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2000年    
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(743)夕張シューパロダム関連整備「新年度から事業本格化」 投稿者:奥山 道紀  投稿日:02月29日(火)16時15分20秒

2月29日付けの北海道建設新聞(業界紙)の記事です。

(前略)石狩川開建が施工主体(ダム本体)を担当し、本年度の二次補正で工事用
道路を本格的に進めている。
 ダム建設では、452号の現道が一部水没してしまうため、夕張市南部若美町か
ら同鹿島富士見町にかけ西側(山側)に約11qの付け替え道路を計画。そのうち
若美町付近(※ 昨年の南部地区での説明会では道路付け替え工事の起点は若美町
となるがトンネルの入り口は大宮町との説明)に約2.200メートルの付け替え
トンネルを新設し長大橋を含む橋梁17ヶ所を整備していく。
 付け替えトンネルは新年度に本体と坑口、取り付け道路の詳細設計に入る。
 新年度に着工する仮付け替えトンネルが完了する15年度にも付け替えトンネル
の本体に着工する考えだ。
 仮付け替えトンネルは現道の一部がダム建設の工事個所に重なり、現道が渋滞す
る可能性があるため約1q仮付け替え道路を造り、三菱炭鉱(大夕張鉄道)の鉄道
トンネル(440メートル)を拡幅するもの。
 新年度の1/4半期にも一般競争入札の公告を予定している。

(742)「南部地区雪まつり」の案内 投稿者:奥山@シューパロ塾  投稿日:02月29日(火)13時45分59秒

 南部地区では、来る3月5日(日)に南部地区雪まつり実行委員会主催
による「南部地区雪まつり」を開催いたします。
 当地区におきましては初の催しとなりますが、お子さまからお年寄りま
でどなたでもお楽しみいただけるメニューをご用意いたしました。
 ご家族で、またご近所お誘い合わせでお越しいただき、冬の一日をぜひ
お楽しみ下さい。

日 時 3月5日(日)午前10時より 
場 所 南部市民運動広場 
内 容 
ジャンボすべり台 ミニ雪像 雪原競争 
雪中ソフトボール 雪中宝さがしゲーム 等
豚汁、甘酒をお召し上がり下さい!(無料)

主 催 南部地区雪まつり実行委員会
    (委員長:正木英造) 
後 援 地元町内会・シューパロ塾・他11団体

(741)和田心臓移植 投稿者:奥山 道紀  投稿日:02月28日(月)21時34分19秒

昭和43年8月8日、札幌医大・胸部外科の和田寿郎教授により日本初の心臓移
植手術が行われました。
当時、作家の渡辺淳一氏は札幌医大講師の傍ら三菱大夕張炭鉱病院に派遣されて
おり、自伝的小説ともいえる「白夜X 野分の章」に次のように記載してます。

その朝、伸夫は大夕張の職員倶楽部で目を覚ました。
「その朝」と、特にことわらなければなければならないのは、その日の明方、伸
夫の大学でおこなわれた事件が、その後の伸夫の一生を左右する大きな転機にな
ったからである。
 もっとも伸夫がその事件を知ったのは、その日の午前の診察を終えたあとの昼
休みのときだった。昼食を食べに医局に入っていくと、外科の瀬戸医師がいきな
り声をかけてきた。
「ついにやりましたね」
「なにをですか」
「心臓移植ですよ。先生の大学の胸部外科の渡瀬教授がやったのです。知らなか
ったのですか?」

日本の移植医療を10年遅れさせたという、和田移植から30年。日本でも臓器
移植法が施行され初の移植手術から1年が過ぎようとしていますが、幼児の臓器
移植は国内では出来ず渡米した「朱里ちゃん」を救うことは出来ませんでした。

でも自分本位な考えが時流になりつつあるなか、多くの善意を集め、我々に「大
きなメッセージ」を残してくれました。
小林さんが「町中がうまくコミニュケーションしていた」と書かれたように「人
の心の温かさ」「人の温もり」は大夕張で育った人の財産ではないでしょうか?

この心臓移植に批判的な渡辺淳一氏は、その後学内にいづらくなり医学を捨て、
文学の世界へと本格的に身を投じます。

斉藤さんの投稿を見て、和田移植、大夕張の町、そして朱里ちゃんの残してくれ
たメッセージを考えて見ました。       
                                合掌

(740)朱里ちゃん 投稿者:斉藤 敏幸  投稿日:02月27日(日)14時38分12秒

僕が朱里ちゃんと会ったのは,ぼんやりと眺めていたTVの画面の中であった。昨年の1
2月,僕は病院のベットの上で朱里ちゃんの映像を見ていた。小さな命は,渡米して心肺
同時移植以外に生きる望みはないと報じられていた。いつもなら,日常のニュースとして
僕の中を通り過ぎて行っただろうに,ギリギリの状態におかれている小さな命は,僕の中
に留まっていた。

僕は現在の医療技術のお陰で,「生きる」という日常の生活に戻ることが出来た。でも,朱
里ちゃんは,健康な人が何気なく出来る「生きる」ということがとても困難な状況におか
れていた。
退院してからも,朱里ちゃんのことを見守り,手術が成功するように家族みんなで願って
いた。渡米に必要な2億円という経費も,不況といわれている中,短期間で1億3千万円
も集まっていた。何かにつけ殺伐とした世情が嘆かれる今日,沢山の善意が寄せられ,人
の思いの熱さを感じることが出来た。

金曜日,仕事から帰ると,妻が朱里ちゃんの訃報が夕刊に載っていると伝えてくれた。僕
は,その日は夕刊を見ることはなかった。朱里ちゃんの死が,ただ,ただ,残念であった。
斉野朱里ちゃん,1才7ヶ月の短い人生を精一杯燃焼させ,「命の重さ」「人の心の温かさ」
など多くのメッセージを残し逝く。

このHPが持つ「人の温もり」と朱里ちゃんが残してくれた「人の心の温かさ」がどこか
似ているような気がして,朱里ちゃんのことを掲示板に投稿させていただきました。

(739)夕張北高との偶然の出合い 投稿者:菅井宏史  投稿日:02月26日(土)10時12分28秒

高校のことが少し話題になっていましたが、そのことで少々。

高校3年の修学旅行時(何度か書きましたが私は小学4年の時に大夕張を
離れましたので、当然夕張の高校ではありませんが)、函館→青森の青函
連絡船内で同じく修学旅行中の夕張北高の一行と偶然にも一緒になったの
のでした。
その時の状況を詳しくは思い出せませんが、「夕張」ということで多分私
がその中に知っている人物がいないかをそれとなく注意深く観察していた
んだと思います。その中に知り合いを一人見つけることが出来て、その彼
(彼女だったかなあ?)を通して5、6人の知り合いと小学校以来の再会
を果たすことができたのでした。小学校以来の再会で偶然にしては何とも
出来過ぎな出会いでした。昭和51年のことだったと思います。
大夕張はすでに閉山。彼等の多くもすでに南部の方に移り住んでいたようで、
そこから北高に通っていたようです。
彼等と話をしたのは結局連絡船の中だけでしたが、その後夕張北高校とは
京都のどこかのお寺でも一緒になりましたし、京都→東京の移動の際、
確か京都駅でも北高の一行を見かけた様に思います。
北海道の高校の修学旅行コースはどこも似たり寄ったりみたいですね。今は
どうなんでしょうか。

北高に関してもう一つ。夕鉄バスだったでしょうか、「北校前」という停留
所がありましたよね。小さい頃その「きたこうまえ」という停留所の意味が
分かりませんでした。
だいぶ後になってからです、その上の方に夕張北高校があるということを
知ったのは。

(738)朝登 投稿者:奥山 道紀  投稿日:02月24日(木)19時51分15秒

大相撲の「朝登」も大夕張の出身者でしたよね?
父がよく応援していたのを思い出しました。

(737)チョンピの思い出 投稿者:成松 泰彦  投稿日:02月23日(水)21時50分35秒

「チョンピ」懐かしいなぁ〜。彼は私の1こ下の後輩です。
中学の時からがっちりとした体格で・・・
スキーに明け暮れた生活を送っていたのにね。
競輪の選手になっていたんですか!
彼とは一緒にボーイスカウトで山野を駆け巡り、日曜日ごと
にキャンプに行ったものです。
近くはさとみ公園やシューパロ湖畔。はたまたお化け神社か
ら850の奥までオリエンテーリングをした記憶があります。
今で言うアウトドアですね、道なき道を藪を掻き分けて入っ
たり、先輩が先行して入った迷い道を木の折り目や目印を頼
りに探し出すという今考えると結構過酷なサバイバルを楽し
んでました。
中学生以上が参加資格の日本ジャンボリーというボーイスカ
ウトの大会が富士山裾野の朝霧高原という場所で行われました。
夕張からは2団体しか参加しなかったはずです。この大会に
参加できるということは結構栄誉なことで派遣が決定したと
きは二人して飛び上がって喜んだ記憶があります。
当時、彼は小6だったのですが私よりも体が大きくまた技能
検定の資格もたくさんあり、一緒に参加したのです。
おととし富士山の5合目まで行く機会がありました。
そのとき堂田君こと「チョンピ」の事やジャンボリーの事など
思い出したのも偶然ではないのですね。
また私が高校2年の冬、入院しているとそこにスキーの合宿で
鎖骨を骨折したと入院してきたのがチョンピでした。入院先か
ら早苗さんに電話をした記憶が今、鮮明によみがえってきました。
早苗さん覚えていますか?
たかしさん!飯田さん!チョンピを思い出させてくれてありがと
うございました。
これから、チョンピのプロフィールをのぞきに行ってきます。

(736)郷土資料提供のお願い 投稿者:奥山 道紀  投稿日:02月23日(水)12時32分38秒

  炭鉱の閉山、人口流失で夕張の歴史を語る資料が急激に散逸しています。
 そこで夕張市では、郷土・歴史を後世に伝える様々な資料を記録・保存す
るため、市民等に資料収集の協力を呼びかけています。
 夕張市は昨年11月に「市歴史資料収集委員会(事務局・市教委)」を発足
させて今後、提供された資料などの調査や分類、保存・公開方法を検討する
ということです。
 市教委では、資料収集の対象として〈炭鉱を中心とした生産用具や機械・
生活用品、図書・日記等書籍、文具、写真、映像資料、他〉など広範囲にわ
たっており、実際に所有している人、提供できる人の情報を知らせて欲しい
ということですので、それらを所有する方は下記に連絡していただければと
思います。皆さんの家に貴重な資料が埋もれていないでしょうか。

●問い合わせは
 夕張市石炭博物館(電話01235-2-3417)
 夕張市市教育委員会社会教育課文化振興係(電話01235-2-3131 内線1327)

(735)競輪・堂田選手 投稿者:飯田 雅人  投稿日:02月22日(火)22時13分29秒

鈴木さんの書き込みを見て,同級生の名前がとても懐かしいです。
その懐かしい山田君や,松倉さんがオーストラリアに在住している
とのこと。オリンピックのシドニー支局からの放送を,オリンピッ
クとは違った意味でまた楽しみにしたいと思います。
海外から参加。。。ふるさとはそれほどまでに『人とのつながり』
でもあるんですね。
『シューパロ会』で大夕張カレンダーをカラーコピーまでしていた
だいて懐かしがっていただけたとのこと。
心の中の風景 みなさんもっていらっしゃるんですね。
写真を見ると思い出が広がって行きます。

チャットの方に『たかし』さんが,大夕張出身の競輪選手,堂田将治
選手の紹介をしてくださいました。
競輪の実施団体である関東自転車競技会のオフィシャルホームページ
に堂田将治選手のプロフィールが写真入で,詳しく掲載されています。
下にリンクを貼っておきましたので,ぜひご覧ください。
チャットの方に書き込まれた早苗さんや,ヒロさんの言葉を借りて,
掲示板の方に掲載させてもらいます。
昭和33年生まれの彼は弥生町に住んでいたそうです。選手としては,
今年で42才という高年齢にも関わらず,競輪界最高峰のS級選手と
して活躍を続けています。
小中高を通してスキー部で活躍し,「チョンピ」というあだ名で呼ばれ
先輩・後輩から親しまれ、とても可愛がられていたそうです。
『体力の続くかぎりがんばります』と力強く宣言する堂田選手には,
大夕張出身のプロスポーツ選手としてこれからも活躍を続けて欲しい
と思います。

http://www.kanto.or.jp/Profele/senshuPROF/dodashouji.htm


(734)シューパロ会 投稿者:鈴木 美保子  投稿日:02月21日(月)13時41分01秒

オリンピック開催年の2月。その第二土曜日に必ず開かれる同窓会が
『シューパロ会』です。
参加者は主に夕張東高校の出身者ですが、第8期(S47年卒)から第10期
(S49卒)までの三学年合同の為、先輩・後輩との交流の場でもあり、同期生
との思いで話しに花を咲かせる事のできるとても有意義で楽しみな会です。
今年も2月11日(土) 赤坂の某ホテルに於いて第5回シューパロ会が賑
やかに開催されました。
出席者は40名弱でしたが北は北海道から南はオーストラリアまで全国、
全世界(?)から集合しました。もちろん私たちも夫婦での参加です。
先日、飯田君から送っていただいた2000年カレンダーを持参し皆に
回覧したところ懐かしくて懐かしくて「これ、ちょうだい!!」と言う
声が多数上がり、幹事さんと相談の上カラーコピーして参加者全員に送
ってもらう事になりました。
一人一人の心の中に微かに残っていた大夕張の風景が鮮明に蘇り、同窓
会が尚いっそう盛り上がったのは言うまでもありません。
お礼にこのH・PのCMも抜かりなく行ってまいりました。
思い出を語り合うには数時間では短かすぎる・・・と言うことで次回は
箱根に一泊してゆっくり過ごそうと提案されました。
多方面に声をかけて一人でも多くの方に参加してもらいたいものです。
次の4年後に期待が膨らみます。
今回は残念ながら欠席でしたが同期の山田 建君は現在オーストラリア
にいるらしいです。昨年の大晦日の夜テレビを見ていたら偶然NHKの
シドニー支局からのニュースを放送していました。
オリンピックが始まると度々顔が見られるのではないかと期待していま
す。彼は生徒会長でしたよね。
松倉 真寿美さんも現在オーストラリアで仕事をしていますが、同窓会
には必ず出席です(エライ!!)北海道からも是非参加して下さい。
こちらではそろそろ花粉症の季節です。三寒四温と言いますが本当に春
が待ち遠しい今日この頃ですね。

(733)駅名 投稿者:奥山 道紀  投稿日:02月21日(月)12時29分13秒

葛西さん、こんにちは。
確かに寿都は「すつ」でしたね。
国鉄でも雄武で「おむ」なんてのもありました。

「おおゆうばり」「おうゆうばり」ローマ字表記では
「おうゆうばり」の方があうようですが。

さて、三菱バスがボンネット車からリア・エンジン車に
入れ替えたときにメーカーは
いすず→三菱ふそう となってます。
リア・エンジン車の開発・製造は日野が一番早いはずで
すので
いすず→日野なら納得するのですが。
同じ三菱系列ということで「三菱ふそう」になつたので
しょうが、なぜボンネット車が「三菱ふそう」ではなく
「いすず」だったのでしょうか?

私が、高校に通学していた昭和50年前後にも「通学生
のみなさまへ」という張り紙がありました。
先日、南部で会った人(70才代)も朝の通学時に駅舎を
通らないでよく、ホームへ直行したと言ってました。
駆け込んでくる高校生を待ってくれたのは、大夕張鉄道の
昔からの伝統なのでしょうか。

学校をさぼり鹿ノ谷から札幌へ、ずいぶん大胆ですね。
大夕張から札幌行きが走り始めたのが昭和40年。
その急行バスも無くなってしまいました。

大夕張から北高に通えるようになったのが、昭和41年
4月から、元々北高通学生は少数派だったのでしょう。

(732)Re「おおゆうばり」or「おうゆうばり」 投稿者:葛西 映@ニセコバス資料館  投稿日:02月21日(月)00時49分38秒

 初めまして。三菱バス保存会の活動にほんの僅かばかり関わらせていただ
いている葛西と申します。美鉄バス大夕張営業所最後の瞬間にも立ち会わせ
て貰いました。

=>私はずっと、「大夕張」は「おおゆうばり」だと思っていたの
=>ですが違うのでしょうか?

 大夕張とは関係ない話です。私の生まれ故郷である寿都町は「すっつ」と
読みますが、壽都鐵道の駅名は「すつ」だったそうです(プレス・アイゼン
バーン『壽都鐵道』にその旨の記述があります)。会社名の正式な読みはど
うだったのでしょうか。

 更に関係ない話ですが、某漁師町には「税金は漁協を通すて確実に納めま
しょう」と云う手書きのホーロー引きの看板がありました。書いた人はおそ
らく「し」と「す」の区別が付いていなかったのでしょう。

http://www.lares.dti.ne.jp/~hayuru/


(731)二股峠 投稿者:小林光志  投稿日:02月20日(日)00時53分22秒

海外から懐かしく出しゃばって送信しています。
こんなに盛り上がって興奮して情報を交信しているのを拝見して
私も年寄りですが一言を。
40年3月まで夕張工業に大夕張から通学していました。
朝、7時05分?(15分?)少し高台にある大夕張駅から駅員が
いつも仁王立ちで速く走るようにコールしていました。
いつも私は、春日町でしたがかなり遠くからその姿を見てダッシュしていました。
駅員が怒る暇がないことをよそに汽車に飛び乗ったものです。
町中が、皆を干渉してうまくコミニュケーションしていたなといまも感じます。
知らない、おじさんやおばさんから良く怒られたり叩かれたりもしました。
怒られる理由は知っていましたが。
炭坑という閉鎖社会(当時はよく言われました)でしたが、
今、外へ出てこのような住み心地の良い場所を探すのが難しいくらいです。
さて、その二股峠は、夕張工業の正門前が峠登り口で事業開始時間と
札幌行き時間がほぼ同じ時間でした。
おかげで、夕工の生徒は、時々授業サボって片道切符で札幌まで
遊びに出かけました。この時代は、大夕張発札幌行きは、無かった
と記憶していますが、微妙な時期ですがもしかしたら39年くらい
から有ったかもしれません。
反面、この峠のおけげで、夕張工業(張工)の名を全道、全国に
知らしめた時代もあります。
七十七曲がりと言われるこの峠を利用しての運動部の練習は、
地獄のような練習場でした。
夕工のマラソン大会もこの峠を利用しました。
スキー部、陸上部、柔道部は、インターハイ、国体の常連でした。
スキー部からは、オリンピック選手も出ました。   
私の年代以上は、懐かしいでしょう。大内兄弟(北炭夕張)、
志村(日大→拓銀支店長退職)、大久保(大夕張春日町出身から
明治大学→日刊スポーツ局長で退職)、浅利(明治大学→雪印乳業)、
など海外国内で活躍しました。
実は、もっと古い有名選手たくさんもいます。私もその端くれでしたが。
錦沢先の夕鉄スイッチバックも当時は全国的にも有名な峠越えの鉄道でした。
錦沢公園は、純情な?私たちの格好のデート場所でもありました。
大夕張からは、南校までの学区でしたから大夕張出身で詳しいのは、
夕張工業へ通学した人たちでしょう。
私の少し先輩までは、修学旅行に女学院(洋裁学校)と一緒に
修学旅行と言う時代もありました。
男子校と女子校ですから、こんな夢みたいな危険な修学旅行は、
どんなだったでしょうね?当然、男女関係の問題で中止になったようですが。
ま、のんびりしてたというか、おおらかだったというか、よき時代でしたね。
今だったらまわりが何というか、聞きたいですね。おかげでのびのび育ちました。
もちろんいじめなんて有りませんでしたよ。
すみません、長くなってここで止めます。皆さんの投書楽しみにしています。

(730)お気に入りの一枚・・・ 投稿者:飯田 雅人  投稿日:02月17日(木)21時23分04秒

思い出投票箱に『お気に入りの写真』のページを設けました。
私の部屋には内川さんが撮影された夕張岳,叔父さんが撮影して送ってくれた
プールの辺りから富士見町を撮影した写真が部屋に飾ってあります。
これらは,アナログ写真ですが,このほかにもHPにある写真を壁紙として
使ったり,カレンダーなどにして印刷して私は使っています。(交流会には
はがきサイズのフォトカードに印刷して持参し,楽しみました)
そんな写真たちのお気に入りの写真を一枚お教えください。

(729)保存会会報・「MIXED TRAIN」  投稿者:奥山道紀  投稿日:02月17日(木)13時53分06秒

三菱大夕張鉄道保存会の会報・「MIXED TRAIN」を
発行しました。
内容は、これまでの活動の記録の他、今月の夕張映画祭に合わせ
映画の舞台となった大夕張鉄道について特集しています。
会員外でも郵送希望の方がいましたら、私宛にメールを下さい。 

(728)岳楓寮近く 投稿者:飯田 雅人  投稿日:02月16日(水)19時43分55秒

 千年町の岳楓寮の向かいにはバス停があり,そこは『朝日荘前』と呼ばれて
いました。中学校の担任の斉藤宏先生や東高の内山雄平先生が当時岳楓寮に住
んでいて,よく遊びに行ったものでした。新卒当時の山中先生もおられたんで
すよね。また,その近くにあった千年町の教員住宅には,親戚の石井のおじさ
んや,鹿島小の4,5,6年生の担任だった佐々木マサノ先生が住んでいて,
そこにもよく遊びに行っていたこともあり私にとってなじみ深い場所でした。
 岳楓寮の東側(鹿島東小側)は一段低くなっていて,階段がついていました。
以前大夕張を訪ねた際には階段の跡だけが草むらの中に残っていました。
階段の先の低くなったところに大きな建物が確かあったはずでした。昭和43
年の住宅地図を見てみると住宅や朝日新聞の販売店になっています。
 でも,私がちょうど今の季節,暗くなった夕方,朝日荘前から三菱バスに乗
るためにそこを通りかかると,その大きな黒い建物からはいつも白い湯気がいっ
ぱいでていました。
 そこは,千年町の浴場でしたよね。地図に出ている朝日新聞の販売店などは
もっと道路から奥に入ったところにあったんじゃないかと思います。

(727)北高通学 投稿者:奥山 道紀  投稿日:02月16日(水)12時10分20秒

当時の感覚では「おおゆうばり」「おうゆうばり」どちらもありそうですね。
「大夕張炭山」や「南大夕張」はどうなっていたか興味があるところです。

さて北高校の通学ですが、バスで鹿ノ谷まで通っていたという学生は少ないと
思います。
私が列車で南高校に通っていた頃でも、北高校生は
三菱バス札幌行き(北高前は通りません)
南部 7時25分→清水沢7時40分
国鉄夕張行き
清水沢 7時50分→鹿ノ谷8時02分
で通ってました。
しかし同じ鹿ノ谷の夕張工業に通う学生は
南大夕張 7時41分 清水沢8時00分
国鉄夕張行き
清水沢 8時16分→鹿ノ谷8時28分
で通っていました。
当然、南高校生も清水沢まで一緒でした。
三菱社員の通学定期は福利厚生の一環として無料でしたが、
南高校、工業高校に通う子弟の定期代はただで、北高校生だけが恩恵を
受けなかったのも不思議です(三菱バスは別組織ですので定期代は無料
と思えません)。
学校側も始業時間を15分ほど繰り下げると交通費の負担を下げること
が出来たのに、なぜそれをしなかったのでしょうか?

(726)おおゆうばり 投稿者:飯田 雅人  投稿日:02月15日(火)21時54分03秒

北高通学の件ですが,私の時代(昭和46年)には,友人にも東南北工業等,夕張市内
通えました。北高に通った友人もいました。鉄道よりもむしろバスを利用したというのは,
大夕張から清水沢と本町方面に出る際の当時の個人的な感情からすれば,鉄道だと乗り換
えしなければならず,バスは乗り換える必要がなくしかも速いので,バスで通学したので
はないかと思います。むろん誰に確かめたわけでもなく,当時の個人的な印象に基づいた
話ですが。

「おおゆうばり」か「おうゆうばり」。これまた当時の空気からすると,どっちでもあり
かなと思います。この手の表記は,当時結構いいかげんだったように感じます。
街中の看板を見て,「えー,これでいいのかな」なんて小学生が見て思うような看板もあっ
たように感じています。そんな時代ではなかったかと思います。

私の祖父長谷川安造が,鹿島小から富野小に転勤になる時の昭和32年4月の大夕張駅ホーム
での見送り風景の写真が手元にあります。列車を見送る人々の背後に大夕張駅の駅名板がわずか
に写っているのですが,そこには『おおゆうばり』と書かれているのが見て取れます

(725)「おおゆうばり」or「おうゆうばり」 投稿者:奥山 道紀  投稿日:02月15日(火)20時25分49秒

私はずっと、「大夕張」は「おおゆうばり」だと思っていたの
ですが違うのでしょうか?
「思いで帖」の三菱大夕張鉄道「千年町駅ホームにて」の写真
の駅名票ではひらがな表記が「おうゆうばり」となっています。

(724)通学列車・その2 投稿者:奥山 道紀  投稿日:02月15日(火)13時00分31秒

私の質問に下記のような答えをいただいたのですが、やはり、大夕張や南部
は学区外で北高校に通う学生はいなかったのでしょうか?

>私の居た頃(32〜45)南部にあまり北校生があまり、居なかったような?
>南校生や工業生はいました。

でも、昭和45年頃は中学区制で普通科であれば北高、南高、東高と自由に
選択できたはずです。
大夕張、南部地区の北高卒業生の皆さま、当時の通学方法について教えて下
さい。

(723)大夕張の思い出A 投稿者:山中 佐喜男  投稿日:02月14日(月)20時44分29秒

大夕張での3年間を岳楓寮で過ごしました。
岳楓寮は、教員および市職員の独身寮でした。
建物はそれなりに老朽化していましたが、
当時としてはめずらしくトイレが水洗化されていました。
木原さんという管理人がおられ、ご夫婦で私達寮生の食事の
支度もされていました。
月1万円程度の食費のなかから、いろいろ苦労されていたようでした。
春の竹の子、ふき、わらび、そして秋の落葉きのことおそらく
近くの山で採られた山菜も食堂のテ−ブルによく上っていました。
入寮当初、「今日はラ−メンだ」との声に勇んで食堂にでかけたのですが
テ−ブルの上には、なんとマルちゃんのみそラ−メンが湯気を立てていたのを
思い出されます。
日曜日は、昼の食事がなく各自外食しなければなりませんでした。
夕食は、なぜかきまってカレ−でした。
中学校や東高の先生方は給食がありませんから、弁当を作って
もらっていました。私達小学校に勤務する者も遠足などには
「おにぎりたのみます」と前日に頼むと「おにぎり」を作ってくれました。
今の時代からみるととても質素な食生活だったと思います。
しかし、4月の歓迎会、3月の送別会だけは、特別メニュ−でした。
食堂のテ−ブルをとりはらってござをひき「すきやきなべ」と木原さん夫妻
お手製の茶碗蒸が「出会い」と「別れ」の宴を彩りました。
大体、夕食は5時から7時まで。この2時間の間に食べなければ
なりません。それを過ぎると自分で味噌汁などをガスで温め、食器も
自分で洗わなければなりませんでした。
(今回は食べ物のことに集中しました。次回は寮生の生活について書いて
 みたいと思います)

(722)夕張岳 投稿者:奥山 道紀  投稿日:02月14日(月)20時27分19秒

大夕張や南部、清水沢と「夕張岳」は夕張市民にとり、身近に
見え、学校の校歌などによく歌われる山ですが、その山が「夕
張」の名をかぶせる固有種の高山植物を十数種類も産し、世界
的な高山植物の名山であることが昨日のシューパロ塾勉強会で
よく判りました。
そして天然記念物の指定を受けた後も、「盗掘」等、高山植物
は危機的な状況にあり残す事の難しさも感じました。

札幌、江別、恵庭などからは夕張岳は冷水山の背後に見えます。
つまり、冷水の頂上からは夕張岳ははっきりと見えます。
内川さんが見た山がどちらの方向かわかりませんが、何処かに
夕張岳は見えていたはずです。

炭鉱の全盛時は、冷水山や本流越(歴史村遊園地の右手の沢)
から山スキーで大夕張に出たようです。
石炭博物館の館長も以前、挑戦したそうですが山で迷い、国道
452号の桂沢よりに出てしまったとの事です。

さて、二股峠はかつては鹿の谷小学校横から富野に降りていま
したが、昭和40年に「夕張隧道」が完成し現在の道路となって
います。
この道路も現在改良工事が進められており夕張鉄道の錦沢寄り
に2〜3qほど迂回するようです。
なお、「錦沢」のスイッチ・バックについては下記の江上英樹
さんのホームページに詳細なレポートがあります。

http://www.people.or.jp/~egamifam/


(721)夕張岳が見えますか 投稿者:内川 准一  投稿日:02月14日(月)18時01分31秒

誰か知りませんか?
一昨日、20年ぶりにMtレースイに行きました。
ロープウエイ山頂駅の裏手はあいにくの林で視界がないのですが、
左手遠くには白い山が見えていました。
あれは夕張岳なのだろうか?それとも別の山なのか?
恥ずかしいけど分かりません。誰か知りませんか?

追 記
二股峠の下に、昔の夕張鉄道のスイッチバックを発見してしまった。
削られた山の斜面に昔の名残が見て取れた。遠足で行った錦沢がこ
んな近くにあったなんて!全く気付かなかった。
そして、二股峠が昔とは違うところを通っているということも・・
知らなかった・・

(720)雪祭り 投稿者:サラ  投稿日:02月13日(日)23時33分09秒

早速の雪祭り写真をありがとうございます
急ぎトップページのところにリンクを張りましたので
暇な時にでも見ていただければ・・・

http://www.ask.ne.jp/~hotukai/


(719)やっぱり今年は夕張岳登山??? 投稿者:今井 一郎  投稿日:02月13日(日)20時56分23秒

 飯田さん、今日はお疲れ様でした。
 シューパロ塾の高山植物学習会は大変勉強になりました。でも・・
本物の高山植物を見て学ぶともっと感動があります。
 と、いうことで今年は夕張岳に登りましょう。もう、決まりですね。
 シューパロ塾の登山の前に「軟弱登山の会」でも夕張岳登山を催行いたします
ので練習(?)にもなります。

http://www.alles.or.jo/~ichiro16/


(718)シューパロ塾のホームページ 投稿者:乗田 功一  投稿日:02月13日(日)03時04分52秒

乗田です。
『シューパロ塾』のHPを新装しました。
私の『Noritax World』と共に今後ともよろしくお願いいたします。

http://plaza22.mbn.or.jp/~Noritax_World/shuparo.html


(717)小学区制度 投稿者:奥山 道紀  投稿日:02月10日(木)13時32分54秒

昭和30年代後半〜40年頃にかけて普通科は
小学区制でしたね。「北高校」への越境入学も
よくあったようです。
でも昭和40年代に入り中学区になり大夕張か
らも北高校や南高校の普通科へ入学出来るように
なったのですが、北高生も汽車通学していたの
でしょうか。

(716)北高通学 投稿者:小林 光志  投稿日:02月10日(木)12時10分12秒

北高への通学は、鹿島は学区外で入学できませんでした。
30年代前半までは、南高の普通科か商業科に入学することができました。
昭和38年東高ができてからは、南高の普通科に通うことができませんでしたが一時期のようでした.
40年以降は、どうなったのでしょうか?

http://koba@mxh.mesh.ne.jp


(715)「通学列車」のみなさんへ 投稿者:泉 俊弘  投稿日:02月10日(木)10時32分16秒

 昭和52年に大夕張線を訪ねたとき、南大夕張の駅に「通学生の皆さんえ」と
いう張り紙がありました。
「当駅発7時○分の列車は遅れがちです」という書き出しで、高校生諸君に
列車の定時運行を呼びかける(すなわち、学校にではなく、列車発車に遅刻
しないようにという『親心』?)趣旨でありました。
 昭和57年には、同じ掲示板の張り紙が(客車の)「シート破損には厳罰で処
する」といった内容に変わっていたのをみてちょっとさびしく感じました。 

(714)「通学列車」 投稿者:奥山 道紀  投稿日:02月09日(水)11時19分16秒

大夕張鉄道の朝1番の列車は清水沢方面からは明石町の「東高校」に、
大夕張からは「南高校」「工業高校」等へ通う高校生で混雑していま
した。
ところで、私が通学に利用していた昭和50年代(南大夕張までしか
ありませんでしたが)は利用者は「南高校」「工業高校」の学生だけ
で、「北高校」の学生はバスを利用していました。
列車だと清水沢での接続列車が北高校の始業時間に間に合わなかった
ためですが、これはずっと以前(鉄道が大夕張炭山まであった頃)か
らの事だったのでしょうか。

(713)鹿島中学の坊主刈り 投稿者:飯田 雅人  投稿日:02月07日(月)20時25分03秒

『野球あそび』の写真を見ていて思い出したのですが,写っている中学生らしき姿は,
皆丸坊主ですよね。私は昭和43年鹿島中学に入学しましたが,その2,3年前まで,
男子は中学校に入ると丸坊主にしなければならないきまりがあったように思います。
小学校高学年の頃,『中学校に入るのはいいけど,髪を切るのはいやだなあ・・・』
と,ずいぶん気にしていたことを覚えています。
私が入学したときには自分たちはもちろん,2,3年生の先輩達も皆長髪でした。
ひょっとすると鹿島中学に入って坊主刈りにしたというのは,私よりだいぶ先輩達の
世代のことかもしれません。

(712)高山植物学習会 投稿者:伊藤 勲  投稿日:02月06日(日)21時55分30秒

 シューパロ塾事務局の伊藤です。

 シューパロ塾では高山植物学習会を開催します。
 夕張岳特有の高山植物について学び、自然保護とまちづくり
について意見交換等します。講師はユーパリコザクラの会事務
局長水尾君尾さん。
 非会員の方も参加できますので、多くの皆さんのご参加を
お待ちしています。なお、参加料は無料です。

 1.日時  2月13日(日) 午後1時
 2.場所  夕張市南部コミュニティーセンター(南部東町)

(711)「行商人列車」 投稿者:奥山道紀  投稿日:02月04日(金)21時14分54秒

「ミニ・ダルマストーブ」気に入った様ですね。
これで焚き口が開閉し、中に「ロストル」が入っていれば完璧で、
大夕張の石炭でスルメを焼くことが出来るのですが。

大夕張の石炭はコークス用(高カロリー)で一般の家庭用ストーブには
不向きなのでしょうが、炭鉱ではかつて鉄道用に塊炭を別途確保してい
た様です(北炭系列の夕鉄では、わざわざ幌内から持ってきました)。

さて、行商人がストーブで焼き物をした話が出ていましたが
昭和30年代後半の新聞記事によると、清水沢からの朝一番の列車は
いつも行商人で混雑していた様です。道路開通前の大夕張には行商
にはいるおばさんが多く、行商人が車掌と結託し座席を独占してい
るという苦情も記事として出ています。

「資料室」に紹介されている安藤氏の「夕張を見つめた半世紀」に
は清水沢駅に停車する列車と行商人の写真が掲載されてます。
三菱大夕張鉄道は石炭だけでなく、人々の暮らしも運んでいた事を
活き活きと伝える写真です。

(710)行ってきました 投稿者:山口  投稿日:02月04日(金)00時23分50秒

飯田さん、みなさんこんばんわ
先日、札幌に行った時に大夕張まで足をのばしました。
当日は、北海道らしくない暖かく良い天気で
夕張までの道も積雪はありませんでした。(雪道に不慣れな私には助かりました)
清水沢からは雪道走行となりましたがなんとか南部に、
ここで度々、話題になっていた客車を遠巻きに見ました。
とても威風堂々としていて今にも動き出すんじゃないかと思うほどでした
南部を後にしていざ鹿島へ
鹿島は雪深かった。人のいなくなった町は容易に侵入を許さなかった
仕方が無いので富士見町の歩道橋の上から町を眺めてみました
ここにかつて2万人もの人口がすんでいたのか・・・
私は2、3件の廃墟しか無くなってしまった町を長い間ながめていました
多くの人々がここで産まれ、笑ったり、怒ったり、恋をしたりしたんだろうな、
そんな事を考えていたら懐かしいような、悲しいような妙な気分になりました
そして、帰路につこうと車を走り出した時、建物の影からこっちを見る視線が!
車を止めて近寄ってみると鹿島にはまだ住人がいや、住犬がいました。
しかも、3匹も。
親子か兄弟か、呼んでも決してこっちに近寄ろうとしない誇り高い野良でした
雪深い中でどうやって生活してるのか気になりつつ鹿島を離れました。
以上が今回の大夕張の旅でした。
出来れば今度は夏にでもゆっくり訪問したいです。
PS.
>飯田さん
鹿島で何枚か写真を撮ってきました。よろしければお送りしたいのですが
送付先をメ−ルででも教えていただけないでしょうか

(709)届いたダルマストーブを見ていて・・ 投稿者:飯田 雅人  投稿日:02月03日(木)22時21分24秒

先日奥山さんの書き込みにあった札幌工営のだるまストーブを注文し,今日届きました。
ミニダルマとはいえ,ずっしりとした重量感,立派なだるまストーブで気に入りました。
大夕張グッズの一つとして飾りたいと思います。

入っていた解説の中で,明治25年北海道で初めて国産のズンドウ型ストーブが客車に
据え付けられたこと,しかし,上が平らなため,乗客が魚やモチを焼いて車内が汚れる
ということで,明治30年代から地球型(ダルマ)ストーブが登場したことなどが書い
てありました。

大夕張鉄道では,ダルマストーブではありましたが,よく行商のおばさんやおじさんた
ちが魚を焼いていたということを聞いたことがあります。

今では見なくなりましたが行商のおじさん,おばさん多かったですよね。
≪魚≫ニシンを箱に入れて売りにきていたかな。≪薬≫でしょ,≪餅≫でしょ,おなじ
み≪みかん≫に≪りんご≫でしょ!≪豆腐≫もあったかな・・・・。
まだまだあったように思います。リヤカーに載せて来たり,大きな風呂敷にしょってき
たり,小型トラックに乗ってやってきたり・・・・。

平成12年 1月 先頭にもどる


(708)第2回大夕張チャットナイト 本日 投稿者:飯田 雅人  投稿日:01月29日(土)15時43分43秒

本日(1/29【土】)午後11時より

 『第2回大夕張チャットナイト』

開 催 します。

 『喫茶シューパロ』

にて行いますので,
どうぞお気軽に参加をお願いします。

最初に簡単な自己紹介からはじめ
ましょう!

(707)冬の思い出 投稿者:内川 准一  投稿日:01月28日(金)18時49分18秒

飯田さんの「雪の遊び」で思い出しました。雪中ジャンプよくやりましたね。
私らはもっぱら4軒便所の屋根からでした。
姿が完全に雪に埋没するのが最高でした。長靴から足が抜けなくなるのもお構
いなしでかかとの上にしもやけを作って血を滲ましていた。最近見かけないタ
イプの子供だったんだね。栄養状態も悪かったのかしらん。   
あと、タオルでチャンバラをした人はいないですか?風呂の帰り、タオルを開
いてぶら下げると数秒で凍る。これをねじると棒状になってチャンバラができ
る。先に棒が曲がった奴の負け。真冬の風呂帰りのオアソビ。
小林さんの書いていたことからは、あちこちにジャンプ台があったことを思い
出しました。今よりはるかに普通の遊びでした(大夕張では!)。
富士見町には30m(?)くらいの大きな台が二つ(?)あって、度胸のいい
奴は飛んでいましたね。
3年からずっと同級だった営林署の打田君がすごかった。だけど意気地なしの
私にはランディングバーンを滑るだけで限界だった。
それにしても当時のスキーは曲がらなかったね。単板で、裏がささくれていて、
エッジがついてなかったもね。
そんなのにホルメンコーレンだかのワックスをなんぼ塗っても無駄だったのよ。

いけね、また長くなってきた。一つだけ訂正してまた来るわ。

26日の書き込みで、雪の中に糞尿をまき散らしたのは「馬車」と書きました
が、「馬橇」の間違いでした。間違い多くてすいません。    
それと飯田さん!新装ホームページの夕張岳の写真は1999年6月6日の夕
張岳ですね。青の調和がなかなかです。

(706)雪の遊び 投稿者:飯田雅人  投稿日:01月27日(木)23時47分09秒

凍るような寒さの・・・実際にいっぱい凍っていましたが・・・真冬には,
何をしたかというと,他愛もないことですが,
 --真っ白に積もった雪の中へのジャンプ--
これは楽しかったですね。新雪の積もった朝には,雪かきは大変でしたが,
熱くなった身体を冷やすにはもってこいでした。
屋根の上や雪山の上から両手を広げて飛び込み,身を深い雪の中に埋める
のでした。
これと似ていますが,
 --雪の中に顔をつけての型取り--
こんなくだらないことみなさんしませんでした?
真剣にきれいで雪の深いところを選んで顔を雪にうずめて自分の顔の形
をとっていました。さすがにそこに石膏を流し込んで・・・なんてこと
はしませんでしたが。
それとちょっと大きくなってからですが,
 --雪の中でのプロレスごっこ--
これは教室や屋内ではできないプロレスの大技,確か当時のレスラーで
正義の味方のビルロビンソンだったかな,の回転風車(だった?なんかへん)
という相手の背中に両手をかけて大きく後ろにほおり投げるという技を
雪の中でかけたりかけられたりすると,空中を舞ったあと,雪煙を上げて雪の
中に倒され,これが気持ち良かった〜。

(705)冬の思い出 投稿者:内川 准一  投稿日:01月26日(水)18時58分52秒

今日は今年一番の寒い日でした。盆地の大夕張は、今頃、一段としばれて、青く
かすんでいるのでしょう。
こんな日は、ストーブ(確か白熱ストーブと言ったような)をいくらたいても暖
かくならず、熱は煙突と天井の隙間からみんな外に逃げていくのでした。全くボ
ロな家に住んでいたものです。
毎朝、丹前の縁に息が凍って霜が降りていました。
家の羽目板のはじける音で目を覚ました夜もあった。
かめの水もやかんの湯も、朝にはみんなみんな凍っていた。
窓ガラスにできる氷の模様が目の前でみるみる成長してガラス全体を覆い尽くし
ていくのもきれいで、面白かった。
玄関の中に入れた犬が寒がって居間に入ってくるのも、今考えると可笑しい。
雪合戦やかまくら作りは春にやった。真冬の雪はさらさらで、雪玉を作ることも
洞穴を掘ることもできないのだった。
「雪路は、除雪するものではなく、踏み固めるものだ」というのが、雪国の正義
であると、長い間思っていた。いつから除雪することがが正義になったのだろう。
弥生町のはずれに大久保のくみ取り(し尿を川の方向に流すためのトイが斜面に
這って、春日橋の方に続いていたことを覚えてますか?)があって、こえを積ん
だ馬車がよく転倒して、そこいら中に糞尿をまき散らした。
緑町と弥生町の間の道は、雪解けの春には汚点(!)の道だった。
あほな小学生の我々は、そんなとこでは必ず押っつけあいなどするのだった・・
・・だけど、真冬には、さて、何やっていたっけ・・どうも思い出せない。
冬の遊び、何やっていましたか?他の人はどうだった?

(704)駅名板 投稿者:奥山 道紀  投稿日:01月25日(火)20時10分00秒

千年町の木造の駅名板の写真拝見しました。
去年、南部で保存会・シューパロ塾共催で勉強会を開催した時、
南大夕張駅の助役であったSさんが昭和30年頃の駅の写真を持っ
て来ていました。その駅名板も木造・手書きでなにか暖かみの
あるものでした。いつ頃から鉄製のものに変ったのでしょうか。

手許に北海道新聞・夕張版の記事があります。

昭和37年6月9日
『駅名板も化粧直し』−三菱大夕張鉄道−
 観光客来訪に備えて
三菱大夕張鉄道の各駅では、駅名板の化粧直しが行われている。
同鉄道沿線の新名所として脚光を浴びたシューパロ湖の観光諸施
設の建設に合わせて、同鉄道では駅の建設など、シューパロ湖を
訪れる行楽客の出入りに備えて、沿線全域にわたって整備を行っ
ているが、駅名板の化粧直しもその一つ。
「とくに人の目につきやすい駅名板が、ばい煙やほこりで、うす
ぎたなくよごされていてはせっかくの行楽客の気分もメチャメチ
ャになる」とこのほど沿線各駅の駅名板をいっせいに塗りかえる
ことになったもの。

(703)「春日町の坂」写真を見て 投稿者:小林 光志  投稿日:01月25日(火)18時28分22秒

写真には入っていないが右側が春日町詰め所。左に見える屋根は、二軒長屋。
その右側が私の生まれ育った家でした。懐かしい写真を見ました。
後ろのがけの上、右に見える大きな屋根は、代々木町の購買会です。
詰め所の裏には、ちょっとした広場もあり三角ベース野球もしました。
このがけの道路の上にジャンプ台を作って良くジャンプしました。
18mくらいは飛べましたよ。
下の道路を買い物帰りのおばさんの頭の上を飛び越して脅かしたものです。
酔っ払いががけから良く落ちてきたのも覚えています。
冬は、まっすぐに駆け下りてきたのもここです。
おかげで夕張選手権のジャンプでは、優勝もしました。少し自慢!
たぶん時代がち合うかもしれませんが、この写真にあるお祭りで私の家の
花畑から神輿に向かっておしっこをしこっぴどくしかられた思いでもあり
ます。
昭和27年ころ、私が小学校1年のときかな?
この坂、子供心にものすごく大きな坂に見えたのは、私だけでしょうか?

(702)雪の中の大夕張 投稿者:飯田 雅人  投稿日:01月23日(日)17時29分47秒

午前中,道東道を使い夕張へ向かいました。残念ながら夕張岳は雲の中で
したが,それにしても透き通ったブルーの空と,真っ白な大地のコントラ
ストが目に染み,土曜日の午前中のためか行き交う車もほんとうに少なく,
なんだか大自然の中にすっぽりと包み込まれたような気分になる,快適な
ドライブでした。

大夕張へ向かったのは,午後からでしたが,奥山さんには大夕張へご一緒
して頂きありがとうございました。

国道は,通じているものの大夕張はきれい過ぎるほど白い雪の中でした。
鹿島小学校に向かう道,富士見町のスキー場へ向かう道・・・車は入れま
せんでしたが,2,3日前には確かに誰かが入った道の跡ができていまし
た。
ダムに沈むその時まで,私たちも含め,こうして大夕張に向かう人たちが
続いていくことと思います。

冗談交じりで,ズリ山はスキーが滑れそうだねという話をしていた時,本
当にズリ山を人が滑ってくるのが見えた時には驚きました。

大夕張にさよならをするための時間は,考えようによっては,私たちにも
う少し残されているのかもしれません。
建物は無くなっても自然はまだありますものね。

(701)真冬の大夕張 投稿者:奥山 道紀  投稿日:01月23日(日)15時56分00秒

飯田さん、昨日はご苦労様でした。
客車屋根の雪降ろしの合間に訪ねた、大夕張は
国道と日北酸素に入る道路だけが通行可能で、
大夕張の駅前通りや千年町の通りも除雪されて
いませんでしたね。鹿島小学校の校庭にも残念
ながら入れませんでした。
でも、訪れる人もなく無人と思われていた大夕張
に思わず人影を発見したときは驚き、そしてまだ
某かの人が「大夕張」に拘っているのだなと「嬉
しく」もなりました。
でも、あの「ずり山」をスキーで下ってきた人は
どこから滑ってきたのでしょうか?
まさか、850から降りてきたのではないでしょうね。

(700)「ミニ・石炭ストーブ」 投稿者:奥山 道紀  投稿日:01月21日(金)01時53分49秒

前の席の人は暑くても、後ろは寒かった冬の学校の教室の大きなストーブ。
給食の前には蒸発皿で牛乳も温めたりもしました。
炭鉱住宅で使われていた「ルンペン」や「貯炭式ストーブ」、客車の暖房の
主役でユーモラスな「だるまストーブ」等、大夕張での冬の生活に欠かせな
い石炭ストーブですが、今では生活の中で見かける事も少なくなりました。
釧網線で運行されている「釧路湿原号」のお土産にだるまストーブのミニチ
ュア(札幌工営扱い 011-711-0848)が売り出されていますが、江別の会社
からも各種のミニ・ストーブが発売されてます。
下記、URLに紹介されていますが、冬の大夕張を思い出す品ではないでしょ
うか。

http://www.bekkoame.ne.jp/~goforit/suvenia/indexst.htm


(699)十勝沖地震の日 投稿者:飯田 雅人  投稿日:01月20日(木)16時12分55秒

私も母に必ず「服は枕元にたたんで置いて寝なさい」としつけられていました。
子供の頃、よく「地震・雷・火事・親父」という言葉を聞かせれましたが、私
は、子供心に「なぜ地震が一番になのだろうか」という思いがありました。
山間の日中にどんよりと曇った中での雷鳴も恐ろしかったし、炭鉱住宅が軒を
連ねる中で、真っ赤な炎をあげて燃えた近所の火事も本当に怖かった。
それまで、地震で怖い思いをしたという記憶は無かったのです。

たった一度、大夕張で遭遇した大きな地震は、私が中学生の頃、十勝沖地震と
呼ばれた地震でした。昭和43年5月でした。空がきれいに晴れわたった五月
晴れの日でした。
その時、私は鹿島中の2階建ての新校舎の2階、美術室で授業の最中でした。
揺れはじめた教室の中で、先生が揺れる机につかまり「机の中に入るんだ!」
と叫んだこと、教室の右前方に置いてあった版画を刷る時に使う大きなローラ
ーをのせた締め付けの弛んだ机が、大きな音を立てて左右に揺れていたのを隠
れた机の中から見つめていたこと、強くなる揺れの中でこのまま建物が潰れて
しまうのではないかとその時強く不安を抱いたことを覚えています。
私の記憶では、叫んだ先生が八幡先生になっているのですが、美術室だと相坂
先生になりそうだし、今となっては当時を覚えている同級生に聞く以外にあり
ません。

関西方面にも大夕張から引越ししていった方々も多いと聞きます。阪神大震災
から5年も経つのですね。その傷跡が一日も早く癒えることを願うばかりです。

(698)地震の記憶 投稿者:片山利明  投稿日:01月19日(水)20時26分02秒

わたしも、阪神淡路大震災に被災しました。当時は池田市に住んでいましたが
食器類は全滅、テレビはぼろぼろとなりました。
これぐらいの被害で本当に良かったです。
ところで、S43年頃、大夕張でも大きな地震が有ったと思います。
幼稚園のお祈りの時間に突然揺れ出して、とても恐かった記憶があります。
家に帰ると大きなペチカが傾いていて、今にも倒れそうでした。
だけど、ペチカなんて若い人は誰も知らないでしょうね。

(697)大地震 投稿者:丸山直記  投稿日:01月16日(日)21時47分27秒

明日は阪神淡路大震災から5年目です。あの日私は尼崎におりました。
幸い大きな被害は受けませんでしたが隣近所で家がつぶれていました。
今でも揺れが治まった後の静寂と非常ベルの音が鮮明です。地震の間は
今頃東京は壊滅状態なんだろうなと思っていました。ところが逆方向で
したね。翌日西宮へ行き知人を救援に行きましたが見渡す限りに家屋が
潰れ煙が上がっていました。呆然としてその光景を眺めながら立ちつく
していました。線路の上に家が倒れていたりして。私たちの親の世代が
戦争直後に見た風景はこんなものかなと思いました。あ、それからヘル
メットは準備しておいた方が良いと思いました。壊れた家々の壁や2階
のガラスが下に落ちてきました。また停電になったら点灯する懐中電灯
も重要です。地震の直後に軽いけがをした方は頭と足に傷を受けていま
した。大阪に行くと何事も無いようで無性に腹が立ちました。日本中、
本当にいつどこで地震が起きてもおかしくないのです。助かるか助から
ないかは運ですが地震後の生活を不自由にならないようにご準備くださ
い。地震前は関西では地震(「ない」と地震を平安時代は呼んでいたの
です)が無いとよく言ってましたが私は東高校時代に古文の授業で習っ
た確か「大鏡」だと思うのですが、地震の大地震で御所の紫宸殿が潰れ
た記載を読んだことがあります。それで関西に暮らしていたときでも心
構えと準備をしていました。実生活に役に立たないような古代文学も存
外役に立つものだと思いました。大夕張にいた子供の頃、地震が起きた
ら大変だから枕元に服をきちんと置きなさいと母に指導されたことも役
に立ちました。私は札幌にいた時に十勝沖大地震を経験しました。今暮
らしている東京で「2度あることは3度ある」といって周囲に人たちに
嫌われています。どうか皆さん準備をお忘れなく。
ところで大夕張では大地震があったのでしょうか?

(696)気を付けて行きます 投稿者:山口  投稿日:01月16日(日)00時44分36秒

奥山さん情報ありがとうございます。
雪道は何度も運転したことがありますが慣れていないレンタカ-なので気を付けて
行きます。(北海道の人は飛ばすんですよね?)

(695)ありがとうございます 投稿者:工藤 央  投稿日:01月15日(土)16時03分05秒

奥山 道紀さん、情報ありがとうございます。
「堀田ミルクプラント」さんの情報を探してみようと思います。
あの時のことは一生忘れられない出来事でしたので・・・

http://www.nspnet.ne.jp/nsp/


(694)第2回大夕張チャット 投稿者:飯田 雅人  投稿日:01月14日(金)22時10分45秒

第2回目の大夕張チャット、新装開店になった『喫茶シューパロ』で行いませんか。
日にちは1月29日(土)の午後11時から。場所はもちろん『喫茶シューパロ』で。
ぜひ、都合をつけて、参加してみてください。

それまで、時々『喫茶シューパロ』に下見をかねて顔を見せてくださいね。

(693)「道路状況」 投稿者:奥山 道紀  投稿日:01月14日(金)12時19分17秒

札幌から大夕張までだと
国道274号・道道3号(札幌・夕張線)・道道38号
(夕張・岩見沢線)・国道452号経由が一番距離も短く
時間もかからないと思います。
どの路線も昼夜とも完全除雪されていますが、山口さんは
冬道の運転の経験は〜?。除雪は行き届いていても路面は
圧雪・アイスバーン、ハンドル操作やブレーキ操作の加減
で簡単にスリップします。
札幌・夕張線の夕張トンネルの手前は登りの急カーブがあ
りますので、自信がなければ国道274号を紅葉山まで直
進して夕張・岩見沢線へ入り清水沢から国道452号に入
るルートをおすすめします。

(692)冬の大夕張 投稿者:山口  投稿日:01月14日(金)02時01分11秒

飯田さん、みなさんこんばんわ。
さて、来る29、30日に北海道に行くことになりました。
そこで、ぜひ、大夕張にも立ち寄りたいと思っています。
札幌でレンタカ−を借りていこうと思うのですが札幌から夕張までの
道路状況は良いのでしょうか?

(691)羆に脅かされ羆に助けられた話 投稿者:ふぉんていん  投稿日:01月13日(木)22時09分02秒

はじめまして、匿名にて失礼します。小生、緑町で生を受け(産婆さんは池田さんと仰る方です)、
東高卒業まで大夕張に在住しておりました。「大夕張掲示板」に邂逅し、望郷の念で筆を執らせて
もらいました。

昭和四十年代前半だったと思いますが、シューパロ湖畔で飼われていた羆が脱走したことがありま
した。ハンターの方々が数週間追い続けてしとめたと記憶しています。当時、新聞にも連日関連記
事が掲載され、なぜ自衛隊が出動しないんだと子供心に思ったものです。

実は、私には羆にまつわるもう一つの思い出があります。
大夕張炭坑が閉山した翌年頃の秋の出来事なのですが、当時高校生だった私は、登山経験が豊富な
50嵐君の口車に乗り、身の丈三尺二寸五分のO畑と3人で羆が頻繁に出没していた夕張岳登山を決
行しました。
バイクを駆り午後9時頃に山小屋近傍に到着した後、羆除けとしてトランジスターラジオをハイボ
リュームでガンガン響かせながら冷水コースを登坂し、お花畑を過ぎて風通しに差し掛かった頃で
す。
先頭の50嵐君が私に出発前に納豆を食べたか否かを誰何します。期待を裏切って悪いが未納な旨を
伝えると、50嵐曰く納豆に酷似した臭いがすると言うのです(注:私の納豆好きは親しい間柄では
有名で、長谷川潤一に至っては休日まだ寝ているところを訪ねてきて、親も呆気にとられているう
ちに納豆ネタの独演会をブチかまして帰る始末。当時から潤一には或る種非凡な才があった)。
暫しその場に立ち留まっていると「動物園に行ったときこんな臭いがしたなぁ〜」と呟く50嵐。
「登別の熊牧場の臭いにも似てるなぁ〜」と再び50嵐。そーいえば東小学校の修学旅行で熊牧場に
行ったことがあるなぁ〜と
回想したのはほんの一瞬でした。シンガリの身の丈三尺二寸五分はと振り返ると、顔面蒼白でコチ
ンコチンにフリーズしています(小生心の声:固まっとらんで早く仰臥せんかい。お主が一番目立っ
とるんじゃい。アドレナリンを分泌させんかぁ〜)。
オットリ刀の体でキャップランプとラジオを消し突っ伏して我に返ると、数十m程前方を黒い影が
横切っているではありませんか。

幸いにも我がチームは黒い影の風下に位置していたので事なきを得ましたが、頭の中は真っ白とし
か言いようのない状態で、羆?が通り過ぎた刹那、20kg超のリュックザックを物ともせずに脱兎の
如くサミット直下の急勾配を駆け上がったのでした。
深夜の午前0時30分頃の出来事です。若かったなぁ〜。

しかし、事はこれで終わりませんでした。神社の脇にテントを設営してホッと一息し、まずは腹ご
しらえとガスコンロに着火した直後、コンロが火達磨状態となったものだから、さぁ大変。着火し
た当の本人50嵐は意味不明に吃音を発して雄鶏状態に陥り(小生心:エテコーじゃあるまいし火を
見て騒ぐなっつ〜の)、また解凍間もない身の丈三尺二寸五分は再度フリーズしてしまった(小生
心:また固まっちまったぁ〜。血糖値下がってるんでないかい)。
結局、私がテント外にガスコンロを放り投げて一件落着と相成ったのですが、ガスボンペが爆発す
る可能性など考えにも及びませんでした。きっと、頭の中が真っ白だったからこそできた僥倖だっ
たのかもしれません。そういう意味では、羆?に感謝しなければならないのかも。

いつまでも大自然に育まれ、羆をはじめ野生生物が安住できる夕張岳であることを祈念し、筆を置
きます。

(690)幼稚園の思い出 投稿者:工藤 央  投稿日:01月13日(木)12時24分02秒

色々思い出に関してかかれていますが、私もひとつ思い出したことを書きます。

昭和44年頃だったと思います。
当時風邪をひきやすい体質だった私は(今は頑丈すぎるくらいです)、数日間幼稚
園を休んでいました。
しかし熱も下がり体調も良くなったので、久しぶりに幼稚園に行くことになったの
です。
しばらくぶりにみんなと会えると喜び勇んで明石町のバス停より大夕張に向かいま
した。
鹿島小学校を眺めながら幼稚園に着いたとき、なんと幼稚園は休みだったのです。
ぐるっと幼稚園の周りを見回してみても人気が全くないのです。
一人で心細くなった私は、小学校のほうに泣きながら下りていきました。
学校の裏ではちょうど給食の準備で業者が入れ替わり立ち代り出入りしていたので
すが、私にとっては全く関係なくただただ大泣きしながらバス停を目指したのです。

すると牛乳を搬入にきていた二人組みの森永牛乳のお兄さんに呼び止められたので
す。
「ぼうやどうしたの?」
「(泣きながら)幼稚園が休みだったのぉ。休んでいたからわからなかったの。」
「おうちはどこ?」
「明石町の教員住宅。」
「じゃぁちょっと待ってな。兄ちゃんたちこれからそっちに行くから、送ってあげ
 るよ」
「(何も考えず)うん・・・ありがとう。」
「じゃぁ運転席に乗って待ってな。」
といってその二人は運転席に私を乗せてくれ、その後家まで送ってくれたのです。
母のところまで送ってくれ、最後に幼稚園のかばん?(ポシェットのようなもの)
に牛乳瓶を二つ入れてくれたのです。
「もう泣くなよ。男の子なんだから。明日はみんながいるといいな。」
そういって二人はようやく泣き止んだ私と、頭を下げている母の前からさわやかに
去っていったのです。

今でもその方たちには感謝していますが、どこにいらっしゃるのかも、名前もわか
るわけもなく、その代わりといっては何ですが、困った人がいるとついつい口も手
も出してしまう人間となってしまいました。
今でも忘れられない思い出です。

(689)映画の舞台・三菱大夕張鉄道 投稿者:奥山@三菱大夕張鉄道保存会  投稿日:01月12日(水)12時15分41秒

蒸気機関車の引く混合列車、車内のダルマストーブと
三菱大夕張鉄道は昭和40年代後半から多くの映画や
テレビに登場しました。
三菱大夕張鉄道保存会のホームページに「映画の舞台
・三菱大夕張鉄道」を加えましたので、是非ご覧頂け
ればと思います。

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/5963/index.html


(688)アイスクリーム 投稿者:林 恭子  投稿日:01月11日(火)18時44分30秒

みなさん あけましておめでとうございます。

あれはS40年代初めの夏の日だったでしょうか。
大夕張駅前の交差点辺りでアイスクリームを運んできたトラックが
故障して動けなくなりました。
どんどん溶けだすアイスクリームに慌てた運転手さんは
周りにいた人達にアイスクリームを「食べて!」と言って
幾つもくれました。
この特別なプレゼントが凄く嬉しかった思い出があります。
当時、我が家にはまだ冷蔵庫もなくアイスクリームはいつでも
食べられるものではありませんでした。
冬になれば天然冷蔵庫(←外)で粉ジュースを凍らせて
アイスキャンディーを両親がよく作ってくれました。
今では考えられないほど何もない時代だったけれど
楽しさだけは沢山ありました。子供だったからかな・・・

内川さん きっとあの時計屋さんの猫はM子ちゃんの
子供だったんですね。

(687)NHK・わが思い出の駅 投稿者:奥山 道紀  投稿日:01月10日(月)19時25分14秒

昨年末よりNHKの「ほっからんど」で「わが思い出の駅」を
視聴者より募集し、番組内で紹介しています。
「明石町」「千年町」「大夕張」「大夕張炭山」、通学や通勤
に利用した駅、合理化・閉山で大夕張を離れる友人を見送った
駅、色々とおもいではあるものと思います。

060−8703(住所は省略可能)
NHK札幌放送局・「わが思い出の駅」で投稿を受け付けてい
ます。

(686)ホームページ見て泣いてます。 投稿者:藤田 育雄  投稿日:01月09日(日)21時47分13秒

懐かしい偉大な大夕張のホームページいつもありがとうございます。
関東に住んでいます、東高校5期生のメンバーにこのホームページのお話しを
知らせたら、懐かしい写真、情報で大変盛り上がっております。
関東に住んでいますメンバーはほとんど集団就職で18才で上京悩みも悲しみ
も喜びも色々な苦労を乗り越えて現在の中年にいたっております。
ふる里から遠い星空を眺めて何度帰りたい、帰れないと考えふる里を思いうか
べていた事でしょう。
最近になりまして時間の余裕が出て来て、思いきって大夕張に行きました。
そこは青春の思いでの町で無く高校、中学校、も雑草の中でした。
ただ小学校が残っており本当に良かった。
グランドにある大きな木に小さなブランコがありました。
思いきり小学生に戻り、乗りましたら、小学校が大きくなったり、小さくなっ
たり この中年少年の目に焼き付いております。での昨年の秋、最後の町の砦も
崩れたと聴きました。もう実際のふる里は無くなってしまいましたね。
でも今生きています大夕張の住民の心にいつまでも残っていますので安心!
時々楽しみに大夕張掲示板をみて、関東仲間に楽しい連絡をしております。

(685)丸山 直記様 投稿者:古山 園美  投稿日:01月08日(土)23時22分20秒

直記兄ちゃんへ
投稿ありがとうございます。
正月に実家(といっても徒歩10分ですが)に帰って,
この大夕張掲示板を見ていたとき,「ア,直記兄ちゃんだ!」
と最初に気づいたのは母でした。
私の記憶にある直記兄ちゃんは,学生服を来た,高校生の姿です。
そして,直記兄ちゃんの記憶にある私は,きっと小学生なんでしょうね。
う〜ん,30年以上過ぎちゃったんですね・・・
母は,大学に入るときかどうかはともかく,
セーターを編んだ事は覚えていました。

母が,「これ印刷して丸山さんのおばさんに見せてやりたい」と言うので,
去年の2月に買ったきり,10ヶ月箱に入ったままだったプリンターを,
今日接続してみました。
ためし刷りはうまくいったのですが,掲示板を印刷すると,
ページ数が多いせいか途中で止まってしまうのです。

以前に書かれていた,インフルエンザのワクチンの話。
丸山さんのおばさんが「直記が注射しろってうるさいんだよ」と言っていたと,
母が言っていました。
今年は,子供用のワクチンが足りないんだそうですね。
それというのも,去年たくさん死亡者が出た老人施設で,
ワクチンをためこんでいるからだと聞きます。
高齢化社会・少子化が問題だというのなら,
配分先が違うんじゃないかという気もしますが・・・

話が大夕張からずれてしまいました。今日はこの辺で・・・

(684)祝!改装 投稿者:今井 一郎  投稿日:01月08日(土)18時43分02秒

 飯田さん、祝!改装ですな。リンクもありがとうございます。
 カウンターのロゴが変わったので、何かあるな、と、思っていたら随分スマー
トで軽快な感じになりましたね。「とりあえず3回目の改装」ってことはもっと
何かを企んでいるのでしょうか?楽しみです。

追伸
 カウンターも間もなく40000アクセスですね。20000、30000を狙ったのですが
ダメだったので今回こそ・・。

http://www.alles.or.jp/~ichiro16/


(683)かっこいい!!HP 投稿者:ヒロ 三浦  投稿日:01月07日(金)22時37分15秒

飯田さん、明けましておめでとうさんです。今日はじめて新装開店のHPを
拝見いたしました。ウーン..かっこいいの一言です.
大夕張とは思えない空間ですね!!
空間デザイナーってな感じかな、今日は旭川ですが、このページを見ていると
ホットします。今年もファイト大夕張!!ネット

(682)トルコ 投稿者:古山 園美  投稿日:01月07日(金)22時21分50秒

 今度こそ,自力で投稿できるといいなあ。
(過去2回は,飯田さんに載せてもらったので)

 10年前,初めてトルコ(風呂じゃないよ)に行きました。
かの有名なカッパドキアにある町に行った時、『大夕張の匂い』を感じました。
それは,街じゅうでたく,石炭のにおいだったのです。
そして,うす紫色の石炭の煙の中に沈んでいるような,夕暮れの町は,
まるで大夕張でした。

 そして,去年の夏,『20世紀最後の皆既日食』を見るために,
再びトルコを訪れました。おもに田舎の方ばかり3人で旅したのですが,
行く先々で人々がとても親切にしてくれました。
お茶をご馳走してくれたり,「うちに来てご飯を食べてけ」と誘ってくれたり,
道に迷って遭難しかけたとき,親切に道案内してくれたり・・・
この過剰なほどの親切心は,大夕張だなあと感じました。

例1 
 鹿島小の閉校式の後の,お別れパーティー,
体育館に行ったのが遅くて席がなくて壁際に立っていたら,
地元の人がダンボール箱とかでテーブル作ってくれて,
料理も自分たちのテーブルから分けてくれて・・・

例2
 5年ぐらい前の冬に友達と3人で大夕張に行った時,
お昼を食べるのに,食堂がなくて,パンを買って歩きながら食べてたら,
カラスに襲われそうになったので,カップ麺を買って,
千年町の交番でお湯をもらおうとしたら,おまわりさんがいなくて,
近くの志村菓子舗があいてたので,そこでお湯だけもらおうとしたら,
おばあちゃんが「よく来たね」とか言って,家の中に入れてくれた。
その時,「大夕張りの水は日本一だよ」と言っていた。

 みなさん、海外旅行をするなら,トルコをお勧めします。

(681)苫小牧で出合った大夕張 投稿者:飯田 雅人  投稿日:01月07日(金)18時36分54秒

先日留寿都にスキーに出かけた帰り,苫小牧博物館に寄ってきました。
化石の展示も多くあり,アンモナイトや貝の化石がいっぱいありました。
産地を見ると三笠の桂沢あたりもそうですが,産地「大夕張」とうたれた
化石が本当にたくさんありました。
当時,化石は身近なものでした。近所のおじさんや父が持ってきていた
こともありました。化石は官行の方でよくとれるよ,という話も聞いたこ
とがありました。
以前の投稿や大夕張を舞台にした『僕と相棒』などを読むと,白金の沢
あたりで,よくとれていたようですね。

(680)時計屋さんの白ネコ 投稿者:内川 准一  投稿日:01月07日(金)18時35分37秒

明けましておめでとうございます。
あ、身内に不幸があった人は、オメデトウといわないんだったっけ!
みんなにとって鹿島小学校という身内。命日は11月22日?
ところで、12月27日の林さんの投稿を読んで、ずうっと考えていました。
岳富町の時計屋の窓にいたという両眼の色が異なる猫のことです。
昭和37年まで弥生町の我が家で飼っていた猫がそうでした。
白地に茶色の斑が混じる二毛ネコで、片眼が金色に近い黄色で、
もう一方がブルーグレーのような色でした。
大夕張では、他に見たこともない猫でした。
M子と名付けたその猫は、我が家で4年間かわいがっていましたが、
頭のいい猫で、ネズミもスズメも良く捕りました。
私には特になついていて、言葉が分かるのかと思うほどでした。
けれども、我が家が大夕張を離れるとき、「猫は家につく」と言われ、
泣く泣く、長屋のお隣に住んでいた茂木さんにお願いし、譲ったのでした。
それから数年して、Mがいなくなったと連絡がありました。
今でも(いまだに!)悔やまれるのは、人(自分)の身勝手さです。
人間ならば、生きてさえいれば、消息をたどり、詫びることもできるのに、
裏切ることになってしまったMには、(何処にいるのか捜すことも)
どう感じていたのか、聞くことも謝ることも出来ません。
54年に初めて再訪した大夕張で
眼の色の異なるMの子孫を捜す自分に驚いたことを覚えています。
今住んでいる室蘭の、幸町界隈を走り回る眼の色の異なる野良猫を見て、
いつも、この猫の幸運を祈るのです。
(この猫は真っ白で、眼は緑と青の組み合わせです。)
こんな想い出を持つ人は他にもきっといるんだろうな。
そして、これと全く逆の想い出を持つ人もいるかもしれない。
いずれにしても、地域の崩壊は、誰にとっても過酷な現実だった。
 
岳富町の時計屋さんのネコは、きっとMの子供だと思います。

(679)祝・新装開店 投稿者:奥山 道紀  投稿日:01月07日(金)12時14分27秒

ホームページの「新装・開店」おめでとうございます。
さらなる「大夕張の輪」が広がることを祈ってます。

(678)河野歯科のブルドック 投稿者:片山利明  投稿日:01月06日(木)19時57分35秒

あけましておめでとうございます。
投稿するのは本当に久しぶりでもうお忘れになったと思いますが
毎週、必ずこのHPを拝見させて頂いております。
林さんの書き込みに有ったブルドック、私はあの犬に噛まれました。
同級生の藤本君(藤本医院の三男棒)といっしょに、
いたずらをしていたら、想像していたよりも鎖が長くてガブリ!!
痛くて泣きそうになりましたが、バレルと絶対に叱られるので
(藤本君にしてみれば、隣の家ですから)
我慢して帰った記憶が有ります。
話は変わりますが、千年町のどっかにコウモリを飼っていた家がありました。
屋根の上に網で囲った檻をのせ、10羽位のコウモリがいつもさかさまに
ぶら下がっていました。だれかご存知有りませんか?

(677)はじめまして(旭橋のことです) 投稿者:工藤 央  投稿日:01月06日(木)14時05分43秒

はじめまして。明石町に昭和45年6歳時まで過ごしていた工藤と申します。
父は夕張東高の教師をしており、校門脇の教員住宅に住んでおりました。
夏場にはバレー部の顧問をしていたため、よく生徒の方が合宿といってうちに泊ま
りこんでいたのを覚えています。

さて旭橋の思い出といえば、七夕の時に旭橋の上から使命を終えた笹と短冊を流し
ていたことです。
3歳下の弟は幼かったため記憶にはないそうですが、私は毎年短冊に書いた願い事
をかなえるために川に流すのだよと言われ、泣きながら家族で流しに行きました。
幼稚園生だった私は泣き虫で、ちょっとした悲しみで涙をしてしまっていましたが
現在ではせいぜいドラマに感動して、妻に見つからないように涙を拭く程度です。

今では父母は札幌に、私は東京、弟は千葉で家庭を持ち、それぞれに別々の生活を
営んでおります。
大夕張は私にとって最初に記憶のある土地でかつ生まれたところですので、ダムに
沈んでしまうと聞いたときには非常にショックでした。
5年程前に大夕張を訪れた際、生まれた場所を見に行きましたが、基礎に使用して
いた石が残っているだけで、校門がなければわからない状況でした。
なにかとりとめもない話になりましたが、私にとって大夕張は永遠の思い出になっ
ています。

(676)古山園美様 投稿者:丸山直記  投稿日:01月05日(水)13時40分06秒

古山園美様
なつかしいお名前を見つけました。
元気でいらっしゃいますか?
あなたのお母さんから私の母を介してお噂をうかがっています。
私が大夕張を出たのは昭和42年ですから、
もう30年以上お会いしていないのではないでしょうか?
昔の元気な園美さん(ちゃん)をよく覚えています。
大学に合格して大夕張を出る時、あなたのお母さんが編んでくれた
セーターはもう着られませんが今でも大事にとってあります。

(675)スピッツのこと 投稿者:菅井宏史  投稿日:01月04日(火)04時32分41秒

飯田さんが書かれたのと同じスピッツかどうかは分らないのですが、
そういえば私の住んでいた富士見町6丁目の家の斜向かいのお家
(富士見町の町内案内図で我が家(菅井)の右斜下のにある「本間」、
「渡部」というお名前のいずれかの家だったと思います。)によく
吠えるスピッツがいました。
学校の行き帰りや、どこかへ出かける時はその家の前を通るので、
その度に必ずと言っていいほど吠えられたものです。
スピッツに対しては飯田さんと全く同じ印象を植え付けられた次第。
そのお陰で今でもスピッツという犬はどうも苦手です。

富士見町5丁目というのがどの辺を指すのかよく分らないのですが、
もし我が家(6丁目)の西側に面した前の道の向側が5丁目であれば、
飯田さんのおっしゃるスピッツは私の記憶のスピッツと同一犬という
ことにひょっとしてなるのかもしれませんね。

私の大夕張の懐かしい思い出の一コマに嫌いだったあのスピッツが蘇りました。
(今となっては、お前はいいやつだったと心から言ってあげたい!)

追伸:そう言えば、どのオリンピックだったか水泳で金メダルを量産した
アメリカのマーク・シュピッツという選手がいましたよね。
その選手の活躍ぶりを見ている時、ほんの一瞬でしたがこのスピッツの
ことを思い出したことを、今思い出しました。

(674)犬の話 投稿者:飯田 雅人  投稿日:01月03日(月)23時52分06秒

2000年の正月3日たちましたがみなさんいかがお過ごしでしょうか。

さて,林恭子さんの書き込みを読んでずっと思っていたんですが,記憶がだ
んだんと甦ってまいりました。
私は,河野歯科医院に通っていました。小学校1.2年の頃ですから昭和37、
8年と思いますが,確かにブルドックがいました。千年町駅側の外の犬小屋に
つながれていたんですよね。その恐ろしい顔におそれをなして,こわごわとそば
を通っていたように記憶しています。
ただ珍しい犬だったので,怖さ半分,興味半分だったように思います。

もう一匹当時の犬で思い出したのが,私の小さい頃の友人のN君で,富士見町の
本当に山の上の方,5丁目の住宅に住んでいたと思いますが,よく彼の家に遊び
に行きました。
いたずら好きの彼は,花火の火薬を瓶に詰めて棒で突き,眉毛を全焼したという
逸話の持ち主でしたが,その彼の家に白いスピッツがいました。
その小さなスピッツはよくほえました。私が遊びに行く度にほえられ,追いまわ
れたこともしばしば。
スピッツ・イコール・よくほえる犬。子供心にそんな情報がそこでインプットされ
てしまったように思います。

(673)夕張関係者メールください 投稿者:隆ちゃん  投稿日:01月03日(月)21時41分54秒

僕は昭和53年まで夕張にいました
仕事で東京に出てきて現在に至ります
今日始めてホームページを見て懐かしく思いました
誰か 栗山町の近況を教えてください

(672)2000年を迎えて 投稿者:稲村 美奈子  投稿日:01月03日(月)19時28分22秒

皆さん、今年もよろしく!
昨年はこのH.Pで数々の方々と出会えることができ、HAPPYな1年間
でした。大夕張にとっては、悲しくてやるせない1年間だったかも
しれませんが・・・。今年も何もなくなってしまった大夕張の想い出
と共に、皆さんとの輪をどんどん広げていきたいと思っていますので
宜しくお願いします。 話は変わりますが、山中さんの掲示板を読ませ
ていただきました。私の父は鹿島東にいたのですが(吉田要作)山中
先生の記憶が甦ってきました。当時私は中2でした。父は残念ながら
昨年亡くなりました。もっと早くこのHPに出会えていたら見せてあげる
ことができたのにと、とても残念です。山中先生、チャットの方にも是非
ご参加ください。

(671)今年もよろしくお願いします 投稿者:古山 園美  投稿日:01月03日(月)17時50分36秒

大夕張掲示板をご覧の皆様,明けましておめでとうございます。
 
 私は,生まれたのは真谷地ですが,1歳から中2のはじめまで,12年間大夕張に住んでいました。
鈴木(中島)さん,吉田(稲村)さん,成松君,佐藤君,長谷川君と同じ26期です。

 このHPのことは8月に,早苗ちゃんに教えてもらってたんですが、
ブラウザのせいか,はたまた単に自分が悪いのか,なかなか接続できませんでした。
が、AOL4.0から5.0にバージョンアップしたら,写真も見れるようになり,
年末に全ての写真,これまでの投稿を2時間かけて保存して,正月にじっくり眺めていました。

 大夕張に関して,語りたい事はたくさんあります。
とりあえず,今日(2日)は夕張岳がとてもきれいで,望遠レンズを引っ張り出して,
何枚か写真を撮りました。私が住んでいるのは北広島ですが,
部屋の窓から夕張岳がよく見えるのです。もちろん,前岳より夕張岳の方がずっと高く見えます。
 
 でも私は,大夕張から見た『前岳の方が高く見える夕張岳』の構図が好きです。
小学校の図工の時間に何度その絵を描いたことか・・・

 今後もいろいろ投稿したいと思いますので,よろしくお願いします。

(670)あけましておめでとうほざいます 投稿者:山口  投稿日:01月02日(日)23時33分48秒

あけましておめでとうございます。
今年もHP楽しみにしています
今年はこのHPで予習して、ぜひ、大夕張へ行きたいと思っています
いろいろ情報教えてください。お願いします

(669)今年もよろしくお願いします。 投稿者:奥山 道紀  投稿日:01月02日(日)18時12分13秒

飯田さん、昨年は色々とありがとうございました。
そしてこのホームページ関係者の皆様、あけましておめでとうございます。
元日、妻の実家の岩見沢から夕張に向かう際、鹿島まで足を伸ばし「西暦
2000年・大夕張の正月」を確認して来ました。

無人地帯となった大夕張ですが国道が通年通行のため除雪も行き届き、一
事業所(日北酸素)が操業中のためNTTの交換機もまだ生きてます。
鹿島小学校校舎は既に無く建物は千年町(鉄道が残っていれば、新千年紀
ということで「乗車券」が売れたのでは?)・岳富町等にわすがに残るだ
け。樹木の少ない「ずり山」とかつての「富士見スロープ」の跡にかつて
の大夕張の記憶が蘇るだけです。
通る車も少なく静かな、静かな「大夕張のお正月」でした。

さて、かつて千年町で営業していた「志むら菓子舗」さんをご存知でしょ
うか。昭和38年頃に清陵町に移転し営業していましたが12月23日、清水沢
駅前のパチンコ店跡に「焼きたてパンの店・志むら菓子舗」駅前店が新装
オープンしました。焼きたてパンのほかに「夕張岳」や「ユーパロ」の銘
菓も扱ってますので、故郷に帰ったときには立ち寄ってかつての大夕張を
思い出して下さい。

(668)新年のご挨拶です 投稿者:ヒロ 三浦  投稿日:01月02日(日)14時17分22秒

このHPをこよなく愛する全ての皆さん、明けましておめでとうございます。
今年もこのHPを根っこに楽しく、思い出を繰り広げられることを楽しみにして
おりますとともに飯田さん!今年もアクティブに活躍される事を願っていますね。
また、色々なところで数多くの皆さんにお会いできる日を楽しみにしていますので
お手柔らかにお願い致します。

(667)新年のご挨拶 投稿者:菅井宏史  投稿日:01月02日(日)00時34分40秒

飯田さん、またこのHPに集う皆々様、あけましておめでとうございます。

皆様方の大夕張に関する昔と今の懐かしいお話、貴重な情報をいつも嬉し
く、有り難く拝見させて頂いてます。感謝、感謝。
私も何かまた思い出すことがあれば、その都度お邪魔させて頂く所存です。

今年もよろしくお願いします。

(666)今年もよろしくおねがいいたします 投稿者:乗田 功一  投稿日:01月01日(土)05時14分11秒

飯田さん,昨年中はいろいろとお世話になりました.
昨年後半は私自身ホームページを開設した関係もあり
ほとんどお邪魔することが出来ずすみませんでした.
今井さんも書かれているように飯田さんのホームペー
ジをきっかけに多くの方々と知り合うことができて本
当に感謝しています.
シューパロ塾や鉄道保存会なども飯田さんのホームペ
ージがきっかけといっても過言ではないと思います.
今年もこのホームページへお邪魔しますのでよろしく
お願いします.

http://plaza22.mbn.or.jp/~Noritax_World/


(665)あけましておめでとうございます 投稿者:今井 一郎  投稿日:01月01日(土)03時51分14秒

飯田さん、旧年中はお世話になりました。
飯田さんのHPを通じて知り合った高校生と大夕張撮影会や、シューパロ塾で初
めて飯田さんとお会いできたこと、旧三菱鉄道や三菱バスの保存活動を通じてお
話できたことなど、走馬灯のように脳裏に浮かびます。
さて、2000年はどういう年になるのでしょうか?
皆さんにとって良い年となる事を祈念いたします。

http://www.alles.or.jp/~ichiro16/


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