思いました。

でも、ジョン・アップタイクの小説は大好きで原文で読んでいるのですが、
何故か会話は出来ません。

(1305)野村崇先生のこと 投稿者:久々湊 真一  投稿日:06月20日(水)22時26分09秒

何年前だろうか。「司馬遼太郎の『オホーツク街道を行く』に、野村崇先生の名前
が出ている」と佐々木榮一(同級生、いまだにつき合っているポン友)から聞き、
すぐに本屋へと走った。パラパラとめくってみて、興奮した。名前が出てるなんて
もんじゃぁ無い。司馬さんを案内する、主人公ではないか。そして司馬さんの筆致
から、我々が教えを受けた野村先生の人柄が、彿々と伝わってくるじゃぁないです
か。(お二人の交流の模様は、週間朝日2000.10.10増刊「司馬遼太郎からの手紙
−完結編」が詳しい)

当時の夕張東高校は、先生になられたばかりの若い方が多く、熱気ムンムンの状況
でした。年齢が近いため、先生方は兄貴分のような感じであり、良く学び?良く遊
び!ました。独身のかっこいい先生や特徴ある面白い先生が多々おられましたが、
野村先生はどちらかと言えば、地味で目立たない先生でした。授業は、温和な人柄
そのものを反映した、穏やかな語り口でした。
======== 野村先生の授業(閑話休題的な部分)の一コマ ========
ナウマン象の歯の化石を片手に持ち、生徒の方にかざしながら。「今、これを捜し
求めています。夕張の一帯にも必ずあるはず。見つかれば仮説の裏付けとなる大発
見です。人類はナウマン象を追って、北方からこの地へと移動してきたのです。」
熱っぽく語られる先生の眼差しが、記憶の中に色濃く残っています。『好きなこと
は思いっきり徹底的にやれ、一度しかない人生だぞ』。先生の行動そのものが、生
徒への無言のアドバイスとして伝播したようです。私も又、野村先生の影響を受け
た一人でした(大変、感謝をしています)。
尚、郷土研究部のご指導およびクラブでの活躍は、夕張東高閉校記念誌「シュ―パ
ロ」に先生自身が 思い出として書かれています。

1997年8月。夕張東高第二期卒業生の同窓会が、札幌で行われました(私は海外出
張と重なり出席出来ませんでした)。この同窓会に、野村先生が元気なお姿を見せ
てくれたそうです。

(1304)Re 投稿者:久々湊 真一  投稿日:06月20日(水)22時00分31秒

土屋様。星山忠太郎先生の消息を教えて頂き、ありがとうございました。
私は、星山先生とは、授業・部活とも縁が無く、教頭先生として遠くから見ていた
だけでした。しかし私の父は、星山先生と「馬が合った」ようで、二人で飲みに行き
おしゃべりを楽しんだ仲だったようです。「真の教育者とは、星山先生の
ような人を言うんだ」との父の言葉が思い出されます。

(1303)星山先生の思い出 投稿者:土屋 望  投稿日:06月20日(水)14時14分17秒

宇良田さんのおっしゃる通り、東高校には星山忠太郎先生という素晴らしい先生が
いらっしゃいました。先生は私たちが1期生として入学した時に教頭先生としてお
られ、見事な銀髪の威厳ある先生で、新設校の基礎作りに限りない情熱を傾けてお
られました。情熱的な故に悪いことをした時には厳しく叱られはしましたが、生徒
の大半は先生に畏敬の念を抱いていたように思います。

私は入学して庭球部に入ったのですが、顧問が大変テニスの上手な星山先生でラ
ケットの握り方から教えて戴きました。高2からは南空知大会に遠征もしました
から、夕食時に先生が「オイ土屋、1本だけならイイナ」と可愛い目でお銚子の
許可を求められたり、布団を並べて緊張しながら寝たことが懐かしく思い出され
ます。

私は勉強が嫌いで、昼休みに岩井先生と体育館でバスケットボールで遊ぶのと、
放課後の部活だけが楽しみで高校に行っていましたから、高3になって雪の降る
頃までテニスコートの上にいましたので、ある日星山先生に職員室に呼ばれ、
「いい加減にしろ」と叱られ、3ケ月間の受験勉強方法を伝授されました。
何とか大学に引っかかり、報告に伺った時に教員玄関で「良かったナ」と言いな
がら頬にビンタを貰ったのが、良い思い出です。

星山先生は静内高校で定年を迎え、その後関西に住まわれました。私たち1期生
が卒業20年を機に昭和60年に東京で同期会を開き、先生をお招きしたのです
が、その折に先生の奥様から「お酒はお銚子1本位にしておいて下さい」とのご
依頼を受けていましたが、会が始まって直ぐに「今日はいいだろう、特別だ」と
仰るので、奥様へ追加許可の電話をした記憶があります。星山先生は同期会の後、
「桜前線を追いかけてくる」と仰って、先生のルーツである秋田県の角館まで足
をのばされたようです。後日、先生から戴いた「教師冥利につきる1日でした」
と書いて戴いた「葉書」を今も大切にしています。先生はその年の12月に亡く
なられましたが、今も大夕張の遥か高い空から、好きだったお酒を飲みながら、
私たちのことを苦笑いしながら、見ていてくれている筈です。

長々と書いてしまいましたが、星山先生の名を見て反射的に書いてしまいました。

(1302)映画の話など 投稿者:丸山直記  投稿日:06月20日(水)10時08分35秒

最近掲示板を賑わしている小野美音子の兄です。
最近、炭坑町が舞台となる映画を立て続けに見ています。
以前の投稿で私がおもわず涙してしまった映画はOctober Skyの
邦題がわかりました。「遠い空の向こうに」といいます。
レンタルビデオにもなっています。お勧めです。
また最近イギリスのブレア政権に失業者政策のNHKの放送をみましたが、
彼は「リトル・ダンサー」の舞台となった地方の出身で炭坑の失業問題が
彼の政治の原点だとのことです。
大夕張からも理想主義を掲げつつも程良く現実的な政治家は出ませんかね?

野村先生の著作には出版社は忘れましたが「北海道の遺跡」というのも
あります。

(1301)蛍 投稿者:佐々木  投稿日:06月20日(水)07時37分30秒

先日、私の住んでいる岡崎市(愛知県)の「鳥川」という所
に蛍を見に行きました、今愛知県は梅雨の真っ最中ですがそんな
梅雨の晴れ間を見て毎年子供を連れて蛍見物に行きます。
確か、私が5〜6歳頃に当時の明石町で蛍を見た記憶があります。
私が蛍を見たのはその時が初めてでして何かすごく感動した様に
思えるのですが私の子供達はあまり蛍と遊ぶのが楽しくは無い
みたいです。ちなみに私の子供は4歳と6歳です。

(1300)郷土研究部の疑問払拭しました。 投稿者:宇良田 彰  投稿日:06月19日(火)23時12分59秒

久々湊 様、丸山 様

郷土研究部の件では少々軽率なことを述べてしまい恥じ入っております。
ただ、その当時はその程度の動機で入部したのだと思います。担任をなさっていた
野村先生の事も思い出せず恥ずかしい思いで一杯です。

今日、土屋様からメールを頂き、野村先生と先生の著作「オホーツク街道を行く」
の紹介を頂きました。この本は確か朝日文庫の一冊だったと記憶しています。

野村先生の業績が司馬遼太郎も注目するほどの物だったなんて知りませんでした。
東高校には、星山先生という生物を教えていた方がいらっしゃったと思います。
星山先生も、確か、国から研究助成金を受けて何かの研究をなさっていたと記憶
しております。

大学時代、単位が足りなくて丹沢山系の一角で地層の野外活動をして単位を取得した
事を思い出しました。今になって思うと、私がハイキングコースで何時も通過する
所です。人生とは、皮肉なものです。

(1299)郷土研究部と地学部 投稿者:久々湊 真一  投稿日:06月19日(火)21時08分24秒

宇良田さんは東高の4期生ですか、私が高3の時に高1だったのですね。
郷土研究部は我々の頃は、文科系の花形クラブでした。野村崇先生(先生について
は項を改めて書く事にします)の熱心なご指導により、学校外への発表も含む本格
的な活動を行っていました。私は郷土研究部に入っていませんでしたが、興味深い
活動なので注目をしていました。  
        
高一の夏と思う。同級の佐々木榮一(親友につき、呼び捨てご免)が「地学部を作
ろう」と私に声をかけてきました。私は、石炭・化石が出る大夕張の地層に関心が
あったので、もちろん即座に賛同をしました。      
郷土研究部は人間(原初)の営みを調査するのに対し、地学部は太古に思いをめぐ
らすものです。まず行ったのは、地層の見方(観察方法)の勉強でした。地層の重
なり方(土壌の違いや出土する化石等による年代推定)、連続・不連続・傾きを観
察および測定するわけです。      大夕張の様々な場所に行き(これは登山クラブと
似ている)地層を観察し、スケッチをしました。この様な活動で地層の基本的見方
を身につけて、次に行ったのが、大夕張と近在地域との「地層の比較」でした。
休日は、夕張市や幾峻別などに行き、調査および比較検討に明け暮れました。
結論は「近郊各地は大夕張の地層とかなりの類似が認められ、連続した地層と推定
される。但し、大夕張はアンモナイトや貝の化石に対し、幾峻別方面は木の葉が多
いので、海と陸の違いがあったようだ。」と記憶しています。        
        
この時の地学部の仲間は、この後も経験を積んで、連続した地層(職業)の上で身
を立て、現在も活躍しています。私だけが、不連続の地層にいることを恥じ入るば
かりです。

(1298)野村 嵩先生 投稿者:丸山直記  投稿日:06月19日(火)20時23分12秒

宇良田 彰様
郷土研究クラブの担当は野村 嵩先生だと思います。
野村先生は厚別にある開拓記念館の学芸員となり活躍されました。
私の記憶が正しければ縄文時代の北海道と青森地方の交流を研究されて
ました。数年前にお会いしたときは樺太、カムチャッカとの交流の研究に
興味があるとのことでした。
先生の還暦記念の大部の論文集を購入させていただきました。
私の職場の同僚の1人が野村先生の高校の同級生、もう1人が研究で発掘
を教わったとのことで、その話題が出たときに私と3人が並んで会議をし
ていたときでした。う〜ん、It's a small world!

(1297)郷土研究クラブ 投稿者:宇良田 彰  投稿日:06月18日(月)23時48分27秒

私は東高校で郷土研究クラブに入部していた記憶があります。
クラブの担任の先生とメンバーが誰だったか思い出せません。
このクラブの正体は考古学研究クラブで、2年生の時、発掘に参加したことを
覚えています。たしか、北海道大学が主管していて道内の2〜3校が一緒に
参加していたと思います。

発掘現場は厚田村で、2泊ほどしたと記憶しています。考古学の知識など
全くない新入部員にとっては、指示されるままに土を掘り起こし、確信の部分
が出てくると、竹べらで「慎重に掘るんだぞ」と命令されなにも考えずに作業を
していた自分が思い浮かびます。

宿泊したところが確か、学校だったと思います。
同年代の女子高生も結構いてまぶしかったことを懐かしく覚えています。
確か、歌志内高校の生徒で髪を七三に分けていてアイビールックのかっこいい
男子がいて、持ってきていたプレーヤーで自分の好みの曲を掛けて女の子と
ツイストを踊っていた光景が今でも目に焼き付いています。
その時掛かっていた曲がビートルズの曲や、デイブクラークファイブの
「ビコーズ」やピーター&ゴードンの「愛なき世界」だったと思います。

おかげで、漆の木にかぶれてしまい帰宅してから病院通いでした・・・。
厚田村は日本海側に面した村で大変景色の良いところだったと記憶しています。
舗装されていない道には、瑪瑙(マーブル)が埋まっていて、今思うと、
高価な物だったのかと浅ましい心を反省しています。

今は、本当は入部したかったバドミントン部を思い出すように、毎週、近くの
小学校の体育館でバドミントンの練習をしている自分が滑稽です。

夕張東高校の4期生で郷土研究クラブに入部していた方がいらっしゃったら
掲示板に書き込むか、私にメール下さい。

(1296)何万という大観衆 投稿者:飯田雅人  投稿日:06月18日(月)20時28分18秒

昨日,札幌ドームのオープニングイベントのYOSAKOIソーラン祭りを見てき
ました。北海道にもドームが出来て,その巨大さと豪華さに目の当たりにし,
このような建築技術の素晴らしい進歩を感じるとともに,初めて万という単
位の観客席の中に身をおいてみて,子どもの頃に見た色鮮やかなスタンドの
風景をふと思い出しました。

子どもの頃,初めてカラーテレビをみたのは,栄町の「理容フレンド」の前
にあった「ツバメ商会」という電器屋さんの店頭でした。夕方,買い物を頼
まれた後,薄暗くなった帰り道通りかかると野球中継が始まっていました。
立ち止まって店の中をのぞき込むと,普段自分が見慣れた白黒の画面よりずっ
と明るく輝いているテレビがあり,特に,外野の緑の芝生がとても印象に残り
ました。
アナウンサーが「5万の大観衆を迎え・・・ここ後楽園球場で」と言い,TV
はスタンドいっぱいの観客を映し出していました。
頭の中では,「ええっと,確か大夕張の町に住んでいるのは1万くらいだから
5万というと町の人が5つくらい入るのか。するとあそこに写っているだけ
でこの町の人たちより多いってことか・・・」などなど頭の中で思いを巡ら
せているうちに万などという人の数はとても理解不能ということに落ち着くの
でした。

実際にドームの観客席に身を置いても万という人の数の実感のないことに気付き
子どもの頃のそんな風景を思い出していました。

(1295)お祭りの思い出 投稿者:小野 美音子  投稿日:06月17日(日)22時29分32秒

池田様、御無事でなによりでした。またいつか相方をさせて下さいね。
歌子様、”美しい詩”を感じました。
久々湊様、宝の沢トンネル探検記など沢山の投稿にしびれていました。
誰のせいでもありませんが、緑ケ丘の私の家から泉町の久々湊様を
見おろして暮らしていたのがこの頃とても申し訳なく思われます。
今日の投稿もありがとうございました。そのうちゆっくりお返事を
書きたいと思っております。
斎藤様やヒロ様、飯田様のお話にありましたように、お祭りですね。
私も夜店ではありませんが懐しい思い出があります。暑い日でした。

隣の関村いくこ、なおや姉弟と一緒に30円(300円じゃなかった)を
握ってウキウキ出かけました。子供だけで行くのもお小遣いも初めてで
開放感一杯で何を買おうかとウロウロしていると、目に飛び込んだのは
もちろんヨーヨー。すぐさま買って3人はニッコニコ。
まだお金はあるけれど・・・食べ物を買うには足りないし・・・
そこで3人は相談し、緑ケ丘坂下ブロック8軒の赤ちゃんアイドル、
古山園美ちゃんにおもちゃを買って持って行く事にしました。

ちょうど樹脂のアヒルの様な物が5円であり、いくちゃんと私が2円ずつ
なおちゃんが1円を出して買い、古山家へ向かいました。園美ちゃんの
ママは24才の若さ、後から聞いたのですが慣れない土地の慣れない子育て
だったそうです。私達の訪問にみるみるうちに声や胸を詰まらせ感激して
下さり、ありがとうを何度も言って下さいました。優しいモダンなママが
喜ぶ姿は、私達を天にも昇るようなシアワセな気持ちにさせてくれました。
5才4才3才のトリオが初めてのお小遣いの一部を2才の園美ちゃんの
ために使い喜ばれたのが、ささやかですが気分の良い思い出です。
その中の誰か一人でもイヤだと言えば無かった話でした。

いくこ(幾子?)ちゃんは昭和37,8年頃、夕張市旭町83番に引っ越し、
泊まりに行ったり文通もしていましたが、現在、消息がわかりません。
お父様は鹿島中の関村智雄先生です。長女の智恵子さんは東京在住?
幾子ちゃんは私より1学年上で渡島地方在住?、なおやちゃんは
夕張南高校の先生になったらしい?とのお話を聞いております。
鹿島中の閉校記念誌も手元にありません。どなたか心当たりのある方
教えて下さるとありがたいのですが・・。

(1294)お〜い鹿中22期生や〜い 投稿者:斎藤 敏幸  投稿日:06月17日(日)22時01分56秒

本日幹事会を開き,今年の「第8回鹿島中学校22期生同期会」の打合せを行ないました。
今年は,来る9月29日(土)札幌市において開催することになりました。
詳細は,近日中にお知らせしますので,スケジュール調整をよろしくお願いいたします。
この同期会は,卒業・途中転出等に関わりなく大夕張を共有した同年代の仲間に参加を呼
びかけて運営しています。
同級生と思われる方は,メールをいただければこちらから連絡させていただきます。
幹事は,池田屋食堂の一恵さんを中心として次のとおりです。
【幹事氏名(女性は旧姓)】
・ 池田一恵 ・立花裕子 ・安田悦子 ・大山 茂 ・藤原英明 ・斎藤敏幸

ビールを飲みながらほろ酔い加減の中,今年も幹事一同張りきっていますので,沢山の仲
間の皆さんの参加をお待ちしています。

(1293)ざるがに  投稿者:高橋 勤  投稿日:06月17日(日)19時35分49秒

こんな HPが有るとは・・・
良いなあ 
とっても いい 
私はS34年明石町の1丁目で生まれました。
5歳で代々木町へ引越し
それから閉山まで1丁目5番に住んでいました。
社宅を壊すと言う事で、あちこち引越しました。
同級生,諸先輩の方々が書かれているのでは  と
思われる 名前もあり 参加させてもらおうと思いました。
やっぱ 大夕張だよなあ ざるガ二 おたまじゃくし 蛙 うぐい
槍で(槍って言わなかったかなあ?)で魚を刺したっけ・・・
もし 私を知っている方がいましたら 掲示板に お願いします。
背が高くて(脚は短い)冬はスキー・夏はバスケ等していた
悪がきです(今は少々治りましたが・・・)
では また。

(1292)緑が丘の小路 投稿者:久々湊 真一  投稿日:06月17日(日)16時12分06秒

宇良田さんの男文章・女文章の分類を面白く読みました。例は良くないですが「氷
が溶けたら何になるか」の質問に、男文は「水」になる 女文は「春」になるの違
いでしょうか。小野さんの文章は、素晴らしい。繊細な女文であり、じんわりと心
に沁みいります。小野さんと高橋さんは、当掲示板のマドンナですね。
気になる小野さんですが、緑が丘におられたとのこと。あの一体は、私の遊び場の
一つでしたので、住まいも見当がつきます。丸山さんの名前も朧げではありますが
記憶してます。お兄さんやお父さん(先生)と何等かの交流があったのでしょう。
(残念ながら年代が異なるためか、小野さん自体は覚えておりません)

緑が丘には、子供の秘密の場所が2ヶ所ありました。緑ヶ丘から宝の沢に降りる小
路があります。途中に橋(鉄製だったような)が架かっていましたが、その手前の
山側に野苺が大量繁茂していました。口を真っ赤にして頬張りましたが、そこは腹
空かしっ子の秘密の場所でした。
途中の橋は、小滝のような流れ(浄水場の溢れた水が宝の沢に注ぐ)を、跨ぐ形と
記憶しています。この場所が、台風の後に小さな土砂崩れを起こしていました。こ
れにより今まで見えなかった地層が顔を出したのです。この地層には化石がたくさ
ん含まれていました(秘密の場所2)。
私が秘密と思っていただけで、皆んな知っていたのかも。

(1291)花の大夕張 投稿者:高橋歌子  投稿日:06月16日(土)21時51分03秒

三笠の幾春別でカヌーの大会をしていたので見に行ったあと、大夕張回りで
帰ってきました。峠のトンネルを抜け、しばらく坂を下ったところで目の前に夕張岳が
広がるので好きなコースです。

シューパロ川の水量はすっかり減って、河原も出ていましたし、カジカ釣りには最適の
状態でした。
鹿島の町の住宅のあったところには所々ルピナスの花が咲いています。

ちょうど日が傾いてくる頃でした。
千年町に入り、東小学校のグラウンドにはいると、グラウンドの北側にルピナスの
花が咲き乱れていました。
「もっと近くで見よう」
車を校庭の真ん中まで移動したとき、ふと見渡すと回りすべてがマーガレットの
花でした。道路側の木が生い茂っているところは暗く陰っているのに、花の咲いて
いるところは日が当たって輝いていました。

鹿島橋のほうへと行くと、川の水量は多いのですが、濁りが取れてきて深い緑色を
していました。水面はしんとしていて、風が吹くとさざなみが少し立っています。
やはり影と日の当たっているところのコントラストがはっきりしていて、なんだか
夢の世界のようです。

ここに赤いカナディアンカヌーを浮かべ、口笛でも吹きながら行くとものすごーく
気持ちいいだろうな、と思いつつ帰ってきました。

(1290)夜店のにぎわい 投稿者:飯田雅人  投稿日:06月16日(土)00時00分52秒

札幌は今日14〜16日の北海道神宮のお祭りの真っ最中です。大夕張でもこの日に
あわせて山神祭が行われていましたね。
6時過ぎ子どもを連れて神宮に行ってきました。札幌では中島公園の方が夜店の
数も多くにぎわいますが,私はここ数年子どもを連れて行く時は,緑に囲まれた
神宮の方に出かけます。夜店は少ないですが,それなりの規模で落ち着くからで
す。それでも今日など人出が多く店の前で大勢がひしめいていました。
大夕張から札幌へ出てきた時さえ人の多さに驚いていた覚えがあります。
人出の多いところにはなかなか慣れないような気がします。
大夕張の夜店を見ると,『ほどほど』のにぎわいであったようです。

(1289)田中さん、どうも 投稿者:池田憲治  投稿日:06月15日(金)22時34分13秒

田中さん、どうもです。同期会挨拶は心拍数1000くらい上がった気がしたが、
死なずに帰ってきました。出世しなかったので、このようなことになるのですね。
大夕張では、タクシーの運転手は、これが千歳町のメイン道路と云うので、違う
車幅しかないのは、駅前通りだと、車から降りて戻ってみると、もっと狭い道が
あって、やはりそうですと頭を下げました。
車は東小のグラウンドを突っ切って川まで行ってくれました。自衛隊が夕張岳
に登る前に、ここでキャンプをするそうです。何度も熊に気をつけてと云って
帰っていきました。グラウンド周辺は河原がありませんでした。泳ぎ場だった
個所も水が多く、向こう岸の崖の下にあった、大きな石も見えませんでした。
6月の田植えが終わるまで、水が多いそうで、当然、浅いところを好む「かじか」
は、見つかりませんでしたが、私としてはここから吊橋までの間でやりたかった
ものですから。同期生は、かじかのことを「ごだっぺ」といいました。
帰りに小樽の叔父に、会いに行ったところ、樺太でも「ごだっぺ」と云ったそう
です。私は今まで知りませんでした。

(1288)小野 美音子様へ 投稿者:宇良田 彰  投稿日:06月15日(金)22時33分28秒

小野さま ご返信ありがとうございます。
明日は、社内の文化体育会関東ブロックのソフトボール大会に無理矢理出され
朝、4時半に起きて千葉まで行く羽目になってしまいました。
私の好きなスポーツはバドミントンとサイクリングそしてハイキングです。
でも、事業所のメンツが掛かっているので出ることにしました。

小野さんの文面には抑揚があります。
掲示板の投稿文書を読むと男性型と女性型のタイプが明白に見て取れます。
女性は自分の感情に素直に書き、しかも、リズムカルです。また、音楽で
いう音域が広いです。小野さんの場合には「マライヤキャリィ」かな・・・
私の場合は2オクターブで「白い冬」か「時代おくれ」が精一杯です。

今日は、明日の試合に向けて少々テンションが高いです。
話はどんどん変わります。
私の住んでいる伊勢原市では、毎年、新規雇用者激励イベントを開催して
いて、5〜6年前今は亡き「村下耕造」と「川島英五」のコンサートを
聞きに行ったのですがご両人とも40才代で他界され何とも切ない気持ち
です。特に、村下耕造さんは入場者を整理する係りの中年男と勘違いして
しまい、今になって、失礼な気持ちを抱いたと反省しています。
でも、コンサートの中でベンチャーズの曲をアコスティックギターで弾いた
時は本当に感動しました。また、「イルカ」が飛び入りで参加し、「なごり雪」を
歌ってくれたのは今でも新鮮に覚えています。
本当は、そこに石川鷹彦さんのギターが加わっていれば最高でしたが・・・。

以前の投稿で書いた共同浴場でビートルズのコピーを練習した件は、確か、
千葉君がリードしていたと記憶しています。当時は、スコアーが無かったので
レコードを何度も聞きコードを探っていたように記憶しています。

あの当時の耳をもう一度取り戻したいです。
取り留めもないことを書いてしまいましたご容赦下さい。

(1287)知られざる泉町 投稿者:久々湊 真一  投稿日:06月15日(金)21時48分30秒

皆さんは、泉町を憶えていますか。錦町と緑ヶ丘の間、宝の沢に沿って住宅があり
ました。泉町は大夕張で一番新しく出来た町であり、最も小さな地域でした。この
ためか互助精神に満ちており、住人の纏まりが非常に良かったのです。

泉町は、種々の独自な町内会行事を行っていました。町内運動会は、地域の一番奥
に位置する広場(南さんの前)で行われました。パン食い競争や借り物競争、各種
パズル競技などオリジナリティに富んだ楽しいものでした。
年末恒例の福引大会は子供達のお待ちかね行事でした。町内会長さんが綱の束を持
ち、子供は低い年齢順に自分の好きな一本を選んで引っ張ります。綱の先には○○
賞と書いた札がついており、該当の景品が貰えます。ワクワクしながら引っ張った
ものです。当時、泉町の娯楽で流行っていたものは、百人一首でした。大人と子供
が入り混じった真剣勝負でした。子供会による町内対抗「百人一首」大会もありま
した。鍛えられている泉町は、常に上位に勝ち残りました。この時の応援団(父
兄)の熱狂的な声援が思い出されます。

炭山祭では、泉町も御神輿を出しました。私は同級生の西川喬君と一緒に、賽銭箱
を担ぐ係です。お賽銭が雨あられと降る、中には袋に入った紙幣もあって随分驚き
ました。いったい何円の紙幣が入っているのだろうと、袋を太陽光に透かしている
所を大人に見つかり、ポカリと頭を殴られたりもしました(悪ガキだったなぁ)。
鹿島中学の運動会は町内対抗競技が多々ありました。今では珍しい町内対抗仮装行
列も行われていました。泉町は突飛な仮装で人気を博しましたが、やっている当人
は大変恥ずかしかった思いがあります。
泉町は子供の数が少ないので常にフル出場していました。それでも、リレーは全年
齢を揃えることが出来なくて、下の年のものが1つ上の年齢に出る等で、かろうじ
ての参加です。途中までは先頭の方を走っていますが、穴の年齢のところで次々と
抜かれるパターンが多く、大変悔しかった思い出があります。

日本全体が貧しかった当時。しかし子供達は多くの催し物に取り囲まれ、楽し日々
を送っていました。あの頃の親は子供を思う愛情に溢れており「色々な意味で偉か
ったなぁ」と思い出されます。

(1286)同期会、行ってきました 投稿者:池田憲治  投稿日:06月15日(金)19時32分19秒

このホームページのお蔭で、とどこおり無く大夕張で遊んで
来られました。でぶまんさんのノートもいい箱に入っていました。
同期会の席で、ある人が私にいいました。
皆、いつも同じ話で、よく飽きずに盛り上がっているが、
私達は大夕張の出身だと、確かめ合って居るのよね。
うん、なかなか、いいこと言うな。確かにそんな気もする。

(1285)宇良田 彰様へ 投稿者:小野 美音子  投稿日:06月15日(金)17時20分07秒

宇良田様、シューパロ湖の「湖上の恋」のバックに流れていた音楽は
 ♪アカシアの雨にうたれ このまま死んでしまいたい〜
という曲だったのですか。
そうじゃ無くても、死んでしまいたい程 素敵な思い出ですね。
私の方は ♪十五,十六,十七とあたしの人生暗かった〜 です。
ずいぶん違いますね。 わけも無く将来への不安にさいなまれ
何になりたいという目標もなく、とりあえずの真面目そうな日々・・。
憂鬱な気分におおわれた下宿と高校の往復だけの暮らし・・。

それが三十年近く経ち、うらやましい限りの宇良田様から「覇気ある」と
ありがたいお言葉を頂戴しました。まるで今をときめく田中真紀子様か
上沼恵美子様のようではありませんか。女心を熟知?なさっていらっしゃ
ると思われる宇良田様にひとつだけわがままを聞いていただくとすれば
そこにぜひ吉永小百合様の要素も含めていただきたかったと・・・

一度でもおめもじしていれば、とてもそんなお願いはできませんが
今だけの虚構の世界。〜20世紀には置いてきたが、21世紀に持って来た
画面に映る小野さんの文〜 だけでも小百合様のオーラが漂うではありま
せんか。ナイスミドルであらせられる宇良田様、私がこう書きましたが
アハハとあっさり聞き流されて下さいね。探求心にみちた真面目な御性分
からでてこられる、過分なお気遣いの言葉はいりませんですよ。
シューパロ川の流れのように何事もなかったように流して下さいませね。
またお話できる日を楽しみにしています。
************
歌子さん、お返事ありがとう。あなたの坊やは必ず天才になるわ!
だってアインシュタインの母がついているんですもの。

(1284)よかったよかった 投稿者:久々湊 真一  投稿日:06月15日(金)10時09分36秒

しばらく出張していました。戻ってまず、本掲示板を見たら封鎖していました。
トラブルがあったのかと心配していましたが、復活していてホッとしています。
又、ローカルな話題を提供しようと思っています。仕事中なので、とりあえず。

(1283)同期会 投稿者:田中 紀子  投稿日:06月15日(金)09時19分22秒

池田さん7期同窓会如何でしたか、お話聞かせて下さい、
東小の裏の川で釣りを楽しみましたか、?あそこは
子供の頃よく泳ぎに行きました、川の向こう岸のがけまで行くと
熊イチゴがなっていました、
それを取りたくて危ないおもいで泳いだ思い出、懐かしい、・・・

(1282)Re.だれかしりませんか?  投稿者:奥山道紀  投稿日:06月14日(木)23時34分58秒

慶応大学では学内の資料や、「夕張市石炭博物館」の協力などを得て「Coal-
mine Digital Archive」をWeb上に構築しています。三菱大夕張関係のも
のは含まれていませんが、写真や映像で夕張炭鉱について学べます。
この中には当然採炭風景も含まれています。他にも夕張駅を出る石炭列車の映
像もあり、今後の充実が期待されます。下にリンクを入れてありますので参考
にして下さい。

http://pegasus.cypher.sfc.keio.ac.jp/~coal/

(1281)掲示板復活ばんざーい! 投稿者:宇良田 彰  投稿日:06月14日(木)22時37分32秒

Webmasterの飯田さん、ご苦労様でした。
本当は、心ない輩のアタックに逢ってやむなく停止したのかと心配しました。
世の中には色々な考えを持った人がいます。でも、まず相手の立場を尊重する
ことからお互いのコミュニケーションが成立すると思います。
飯田先生、もし、このサイトの維持管理で困ったことが発生したら遠慮せず
ご連絡下さい。自分が持っている知識と経験のすべてを提供します。

そういうことではこの掲示板は極めてドメスティクですが、来る者は拒まずと
いうスタンスだと思っています。堅い話はここまで.....。
この掲示板は正体不明のチャットサイトと違って自分の正体がかなりな部分
露呈しています。でも、間接的ではあるけれど大夕張というコミュニティで
寝食を一緒にしたという連帯感が根底にあると思います。

いつも、文面に覇気を感じる「小野 美音子さん」面識は無いと思うのですが
共感できることが多々あって何時も投稿を楽しみにして拝見しています。

今日は、少々、疲れ気味で取り留めのないことを書きますがご容赦下さい。
木下昌幸さんの投稿を読んで共感したことを徒然日記的に述べます。
私はコンピューターを始めた動機が音楽でした。ビートルズに代表する
リバプールサウンドとジャズ(旋律のはっきりした曲が好きです)そして
フォークソングが大好きです。NHKのBS放送で放映しているフォークソング
関係の番組はすべてチェックしています。また、カラオケに行くと「白いブンコ」
やフキノトウの「白い冬」をハモって歌っています。高校か中学の頃、ギター
に興味を覚え、共同浴場でよくビートルズの曲をコピーして歌っていました。
但し、才能はあまり無かったようですが.....。
共同浴場で練習した理由はよく音が反響して下手でも上手に聞こえたからだと
記憶しています。
ジャズも好きで特にバドパウエルの「クレオパトラの祈り」が大好きです。
書きたい放題書きましたがご容赦下さい。

(1280)初めまして 投稿者:木下昌幸  投稿日:06月14日(木)20時41分44秒

先日、鹿島中学代7期生の同級会が2泊3日で(1泊目登別、2日目札幌)3年ぶりに
行われその席で大夕張のHPが有る事を池田憲治君に聞き早速拝見致しました
懐かしい風景が次々に出てきて45年前の事が走馬灯の様に頭の中を駆け巡って行き
ました。私はS.29年鹿島中学卒業、32年夕張南高校を卒業、其の年に大夕張を後に
しました。現在は愛知県の犬山市に在住してます。
今は好きなジャズを毎日聞きながらの日々です。又WANが大好きで5頭のWANに
囲まれた生活が全てです。犬種はニューファンドランド、イングリッシュセター
ラブラドールレトリバー、キャバリヤキングチャールズスパニエルです
長く成りましたがジャズ好き、WAN好きの方は大歓迎です。お近くに来られたら
是非お寄り下さい

(1279)Re.小野美音子様 投稿者:高橋歌子  投稿日:06月14日(木)20時22分58秒

本当にそうですね。
よく「歌、上手いんですか?」と、きかれますが
私は音痴。
親を恨んだことも多少はあります。

ところで我が家の息子は4歳。
いろいろな教育に関する本は読みましたが、結局選んだのは「詰め込みはやめよう」
でした。
アインシュタインのお母さんを真似「とにかくいろいろなもの見て、いろいろなことを
体験しよう」でした。

絵本を見るようになってからは、「実物を体験する」ようにしています。
魚に興味があるときは、新札幌の水族館に通いつめたり、金魚を飼ったりしました。
飛行機に興味を持ったときには、丘珠空港に通い、ある日「こっちに行ってみよう」
と搭乗口に行き、飛行機に乗ったりしました。あそこはタラップを上るので
飛行機に近づいていくときの目をまん丸にして驚く息子の顔がおかしかったです。
恐竜の時には、博物館で恐竜の骨を見て、「しろくまちゃんのホットケーキ」のときは
一緒にホットケーキを焼きました。

今はビデオの「ガメラ2」札幌編に夢中で、テレビ塔では「ここに自衛隊来てたね」
とか、すすきのでは「レギオンが壊したけどだいぶ直ったね」とか
道で自衛隊のトラックにすれ違うと「向こうにレギオンとガメラ出たんだ」と
うそつきまくりです。

いったいどんな子供に育つのでしょうか?

ところで三笠の博物館は夕張産の化石も多数あり、静かでいいところです。
石炭の歴史村の化石館は動く恐竜がいるので、息子が怖がって入れませんでした。

これからもいろいろお話を聞かせてください。

(1278)安心しました。 投稿者:佐々木 洋子  投稿日:06月14日(木)19時10分09秒

掲示板再開、ありがとうございます。
もうこの『大夕張掲示板』は毎日の生活に
無くてはならないものでございます。
飯田さん、これからもよろしくお願い致します。

(1277)高橋 歌子様へ 投稿者:小野 美音子  投稿日:06月14日(木)17時28分51秒

初めて歌子さんのお名前を拝見した時、まるで同じ親から生まれて来たのか
しらと思いました。こういうのは異家姉妹?っていうのかしらね。
あなたは素敵な青春の歌、私はくすんだブルース、でも二人が揃えば
コミカルソングが歌えそうですね。

可愛い盛りのお子様がいらっしゃるようですね。私も子育て途中で望み通り
の子育てとはいきせんが、近藤千恵薯「子どもに愛が伝わっていますか」
(三笠書房)は子供が素直に育つための親の話し方、子供と対立なく、
子供の心を受容し共感できるためのカウンセリングの手法がわかりやすく
書かれてあって、助けになりました。
いつ豹変するかわかりませんが、中学生の息子はユーモアがあり今のところ
少年犯罪をおこす気配はなさそうです。

もう一人の息子は皆が私とソックリだといいます。去年ことわざに興味を
持ったので「いつまでもあると思うな親と金」「墓にふとんはかけられぬ」
など親孝行になりそうなのを、色々教えたのですが、最近彼が
「親と金、生きてるうちに使い捨て」という驚愕の句を作ったので、
まだまだ前途多難・・・・。いったいどこが似てるんでしょうね。

歌子さん、子育てもアウトドアも仕事も頑張って下さいね。
私も、体力に合わせて頑張ることにします。 ではまたお話しましょう!

(1276)帰ってきた掲示板 投稿者:斎藤 敏幸  投稿日:06月14日(木)08時33分58秒

わ〜い,掲示板が再開したぞ。
やっぱり「井戸端会議」がないと,寂しいですね。
とにかく,良かったです。
飯田さん,これからも,よろしくね。

(1275)炭鉱長屋の井戸端会議 投稿者:高橋歌子  投稿日:06月14日(木)06時59分02秒

やっと再開しましたね。
私にとってこの掲示板は「炭鉱長屋の井戸端会議」のようなもので、
昔の話はもちろん、今感じていることも年代を越えて
自由に話しているかんじがとても好きです。
掲示板の無い日々は「クリープの無いコーヒー」もしくは「塩辛の無い白飯」の
ようなもので、何か物足りないものがありました。
早く池田さんの同窓会の話や、小野さんの話が聞きたいです。

(1274)しばらくお休みしましたが,再開します 投稿者:飯田雅人  投稿日:06月13日(水)23時26分36秒

ここ2日間ばかり,勝手ながら掲示板を閉鎖していましたが,只今から再開させて
いただきます。ご不便,ご迷惑をかけた多くの皆様にはお詫び申し上げます。
この間,鹿島中時代の斎藤宏先生から初のメールが届くという嬉しい出来事があっ
たり,また多くの方とメールの交換を通して,ここに集まるみなさんが,故郷を,
大夕張を愛し,無くなってしまうけれど「大夕張」という絆を大切にしているんだ
ということを,そしてこのHPにその大夕張を少しでも感じていただいて楽しんで
いてくださることをあらためて感じさせられ,感謝の気持ちと温かさでいっぱいに
なりました。

これから「大夕張の物語」・・・また始まりです。よろしくお願いします。

(1273)だれかしりませんか? 投稿者:神ちゃん  投稿日:06月11日(月)13時18分27秒

誰か石炭の採掘方法もしくは採掘方法ののってるホームページを
知ってる方メールか掲示板にカキコしてください。
お願いしますm(_ _)m

(1272)夜店の明かり 投稿者:ヒロ 三浦  投稿日:06月10日(日)18時06分32秒

大夕張も今日はスッカリ日が落ちている時間でしょうね
斎藤さんの書き込みを見て、思い出しました。
6月は体感として夏だったような気がするんですけれど...
皆さんはいかがですか、山間の大夕張では春〜夏〜秋 どの季節も
本当に一瞬のような気がします
行灯に浮かび上がる露店の明かりが胸の奥によみがえりました。
もう一度、体験したい風景ですねー

(1271)炭山祭り 投稿者:斎藤  投稿日:06月10日(日)16時32分05秒

今週の札幌はヨサコイ・ソーラン一色で街も華やいでいるようです。
大夕張でも,毎年6月14〜16日は「大夕張炭山祭り」が開催されていました。祭りが
近づくと,3時頃から栄町の公衆浴場の前で,踊りの練習をしていたのを覚えています。
「シューパロに風渡り...」でお馴染みの「大夕張音頭」の曲が流れ出すと,もう落ち着か
ずそわそわしていたものです。
確か,町内会では「模型飛行機大会」もあり,僕も参加したことがありました。プロペラ
の部とグライダーの部があったように記憶しています。飛行機は「本間商店」か岳富町の
「田村模型店」で買い求め,どなたかが投稿していたように,細い竹ひごを蝋燭の炎で曲
げヒューム管で胴体につなげて作っていたものでした。
祭りには親から小遣い(500円程度)をもらい,鹿島小学校前の出店でスマートボール
で遊んだり,みそおでんを食べたりしていました。
子供も大人もこの3日間は,街中が祭り色で大地までが鼓動しているようでした。

大夕張を後にしてから,色んな土地を渡り歩き,沢山の祭りと出会いましたが,あれほど
心がときめく祭りとは,今だに出会うことがありませんでした。
ヨサコイ・ソーラン祭りとは比べものにならないものですが,夕張の山奥の「大夕張炭山
祭り」は,今でも僕の中で輝いています。
そんな思い出を沢山与えてくれた「大夕張」を誇りに思っています。

*飯田さん「あいちゃん」に会えて良かったですね。こちらまで,嬉しくなってきました。

(1270)「あいちゃん」との再会 投稿者:飯田雅人  投稿日:06月10日(日)09時54分57秒

小学校に入学する前,よく父の勤務先だった炭砿病院まで追いかけて遊びにいっ
たことがありました。その時,看護婦さんを初め,多くの職員の方々に声をかけ
ていただき仲良くしてもらったという印象があります。
その中に看護婦さんの『あいちゃん』にはよく声をかけてもらいかわいがっても
らいました。当時独身だった彼女は大柄で,頼もしく,小さかった自分はそのあ
とを追いかけるようにしていました。

先月の日曜日,保存会の奥山さんと,『大夕張ヤマの会』へ参加する機会を得ま
した。その中で,このHPで出会った裕子さんや,山形の「くまさん」のお父様,
お母様たち,そしてかつて父の職場の同僚だった方との出会いがあり,なんだか
どれも懐かしくそして嬉しい出会いでした。

「あそこに看護婦さんたちが来ているよ」と案内されて会場の一角に行くと,皆
さん最初は驚いたように,そして次々に親しく名前を呼んでくださいました。
その中に「あいちゃん」はいました。「あいちゃん」と何十年ぶりかの再会でした。
「あいちゃん?」と思わずかけより,その後しばらく懐かしくお話しさせていただ
きました。なんだかいつの間にか子ども時代に戻っているようでした。

でも,あの大柄で大きかった「あいちゃん」いつも見上げてあとをついていた「あ
いちゃん」を,下に見ながら話をしている自分に気がついた時,もうあとに戻るこ
とのできない時間が流れていることをあらためて感じました。

(1269)ノマドでそんなツアーしてたなんて 投稿者:高橋歌子  投稿日:06月07日(木)23時27分33秒

ノマドも宮下さんも知ってて、ノマドのツアーパンフレットも毎年貰ってたのに
気づきませんでした。
ノマドって結構有名なところです。

私、冬は山スキーもするので行ってみたいです。
体力ないけど。
天辺まで行けなくても、自分の行ったところがピークと言い張る
根性なしですが・・・
10年物のプラスチックブーツそろそろバラけるかもしれないけど。

(1268)850のヒュッテについて 投稿者:宇良田 彰  投稿日:06月07日(木)22時29分23秒

850に山スキーに行くことは、当時の自分にとっては一つの冒険でした。
確か、中学2年の頃、友達と850へ一泊のスキーツアーに出かけました。
確か、神社から登っていった記憶があります。
行程は、結構きつくてやっと目的のヒュッテに到着した記憶があります。
ヒュッテがどうなっているのか気になったので一生懸命になって検索しました。
1時間30分ほどかけて検索したところ、株式会社ノマドという旅行代理店の
ホームページに辿りつきました。この会社は札幌にあり結構マイナーなツアー
を企画している会社だという印象でした。
たどり着いたページ(http://www.hokkaido-nomad.co.jp/alpine.htm)の
中に「夕張 850峰」というツアーが載っていたので、図々しくもヒュッテの
事をメールで尋ねてみました。翌日、宮下さんから下記のメールを頂きました。
=====================================================================
始めまして 宮下といいます。 メールありがとうございました。
> わたしも 70年代まで夕張に暮らしていました。
> 850は 中学生のころ出かけていて 最近思い出したように
> ツアーを組んで 山スキーに出かけています。
> ご存知のように 大夕張はゴーストタウンとなり 今は誰も暮らしてません。850の
> ヒュッテも無くなっています。
> かつての神社からのルートは木が育っていて快適ではないので
> 元の鉱業所のあったところから 登っています。
> それでも 山は相変わらず素晴らしく 雪質も最高です。
> 機会があれば うちのツアーにいらしてください。
=====================================================================
私は、今から850へ山スキーへ行ける体力があるか疑問ですが、一度、
(株)ノマドさんのツアーに参加したいと考えていますが,,,,。
体力が付いていくかどうかが問題です。
心は、大夕張の大自然の中にありながら、今日も、東京の浜松町の雑踏の
中で、厚生労働省の新人官僚の下手なプレゼンテーションを聞く身を悲しんで
おります。話が脱線しましたが、850へ行くためには、鉱業所側から入らな
いと駄目のようです。
体力に自信のある方は、一度、(株)ノマドさんのツアーに参加してみて下さ
い。

(1267)「一人のイジケた乙女」 投稿者:小野 美音子  投稿日:06月06日(水)21時18分54秒

日々後悔の多い私はチャットで少女に戻して頂いた直後、しまった!美少女
変身モードも願えば良かったとほぞを噛んだが、その厚かましい心も、又々
後悔した。久々湊さんが食べたカイ草を食べて頭にビタミンを送り込んで
おけばもう少し、うろたえずに生きてこれたかもしれなかった。

兄達は充分優しいのに、自信が持てず何をしても駄目だと思い込んでいた。
私が魔法の薬と信じて疑わなかったあの薬を7才違いの兄は「それはカビ
からできているんだよ」と言った。ゲッ!となったがイジワルを言った訳
ではない。「精製しているから大丈夫」とフォローが入ったが、毒は毒を
もって制されるように、みそっかすでカビのような存在はカビでしか治ら
いと思うとイジけた。

その兄は私の髪やまぶたを見て「美音子は劣性遺伝だね」と言った。
メンデルなんか知らない。劣っているという意識だけが擦り込まれた。
もちろん兄は色々詳しく説明してくれたが、すでにもうイジけていた。
教科書を執筆される先生に切にお願いしたい。優性遺伝は多出現遺伝と、
劣性遺伝は少出現遺伝、又は希有で貴重な場合もあるなどの注釈も付けて
いただき、ゆえ無き劣等感を抱く子供が出ないようにしていただきたい。

あ〜あ、しょうもない文章を書いてしまってまた後悔している。
ただそれはそれなりに生きていける場所があるのが今の救いだ。
大夕張は頑張る力の源泉と久々湊さんが書いて下さった。
私も遅々とはしているが何とかやっていきたい。
もちろん皆様、すぐ上の三行以外はたわ言と聞き流していただきたい。

(1266)帯向商店 投稿者:奥山道紀  投稿日:06月06日(水)16時32分31秒

以前、こちらで話題になっていた「帯向商店」さんの灰皿が
Yahooのオークション↓に出品されてます。

http://page2.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/b10822272


(1265)大夕張の山菜 投稿者:高橋歌子  投稿日:06月05日(火)19時48分19秒

カヌーツーリングで余裕で下っていた人の中には、休憩やポーテージのちょっとした
間に山菜を取っている人もいました。
ウドやフキなどが主でした。
山菜に詳しい人が「これは余程土地の良いところでないとでない山菜がある」
と言っていました。(名前は忘れました)
ちょっと鼻たかだか。

(1264)けっこう人はいってます 投稿者:高橋歌子  投稿日:06月04日(月)18時40分55秒

シューパロ川は結構人が訪れているようです。
まず、カヌーの出発地点は車も置けるし、川もすぐです。
堰堤の2〜300M上流にも車のはいった跡がありました。
堰堤の崖まで車で来ると、崖を下りる道がついているので、歩いていくのは簡単です。
春日町にも岸のすぐそばまで車の入った跡がありました。
鹿島橋は今もあります。鹿島橋の手前を東小のほうに道があるのでそのまま行くと
川の中まで道がついています。
すべて最近まで入った跡で、藪こぎは一切なしです。
ただ本当に水量が多く、河原はほとんどなく、樹木も水につかっているほどでした。
ダムのバックウォーターは東小学校まで来ていました。

ダム湖も水が多く、公園の池も水没していました。

一緒に行った仲間は「今度は林道の更に上流を行ってみよう」と言っていました。

(1263)大夕張ダムについて  投稿者:小林光志  投稿日:06月04日(月)12時16分27秒

中止?延期?情報は、私が流しました。確でない情報を流してすみません。
そうでしたか。良かったような悪かったような・・・。
大夕張に関係の無い東京人の一部にもダムに関する情報を私に流してくれる人が
います。ありがたいものです。
大夕張掲示板は、いつも拝見しています。みなの情報楽しみに拝見しています。

(1262)大夕張ダムについて 投稿者:宇良田 彰  投稿日:06月03日(日)23時49分59秒

大夕張ダムのことが掲示板にちらほら掲載されていたのでちょっと調べて
みました。キーワードは「シューパロ湖」「大夕張ダム」「北海道開発局」
「国土交通省」etcです。

北海道開発局の再開発のダム事業では、「夕張シューパロダム」という呼称
で呼ばれているようです。最終的には、現在の規模の約5倍の貯水量にする
と記載してありました。開発中止に関する情報はないかと色々サーチしまし
たが、平成12年度事業の再評価で中止となっていたのは他のダムでした。
夕張シューパロダムという名称で地図の中に掲載されていた情報は下記のURL
で見ることが出来ます。
http://www.hda.go.jp/hdb/topics/info/ippan/koho/graph/1997sp/toku1997sp/syuparo2.htm

できれば、このダム工事は中止にしてほしいというのが個人的意見です。
ゴーストタウンになってもそこに住んでいた人々の生々しい記憶と魂が漂って
いるような気がするからです....。

「里見公園」というキーワードで検索すると大変な量のサイトがピックアップ
されてきました。全国にはこれと同じ名称の公園が結構あるのだなと関心しま
した。「里見公園」に関する想い出を一つ...。
高校時代に坂を下りた所に、確か「池田食堂」という屋号だったと思うのです
が、そこでよくラーメンを食べました。確か一杯55円だったような記憶があ
ります。また、里見公園で貸しボートに乗り、シューパロ湖上でガールハント
ならぬデートをしたような記憶があります。ほんとは、禁止されていたのです
が...。当時は、ゆっくり話をする喫茶店のような場所もなく、唯一、湖上
がその場所であったのかもしれません。西田 幸子の曲が流れていたシューパロ湖
畔駅が今でも懐かしく思い出されます。

(1261)実感!大夕張の、今。 投稿者:久々湊 真一  投稿日:06月03日(日)23時10分26秒

高橋さん、やったね。シューパロ・カヌー下りのホットニュースは、大変うれしい
出来事です。大夕張の「今」を実況中継で見せてもらったような気がします。

小野さんの投稿に触発されて、鹿島東小学校の閉校記念誌「ひがし」を読んでみま
した。吉田敏雄先生は、記憶にあるお名前でしたので、調べてみたのです。
昭和26年〜38年の間、東小の先生をされていた・・・やはり私の在校時期と重な
ります(担任の先生ではありませんでした)。又は、私の両親も樺太からの引揚者
なので、吉田先生とは何らかのお付き合いがあったのかもしれません。両親とも他
界してしまったので確かめる術が無く残念です。

(1260)高橋さんよかったね 投稿者:池田 憲治  投稿日:06月03日(日)22時02分18秒

シューパロのカヌー下りなど、このような遊びかたも
あったのですね。私も若かったらやってみたいな。
高橋さん、感動でしたね。紅葉で、水量の普通のときは
最高でしょうね。
話は、ずれますが、鹿島橋の近くまで、車は行けますか。
河原までどのくらい藪漕ぎがあるでしょうか。
今日、ホテル・シューパロへ、箱メガネとヤス、
長靴と、筒棒釣りに使うハリと糸など、送りました。
7日は小学生に戻ってカジカ捕りをやります。
ミミズは、タッパーに入れて機内持込です。
これは内緒。

(1259)大自然は最高! 投稿者:ヒロ 三浦  投稿日:06月03日(日)20時50分32秒

高橋さんの激流リポートを楽しく拝見しました。
椎名 誠さんや野田さんの「怪しい探検隊」以来の心ドキドキ
ワクワクのお話にシューパロの川面が目に浮かんできました
まさに最高です!出来れば写真が有ればなおさらですねー!
でも大夕張復活はこんなネイチャーシーンが一番でかな
カヤックも人力と自然の絡み合い、ローインパクトでローテク
自分も自転車で自然の中を走り回る事が多く自然との共存には
目線のレべルを下げて触れ合う事とても大切で色々なヒントが含まれて
いるんじゃないでしょうか?
「激流リポート」第2編も楽しみにしています!

(1258)シューパロ川下ってきました。 投稿者:高橋歌子  投稿日:06月03日(日)19時28分50秒

一部お誘いした方々。
これなくて正解です。
本日のシューパロ川、めちゃくちゃ激流です。
中級者以上でないと無理でした。

前々から計画していたシューパロ川カヌー下り、本日行いました。
朝、下見に行くとやけに水量多い。白波立ってる。
雨も降ってきたし、今日はもうダメかなと思いました。
で、集合場所の南大夕張駅跡にいくと「雨天中止」のはずなのにたくさんの人が
集まっていました。
みんな「どうせ水遊び。濡れるんだから。」という方々でした。

大夕張の堰堤の上流5キロ、三笠に抜ける道が林道と分かれるところから
出発しました。
私は絶対沈没しない「ダッキー」というのの二人艇で後部座席にエキスパート
シーカヤッカーを従えて行きました。万年初心者の私がいけたのはそのせいです。
もう始めっから「激流」
景色見る余裕なんてありません。
それでも慣れてくるとほかではあまり見られない「黒い切り立った崖」や
「霧が晴れてくる合間に見える深い緑」に感動。
カーブを曲がって視界が広がりズリ山が見えてくると「とうとう来たんだ」と
しみじみ思いました。

堰堤を越えるため、カヌーを降りて歩いていきます。
今日の堰堤は大迫力です。
その下流も結構な瀬があり、初心者には結構厳しいかも。
グラウンドに行く橋はもう橋げただけで、春日町や千年町にわずかに生活の跡が
残っています。
懐かしい沢や山が見えるともうゴールの東小学校跡。
本当はサトミ公園まで行く予定でしたが、今までになく水量が多く、
河原もほとんどない状態なのでアプローチが難しくここまでにしました。

レベルとしては、東小学校から下のほうが初心者向けとは思います。
川は生き物ですから、夏が近づいてくると、また様子が変わってくるかもしれません。

それにしても「大夕張」が過去のものでなく、今密かなプレイスポットとして
パドラーの間で知られていたのはうれしいことでした。
どう?なかなかいい所でしょう?とちょっと自慢したくなりました。

(1257)とうとう第5位 投稿者:高橋歌子  投稿日:06月03日(日)18時37分28秒

小野様のお話、なんとも言いがたい思いがあります。

そのすぐ後で申し訳ないのですが・・・
なんと思い出投票箱で「鹿島東小」が「夕張岳」と同率5位。
私の一票で単独5位にさせていただきました。
皆様のご協力ありがとうございました。

最近気になるのが「みなと印刷」。
確実に順位を上げ、怖い存在です。

(1256)河井さんのおばさん、ありがとう・・ 投稿者:小野 美音子  投稿日:06月03日(日)17時20分49秒

大事な一本指が池田様の方へいったかもしれませんが、他の指が動きそう
なので、投稿させていただきます。田中様、星の光は輝きを増しました。

高橋様が千年町の階段が残っていたことを書いて下さり、飯田様が写真を
アップして下さいました。私はあの階段を降りて行った時のはずむような
嬉しさを今も忘れられません。河井みちこ、ゆうこちゃん姉妹と楽しい
ままごと遊びが待っていたからです。バス停まで、必ず笑顔で迎えに
来てくれました。河井さんのおばさんが気さくに招いてくれたからです。

浩宮様がナルちゃんと呼ばれ可愛い様子がTVで放映されていた頃、皇室の
格など関係ないおめでたい私達は、浩宮様のお嫁さんには誰がふさわしい
かという無邪気なおしゃべりをしました。楽しく盛り上がり、消去法で
色白で瞳のぱっちりした大滝かおるちゃんが一番ということになりました。
その一部始終を母親達が聞いて大笑い。その後のお茶飲み話に必ず出て、
河井さんのおばさんが頬にエクボを浮かべて、本当におかしそうに
笑っていた姿が忘れられません。

河井先生が日高へ転勤が決まり別れが近づいた昭和41年の春、おばさんは
志村菓子店から、美味しい大きなケーキを「私が食べたかったから・・」
といって持ってきてくれました。子供心にも、おばさんの心遣いはぐっと
くるものがありました。というのもちょうど母が体調をくずしていたから
です。その時の二人の会話にお互いを思うまごころを私は感じていました。

かけがえのない友情は続きました。おばさんが身内以外にかけた最後の
電話の相手は母と思われます。おばさんありがとう。先生からのしらせ
で、大夕張時代の人にお骨をひろってほしいと母は言われました。
みちこ、ゆうこちゃん姉妹との楽しい思い出の場をいっぱい作ってくれた
おばさんに感謝して今日の告別式を遠くからお祈りしたい・・
悲嘆は母にまかせよう・・でも・・嗚呼・・・

(1255)希望の星より 投稿者:田中 紀子  投稿日:06月03日(日)08時28分26秒

美音子さん、私が貴方の「希望の星」であるとは、喜んで良いのか
悲しんで良いのか、・・・まー嬉しいことにします、今は60代で年寄りとは
少し早すぎません、私は今一番忙しくしています、家に居る時はガーデニング、
又、ボランテア活動(国際親善と理解活動)、などその合間にハワイアンダンス、
昨日は高校生、大学生と今問題の援助交際やメル友の様々な問題についての
フォーラムに出てきました、そんな事をしていると年の事など問題ではありません、
それより今どうして過ごすか、が大事と思います、このHPの女性では私が
一番高齢と思いますが、もっと皆さん来て欲しいです、本当は私達の年齢の
方達が一番大夕張に想いがあると思います、何せ「陸の孤島」と言われた
あの地域で子供の頃を過ごし隣同士がみな親戚みたいなお付き合いでした、そんな
中で想い出も沢山あり、語りたい事が山と有るでしょう、インターネットは
けして難しくはないと思いますが、挑戦する勇気が無いのですネ、
こんな楽しい事をしないでこの世からいなくなりたくない。・・・・・・・

(1254)一本取られましたわ! 池田様 投稿者:小野 美音子  投稿日:06月02日(土)23時25分16秒

お風呂からあがりさあ休もうとおもったらワッハッハー
参りました 池田様 若年寄には!
自分では年寄りキラーのつもりでしたのよ1
お姑さんのお友達が電話をかけてくると私とやたら喋りたがるので・・!
では お休みなさいませ

(1253)小野さんも若年寄ね 投稿者:池田 憲治  投稿日:06月02日(土)22時44分53秒

「9人の乙女―」の危うく生き残った乙女も80歳
長女の母と姉妹3人で、今日、フエリーで
北海道へ2週間の旅へいった。合計240歳以上。
小野さんの一本打ち打法で、これだけ書かれるとは凄い。
十本になったら、どうなるのだろう。
見ず知らずだった人たちと話が出来るのは、ここのお蔭だ。
始めここを訪れたときはすぐ見終わった量だった。
コンピュウターに触るような若い世代が、回想的な
ホームページを訪れるとは、思えなかったので、
時々訪れては、まだやっているな、だったが。
こんなに大きくなるとはどうなっているんだ。

(1252)夕張フォレストYH 投稿者:奥山道紀  投稿日:06月02日(土)18時28分56秒

>今度ログハウスのホテルがオープンしたと聞きましたので
>行ってみようかと思います、

白金(開拓)で農業をしていた森本さんがユースを開業しています。
下にリンクを入れておきますが、宮内庁職員が毎月東京から通ってくるなど
評判は良いようです。

http://www.youthhostel.or.jp/c_yubari.htm


(1251)田中 紀子様へ 投稿者:小野 美音子  投稿日:06月02日(土)14時10分36秒

田中紀子様、おたより本当にありがとううございました。
実は、私の「希望の星」は田中様なのでしたのよ。家には十数年前から
パソコンがあったにもかかわらず、機械音痴で知的好奇心の知の字の上には
しっかり、やまいダレがのっかっている私には、鍋の底をかきまわすくらい
しか能がないと思っていました。兄が大夕張のページがあると言っていまし
たが、すぐ可愛い兄の娘の話に変わってしまいピンときていませんでした。
園美ちゃんからの年賀状でようやく覗いてみようかなーと思いそれからは
皆様と同じく衝撃と涙・・。後ろを向いてもしかたがないと思っていた
大夕張がこんなに懐しく蘇ってくるなんて、自分でもビックリしました。
どきどきしながら一本指打法で住民登録(まだテンが1個も打てなかった)
を済ませても投稿なんてとても・・。(旧悪もバレちゃ嫌だしネ)それでも
何とか投稿した直後、田中様が投稿し始め、年齢を拝見してまたビックリ。
意欲的で若々しい素敵な女性がいらっしゃる!というわけで私の中で
ひそかに「希望の星」にさせていただきました。

吉田先生にプリントを送るきっかけになったのも田中様が「先生は沼ノ沢に
お住まいです」と書いて下さったので鹿島小の閉校記念誌を見たらそれら
しき住所があったからです。ありがとうございました。
先生は私の家族の事や、お風呂に一緒に入ってくれたお兄さんの事なども
書いて下さいました。私は字が下手で書くことが苦手なので、先生が便箋
に、びっしりと達筆でお書き下さったのをみて、本当に感激しました。
田中様が沼ノ沢にお出かけの際にはどうぞよろしくお伝えくださいませ。
田中様の書き込みも楽しみにしております。
********
おばけ神社で'し’の恐怖を克服なさった長谷川様、文字にもおばけがいるの
ですね。広ーい墓所と書いたつもりが化けて’ム’の恐怖を味わいましたが
’し’をいただいて、ム・し(無視)することにして平安を得ました。
飯田様、直して下さらなくても結構です。’開き直りもまた楽し’
という境地にたどりつきましたのでございますのよ・・。

(1250)小学校の通学区域変更 投稿者:久々湊 真一  投稿日:06月02日(土)07時53分55秒

高橋さんの「鹿島小パワーに負けるな」「東小ぐぁんばれ」を読んで、頬がゆるむ
と共に、ある出来事を思い出しました。

私は昭和29年に鹿島小に入学しました。しかしながら 昭和30年末に学区の変更が
あって、小学校2年の終わりに強制転校となり、鹿島東小を卒業しました。
通学区域変更の内容は、泉町の川(宝の沢)を境に、千年町駅側は東小・大夕張駅
側は鹿島小の区分けでした。
私なんぞは、「目の前に学校が見えるのに、なんで遠くの学校に行く必要があるの
か」とおおいに不満でした。両親になだめすかされて渋々ながら通ったものです。
そうして始まった通学でしたが、途中からある事に気がつき、なかなか面白い!と
180度転換をしたのでした。それは、商店街を見ながら(今風に言うとウインドウ
ショッピングでしょうか)通える。たまには志村さんやトラやさんで買い食いが出
来る。宝町や千年町の商店群が、私の視野に入ってきたのです。
それまでは商店といえば、錦町購買会と大夕張駅前がお馴染みでした。岳富町は、
清らかな(笑)子供には近寄りがたい独特の雰囲気がありました。ところが、通学
で自信をつけたため、妖しい部分も興味本位で覗く度胸が出来ました。例えば、
パチンコ屋さんには、父親を探すフリをして入り、パチンコ台をじっくり観察しま
した。ただ、大人はこれが何故楽しいのか、よく判りませんでしたが。。。
学区変更による転校は、私にとっては、悪ガキの第一歩、いや「大きく成長させて
もらった」分岐点に思われます。

で、結論は?と高橋さんに言われそうですね。
投票しましたよ、我が「鹿島東小」に(笑)。

(1249)小野 美音子さんへ 投稿者:田中 紀子  投稿日:06月02日(土)07時45分55秒

いつも 貴方の素晴らしい投稿を拝見して感心しております、
吉田先生にお便りしていただいたのですね、さぞかしお喜びのことでしょう、
最近は沼ノ沢にも行っておりませんが、
今度ログハウスのホテルがオープンしたと聞きましたので
行ってみようかと思います、
先生にもしばらくお会いしていませんのでお顔を見てきたいです、
昨日、飯田様から昭和30年頃の鹿島中の恩師の写真を送って頂きました、
中山さんからだそうですね、ありがとう御座いました、
懐かしい若かりし頃の先生達の顔、45年も前の事です、
樹液のお話、懐かしい最近メイプルシロップを見るたび思い出しておりました、
子供の頃まだ東小の立っていない頃あのあたりは大木が立ち並んでいました、
春先雪がまだ残っている頃ビンを持って男の子について行きました、
皆同じような思い出があるのですね、
小野さん又楽しい投稿お待ちしてます、

平成13年 5月 先頭にもどる


(1248)東小、吉田敏雄先生からの御返信 投稿者:小野 美音子  投稿日:05月31日(木)21時35分00秒

4月に投稿しました、「9人の乙女〜」の吉田先生に3、4月分のプリントを
お送りしましたところ、6月に満81才になられるとは思えない程、達筆で
素晴らしい御返信をいただきました。思いがけない人から、HPの寄稿集が
届いたということで大変喜ばれ、興奮気味の状態です、と書かれていらっ
しゃいました。冴子先生もお元気の御様子です。

先生は終戦直後の22年に樺太から引揚げられ、南部に3年、鹿島13年、
清水沢、若菜18年、昭和56年に退職され沼ノ沢に住まわれ、在夕の50年、
夕張の盛衰を見てこられました。「ふるさと大夕張」に寄せられている投稿
から、往時を想起すると共に、人の世の栄枯盛衰の儚さと現状の鹿島地区の
姿から、感無量の一言に尽きるようです、とお書きになっていました。
拙い私の投稿も何度も何度も繰り返して読まれ、私が何のことわりもなしに
書いたにもかかわらず、感謝の言葉をいただき恐縮しました。

池田様の御親戚の池田守先生と12年間東小で御一緒されたことや、札幌の
歯医者さんの二郎さんに治療をしていただいておられる事、田中様と文通が
続いておられる事、所商店の方や天間さんが教え子とのお話なども書かれて
いました。

御両親は46年に廃農されその後、登別で過ごされ56年にお母様が82才で
59年にお父様が88才でお亡くなりになられたそうです。
心より御冥福をお祈りしたいと思います。

吉田先生が綴って下さった感謝のお気持ちはそのまま飯田様に捧げたいと
今、あらためて思っております。

(1247)日帰り旅行をした大夕張の犬 投稿者:久々湊 真一  投稿日:05月31日(木)21時26分33秒

みなと印刷には、シェパード犬がいた。名前をトムと言う。大夕張の過酷な条件に
もかかわらず、18才(昭和32年〜50年)の長寿をまっとうした。

トム君は番犬としては全く役に立たなかった。人懐こくて、誰にでも尻尾を振る。
たぶん泥棒にも、尻尾を振って愛嬌を振りまいたのだろう。多少 りりしいのは、
大夕張のサイレンに合わせて遠吠えをする事くらいか。でも、実にうまい。結構な
長さまで頑張るが、頑張りすぎて咳き込んだりもする。
賢かったのは認める。ある日官行へ釣に行き、放し飼いにして遊ばせていた。こち
らが釣に夢中になっていると、かまってもらえないとの意志表示か、釣竿のあたり
に、勢いよく飛び込みを行う。私が怒ると、大喜びなので困った。
更に困ったのは、つないでいてもいなくなる事だった。尻を外側に向けて鎖をピン
と張り、首輪に手をかけてスルっとはずす。気がついたら、犬小屋には鎖と首輪し
か無かった事が度々あった。しかし腹が減る夕方には、ちゃんと帰ってくるので、
苦笑するしかない。
何をしていたのか、一部は判明している。蒸気機関車と競争をして走っていたらし
い。大夕張から千年町。出発するまで待って、千年町から南部の鉄橋あたりまで走
ったようだ。そんなわけで、運転されていた方に随分可愛がって頂いたようです。
ついには機関手の横に乗せて貰ったことも度々とか。そうやって、夕張まで単独旅
行をしてきたらしい。父が機関手の方から教わり返事に窮したと笑っていました。
振り返れば、のんびりした良い時代でした。

トムのなきがらは、線路の近くに埋めて小さな木を目印とした。平成2年に確認を
したら、私の背丈よりも大きな樹に成長していました。

(1246)樹液採集 投稿者:池田憲治  投稿日:05月30日(水)20時01分09秒

宇良田さんの書き込みを見て私も樹液採集をやったことを思い出しました。
昭和22年頃流行りまして、あれをやるのは雪があるときだったと思います。
1升瓶を1本煮詰めても1合にも満たなかった気がします。
そのうち、木が枯れるからと、焚き付けようのガンビの皮取りとともに
禁止になりました。甘いものが少ない時代だったので美味しかったです。
今なら不味いでしようね。こんなこと書いて大事な校庭の木が危うくなっては
大変ですがー。

(1245)確かに先生にもいたような・・・・(^^ 投稿者:市橋 勝  投稿日:05月30日(水)13時05分03秒

久々湊さん

そうでしたか。
珍しい名字なので、てっきり教員住宅の方と勘違いしておりました。
その従弟の方のご両親は、当然教員なので教員住宅にいたのですよね。
お恥ずかしい話で、ちょっと記憶から消えかかっていたのですが、久々湊先生とい
うのは、確かにいたような気もします。
いや、気がする、などと失礼なこと言ってしまい申し訳ありません(^^;。

今後とも宜しくお願いいたします。
ではまた。

(1244)珍しい名前ですが大夕張には大勢いました 投稿者:久々湊 真一  投稿日:05月30日(水)11時17分07秒

市橋さんの記憶にあるのは、従弟の久々湊義孝です。義孝については、これまでの
投稿No1182('01.4.14)に記入しました。

父の兄弟は、不思議と大夕張に縁がありました。
私の父正一は長男であり、泉町でみなと印刷を開業していました。
次男宗俊は、大夕張の職業安定所に勤務し(昭和30年〜40年頃)、千年町の職安の
官舎に住んでいました。
三男昭三は鹿島小の教員(妻淳は鹿島中の教員)で、昭和40年〜60年頃まで千年町
教員住宅に住んでいました。
末の勝次は、鹿島小・鹿島中・夕張北高の卒業生であり、赤子の私を背負って大夕張
の山野を駆け巡ったそうです。

尚、私は昭和22年生まれですので、市橋さんとは一回り少々、年齢が離れている
オジンです(笑)。

(1243)UFO(?)の想い出 投稿者:市橋 勝  投稿日:05月30日(水)00時32分48秒

突然ですが、久々湊さんって、千年町の教員住宅にも住んでおられたと記憶してい
るのですが、その方とは違う方なのですか?確か、とても足の速い子で、小学校の
時の町内別リレー大会では大活躍していた記憶があります。

さて、この話はまだ確か書き込んでいなかったと思うのですが、私が小学3年生頃
のことです。
あれは確か土曜日の午後のことだったと記憶しているのですが、穏やかな天気のい
い日でした。私は、下校して直ぐに宝町にいた大西君という同級生の家に遊びに向
かっていました。宝町には弥生町や春日町のほうが眺望できる崖がある所があった
のですが、下校途中の中学生や長屋の人達が何やらそこで騒いでいたのです。私も
近づいてみると、その人だかりは「UFOが見える!」などと言って空のほうを見上げ
ているではありませんか。
そこで、私も空を見上げてみると、確かに山のかなり上空に銀色にきらきら光る物
体のようなものが飛んでいたのです。仰天しました。
その銀色の物体は、風に煽られた銀色のトタンが舞っているとも見えなくはないの
ですが、どうも飛び方がおかしいのです。空の上をゆっくりとキラキラ光りながら
旋回しているようにしか思えない。
「あれは鉄板だよ」「いや、あれは絶対UFOだ!」
などと言い合っていると、そのうち一緒に見ていたU首の下着姿の長屋のオジサン
が、「よし!双眼鏡を持ってきて見てやる。」と言い出しました。
そりゃ良い考えだ、とばかりに、周りにいた中学生達も騒然となり「オジサン、僕
たちに見せて。」という具合です。
間もなく、首から双眼鏡をつるしてオジサンが戻ってくると、もう皆は上空とその
オジサンを交互に見返しました。
(でも、なんであのオジサンは双眼鏡を持っていたのだろう?ま、どうでもいいこ
とですが(笑)。当時、双眼鏡を持っている人なんてそんなに多くはなかったと思
います。私はあの時生まれて初めて双眼鏡なるものを見たと思います。)
「どう?オジサン」「あれは何?」
と次々尋ねる中学生達に、オジサンは
「ウーン・・・・ちょっと待てよ・・・・あれ?どこ行ったかな?」
などと、ハッキリしない返答。
もう、周りで見ている私達も気が気じゃありません。
いつの間にか、順番に双眼鏡を覗かせてもらおうと、そこにいた中学生達は列を作
って並んでいました。
私も、どうしてもその双眼鏡を覗いてみたかったので、中学生の後ろに並びまし
た。
ところが、オジサンが双眼鏡で探している間に、その銀色の光る物体はなんと雲の
中に隠れてしまったのです。あの旋回のリズムからすれば、しばらくしてまた雲か
ら出てくるだろうと、皆その雲をじっと見上げていたのですが、結局その後は出て
来ませんでした。

あれは一体何だったのでしょう。
夜の飛行物体ならば、流れ星だとか、人工衛星だとか、飛行機だとかいろいろと見
誤ることもあるでしょうが、後にも先にも、昼間にUFOらしきものを見たのはあれだ
けだったので、今でも不思議に思ってます。
あれは不安定な大気による発光現象だったのかな。
確かに大夕張も天気の変わりやすい土地柄ではありましたが・・・・ね(笑)。

(1242)メイプルシロップのおもいで 投稿者:宇良田 彰  投稿日:05月29日(火)22時33分35秒

この話は私が確か小学校の頃の想い出だと記憶しています。スキー場があった
ところのちょっと上の方に「イタヤカエデ」の木が結構あり、その幹にナイフ
でキズを付けて出てくる樹液を煮染めると美味しいよと、誰かが言ったのを聞
いてやってみようと思い立ち、インドネシアで生ゴムを採取している写真を教
科書で見てのを思い出し、ナイフとボトルを持って樹液を採取し家に帰って、
煮染めたのですが・・・、その味たるや....!
たぶん、ホットケーキに掛けるシロップを自分で作ってみようと思ったのかな
と・・・今になって苦い想い出として残っています。その時、一緒にいた友達
が誰だったか思い出せません。

(1241)宝の沢探検その2 投稿者:久々湊 真一  投稿日:05月29日(火)20時08分24秒

市橋さんの悪ガキだった発言を読んで、私の脳裏にも、ここに書けないような事が
少なからず浮かびました。その中から「まあ書いても良いか」を1件記載します。

泉町を流れる川は、トンネル(線路と岳富町の下)を通過して、シュ―パロ川に合
流します。このトンネルは「危険だから絶対中に入るな!」と、大人から釘をささ
れていました。トンネルの中がどうなっているのか、好奇心旺盛な子供は、誰でも
知りたいですよね。
当時子供達の間では、色々な説が囁かれました。「犬・猫が死ぬ時にここに入る」
や「大きな青大将がいる」などは比較的まともな方で、「飯場で亡くなった人の幽
霊が出る」「行方不明者の死体がある」など、諸説紛々でした。
子供達の中には元気の良いのがいて「よし、探検しよう」となるのは、自然の成り
行きですよね。2年先輩の人(名前失念)が仕切って、私(小4)もついていく事
を許されました。

トンネルの中は結構広く天井まで130cm位であり、子供が少し屈んで歩けました。
中は真っ暗で、出口の光が点のように見えます。懐中電灯で足元を照らしながら少
しづつ進みました。先行していた者の声。「な、なんか倒れてるぞーウォンウォン
ウォン」反響音が不気味です。腰が引けて戻ろうとした時「なーんだ、丸太だわー
ーー」の声。近ずくと丸太が斜めに倒れて、小さな水溜りになっていました。
「ぐわっ、へびだあーァァァ」(ついに大蛇が…)。「小さいぞーー」(ホッ)。
「違う。八目うなぎだよーー取ってくぞーーー」(やれやれ)。
全長250m位でしょうか、長かったような短かったようなトンネル探検が終わりま
した。結局、なーんもありませんでした。
出口から見上げると、右側には宝町の住宅・左側には弥生町の住宅・後ろには商店
街の裏側が見えました。いつもとは違う、非常に新鮮な風景でした。
一行は、崖をよじ登って宝町へと抜け、絶対内緒を約束して家に帰りました。

こうして、宝の沢トンネルの伝説は無くなりました。このトンネルは、今どうなっ
ているのかしらん。

(1240)閉山後は・・・・ 投稿者:市橋 勝  投稿日:05月28日(月)22時30分37秒

閉山後の大夕張は、見る見るうちに衰退していったように記憶しています。
ただ、私自身も、中学2年のはじめに、同じ市内の丁未(ていみ)という所(風致
公園のふもと)に引っ越してしまいましたので、実は1975年(昭和50年)頃からの
大夕張は知らないのです。

小学生の頃、桜荘の前の小さな公園のブランコで、日が暮れるまで近所の子供たち
と遊んでいたことを思い出します。炭鉱の早い夕焼けでしたが、とっても綺麗で、
本当に
「夕焼けこやけで日が暮れて、山のお寺の鐘が鳴る♪
 お手てつないで皆帰ろう 烏と一緒に帰りましょう♪」
の世界でしたね。今思えば、まるでメルヘンだ(笑)。

晩御飯の焼き魚や味噌汁の匂いにつられて、お腹を空かせて帰ったものです。
でも、今こうして時が経って、私達にはもうあの帰るべき小さな町が無いのだと考
えると、本当に悲しいものですね。

ただ、小学生時の私は、悪戯ばかりで、悪いことをして遊んでいたという記憶しか
ないので、忘れたい記憶も少なくないのですが(^^;。

ではまた。

(1239)私は毎日チェックしてます 投稿者:高橋歌子  投稿日:05月28日(月)20時29分00秒

覚えていてくれましたか。

私は今、札幌在住で、働く子持ち主婦してます。

ここのほかアウトドア系の掲示板数ヶ所チェックするのが日課です。
ほかのところに比べるとこの掲示板は大人で上品なので緊張します。

ちょっと上の年代のかたは和気あいあいと仲良しのようで、うらやましく思って
いたところでした。鹿島小出身の人も多いし、なんかちょっとさみしいって思って
いま「思いで投票箱」の「鹿島東小学校」の順位をひとつでも上げようと奮闘中です。
・・・なんて掲示板に書いてしまうと「鹿島小」パワーに負けてしまうじゃない!

今になってぐちぐち思うのは、鹿島東小学校を卒業したかったなー、鹿島中学校に
行きたかったなー、セーラー服着たかったぁ。
そろばんの進級試験で鹿島中に行くたび、いつかここに来るんだ・・・と思って
いたのにねぇ。

そのうち閉山後の学校の様子を教えてください。

(1238)お返事が遅れました。覚えていますよ!歌子さん(笑) 投稿者:市橋 勝  投稿日:05月28日(月)15時43分58秒

歌子さん

お返事が大幅に遅れて申し訳ありません。
こちらの掲示板を全然覗いていなかったのですが、ちょっと気晴らしに来てみたら、
なんと歌子さんからの書き込みがあるじゃないですか!

覚えていますとも!もちろん。
いつも馬鹿な遊びばかりをしていた勝は、今も健在(?)です(爆)。

今、どこで何をしていらっしゃるのですか?
もしよろしければ、いずれまた教えて下さい。
ではまた。

http://home.hiroshima-u.ac.jp/ichi/


(1237)錦町界隈 投稿者:久々湊  投稿日:05月27日(日)23時09分21秒

「始めてのお買い物」というTV番組を見ていて、いつのまにか大夕張にタイムスリ
ップしていた。 *** 自分の始めてのお買い物は、錦町入り口の購買会なのだ
ろう(憶えていませんが)車も走っておらず家のすぐ前なので、スリルも何も無か
ったろうなぁー*** と。      
        
錦町購買会は2階建ての大きな建物でした。泉町側に米・野菜・魚が置いてあって
この部分のみ2階が無く、天井が高かった印象があります。泉町側の外には、空箱
置場がありました。何度か空き箱を貰いましたが、魚の箱は生臭いので果物箱をね
だったものです。空き箱は、小学生時には底に竹スキーを打ちつけたミカン箱ソリ
に変身し、高校時にはスピーカーボックスとして林檎箱を愛用しました。      
購買会と線路の間は、結構大きな広場になっており、皆さんの書込み同様「やわ玉
による三角ベース」の基地となっていました。玉が見えなくなるまで遊び興じてい
たのも、ご同様です。    
        
当時流行っていた遊びに、模型飛行機があります。竹ひご、木片(ボディ・プロペ
ラ)と紙・糸ゴムの部品で構成された「キットのような形」で売られていました。
キットのような形とは、完全なパーツでは無いという意味です。例えば、竹ひごは
直棒で入っており、これを翼の形に自分で曲げるわけです。ボディも、重心やバラ
ンスを考えて自分で削り、仕上げます。
完成品は、錦町の坂の上から泉町上空に飛ばします。誰が一番遠くまで、まっすぐ
に飛ばすことが出来るかを競いました。私は下手っぴーですぐに墜落しましたが、
上手な人のものは鹿島小の方まで悠々と飛んでいき、尊敬の念にかられました。
私から見て神様のように思えたのは、錦町に住んでいた一級先輩の曽根幸夫さんで
した。手作りの部品や何重にも組合わされたゴム駆動部を、憧れの眼差しと共に凝
視しました。この仲間の中には、霜降君(後の朝登関)もいました。当時から大き
な身体をしていましたが、美しい飛行機を器用に作っていました。

錦町の坂を登りきった所に、浄土真宗のお寺がありました。真宗大谷派「本覚寺」
が正式名称です。住職は中井先生(先代は浜出先生)で、算盤塾の先生でもありま
した。うちは檀家であり、檀家の子供達は年に一度仏具磨きにかり出されました。
ピカール・金属束子・新聞紙を利用して、ピカピカになるまで競い合って磨いたも
のです。磨き済み品は中井先生が点検して、合格・不合格を言い渡していました。
全部終了するころ、良いにおいが漂います。カレーライスでした。大きな鍋に大量
にありました。腹をすかせた子供達の最高の楽しみであり、美味かったなぁ。又、
食べ物の話になってしまいました(笑)。

(1236)園美ちゃんと大夕張色のケネディ墓 投稿者:小野 美音子  投稿日:05月26日(土)21時40分44秒

皆様、おばんです  もう一人、おばんなのでしょうが、私の中では可愛い
幼馴染の古山園美さんの話をしたいと思います。彼女が小3の頃に別れた
ので、その後再会しているのにやはり少女の顔が浮かんでしまいます。
彼女は正直でのびのびしており、我が家に爆笑、苦笑をもたらす元気印の
面白い少女として愛されました。年の離れた弟さんのめんどうをよくみて
いました。私より2歳半年下でしたが、末っ子の私と違い、長女で
しっかりしてたので私が大夕張を去った後、担任の先生を心配させる程、
落ち込んだとは思いもよりませんでした。 私がすっかり忘れていた
別れの汽車時刻2:40分 を憶えてくれてたのにも心打たれました。

それから20数年後、ワシントンで貧乏生活をしていた私の所へ園美ちゃん
と弟さんが太平洋を越えて遊びに来てくれる事になったのです。
園美ちゃんはアーリントンに眠るケネディのお墓へ行くのが望みでした。
ところが前日からの大雪で交通マヒ寸前、翌朝、雪がやみ何とかアーリン
トンまで着いたものの、広ムい墓所は深い雪におおわれ、真っ白・白・・
ああ、やっぱり大夕張と同じだー 違うのはゴム長靴も脚半もなく、こいで
ゆくには広くて遠かったのでした。ケネディの負の部分はともあれ、凶弾が
なければ、ベトナムの深い苦しみが少しは違ったのではと信じている・・。
園美ちゃん、いつかゆっくり旅ができるよう健康に気をつけていこうね!
ところでゆかりジャーモンさんはダラスにお住まいでしたよね。

(1235)工事凍結を祈ります 投稿者:福島の大夕張ファン  投稿日:05月26日(土)16時29分55秒

ダム工事凍結のニュースは本当でしょうか?本当ならBIGNEWSです。
鹿島小学校が取り壊しの前でしたら、更に良かったのでしょうが。

福島県の太平洋沿い(浜通り)に原子力発電所があります。福島県は
東北地方なので東北電力と思っていましたが、これがなんと東京電力
が運用しています。東京の電力不足を補うために、東北地方にリスク
をしょわせているのですね。矛盾を感じます。

大夕張も札幌の電力不足を補うため、湖の底に沈もうとしていたよう
です。大夕張とは何の縁も無い者ですが、このニュースが本当である
ことを祈ります。

(1234)住民登録での出会い 投稿者:斎藤 敏幸  投稿日:05月26日(土)09時23分26秒

住民登録された「川下修」さんは,同級生の晃君のお兄さんかと思います。僕も東高(4
7年卒業・8期生)です。同窓生の名簿が欲しいとのコメントがありましたが,僕らの同
期でもよろしければ名簿(エクセル97)を持っていますので,メールをいただけたらと
思います。

同じく住民登録されたヒロさんの同期の「佐藤繁夫」さんは,東高で柔道部で活躍されて
いた方ではないでしょうか。もしそうであれば当時の面影を今でもはっきりと思い出すこ
とができます。学校の行事で何度か言葉を交わさせていただいたこともあります。

住民登録で知っている方の名前を見つけることは,とても楽しいものです。

(1233)ダム建設に関して 投稿者:小林光志  投稿日:05月25日(金)10時37分34秒

皆さんの活気ある故郷会話拝見しています。
さて、先週、東京の友人から新大夕張りダム建設が、
中止か停止かはっきりしませんが、建設工事をいったん中止する事に
なったと聞かされました。
理由は、行政改革の一環でであると・・・。
詳しい事は、わかりませんが本当でしょうか?

(1232)志村の月餅!! 投稿者:北の悪魔  投稿日:05月24日(木)15時00分59秒

宇良多さん、初めまして 志村の和菓子もケーキも 本当に美味しいですね。
志村は、清水沢の駅前に有ります 今は息子さんがパンを焼いてます
和菓子もケーキもあります(清陵町に)月餅本当に美味いですね
私が、結婚したての頃 女房をつれて南部の姉の家にいった時 月餅とケーキ
を食べてから 大ファンになり 今でもあのケーキが食べたいといいます
たまに、北海道から姉が来ると聞くと 志村のケーキ買ってきてです。
志村のご主人(清水さん)ものすごく腕のいい職人て感じの人で 大変いい人です
私は中学のころバイトに行ってました 餅つきと クリスマスと 桜餅の頃。 

(1231)同期生の仲間へ! 投稿者:ヒロ 三浦  投稿日:05月24日(木)08時13分29秒

先日、住民登録に有りました「佐藤 繁夫」君からメールが到着!
ヤッパリ自分の同期生でした、これでまた一人ネットの輪が大きくなりました
鹿島中学校21期生の皆さん、どこかでこのHPを見ていたなら
一声出して「ふるさと大夕張」で暮らしてみませんか?
今は姿を消した校舎、炭住での生活が記憶の中に鮮やかに甦ります!
少年時代にタイムトラベルしてみませんか...
岡山の「成沢君」次は君の出番だよー !!

(1230)今でも食べてます 投稿者:高橋歌子  投稿日:05月24日(木)05時51分07秒

私も父が、山菜&きのことりの名人なので、いまでも「ぼりぼり」食べてます。

父は旭川に住んでいますが、そこでもちょっと山に入るとあるようです。
実家に帰ると、汁より具の多い味噌汁とか、大根おろしと合えたのとか出てきます。
いつも「持って帰れ」といわれますが、断っていました。
本州の親戚にも送っていたような・・・

(1229)<ボリボリ>の思いで 投稿者:宇良田 彰  投稿日:05月23日(水)23時06分39秒

久々湊さんの<ボリボリ>に対する意見に共感と補足を致します。私も子供の
頃、朝食か夕食によくボリボリのみそ汁を食べた記憶があります。大根も一緒
に入っていました。ぬるっとしていて歯ごたえのある茸だったという記憶があ
ります。この<ボリボリ>を横浜の三越で開催されていた北海道物産展で見か
けた記憶があります。瓶詰めでしたが。そこで調べてみました。茸類の分類で
は楢茸で俗称が色々あるようです。以下にサーチエンジンで調べたデータを披
露します。
======================================================================
ナラタケ(楢茸) 地方名:サモダシ、ボリボリ、
カックイ、ナラモダシ 学名:Armillariella mellea
針葉樹や広葉樹の切り株や枯れ木に群生する。傘の
表面は淡黄色から褐色とさまざま。
鍋物、味噌汁、酢の物、塩蔵して保存食などにする。
しかし生で食べると中毒を起こす成分を含むので
食べ過ぎないように!!
======================================================================
でも、ボリボリの大根入りみそ汁は美味しい!
会社のベテラン女性社員にボリボリって知っている!って聞いてみたら、知っ
てるよとの回答がありました。ちなみに彼女の出身は秋田県です。
大夕張で美味しかったなと今でも思い出すのは、志村の「月餅」です。何方か
この情報をお持ちの方投稿して下さい。

(1228)まぼろし!大夕張の食べ物 投稿者:久々湊 真一  投稿日:05月23日(水)20時15分18秒

 時々無性に食べたくなる大夕張の食べ物について、思いつくまま書いてみます。
大夕張だけの物なのか、道内各地でポピュラーな物なのかは、不明。内地に来てか
らは、全く見かけません。
<ボリボリ>
この茸は、味噌汁の具として食べた。ナメコと椎茸の中間位の大きさで歯ごたえが
良かった(ボリボリとはここからの通称でしょうが、正式名称は不明)。癖が無く
て味が良く、おかわりをしたものです。簡単に手に入ったけれど、どこから入手し
たかの記憶がありません。夕張岳登山時に、お花畑の付近で群生しているのを見か
けたことがある。
<カイグサ(いら草)>
葉に触ると痛くて痒くなる(軍手を穿いて採取した)ため、かい草という通称で呼
んでいた。大夕張では、いたるところに繁茂していた。これをオヒタシにして食べ
たが、シャキシャキして美味かった。
<葬式饅頭>
バナナの形状をしていた。皮の部分はカステラで出来ていて、ドラ焼きの皮と似た
感触。中にあずきのつぶし餡が入っていた。葬式のお返し物として使われていたが
子供のころは意味もわからず喜々として食べていた。
<煎餅のミミ>
小学生の「買い食い」の常套手段。安くてうまかったが、売って無い日もあった。
現在までにパンの耳は見かけるけれど、煎餅の耳は大夕張のあの場所「トラや」で
しか見たことが無い。
<じゃが芋>
石炭のアクの中に皮ごと入れて、蒸焼きにした。皮を剥いてバターをつけたりした
ら、もう止められない。芋自体は男爵芋といって内地でも入手出来るが、大夕張の
「だるまストーブ・石炭・アク」でなければこのうまさは味わえないと思う。又、
石炭ストーブの上には金網を載せ、餅はもちろん塩辛なども焼いて食べたが、これ
らを含めて、永久に失われてしまった事柄かもしれない。
<マス漬>
キャベツ、大根とともに魚(鮭、鱒)の切り身が入った漬物。柔らかいキャベツ、
味の沁みた大根、クニュっとシナヤカな魚の感触が絶品です。大夕張閉山で印刷屋
廃業の両親を内地に呼んで、まず頼んだのは「鱒漬けを作って!」でした。冷蔵庫
を利用して苦心の末作ってもらいましたが、やはり涙が千切れるほど、うまかっ
た。忘れられない、ふるさとの味です。

(1227)市橋 勝さん、おひさしぶりです 投稿者:高橋歌子  投稿日:05月23日(水)18時31分29秒

同級生の高橋歌子です。

鹿島東小学校の1〜4年まで同じクラスだったはずです。
1〜2年のときの担任はわかりませんが、確か3年が伝法けいこ先生で、
4年のときは八幡順子先生だったはずです。5,6年は私は隣の6年松組で担任は
吉田要作先生でした。
笠原よしみちゃんとは、よく遊んでいました。

で、懐かしくてアルバムを見ていたら古き日の千年町周辺の写真がいっぱい出てき
ました。桜荘、青葉荘はもちろん、桜荘と斎藤商店のあたりにあった家や、古かっ
た頃の教員住宅(確か一度建て替えてますよね)

すごいのは桜荘の各住宅に水道がなかったので、何軒かにひとつある水道小屋から各住宅に伸びる水道ホースの写真。

シューパロ湖畔の公園と昔のバス。

東小学校の新校舎。音楽室でとった写真などは、黒板に校歌がかかれています。

でも、その写真のほとんどにはワカメちゃんだった頃の私が・・・
とても公開できません。

(1226)高橋呉服店 投稿者:佐々木 洋子  投稿日:05月22日(火)00時38分02秒

皆様、こんばんは。
駅前商店街にあった高橋呉服店を、覚えていらっしゃいますでしょうか?
実は、私の母はバスガイドになる前に、高橋呉服店でアルバイトをしていました。
数ヶ月のアルバイトでしたが、高橋夫妻とは今でもお付き合いがあります。
私の記憶は、小学3年生の夏休みに家族で帰ったとき、高橋夫妻から籐のバスケ
ットを頂いたことです。しかし、弟がその頃はやっていた『ゴレンジャーの中の
赤レンジャー』が好きで、赤いバスケットの取り合いをした結果、負けてしまい
私は白のバスケットを頂きました。すごくうれしかったのですが、ちょっと、悔
しくて懐かしい想い出です。
平成5年に法事があり、母と北海道に行った時、栗沢にいらっしゃる高橋夫妻を
尋ねました。お二人ともお元気でした。それにおばあさまも・・・
今でも、母とおば様は、時々電話をしています。毎年頂く、北海道のおいしい味
覚は我が家の楽しみになっています。
今は、白老にいらっしゃいますが、おじ様が今年の3月にお亡くなりになり、
母も寂しくなったと言っています。

(1225)佐藤 繁夫君へ 投稿者:ヒロ 三浦  投稿日:05月21日(月)22時44分49秒

皆さん今晩は−!
5月18日付けの住民登録にありました「佐藤繁夫さん」
ヒョットすると「鹿島中21期生」じゃないでしょうか?
21期生名簿では3年G組 佐々木竜哉先生が担任ですよね
お住まいは「寿町20−36」で入力してありますが・・・・
もし、間違いなければE−mailで返信頂ければ幸いです
同期生では10数名の方がネットでの交流がありますよ
特に関東周辺の在住者が非常に多いですね!
下記にアドレスを書き込んでおきますので宜しく御願いいたします
ps:ちなみに自分はC組 八幡先生が担任でした
あなたと同じクラスでは「成沢君」などがお友達かな?

ii8y-mur@asahi-net.or.jp

(1224)「斎藤さん」は「斎藤商店」 投稿者:高橋歌子  投稿日:05月21日(月)19時23分09秒

千年町にあった「斎藤商店」。
家のものはみんな「斎藤さん」と呼んでいました。

「斎藤さん」命だった私は、今でも中の様子が思い浮かべます。

まず、「斎藤さん」には入り口が二つありました。
左の入り口から入ると、左手にはあらゆる食品がずらーっと並んでいました。
憧れの品は「ボンカレー」と「玉屋のシュウマイ揚げ」。
当時、インスタント食品と言えばラーメンくらいしか食べなかった我が家では
めったに買ってもらえませんでした。

右の入り口から入ると、右手には文房具や日用雑貨が並んでいました。
正面には量り売りのお菓子を入れるケースがありました。
当時は町内でまとめてお菓子を買うことが多く(昼下がり主婦たちが何を買うか相談していた)
遠足のときくらいしか買ってもらえませんでした。

中央にパンを入れるガラスケースがあって店主は大体その辺にいて、会計する場所でもありました。
食パンは時々買っていましたが、菓子パンもめったに買ってもらえず眺めるだけでした。

右と左をつなぐ通路には、奥に牛乳の冷蔵庫、手前にはアイスのケースがありました。
10円の「おっぱいアイス」とか、細長くて平べったいビニールに入った赤い氷は良く食べました。
メロンの形をしたアイスや、雪印のラクトアイス・20円とかはやはりめったに買ってもらえず、
横目で見ながらいつものにしていました。

小さい頃「いなくなったと思ったら斎藤さんの前にいた」そうで
いまだに笑いの種になっています。

あの頃今くらいお金があったら、今考えるとしょうもないものがげっぷが出るほど買えたろうになー。
なんか悔しい。

(1223)「黄色い旗」と「思い出ノート」 投稿者:飯田雅人  投稿日:05月20日(日)00時49分10秒

先程,『黄色い旗と思い出ノート』のページを更新しました。
実は,『思い出ノート』は提供者の泊川さんより,昨年12月に送っていただいたもの
で,2000年の分の記録です。ノートの第3集中にもふれてご本人がふれられているように
「どうぞみなさんにも見せてあげてください」ということで,この場でも公開していま
す。中にも住所等書かれている方もいますが,ここでは割愛させて頂いています。

『思い出ノート』は今も大夕張に置れています。鹿島小グランドの記念碑のところに置
かれています。行かれた方は一言残されてはいかがでしょうか。
『黄色い旗』の方も旧大夕張神社,浄水場のあった丘の木々に結ばれて風になびいてい
ます。

先週の日曜日も,大夕張へ向かう『原付デブマン』さんの姿がありました。今年も定期
的に『思い出ノート』や『黄色い旗』の手入れに行かれているのだろうと思います。

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今井さん,筋肉痛は2,3日で直りましたが,よく考えると子どもの頃は,あの大夕張の
山の笹をかき分け,道なき道を登って遊んでいたはずですが,それもすっかり遠い昔の
ことになってしまいました。一緒に登った子ども二人は次の日から27日の運動会の練習
に平気な顔で走る練習をし,筋肉痛の私は「父さんは昔は山で・・・・」なんて言えな
くなりました。

『児童会館』『氷倉庫』『斎藤学習塾』『エルボンでの踊り』・・・なんだか大夕張の
記憶がどんどん広がっていきますね。「久美ちゃん」「早苗ちゃん」は,きっと私の同
級生でしょうか。皆さんの投稿を読んで私の頭の中で『大夕張物語』がどんどん展開し
ていきます。

(1222)帯向商店 投稿者:ヒロ 三浦  投稿日:05月19日(土)22時45分15秒

大夕張原人の皆さん今晩は!
故郷は桜色で彩られ、さぞかし奇麗なんでしょうね・・・
明日はまたチャリンコ乗りの一日を過ごすので見に行けないのが
チョット残念です、ハイッ
小野さんの書き込みにありました、帯向商店は現在札幌市中央区内にあり
自分の同期生になります、ご家族の方は同じ地所に御住まいになっていまして
会社のすぐ近くにありますのでお店の前を通って通勤する事も多いんです
1昨年前には友人の個展会場でお会いする事等も有り
こんな近くにも仲間がいる事に、あらためて大夕張の広さを感じます!
たまに勤務先のビルで顔を合わす事も最近は多いですね...
とても立派な社屋で商売ご繁盛されていらっしゃる様子が見て取れます

(1221)エルボンでの踊りの思い出 投稿者:小野 美音子  投稿日:05月19日(土)21時11分01秒

高橋様、はじめまして! 青春いっぱいの書き込み楽しみにしてます。
佐々木様、生きていて下さって本当に良かった!!
久々湊様、冷凍人間になってしまうと聞いた、怖い窓のない家を見ました。
宇良田様、きれいな写真と大夕張小唄のお話ありがとうございました。
保存会の皆様、遠くからメガホンで応援したいと思います。
では、エルボンでの踊りの思い出にひとときお付合いください。

大夕張文壇の至宝、夕輝文敏様の作品の中にBARエルボンの名を見たとたん
懐しさで胸が熱くなりました。・・ 私はここで、踊っていた・・きれいな
着物を着て仲間の女の子達と・・・
・食費がかさみ兄達の学費のために、踊りのバイトをした・・
・・〜と、いうわけではありませんでした。
日舞の若柳流、新春初踊りでエルボンを経営なさっていた方の御自宅の2階
をお借りして(エルボンの小さかった娘さんも習っていたらしい)発表会が
開かれたました。玄関にはハク製(鳥の?)があり広い家でした。
当時、幼稚園は一日おきで、踊りでも習えば楽しかろうと母が思い、
弥生町の吉田先生という、年配の優しいお師匠さんの家へ通いました。
仲間に、帯向酒店の久美ちゃん、その親戚の早苗ちゃん、佐藤時計店の
由美ちゃんがいました。 
ゴボウのような私が、小唄の三味線の音に合わせて踊るのですから、全く
そぐわなかったと思いますが、久美ちゃんは上手で雰囲気がありました。
市丸さん、赤坂小梅さんの唄、娘道成寺、春雨、おてもやん、黒田節、
梅にも春、峠、若柳流の朱色の練習扇などが記憶に残っています。
吉田先生はじきに御主人の都合で大夕張を離れ、その後、佐藤まり子先生
という若い方に習いました。この先生もとても上品で優しい方でした。
家に来て教えて下さった事もありました。
小学校に入る頃で、このお稽古はお終いになってしまったので
遠い昔の霞のかかった思い出という感じがしています。
その頃の仲間は、それぞれの人生で頑張っておられると聞いております。

(1220)お知らせ 投稿者:今井一郎@三菱大夕張鉄道保存会  投稿日:05月19日(土)07時18分42秒

三菱大夕張鉄道保存会では下記におきまして夕張市南部の保存車両の整備を
おこないます。興味がある方は是非お越しください。

              記

日時   :5月27日 午前10時〜

集合場所:夕張市南部東町 旧大夕張鉄道(三菱石炭鉱業鉄道)南大夕張駅構内跡地

作業内容:ラッセル(キ1)の再塗装及び客車(スハニ6)屋根の再塗装。
     作業道具はこちらで準備いたします

各自持ち物:昼弁当(南部地区にはコンビニはありません。ご注意)
      軍手
      各自の判断により冷えた缶ビール
      各自の判断によりツマミ

推奨服装:汚れても良い格好(ハダカは天候により都度判断)

楽しくお話をしながらワイワイと保存車両を綺麗にしていきましょう!
見学、冷やかし大歓迎です!

                           以上

追伸:飯田さん、掲示板を使わせていただきました。ありがとうございます。
   筋肉痛、治りましたか?

(1219)氷倉庫と学習塾 投稿者:久々湊 真一  投稿日:05月18日(金)19時07分01秒

泉町のみなと印刷から見おろした位置に、「氷倉庫」がありました。私が小・中学
生の時代は、まだ冷蔵庫が普及していませんでした。「氷を、冬の間に採取・保存
して夏に売り出す」商売も成立していました。
小学生の時に、懇願して倉庫内に入れてもらったことがあります。おが屑に埋まっ
た大きな氷群とひんやりした部屋の感触が思い出されます。しかし、冷蔵庫が普及
し始めたころに、氷倉庫は商売を止めたようです。

この跡に出来たのが、たぶん大夕張で始めての学習塾でした。運営していたのは、
斎藤さんという私より数才年上の人で、すぐに親しくなりました。私は当時大学生
で、学習塾の臨時講師もやったような気がします。又、塾に置いてあった卓球台で
遊んだり、夜更けまで語り合ったりもしました。

平成2年に大夕張を訪れた際、町並を俯瞰するため、神社に登りました。鹿島小の
グランドから坂を登っている途中で、人の気配に気がつきました。人影を追って浄
水場に入り、呆然!!!なんと、斎藤さんがいたのです。
たった一人で大夕張の水道管理を行っているとの事。思いがけぬ再会に目頭が熱く
なりました。「大夕張の終焉は、私が見守ります」との斎藤さんの言葉が、今も、
心に響いています。

(1218)本当に・・・ 投稿者:佐々木 洋子  投稿日:05月17日(木)22時07分09秒

児童会館は、大夕張に1箇所だけだったのでしょうか?
もしそうならたぶん、高橋様とすれ違っていたかも知れませんね!
もしかして、遊んでもらっていたかも・・・
お母様にも、きっとお世話になったことでしょう。ありがとうございました。
感電事件は、私の中での大きな出来事だったのですが、母もそのことは忘れて
いたようなので、たいした事件では無かったのかも・・・

私も昭和48年の7月、夏休みに入ってすぐに、大好きな大夕張とお別れしま
した。その頃は、何がなんだか良くわからなくて、記憶もあいまいなのです。
ただひとつ覚えているのが、車で大夕張を去る時に、お別れを言えなかった
美佐子ちゃんの姿を見たことです。なんだかすごく悲しい気持ちでした。
静岡に引越してからは、家族みんなで泣いていた事が思い出されます。
それに、気候が違い暑さにもやられました。
その後すぐに、千葉に引越ししてずいぶん経ちますが、今でも北海道に
帰りたいと思っています。

大夕張の盆踊りで、結構有名だったとゆう、祖母の兄弟『大池4兄弟?』を
ご存知の方はいらっしゃいますでしょうか?
やぐらの上で、笛や太鼓をやっていたそうです。

(1217)児童会館の保母は私の母 投稿者:高橋 歌子  投稿日:05月17日(木)18時44分05秒

昭和46年の春から昭和48年の8月まで働いていました。背が低くてちょっと
怖そうなほうです。
児童館はたしか午前の部に小さい子が来て、午後から小学生が来ていたように
記憶しています。
私はその頃、小学生だったのですが、職員の家族という特権で午前中から
行ったりもしていました。
当時の佐々木様ともすれ違うくらいはしていたかもしれません。
母に聞いてみたところ、その事件については全く覚えていず、来ていた子供の名前も
もう忘れてしまったと言っていました。
母、今年でもう66歳になります。

(1216)実は・・・私も・・・ 投稿者:佐々木 洋子  投稿日:05月16日(水)22時06分06秒

皆様、こんにちは!お久しぶりです。
パソコンを買って以来、毎日毎日、掲示板を覗いています。
母も、3日置きには『大夕張、何か入ったー』と聞いてきます。
最近、母の知っているお名前が多く出ていて、楽しそうです。

高橋様の投稿を読んで、同じように思っている人が居るのだなーと思い
恥ずかしながら書き込みします。
実は私、無知な子供でした。
夕張岳の向こうは、アメリカだと信じていました。
どうしてそう思っていたのか・・・まったくわかりませんが・・・
ちょっと笑えます。(ちょっとどころではありませんね)

私は、大夕張で6才まで暮らしましたが、3回死にかけたことがあります。
1.児童会館の会議室?で、遊んでいていたずらしたのでしょうか・・・
  コンセントに触って、感電して気絶しました。
  気がついたら、家の布団に寝ていました。
2.友達と荒川商店に、お菓子を買いに行ったとき。
  バックしてきた車に、追突されて、車の真下に入ってしまいました。
  おじさんが4人乗っていて、私を病院に連れて行こうとしましたが
  私は母から、知らない人について行ってはいけないと言われていたので
  泣きながら断り続けました。生協で、お買い物中のおば様たちが歩道から
  何十人も見ていました。そうしたら、私を知っているおば様がいて母を
  呼びに言ってくれたそうです。それから、ようやく病院に行きました。
  その後、おじさん達は、家にお見舞いに来てくれて、リカちゃん人形を
  くださいました。その、嬉しかったこと。その時のあざが、小学校の高学年
  まで残っていました。
3.清水沢の温水プールに、近所のお友達家族に、連れて行ってもらった時の事。
  小さい私は、子供用プールで遊んでいましたが、つまらなくなって大人用
  プールに行き、浮き輪を浮かべてジャンプ。そうしたら、浮き輪はどこかへ
  私は、足が届かないプールにどっぷりとはまり、おぼれました。
  知っている人は、そばに居ませんでしたが、どこかのお兄ちゃんが助けて
  くれました。もう少し遅かったら・・・と思うと感謝です。    
と、いろいろありましたが、生きていて良かった。その後、死にかけたことは
ありません。あの頃は、厄年だったのでしょうか。

(1215)きれいなシューパロ川 投稿者:高橋 歌子  投稿日:05月16日(水)15時27分03秒

よく考えると私が大夕張を離れたのは閉山の年、昭和48年の8月でした。

いつも濁っていたシューパロ川がある日突然透明な川になって閉山を実感しました。
透明になってから気づいたのは「シューパロ湖」がトルコ石のようなブルーだった
ということ。(そういうふうに見えた日もあったの!)
カヌーを始めたきっかけが「シューパロ湖の赤い鉄橋の近くまで行ってみたい!」
というのもあり、まだ実現していない現在、このHPのおかげで思いは募るばかり
です。(夢に見る日もよくあります)

それで一人では心細いので、所属するアウトドアクラブのメンバーに行ってみない
か声をかけている最中です。
東小学校くらいだと技術的にも超初心者コース。
つり橋わたっていくあの公園でひと休み、というのもいいかもしれません。
実現しそうならまた報告します。

それと下らない話なんですが、小さいころ大夕張の山の向こうには大きな町がある
と信じていました。
ある日友達と「山に登って見てみよう」とおやつ100円(私はキャラメルコーン)
を持って、スキー場の山に登りました。
登ってみると皆様ご存知のように山また山。子供心に非常にショックでした。
そしていま、夕張岳の向こうの金山に住んでいた人と結婚しているのも不思議な縁です。

(1214)大夕張と南部を遮る壁 投稿者:飯田雅人  投稿日:05月14日(月)21時29分12秒

昨日,シューパロ塾のダニ峠探検会に参加してきました。
南部と大夕張を遮る標高差140メートルの天然の壁を一気に登り,降りてくる
2時間弱の探検でした。

小1と小6の二人の娘も参加し,特に下の子どもは色々な方に手助けしてもら
いながら,「たいへんだったけれど,上ることができてよかった」と感想をもら
していました。大変良い経験をさせていただきました。
以前,内川さんも書かれていましたが,尾根伝いに右手下にシューパロ湖と残雪
の夕張岳,左手下方に南部の街がはっきりと見えていて,いぜんここを歩んだ先人
の足跡をいささかなりとも追体験できたような気になりました。

そしてその地形をみるとこの峠の突端の僅かに開いた山峡に巨大なダムをつくる
ことも頷けるのです。また,人の手で巨大な壁をつくり,先人が開いたその道を
永遠に閉ざしてしまう歴史の皮肉にどうしても思いを巡らせてしまうのでした。

さて,下の投稿の高橋さんの書き込みにある千年町浴場そばの階段は自分もよく
覚えています。小学生の頃,千年町の教員アパートに住んでいたいとこの石井の
タカ,ヒロちゃん兄弟のところに遊びに行ったこと。しばらくそこから鹿島小学
校に通ったこと,担任の先生の佐々木マサノ先生のお宅に遊びに行ったこと・・
いつもあの階段を下りて浴場のそばの空き地を通り,奥の住宅を訪ねたものでし
た。それらの大夕張での記憶がほんとにあったんだとということをあのコンクリ
ートの階段を見ると思い出すことができます。
ものの一部でさえ,残っていれば記憶をよみがえらせることができますね。

上の探検会のあと,大夕張に行ってきました。この時期,かつての道を辿るには
一番いい季節です。富士見町のかつての啓心寮前を通り,(玄関の石段が残って
いました)職員クラブの前を5丁目のあたりまで行ってみました。(クラブ前の
公園にはたくさんの遊具がさびついたまま残っています)
千年町の鹿島墓地に入っていく沢沿いの道路もはっきりと見えていました。

(1213)懐かしすぎ! 投稿者:高橋 歌子  投稿日:05月13日(日)20時31分48秒

リンクあちこちたどっていたら、ここに着きました。

昭和36年10月8日生まれ。昭和47年夏まで鹿島千歳町桜荘に住んでいました。
地図にも載っていました。
投稿者の市橋勝さんはもしかして同級生?お風呂屋さんの近くで笠原よしみちゃんの
隣だったはずですよね。同級生の三上としひさくんのお母さんと私の母はいまだに交
流があって時々連絡しているようです。
時々、大夕張には行っています。
東小学校に行く道のアスファルトの途切れる所のもとお風呂屋さん側のほうにコンク
リートの階段があって、まだ残っているのを見ると「ほんとにここに住んでたんだなあ」
としみじみ思います。桜荘は割りと早くに壊されたようで、便器の残骸が今も残って
います。
このページ早速「お気に入り」に入れたいと思います。

(1212)Reブラキストン・ライン 投稿者:小野 美音子  投稿日:05月12日(土)21時14分32秒

兄さん、皆様、今晩はー
東京書籍の中学生の地理の教科書にはブラキストンラインは載ってませんよ。
ありがとね。私の食べた熊がヒグマではないから味がとーぜん違うのでは
ないかということを、遠回しに言ってくれたのではないかと、さっき
気が付きましたよ。でもまさか改行しくじり仲間にわざわざなってくれた
思えませんでした。(ごめんね、皮肉っちゃって)

教科書には「最近、夕張市につくられた‘石炭の歴史村’は、閉山した
炭鉱跡地を利用したものである。しかし、開発が地域の発展につながら
なかったり、自然をこわす問題もおきている。貴重な動植物や原生林などの
保全を考えた開発が大切である。」
と書いてありました。ゴルフ場や大規模リゾート開発を例にあげてほしかっ
たと、思いました。

(1211)ブラキストン・ライン 投稿者:丸山直記  投稿日:05月12日(土)14時40分20秒

北海道で熊といえばヒグマですよね。最近、内地(う〜ん懐かしい言い方)
では北海道の動植物相が異なっていることがわからない人がずいぶんいま
すね。ヒグマは外国の話と思っている有様。学校の教科書からブラキスト
ン・ラインは消えたのでしょうかね?もっとも津軽海峡など無くてそこは
滝になっているという友人もいますが。

(1210)熊との御縁 投稿者:小野 美音子  投稿日:05月11日(金)23時10分59秒

飯田様、物語の打ち込み夜更けまでありがとうございました。でもお身体
お気を付けて下さいませね。

久々湊様の熊のお話、楽しく拝見させていただきました。やっぱりあの川
には熊もいたのですね。すぐ上の兄も水源近くで足跡を見たようです。
無謀にも、私もその兄と水源へ挑戦しましたが、小3では途中で引き返さざ
 るを得ませんでした。でも大きな岩や小滝があってスリル満点のハードで
楽しい冒険でした。兄が居て良かった事のひとつです。
今頃は、エゾエンゴサクやすみれの薄紫の花が咲いているのでしょうね。

思い出帖の成松様の「子熊」の写真で母が、左側のお父様らしき方にご挨拶
した事があるのを思い出していました。とてもハンサムな方でなぜこんな山
の中に映画スターのような人がいるのだろうと思ったそうです。写真より数
倍も素敵だと申しておりました。お元気でいらっしゃいますでしょうか。

群馬の倉渕村に住む知人が毎年、熊のBBQに誘ってくれます。大夕張
時代、クサくてマズいと聞いていたので、おそるおそる口にしましたが
案外美味しかったので、秘訣を聞くと1ヶ月以上冷凍し氷温熟成させる
のと、餌になる木の実などが豊富な地域の熊が、動物ばかり食べる熊より
味が良いとのお話でした。焼き肉のたれがしっかりしみた、濃いめの
お味で、熊そのものの味わいは良くわかりませんでしたが、熊の年齢が
ちょうど食べ頃?だったのか思ったより柔らかかったです。
北海道を離れても、熊との御縁は細々と続いています。

(1209)ダニ峠の物語 投稿者:飯田雅人  投稿日:05月09日(水)00時16分59秒

ダニ峠関連で,『二十年史』(大夕張労働組合)の第一編南部大夕張時代に出ていた
ので,記載します。
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伝説 狐つき
///////////

このころ(大正末期…飯田注)南部にも流行歌が唄われ始めた。

   逢いたさ 見たさに恐さを忘れ
   暗い夜道をただひとり・・・・
   いつも呼ぶ声忘れはせぬが
   出るに出られぬ籠の鳥

当時の女性が自由を奪われていた悲しみをうたいあげたものだろうが,この歌は
若い女心を打つ世相でもあった。山本料理店にも女給さんが五人になったし,若葉
にも飲み屋ができて,女給が二人いる。飯場の若者達は小銭がたまると,めざす女性
のいる料理屋に通い続けた。狭い谷間で人の出入りの少ないここでは,重箱長屋や,
模範長屋(新長屋とも言った)のおかみさん達の茶のみ話しになる。

ミッちゃんという万字炭山から来た女給さんが○○飯場の若いもんと,そいとげなけ
れば死んでしまうというんで,飯場の親分が仲にたって一緒になるんだとか,
あしたの山ぶどうやきのことりはどこにするとか,山の幸にも恵まれている。フキ取り
には北部まで足をのばす。
 ぶどう酒でもつくるかなどと,たまには亭主ののろけ話もでる。

 夕方のことだ。
 二股の佐藤さんとこの雄三が遊びにいったままもどらないと,労務に届けられたのは
8時を少しまわったころだ。労務から警察,消防,青年団と炭山中にいち早く知らされ
た。二股にある会社の事務所まえに捜索隊が勢ぞろいして,探索の方法,番割が決まる
と,カンテラをもつ者,ちょうちんを持って来る者,懐中電灯をてらす者等,三々五々
,闇の中にすいこまれていく。
 ダニ峠・・・青葉峠・・・(現在の大夕張ダムの鉄道側のトンネル上)に番割された
行夫たちは,魚つりや,水泳ぎに何回かきた道とはいえ,気持ちはあまりよくない。
ここは熊のよく出るところでダンツケ馬が襲われるところだ。(現在錦アパート付近に
放牧していた)
 数え年五つだから,こんなところまでは来れないなどと,崖を注意深く下がって,つり
橋近くまで探したけれども,心もとない照明ではおおい茂った竹やぶやくぼみまでは目
が届かず,照らし出された大木の影だけがやたらに不気味だ。キーン,キーンと狐の鳴
き声が闇のしじまを破るだけだ。捜索は2時間3時間と続いたが,見つからない。本部
に届く報告はいづれも発見できない。探索に加わった父親の目も,皆の顔も疲れきって
いる。
 帰りを待ちわびる母親は,何かに祈るようすだ。夜明けも近い。よし朝飯を食べて
7時まで集合して探そう。2番方もねむいだろうが協力を頼む。

第2回の捜索を始めるころから,雨あしがひどくなった。昨日の昼食を食べたきりで,
雄三は何も食べてはいないのだ。この間,汽車に乗っていったんではないか。夕張の
親戚の家にいったんではないか,鉄道,警察電話がひっきりなしにかけられる。昼間ま
でのところなんの手がかりもない。
捜索に山に入っても,コクワやぶどう,きのこを取ろうとするものはいない。こんな
ことは南部にないこともあって,みんな真剣であったのだ。
 軍隊の雨合羽やみの,かさは,篠つく雨で作業衣もズブぬれ,褌までビショビショだ。
捜索は昨晩と同じコースをやり直しだ。腰にくくりつけたニギリ飯も,雨のために
サクリと割れてしまい,急いで口にいれないと指の間から落ちてしまう。
しかし,むなしく時間はたつ。見えなくなって24時間・・・両親,隣近所の人々の
空気は次第に不吉なものに包まれた。労務係はひそひそと,その準備の手配もすませた。
夕方5時,6時と時間は過ぎていく。捜索に出た者はまだ誰ももどらない。そして誰
いうともなく,狐に憑かれたんだ。狐つきにあったんだ,と呟くともなく,みんなが
話した。憂色の色はますます濃くなった。

行夫が大声をあげた!ここにいるぞ!!いたゾ!雄三は家を出た時に着ていた久留米
絣の着物のまま,大きなしなの木の根方に,横になり,窪みに落ち込んでうずくまって
いる。大きな枝葉に助けられてそんなにぬれていない。ダニ峠のおり口から数歩入った
ところで何度も何回も通って探したところなのだがと,みんな不思議に思った。
抱き上げてもグッタリとして,雄三,雄三と呼んでも目をつぶったままだ。
のちのちまできつねつきにあったんだ,とみんながいった。
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-開発途上には伝説的な物語も多い-という言葉でこの物語を結んでいます。

(1208)ダニ峠探検会 投稿者:奥山道紀@シューパロ塾  投稿日:05月07日(月)22時57分43秒

三菱大夕張炭鉱の北部移行に際しての炭鉱開発、鉄道延長工事の資材は南大夕張
から大夕張ダム上方の尾根を迂回、沢沿いにシューパロ河畔に出て運ばれました。
この尾根をダニ峠(青葉峠)と呼びますが、シューパロ川への下り道は大変急で
険しく、荷物を背負った馬が足を滑らせて谷底へ転落する事故が後を絶たなかっ
たといいます(近くに馬を供養する馬頭観音があったらしい)。
今でもケモノ道と化した道が残っていますが、この探険会を下記の通り行います。

1.日   時: 5月13日(日)午前10時出発

2.集合場所: 旧南大夕張駅構内

3.持 ち 物:長靴、雨具、帽子、軍手、タオル、昼食、飲み物、虫除け
             、草刈り鎌など

4.参 加 料:1人200円(高校生以下無料)

5.申込期限:5月11日までに事務局伊藤(01235−5−5011)さん
             へお願いします

6.雨 天 時:小雨でも決行します。当日のお問い合わせは事務局伊藤さんまで
             お願いします

http://plaza22.mbn.or.jp/~Noritax_World/shuparo.html


(1207)大夕張小唄 投稿者:飯田雅人  投稿日:05月06日(日)21時04分24秒

大夕張小唄の哀愁をおびたメロディーを聞くと,何か胸があつくなります。
歌が大夕張の夏の風とたくさんの思い出を心に運んでくるような気がします。

とはいえ,三橋美智也の歌は以前のテレビ放送のバックで流れていたのが最初の
記憶という感じなのです。当時,自分がこの歌を確かに聞いていたというはっきり
した記憶もないのです。でも,今ではこれは紛れもなく大夕張の歌として自分の心
の中に根づいています。

あと,夕張市で作った夕張の歌を集めたLDがあります。その中に懐かしい大夕張
の映像とともに歌い手は三橋美智也ではありませんが(暁メイ子さんという歌手が
歌っています)大夕張小唄が入っています。
夕張市の観光課に頼むと入手可能だそうです。(ただLDということと,1万円近く
するというのがチョット・・・)

大夕張の社歌といい,この小唄も作詞,作曲は大夕張の方だったのでしょうか。

S44年頃,社歌が出来た時,確か同級生のお父さんが作詞したというような話が
話題になった記憶もあります。

この歌ができたいきさつや作詞作曲者についてご存知の方,いらっしゃらないでしょ
うか。

(1206)大夕張小唄について 投稿者:宇良田 彰  投稿日:05月06日(日)18時57分09秒

大夕張のページの中に「大夕張の歌」があったので訪問してみたら、その中に
三橋美智也が歌っていた「大夕張小唄」のMIDI版が掲載されていました。
著作権の問題もあり本物を掲載出来なかったのだと推察しました。実は、私の
父から一昨年、このレコードを何とか手に入れることは出来ないかと頼まれ、
色々と手を尽くしましたが残念ながら手に入れることが出来ず、やむなく、
版権を所持しているキングレコードさんに直接メールを送って原盤からテープ
に落としてくださるよう依頼したところ、開発本部の某氏からメールが入り、
原則的には駄目なのですが特別にということで、有料(送料込みで1500円)
でOKとの返事をもらい早速送金すると一本のテープが届きました。
複製しないことを条件にテープを送りましたが、父はこの歌を作曲した近藤保
太郎さんに1本だけ複製版を送ったところ近藤さんの喜ぶ顔に偉く感動したと
申しておりました。作曲した本人もレコードを所持していなかったのか(もし
くは無くしてしまったのか)なと思い、大夕張で一生懸命に働いていた人に、
心のプレゼントを贈れたと感無量でした。子供の頃、この曲にあわせて盆踊り
に参加したことをうっすらと覚えています。でも、子供の頃の記憶はいつまで
も忘れないもので、今でも、1コーラスを歌いきれます。会社の社員旅行のバ
スの中でこの曲をアカペラで歌ったところ、シューパロとはどこの地名だとい
う話になり、説明するのに苦労しました。夕張岳の写真を見ながらこの曲を聴
くと今でも、貧しかったけれど自然に恵まれた良いところに住んでいたなとい
う思いが沸々と湧いてきます。

(1205)七号沢の源 投稿者:久々湊 真一  投稿日:05月06日(日)13時41分22秒

小野さんの投稿を読んで、思い出したことがありますので、記入します。
確か5年生の時に、泉町を流れる小川(七号沢/宝の沢?)の源を探検しようと思
いたち、町内の遊び仲間と沢を上ったことがあった。かなり奥行きが深くて、相当
長時間登り、とうとう源泉らしきところに行きついた。意気揚揚と、同じ所を下り
って数分後、登ってきた時には無かった足跡が点々とあるのです。そう、熊の足跡
のようです。脱兎のごとく駆け下りましたが、一寸タイミングがずれていたら、ば
ったり出くわしたかもしれません。ふもとであったお爺さんにこのことを告げたら
「あんまり奥に行くんで無い」と怒られ、同時に「熊に会ったら、樹に登っても、
死んだフリしても駄目だ。山を駆け下りるに限る。熊は前足が短いので、下ろうと
すると、前につんのめって転がる」と言われた。真偽の程は判らないが、冷や汗と
ともに思い出した次第。大夕張の雄大な自然が、目に浮かびます。

(1204)大夕張のうさぎの思い出 投稿者:小野 美音子  投稿日:05月06日(日)00時01分33秒

皆様、今晩は!  兄が出て来たので思い出したことを少し・・・
ある日、兄達が野うさぎを捕りに行くということになりました。
雪原に跳ね回る可愛い野兎を想い、魅力的なこの遊びにワクワク
しましたが、母が私だけ小さいからとストップをかけました。
その時は、残念でしょうがなく、涙がこぼれました。
結局、用心深い兎は姿をみせず、兄達は手ぶらで帰って来ましたが、
足跡か糞でもあったのか、野兎のいるのは確信している様子でした。

当時、鹿島小緑ケ丘側の敷地や物置の中には、なぜか業者の鉄屑などの
危険物が山積みでしたが、萱場武夫校長先生が着任なさってから
一掃され、安全になりました。
そこに新しい兎小屋が建ち、父が連れていってくれました。
父は習性や抱き方などを静かに説明した後、兎を抱かせてくれました。
白く美しい毛に、赤い眼をしたそれはそれは可愛い飼い兎でした。
夢にまでみた兎なのに私は緊張し、また兎の方もおびえてふるえていた
のを、懐しく思い出します。

泉町の奥、緑ケ丘を下った宝の沢では小動物の跡を沢山見ました。
♪うさぎ追いし かの山をいくらでも体験できるチャンスがあった、
大夕張とBBQの煙、皆さんの暖かさに私も昨日は包まれたかったー!!

(1203)通りすがりですが 投稿者:K・N  投稿日:05月05日(土)04時16分22秒

どうもはじめまして。夕張岳のことを調べているうちにこのページに行き当たりました。
いまは東京に住んでいる私も実は大夕張生まれ。千歳町で生を享け、常磐町に
住んでいました。たった一年半ですが鹿島東小学校に通い、担任の先生は亡くなら
れた片山先生、女性の庭田先生という方だったと記憶しています。
大夕張はダムの底になってしまうという噂を聞いていますが、いまはどうなって
いるのでしょう。よろしかったら教えてください。

(1202)ふきのとう 投稿者:斎藤 敏幸  投稿日:05月04日(金)20時23分25秒

暖かな春の陽射しに包まれながら,HPの仲間たちと鹿島小学校のイタヤカエデの下で
BBQを楽しんできました。
桜はまだ咲いていませんでしたが,ふきのとうが沢山顔を出していました。草木がまだ緑
をつけていないため,大地の形を良く見ることができました。
グランド超しに駅前の辺りを見ると,今日も何人かの方が「大夕張詣」に来ていました。
多分この街の出身者なのでしょう。車を止め探索をしているようでした。
何にもない大夕張になってしまいましたが,この大地に佇むだけで心が満たされるのを感
じることができました。
そんな大夕張に触れながら,ふきのとうたちの優しい緑の輝きに包まれ,仲間たちの家族
と一緒に充実した休日を過ごすことができました。
本日の大夕張の春は,とても暖かな陽射しに包まれていました。

* チャットを見て来ていただいた25年会のお二人さん,ご苦労様でした。子供たちにお
菓子までいただいて,ありがとうございました。次回の交流会に是非参加いただければと
思います。

(1201)春うらら! 投稿者:ヒロ 三浦  投稿日:05月04日(金)19時27分00秒

春ウララの大夕張でのBBQお疲れ様でした。
25年会の方々ともお会いする事ができ本当に楽しいひと時を過ごし
いつもながら出会いの多い故郷の一日となり
駆けつけて頂いた皆さん、どうも有難う御座いました。
焼肉も「ホッケ」も、焚き火も最高でしたねー
神社山にも何年ぶりかで登ることが出来、楽しさ満点!
花見には少し早めでしたが、風も無く正に大夕張日和かな
いつも大きくそびえ立つ夕張岳も、イラッシャーイてな表情でしたね
今度は何時・・・気が早〜いかな
桜が咲き乱れるのは後10日位でしょうかねー
故郷の空気を胸一杯に吸ってさーガンバだよ!!

(1200)「映画ポスターにみる北海道の文学」 投稿者:奥山道紀  投稿日:05月04日(金)12時57分47秒

連休、如何お過ごしでしょうか。
中島公園内の「北海道立文学館」で企画展「映画ポスターにみる北海道の文学」
が開催されてます。もちろん大夕張で撮影された「塩狩峠」「新網走番外地・嵐
を呼ぶ知床岬」「皇帝のいない8月」等のポスター・パンフレットも展示されて
います。6月10日迄の開催です。詳しくは↓

http://www5.ocn.ne.jp/~hbungaku/

(1199)明日のお昼 投稿者:飯田雅人  投稿日:05月03日(木)22時18分56秒

先日来チャットの方で流れていましたが,明日,鹿島小跡のグラウンドで昼ご飯を
BBQしながら集まったみなさんとやってきます。
出入り自由ですから,GWを利用して近くを通りかかった方は寄っていきませんか。

比志先生ですが,私はきっと年代が違うと思うのですが,実は前の職場の同僚の方の
奥さんが比志先生の娘さんだと聞いたことがあります。もちろん大夕張のHPが話題
になったことでわかったのですが,意外なところに接点があるものですね。

(1198)3本の映画 投稿者:丸山直記  投稿日:05月01日(火)20時28分01秒

ご無沙汰をしております。
最近は私の妹(小野美音子)が常連のようです。
この2年ほどの観た3本の映画の話です。
「ブラス」
「October Sky(邦題は知りません)」
「リトルダンサー」
これらに共通しているのは炭坑です。
この3本の映画ではエネルギー政策の転換で取り残されたやや
ネガティブな捉えられ方がされ炭坑町はやや閉鎖された社会と
して扱われています。
けれどもそこで暮らす人たちの善意あふれた物語が主題です。
そして子供に対する両親の深い愛情も3本の映画に共通しています。
私は「October Sky]を観て我が身と重ねて思わず涙してしまいました。
幸い飛行機で暗い時だったので他人には見られませんでした。
ぜひこの3本の映画を観ることをお勧めします。
大夕張に住んでいた方なら良くわかる映画です。

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