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1999年    
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平成11年 11月 先頭にもどる


(609)千年町駅 投稿者:奥山 道紀  投稿日:11月30日(火)20時04分38秒

叔父が大夕張営林署に勤めていて、よく「南大夕張」から
列車に乗り大夕張に行きました。
列車を降りるのは「千年町」、そして帰りは「三菱購買会」
で買物をして「大夕張」から乗車する事が多かったようです
。当時の「購買会」は二階にも売場があり、夕張では「おか
むら」「中央ストアー」につぐお店でした。
たまに帰りも「千年町」から乗車することもありましたが、
列車が「大夕張」駅を出る汽笛を鳴らしてから、「千年町」
に着くまでの時間が異様に長く感じられた記憶があります。

(608)小学校の項、汽車通学していました。 投稿者:向 けい子  投稿日:11月30日(火)10時27分56秒

昭和35年頃、私が鹿島東小学校に入学した頃は、明石町の児童は
皆、汽車通学でした。帰りは、常盤町を通って、あのコワイつり橋を
渡って帰るか、千年町の駅まで戻って汽車で帰るかでした。
バスに乗って帰ることはほとんどありませんでした。
ずうーと後なってバスに乗ったとき千年町から明石町までで、料金は
5円か10円だったと思います。
父が大夕張鉄道に勤めていまして、千年町にも勤めていましたから、
学校帰り、千年町駅は私の遊び場でした。

(607)明石町から鹿島東小学校 投稿者:奥山 道紀  投稿日:11月30日(火)09時01分32秒

小林さん、早速の回答ありがとうございます。
昔は、徒歩通学だったのですね。
いつから「汽車通学」、そして「バス通学」と変わった
のでしょうか。
この掲示板にあった旭沢の鉄橋での「ドアぶら下がり」
の話が印象的です。

(606)小学校のストーブ 投稿者:小笠原 憲  投稿日:11月29日(月)15時35分04秒

ほんとうに久しぶりで書き込みます。
鹿島小学校が取り壊されていく姿をリアルタイムに見られるのは、インター
ネットの”おかげ”と言うべきか、それともインターネットの”せい”、と言
うべきなのか。
もう、飯田さんのこのページにしか人の住む大夕張はないのかもしれません。
”大切なものは、目に見えないんだよ・・・”
写真の校庭にはもう雪がうっすら積もっていました。
わたしの家は暖房に薪ストーブを使っていました。炭坑の町なのになんだかヘ
ンな話ですが、父親に理由を尋ねたことはありませんでした。
で、初冬の小学校の思い出です。5年生までの教室は、毎朝用務員さんが火を
つけてくれていましたが、6年生は週番が授業の前にストーブを焚く決まりで
した。はじめてこの当番がまわってきた朝、いつもより早く学校に行き、早速
新聞紙にマッチで火をつけましたが、あまり質の良くない粉炭は薪のように簡
単には燃え上がってはくれません。白樺の樹皮(”がんぴ”と呼んでいたよう
に記憶します)や木っ端を使っていろいろ試してみましたが、どうやってもす
ぐに火は消えてしまいます。だんだん泣きそうになってきて・・・結局自分で
はできなかったのでした。
ほろ苦い記憶として残っていますが、ひょっとすると今の子供たちは石炭を見
たことさえないのかもしれませんね。

(605)明石町児童の通学 投稿者:小林光志  投稿日:11月29日(月)12時14分01秒

明石町の児童は、常磐町の下にある橋を渡って通学していたことを記憶にあります。
私が中学時代の昭和36年頃までの記憶ですが。
私の小学校のころは、まだバスなんか無かったし、ダムの建設中でした。
三菱鉄道もまだ川沿いを走っていました。
千歳町と南部の間に無人駅もありました。ここで良く魚釣りをしました。
昭和36年以前には、開拓部落の児童の通学が不便だったのでどこかに分校が
あったことを聞いています。
場所は、思い出せません。私より古い人が知っているのではないでしょうか?
古くてすみません。

(604)大夕張と森林鉄道学習会 投稿者:奥山 道紀  投稿日:11月28日(日)21時31分06秒

本日、南部でのシューパロ塾学習会のついでに
大夕張炭山駅の跡まで入ってみました。
予想外に雪はうっすらと積もっているだけで、
鹿島小学校は体育館が半分位まで解体されて
いました。
大夕張で今、生きている建物は、「メタノー
ル工場」を利用した「日北酸素」工場だけな
のでしょうか。
南部での学習会ではダム建設工事のビデオや
森林鉄道のビデオを鑑賞、土木の専門家に
大夕張・南部周辺に残る土木遺産の説明を
受けました。
三弦橋や旧陸軍の開発した重構桁等、貴重な
構造物が大夕張周辺に残されていることが
わかりました。
講演の後には、地図を利用して、地域にどの
ようなモノが残っているか記入しました。
大夕張には、飯田さんが色々な思い出の場所
を記入していました。

(603)(無題) 投稿者:かくた りゅうじ  投稿日:11月28日(日)19時14分02秒

本日の鹿島小学校です。
中学校の閉校記念碑が移されて、大夕張の碑、小学校閉校記念碑と
3つ並んでありました。

http://www.geocities.co.jp/Colosseum-Acropolis/4117/tetudou/kasimaschool2.htm

(602)大夕張 最初の出会い 投稿者:飯田 雅人  投稿日:11月26日(金)22時22分50秒

小笠原憲さんが素敵なHPを作られました。
名前はまだないそうですが,今のところ,青い海,青い空がとても美しいイタ
リア旅行記が載っています。
小笠原さんはこのHPの生みの親といってもよい方です。忘れもしない1996年
秋,私は鹿島小の閉校を知り,それを伝える自己紹介を書いたページを見て,
メールをくださいました。そのころは,大夕張のページは作ってはいませんで
した。「大夕張がダムに沈む・・・」そんな思いを告げる相手もなく,ただ心
の中でつぶやいているような時でした。
小笠原さんとのメールのやりとりを通して私は大夕張のことをHPで伝えたい
という気持ちになりました。そして,小笠原さんとのメールのやりとりで感じ
た大夕張のことについて自分の思いを話せる楽しさ,懐かしさを,より多くの
方々と味わうことができないものかと掲示板の開設まで一気に進めました。

お気づきの方も多いと思いますが,掲示板にも私の次の2番目の投稿者で,こ
のHPの最初からお付き合いくださっている方で,小笠原さんの思い出も数多
くHPの中に掲載させていただいています。

この場が大夕張による何がしかの交流や出会いが生まれる場となることができ
たとするならば,その最初のきっかけとなったのが,小笠原さんの「ダムに沈
む!」というメールだったのです。

http://www.asahi-net.or.jp/~ij3k-ogsw/


(601)小学生用通学定期券 投稿者:奥山 道紀  投稿日:11月26日(金)21時14分00秒

鉄道関係のホームページを見ていたところ
「明石町〜千年町」間の通学定期券を発見
しました。
たしか、この掲示板で明石町の児童・生徒
は列車で鹿島東小学校に通ってたとありま
したが、その定期券でしょうか。
しかし、昭和45年頃に東小に在籍していた
友人によると、明石町の友達がバスで帰る
のを見送った覚えがあるといいます。
列車の本数が少なくなりバス通学に変った
のでしょうか?
その返、わかる方がいましたらご教示下さ
い。下記URLに三菱大夕張鉄道の乗車券
・定期などが掲載されています。

http://www4.justnet.ne.jp/~k-hirano/o-you.HTM


(600)客車保存署名と森林鉄道講演会 投稿者:奥山 道紀  投稿日:11月24日(水)20時52分24秒

「シューパロ塾」と「三菱大夕張鉄道保存会」で行ってきた
南大夕張の鉄道車両保存署名の集計が出来ました。本日、正
木塾長と今井鉄道保存会事務局長が夕張市長に提出して来ま
した。短期間で4.000通近くの署名が集まりました。皆様の
協力に感謝いたします。
署名の内訳は下記の通りです。
夕張       1052
空知        397
札幌・石狩    1119
道央        487
道南北東        67
東日本        392
西日本        93
記載なし        1 
電子署名          197(海外 1)
 計       3805

また、28日、午後1時より南部コミュニティセンターで森林
鉄道とその土木遺産をテーマとした講演会を開催します。
講師は本日の北海道新聞「20世紀・北の記憶」に登場している
進藤義郎氏ほかです。

(599)私の行った床屋さん 投稿者:菅井宏史  投稿日:11月23日(火)04時19分15秒

大夕張で私が行っていた床屋さんは二つありました。
確か小学校2、3年の頃までは官行(あの辺がこういう名称であったことは、
実はこのHPで始めて知った次第です)にあった床屋さん(名前は覚えており
ません)に、それ以降は春日町にあった横山さんという床屋でした。
その頃官行に親戚がいましたので、たぶんそこの床屋がいいと勧められて行っ
たのでしょう。あれは恐らくチップ工場だったと思いますが、それを右手に見
ながら行くと、確かその先に十字路(或いはT字路か?)があり、右に曲り、
少し行って道の左側にその床屋さんはあったと記憶しています。
春日町の方は、クラスは違いましたが同学年であった友人がその床屋の息子で、
頼まれて行くようになったと記憶しています。結構良かったのでその後
もそこを利用することとなりました。横山君元気にしてるかな?
どちらも家(富士見町)からかなり遠いところにあり、今思うと、何もそん
な遠いところにわざわざ行かなくてもよかったのにと思えてしまいますが・・。
菊地理髪店の話題で思い出したことです。

(598)記憶の糸 投稿者:飯田 雅人  投稿日:11月22日(月)23時22分14秒

昨日出したばかりの『詰所の捜索願』に対して,小林さんと奥山さんからのさっそくのRes
があり,また『菊地理髪店』についても佐藤さんからの書き込みがありました。もともと
メールをいただいきあの更新をしたわけですから,『詰所の捜索願』ももともとは,いた
だいたメールがきっかけということになるんですね。すごいですよね。
『菊地理髪店』のことなど,過去にいただいた投稿の(123)(124)(136)辺
りをみると,話がつながってきます。

こうして私の頭の中で,大夕張の過去のことが,しっかり太い糸につながっていくのがわ
かりとても嬉しいです。
この掲示板を御覧になっている方々も多いと思います。みなさんもどんどん書きこまれて
はいかがですか。そして,大夕張というマチの記憶の糸を太く大きく育てていきませんか。
・・・・・

千葉さんについては,昭和55年冬,学校を出て最初に赴任した札幌市西区の小学校のPTA
の懇親会で,偶然お会いしたことがあります。それもたまたま話が出身地のことに及び,
あの『リハツとパーマ』の千葉さんであるということがわかったのです。
佐藤さんが書きこまれた千葉さんかどうかわかりませんが,少なくとも親戚の方であった
ことは間違いないでしょうね。その話でさえ,今から20年近く前の話です。

(597)菊地理髪店 投稿者:佐藤 次男  投稿日:11月22日(月)21時11分03秒

菊地理髪店の写真が新しく追加されていましたが、私は菊地理髪店のすぐ近くに住んでいたので良く覚えています。
(私が栄町2丁目16番地、菊池理髪店が3丁目17番地)
飯田さんが写真の下のコメントで
 「私は,ここの場所を『千葉さん』と呼んでいたように記憶しています。途中で経営者が変わったのかもしれません。」
と書いていましたが、その通りで元々は千葉理髪店で私の同級生の親(またはお爺さん?)が経営していました。
千葉理髪店が千歳町に移り、その後に菊地理髪店が入ったのです。
菊地理髪店の経営者は、元々千葉理髪店で勤めていた人だったみたいです。
またこの写真では、菊池理髪店の裏は長屋になっていますが、昔は栄町の木造のお風呂だったんですよ
(一時期栄町にはお風呂が二つあったんですよ。)
このお風呂の管理者がお風呂の裏で駄菓子屋もやっていたのでよく買いにいったもんです。
飯田さんは大夕張幼稚園の道路を挟んだ隣フレンドにかよっていたとのことですが、
私も中学生の頃からフレンドにかよっていました。それまでは千葉理髪店,菊地理髪店とかよっていましたが、
一度菊地理髪店で、顔を剃ってもらったら左右の眉毛の太さが違っていたということがあり
それ以来フレンドにかよっていました。
皆さんも床屋にいって顔を剃ってもらう時は、左右の眉毛の太さが違わないよう気を付けましょう。

(596)三菱大夕張鉄道のビデオ 投稿者:奥山 道紀  投稿日:11月22日(月)21時08分01秒

国鉄の特急列車の車両などをデザインしていた黒岩保美氏(故人)
が8ミリで撮影したかつての「蒸気機関車」の映像がビデオ「蒸気
機関車時代・北海道編」として日本映画新社より発売されてます
(現在は直販のみ、03-3442-7251)。
この中で三菱上芦別の9200が登場しますが、機関車の形状や引いて
いる貨車を見るとどうも「大夕張」時代の映像なのです。
場所は大夕張炭山と明石町、昭和33年に大夕張に来た時の写真は
「鉄道廃線跡を歩く・W 三菱鉱業大夕張鉄道」に掲載されてま
すがどうも、この時に8ミリも撮影していたようです。
撮影者が既になくなっており、後に編集した監修者が勘違いして
テロップを入れたのでしょう。

「明石町」は昭和38年頃には大夕張礦の合理化で三菱の鉱員
の大半は移転し、大夕張生協関係者や北菱産業関係者などが住
んでいたようです。
昭和30年代には詰所はあったかも知れませんが、その後は廃
止されたのではないでしょうか。

(595)レンガの飾り 投稿者:内川准一  投稿日:11月22日(月)19時08分39秒

20日の夕方、鹿島小学校の校庭で、学校の解体工事を眺めてきました。
グラウンドはぐちゃぐちゃで、3台の重機が、いとも簡単に、校舎を分解していました。
1958年に3000万円だった校舎が、1999年にはその半額程度で解体されている景色です。
思えば昔、当時小学3年生の私は、これの新築工事を好奇心丸出しで眺めていたものでした。
そして、今、泥だらけの校庭に立って解体工事を見ている私がいます。
遠い時代からは、想像もできなかった現実が目の前にありました。
重機の歯が、恐竜の頭に見え、むき出しになった鉄筋が学校の血管にも見えてきます。
そして、鉄筋のきしむ音が学校の悲鳴にも聞こえてきます。
霧氷で白くなった夕張岳が神々しく、こちらを見ているような錯覚がつきまといます。
あっけない1時間でしたが、貴重な最後のお別れでした。
そして、「校舎の飾りのレンガ」の1塊を作業員さんの協力で車に積み込んで戻ったのでした。
何時の日か、私が家を建てたときに、門の化粧板に生まれ変わって鹿島小学校が復活する。

(594)詰め所捜索 投稿者:小林光志  投稿日:11月22日(月)16時11分56秒

こんにちは。
30年代中半までは、千歳町には、ありましたよ。学校の通学路の途中に。
場所は、定かではありませんが、駅から下って左に入る太い道路です。
飲屋街からは、離れていました。
千歳町にも錦町にも明石町にももあったはずです。
私は、春日町なので千歳町の通学路にあったことだけを覚えています。
竹富町は、30年代になって新しくできた町ですが、炭鉱労働者の住宅で
ないので無いことを知っています。
なぜならば、過去の投稿にもあったように労働者のお目付番のような役割を
していましたから。サボった、なんて事があったら必ず詰め所の担当者が
家まで出向いてきました。
当時の炭坑の管理は、戦前も含めて劣悪でそれはもう厳しい管理でした。
30年代半ばからは、あまり厳しく無くなったようですが。
誰かしっているはずです。
以上。

(593)川さんの食憶その4から 投稿者:稲村 美奈子  投稿日:11月22日(月)01時09分09秒

すごい!すごい!川さんの恐るべき記憶力。蘇ってきた給食の数々。
皆さんは給食が食べきれなくて残された記憶ありますか?
私はクリームシチュウもどきとカレーに入っていたお肉のかたまりが
いつも恐怖でした。それもあぶらのかたまりですよ。あれがどうしても
飲みこめなくて吐きそうになるし、涙はでるし・・・。でもこれを飲み
こまなくちゃ帰れないつらさ・・・。先生のお名前は幸い忘れてしまい
ましたが、確か女の先生が鬼のような顔で立っていたのを覚えています。
どうしょうもなくて、先生のいなくなったすきを見てちり紙に包んで机
の中に隠しました。次の日机を覗くと腐った臭いがプンプンと・・・・。
こんな思いをしたのは私だけでしょうかね。息子に聞いてみたところ、今
の小学校は自分の食べきれる量だけ入れてくれるらしいので安心しました。
気の弱かった美奈さんの給食の思い出でした。それにしてもあの気の弱さは
どこにいってしまったのでしょうか?

(592)明石町の詰所って 投稿者:飯田 雅人  投稿日:11月21日(日)21時49分47秒

先日メールを頂きました。その方は,幼い頃大夕張に住んでいて「町名は記憶に残って
いても大夕張全体のどの辺りに位置するのか定かではありません」とのことでした。
そうですよね。私も15年大夕張にいましたが,HPを作りながら記憶の糸をつないで
いくといった感じでした。それ程,遠い記憶になってしまいました。そんな方も多いと
思うので,「町内案内図」の方に簡単な全体の地図を載せたので(官行と白金がいいか
げんになってしまいました。住んでいた方々…すみません。)
その際,詰所の位置もうっていったのですが,地図には明石町の詰所が見当たりません
でした。岳富町,錦町,千年町などにないのはなんとなくわかるのですが。明石町に詰所
は本当になかったでしったけ?

(591)食憶その4・小学校の給食 投稿者:長谷川潤一  投稿日:11月21日(日)19時57分06秒

斎藤さんのところで小学校の解体の写真は、みんなショックだったっという話し
になり、鼓笛隊などの思い出話をしました。小学校にちなみ、給食の話しなどを。
ちょうど私どもが入学の折りに給食は始まりました。一年生から給食を食べたと
いうのは私どもからということらしいです。当然今と違って自校式ですからして
2時間目の終わりぐらいから、ホワホワと廊下などに本日の献立(小さな黒板に
書いてあった)のいい匂いが階段づたいに漂ってきたものです。よく憶えているの
はカレーシチュー、五目ラーメン、アサリシチュー(クラムチャウダーとは言わな
い)などです。それとコッペパン、たまーに黒コッペや角食2枚、きちんと金・銀
紙に包まれた雪印バターや六甲マーガリン、ソントンや耳輪印の小さいパック詰
めのジャムやスプレッド類、さくらのボール頭をねじ切って出すチューブ入りの
蜂蜜など。牛乳も最初は180の瓶でしたが途中でテトラパックになり、さらに
栄養アップということで青帯の200の瓶になりました。冬になるとストーブの
上の大きな蒸発桶にぎっしりと並べて入れてホットミルクにしましたね。これも
たまーーに、コーヒー牛乳やフルーツ牛乳などが出ました。牛乳の蓋で遊んだり
しましたね。蓋に書いてある森永恵庭工場というのはどこなんだろうと、ずーっ
と思っていたら、今現在恵庭に住んでいるですね、これがまた、食べ物の因縁は
怖いですねー? 天候や冬など道路事情が悪くなって森永のトラックが来れなく
なると、クラスに二つでっかいポットでココア風味のミルクが出ました。雛あら
れや柏餅、ショートケーキ、紅白饅頭なども出ました。出るといえばコッペパン
の北沢食品さんは今も清水沢の道路沿いに看板が出ていますね。好き嫌いのある
子はいませんか?きれいに食べないとだめですよ!いつもおかわりするとボクの
ように、こーんな大きな子になれますよ! わたくし現在91`です、はい。
鹿島小学校と給食室は永遠に不滅です!! なんか寂寥感がないなー・・・
 斎藤さん、無事出所の際には腰に手を当てて、一緒に牛乳で乾杯しましょ!

(590)はじめまして 投稿者:時の旅人  投稿日:11月17日(水)21時48分51秒

飯田さん、はじめまして。
奥山さんから飯田さんのサイト、教えて頂きました。
「故郷への想い」のページ、拝見致しました。
自分の故郷が消える、私には想像のつかない出来事でした。
自分の母校が解体される、それも建替えでなく・・・
河内(大阪)生まれの河内育ちの私にはホントに想像すら出来ない現実でした。
時々、寄らせて頂きます。

旭沢橋梁の写真も懐かしく拝見しました。
私もネガを探して「大夕張」のページを考えます。
おおきにでした。

http://www.yo.rim.or.jp/~slnet/


(589)今度は、今井さんも「奥様」とご一緒に 投稿者:奥山 道紀  投稿日:11月17日(水)20時32分23秒

今井さん、一年の経過って早いですね(年をとったせいか(^_^;))。
昨年の12月、会社での残業中に飯田さんのホームページを見ていて
突然、今井さんに電話をかけてしまいました(仕事は部下がしていたm(_ _)m
、上司が先に帰る訳にいかず残っていたのが真相)。
それから、飯田さんや、乗田さん、三菱バス保存会の蛯子さん、坂井さんと
多くの人々と会うことが出来ました。
これも飯田さんのお陰です。今井さん、今度は奥様をつれて夕張へ来て
みて下さい。皆さん、大歓迎かと思います。

(588)家族連れでうらやましい 投稿者:今井 一郎  投稿日:11月17日(水)07時27分27秒

 飯田さん、日曜日のお礼の書き込みが遅れてしまってすいません。
 飯田さんも奥山さんもご家族連れで夕張ドライブ。うらやましいです。なにか、
ほのぼのしますね。寄って下さっただけもありがたく思います。

 昨晩、奥山さんとの電話で、奥山さんが私宅に初めて電話をしてから1年が経
ったね、というくだりがありまして、月日が過ぎるのは早いと感慨にふけります。
 三菱バス保存会、シューパロ塾、三菱大夕張鉄道保存会・・。
 飯田さんのHPとの出逢いが、夕張だらけのこの1年のきっかけになりました。
妻はあきれていますが、私自身は充実した1年だったと思います。
 なにか年末の挨拶みたいになりましたけど、飯田さんのHPにより更なる輪が
広がることを期待します。

http://www.alles.or.jp/~ichiro16/


(587)本日の鹿島小学校 投稿者:かくた りゅうじ  投稿日:11月15日(月)23時09分49秒

本日、大夕張に行ってきました。
数少ない大夕張の建物がまた減ってきています。
初めて鹿島地区にあんなに人がいるのを見ましたが
悲しいです。
一応、写真を載せておきます。

http://www.geocities.co.jp/Colosseum-Acropolis/4117/tetudou/kasimaschool10.jpg


(586)鹿島小解体工事 投稿者:飯田 雅人  投稿日:11月14日(日)22時47分50秒

今日,鹿島小学校に行ってきました。すでに解体が進んでいました。
そんな話は聞きたくも知りたくないという方もいらっしゃると思いますが,私は自分の知
りうる鹿島小学校校舎の最後まで伝えたく書きこむことにします。

岳富町から見えた鹿島小の姿は,いつものそれでなく,灰色のコンクリートがむき出しに
なっており,解体作業が始まっていることがすぐにわかりました。
校門のところに「工事関係者以外立ち入り禁止」の看板が立っているものの,日曜日とい
うこともあって,工事は行われていません。大きな重機が校舎に一台,体育館に一台,グ
ランドに一台とまっていました。
門の外に車を止め,坂をかけ上がると,すでに見慣れたあの端正な校舎はありませんでし
た。そこにあったのは,時計台はなくなり,窓や壁をぶち抜かれた大きな『箱』のような
空洞の物体でした。校舎の中に入るとまだ階段や廊下は原型を留めさほど違和感を感じま
せんでしたが,1階の音楽室の入口からのぞいてみると,向こうの景色が素通しで見える
ことに言い知れぬさびしさを感じました。外に出てみると,前庭の木々もひょうたん池も
グラウンドに引き倒され,その容赦のない破壊ぶりにあらためて現実を感じました。

悲しい・さびしいという言葉より,どこにもぶつけようのない憤りを感じながら,最後は
手を合わせ鹿島小を後にしました。

明日からまた重機が大きな音を誰もいなくなった大夕張の山々に響かせながら,作業が始
まるものと思われます。

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今日の休みも三菱大夕張鉄道の客車,三菱バスのシート掛けに精力的に作業されていた皆
さんご苦労様です。少人数でなさっていたのにお手伝いもできずに寄っただけで失礼して
しまいました。

(585)三菱バス、ご苦労様。 投稿者:奥山 道紀  投稿日:11月14日(日)21時05分45秒

三菱バス保存会+?の皆様、本日はご苦労さまでした。
「家族サービス」とは言え、途中で抜け出し申し訳なく
思ってます。

(584)三浦綾子原作・映画「塩狩峠」 投稿者:奥山 道紀  投稿日:11月12日(金)21時50分29秒

三菱大夕張鉄道で検索しましたら、下記の投稿がありました。
三浦綾子さんの愛読者のサイトのようです。

特急ホワイトアローさん (99/11/7) 
 「塩狩峠」は映画化されたことがあるそうですが、塩狩峠でロケしなかった?
塩狩峠は国鉄(現JR)宗谷本線にあるのですが、そこでは行なわず、三菱大夕
張鉄道で行われたそうですね。
http://www2f.biglobe.ne.jp/~mst_iida/tetudo9.htm
をアクセスすると、「三菱大夕張鉄道 塩狩峠ロケ列車」と解説された写真があ
ります。それはシューパロ湖岸を走る列車だそうです。ちなみに三菱大夕張鉄道
なるものは今は廃止になってしまいました。

 映画のラストシーン(婚約者が慰霊に向う)は「塩狩峠」での映像ですが、他
は三菱大夕張鉄道での撮影です。
 昭和48年3月18〜20日にかけて撮影されてます。

(583)客車は生きていた 投稿者:奥山 道紀  投稿日:11月10日(水)21時09分31秒

飯田さん、蛯子さんの書き込みの通り客車の台車
、トラス棒など下部の構造は油が塗られているの
か現役時代のように黒々としていましたよね。
三菱大夕張鉄道のOB会で今井さんは先輩から
「あの客車は俺達が整備して寄贈した」と聞いた
との事ですが、それだけ念入りに整備されていた
のでしょう。
客車は長い冬篭りに入りましたがOBの方々の
思いに答えるためにも、来年以降、地道に活動を
進めたいものです。
飯田さん、僕も「三菱バス」に乗りたかったです。

(582)忘年会 申込み先 訂正 投稿者:佐藤 次男  投稿日:11月09日(火)18時58分06秒

忘年会の申込み先が間違っていましてので訂正させてもらいます。
【申込み先】飯田雅人〜iida@mta.biglobe.ne.jp
      佐藤次男〜t-sato@north-wind.ne.jp

大変失礼いたしました。

(581)忘年会 投稿者:佐藤 次男  投稿日:11月09日(火)18時52分22秒

昨年12月5日に始まった第一回交流会
今年8月29日に行った第2回交流会
そして今年10月3日に行った鹿島小学校お別れ会(イタヤカエデの木の下で)
と回を重ねる毎に、ご家族で参加されたりと新しい参加者が増えています。
そこで今年最後の集まりとして忘年会を企画しました。
常連さんはもとより、新しい方の参加も歓迎しておりますので
沢山の方の参加をよろしくお願いいたします。

【1次会開催日時】12月11日(土)午後6時
【1次会開催場所】札幌市中央区南3条西3丁目
                        すもう茶屋ぽんぽこ亭
【会          費】 4千円      

【2次会開催日時】12月11日(土)午後8時
【2次会開催場所】札幌市中央区南5条西5丁目モモヤビル6F
                        ポテトスター
【会          費】 3千円〜4千円      


【申込み先】飯田雅人〜tiida@mta.biglobe.ne.jp
      佐藤次男〜t-sato@north-wind.ne.jp

*参加者名簿を作成しますので,申込みの際は氏名・住所・電話番号
メールを持っているかたはメールアドレスを明記してくださるとたすかります。

(580)鉄道のシート掛けで 投稿者:蛯子 隆一  投稿日:11月08日(月)20時44分34秒

昨日はお疲れ様でした。私も床下に潜り作業しましたが、確かに飯田さんが仰る通
り「油の焼けた匂い」がしました。台車のグリースもところどころ残っておりまし
たし、素人目ですがボデーの状態とは対照的に床下はあまり年月の経過を感じさせ
無い印象でした。作業が終わり帰宅すると何か頭皮がザラザラします。手で触ると
細かな石炭のガラが沢山落ちてきて、きっと床下作業の際に客車の梁に被っていた
ものなのではないかと思いました。ここにも「炭坑鉄道」の名残がありました。

そして今回は大夕張と縁のある皆さんとの出会いの場を設けて下さった飯田さんと
もお会い出来、とても有意義な時間を送ることが出来ました。バスに付いている暖
房スイッチ基盤(ラジオではなく)がバチっとショートすると云うハプニングもあ
りましたが、飯田さんが「子供の頃に戻ったようだ」と云う言葉を聞けて本当に良
かったです。これからもそのお言葉に応えられるようボデー再生を頑張ります。

(579)「大夕張」未来へ 投稿者:飯田 雅人  投稿日:11月08日(月)00時02分13秒

今日の夕張行きは久しぶりの快晴。雪化粧した夕張岳に向かって高速道路を飛ばしました。
南部のコミュニティセンターで行われた『三菱大夕張鉄道』の学習会。
古い写真をもとに,石炭産業と共に発展してきた鉄道の歴史をふりかえりました。
また,閉山間近の南大夕張構内での様子を撮影した貴重なビデオ映像で往時を偲びました。
こうして辿って見るとこの南部・大夕張地区の長い歴史の中で,列車や人々の往来が盛んだっ
たことが,そしてその時期をそこでくらしたことがなんだか夢のように思います。

午後から客車のシートがけの作業を行いました。手際良いみなさんの様子を横目に見とれてい
ることの方が多かった不器用な私ですが,シートかけのお手伝いをさせていただきました。
子供の頃は怖くて近付けなかった列車達ですが,今は静かに放置されている客車の台車にもぐり,
シートからの紐を結びつけました。放置されてすでに10数年立っているのですが,不思議な
ことに,やけたような懐かしい油のにおい(?)を今だに漂わせていました。駅のホームに立つ
と感じていたあの懐かしいにおいです。まだまだ生きているぞ,そんな声が聞こえるような気
がしました。

三菱バス保存会によって保存されている三菱バスにも乗せていただきました。
車内に入った瞬間,すっかり少年の頃にタイムスリップした感じでした。シートの色,内装の
状態も当時のままのように感じました。おまけにあこがれの運転手さんのシートに座らせてもらっ
て。あらためてよくこの状態にまで復元されたと感心しました。
ただ,ラジオがショートして火花を散らしたのにはちょっとびっくりしてしまいましたが・・。
夕闇に車内灯が灯るともうこのままこのバスに乗って札幌に帰りたくなりました・・・。
このバスに乗ってみんなでもう一度現地学習に出かけたい,そんな夢みたいことも思わせてくれ
ました。

最後にやはり鹿島小学校に行ってきたました。10月2日のお別れ会の時のために作った校歌の
カラオケで,鹿島小を前に一人で歌ってきました。一人で歌う校歌は念仏のようにも聞こえ悲し
くなりましたが,2番の最後までしっかり歌ってきました。最後のお別れをしてきました。

客車もバスも多くの人達の手がかけられ,少しずつ未来に向かって長い眠りから覚めて生命が
与えられようとしていることを感じました。そして,解体されようとしている鹿島小学校の廃材
もまた新しく形を変え,あるいは場所を変えこれから未来に向かって生き続けようとしています。

(578)誇り・絆・未来 投稿者:斎 藤 敏 幸  投稿日:11月07日(日)22時03分09秒

8月8日,午前10時,チャット仲間で鹿島小学校に集まりました。その日は,朝から陽
射しが強い暑い1日でした。外気とは対照的に,校舎の中は涼しく,人影もなく静まりか
えっていました。いたるところ窓ガラスが破られ,教室の中も荒らされていました。

かつて,鹿島小学校の大きな校舎は,そこで暮らす人々にとっては,「誇りと自信」に満ち
ているものでした。それは,奥地ながら,夕張の本町にも負けないぐらい「大きな学校」
であるという地域の誇りだったのです。
大人も子供も大夕張で暮らした日々の思い出の中には,必ず「鹿島小学校」が出てきます。
入学式の時に一緒に校門をくぐった若かりし頃の父母の姿。町中が参加した運動会。人々
の営みの中で,鹿島小学校は凛として輝いていました。

ダムのことさえなければ,話題性もなくマスコミも振り向くこともなかった,かつての炭
鉱町・大夕張。本当は,静かに,ゆっくりと時間をかけ,自然に朽ちるのを待っていた町
だったのです。それでも,そこで生まれ育った者たちには,大切な場所でした。

あの夏の陽射しの中で,生い茂っていた木々の葉も,今は土に帰り,まもなく降り積もる
雪の下で,静かに眠りにつくのでしょう。
昭和3年からこの地に根づき,町の繁栄から衰退まで,大夕張の歴史を見届けてきた鹿島
小学校。あなたの,誇り高きそれでいて優しい面影は,決して色あせることはありません。
長い間,本当に,ご苦労様でした。
時代の流れは,あまりにも早く「大夕張」を飲み込んでしまいました。僕らは,あなたが
残してくれた人々との絆を大切に引き継ぎ,これからも「大夕張」を未来・希望に向って
語り継ぎ,交流の輪を広げていきます。

どうぞ,ゆっくりと,おやすみなさい。そして,いつでも,あなたがかつて愛しんだ子供
たちの夢の中に遊びに来てください。僕らは,あなたのぬくもりの中で,少年期を過ごす
ことができて,幸せでした。
「ア・リ・ガ・ト・ウ・凛として・ 誇り高き・ 鹿 島 小 学 校」

(577)飯田さん、お疲れ様でした 投稿者:今井 一郎  投稿日:11月07日(日)21時22分50秒

本日はシューパロ塾、三菱鉄道保存会、三菱バス保存会と一日がアッという間に
過ぎた日でしたね。
南部の三菱鉄道車両のシートかけの後の三菱バス越冬地を訪れた飯田さんはとて
も楽しそうでした。
飯田さんのホームページによって仲間の輪が広がり、夕張三菱地区の鉄道やバス
保存が具体的に進みだしたのは素晴らしいことですね。再度、飯田さんに敬意を
表します。

追伸
 バス仲間になりませんか?って言ったのは冗談です。でも、まんざらでもない
って表情をされていたと思っているのは私の勘違いでしょうか?
 山登りのお誘いといい、バスへのお誘いといい、うるさくしてすみません。
http://www.alles.or.jp/~ichiro16/

(576)客車は冬篭りしました。 投稿者:奥山 道紀  投稿日:11月07日(日)20時18分14秒

本日、南部での「三菱大夕張鉄道勉強会」「客車シート掛け」無事
終了しました。今回は「三菱バス保存会」の蛯子さんと、坂井さんに
シート掛け作業を指揮していただき、思わぬ「助っ人」に作業は
順調に終了しました。蛯子さん、坂井サさん、そして飯田さん、
今井さんご苦労様でした。

(575)小林さんへ 投稿者:奥山 道紀  投稿日:11月05日(金)12時08分16秒

シューパロ塾への暖かい「声援」ありがとうございます。
現在、塾の会員は40名程ですが、さらに多くの方々に
参加して頂ければと思います。
なかには、遠く岡山・京都の会員もいます。
家庭や仕事の都合であまり「活動」に参加できない方には
「賛助会員」制度もあります。ひちらは年会費1.000円です。
詳しくは事務局の伊藤まで、連絡下さい。是非、参加して頂ければ
とお待ちしております。

事務局 伊藤 isao5011@seagreen.ocn.ne.jp

(574)いい足りなくて、もう一言。 投稿者:小林 秀範  投稿日:11月05日(金)02時07分17秒

もう一言だけ。
鹿島小学校の備品の事。
本当は、小学校解体されたときにはコンクリートのガレキの中に埋もれてしまえば、二度と見ることが出来ない貴重な備品たち。
それが、「三菱大夕張保存会」「シューパロ塾」の方々により
「もしかしたら、自分自信や子どもや親にも、見せる機会があるかも?」と、可能性を残してくれました。
それが、たとえば5年後、10年後30年後「あの小学校で使っていたものだよ」と話が出来るかもしれません。
もし、解体作業のなかでガレキに埋もれてしまえば、世界がひっくりかえったて見る機会はありません、それを残してくれたことに、感謝の一言です。
そばにいてなにも出来なかった自分、これから出来ることを
前向きに考えたいです。
いつも、このHPには励まされています。

(573)机! 投稿者:飯田 雅人  投稿日:11月04日(木)20時59分31秒

小学校低学年の頃は,上から蓋を持ち上げ空ける引き出し(?)でしたよね。
真っ黒で木肌がごつくて重い机。しかも2人つながったもの。稲村さんのも
この机かなあ?

高学年の頃からか,上に蓋のついた机から天板の下にいれるものにかわったっけ。
でも相変わらず2人は離れられない机で,2人の席の真ん中に鉛筆で線を刻みつけ,
○センチはみ出しているといっては,隣りに座った女の子と領地争いをしたっけ
なあ。けんかをして,顔を見たくなくても,離れたくても,離れられない机だった。

(572)「三菱大夕張鉄道保存会」のお願い 投稿者:奥山 道紀  投稿日:11月04日(木)20時47分23秒

 「三菱大夕張鉄道保存会」では、夕張市のまちづくり市民組織「シューパ
ロ塾」と共に、大夕張地区の歴史を語る貴重な遺産であり、北海道の「炭鉱
」と「鉄道」の歴史を語る遺産として「南大夕張駅跡の客車・石炭貨車」等
を後世に残そうと7月の発足以来、「廃線跡巡り」「屋根の補修」「模型運転
会」「署名集め」等の活動を展開して来ました。
 今後も行政への働きかけと共に、自分等で出来る補修活動を展開する予定
ですが、そのため広く寄付をお願いしすることになりました。
 金額は限定しませんが3.000円以上の寄付をしていただいた方には当会特
製の「レシート・カード」を発行します。

【寄付の場合】
郵便局より事務局までご送金ください。まことに申し訳ありませんが、送金
手数料もご負担願います。

【口座番号】 02750−1−27955

【口座名称】 三菱大夕張鉄道保存会事務局

【送金手数料】

●郵便口座を持っていない方 
 通常送金1万円以下
 窓口  70円
 ATM 60円
 電信  210円

●郵便口座を持っている方(口座間の振替) 
 通常振替 15円
 電信振替 140円 
※なお、送金の際に通信欄等に「寄付」の旨記入するか、振込人の名前等
に、「寄付」と付け加えるようにお願いいたします。

「金券」での寄付も受け付けます。その場合は事務局・今井までご一報下
さい。(この場合は額面6.000円以上でレシート・カードを発行します)

同時に「保存会会員」も募集しています。詳しくは下記で紹介しています。 

 小林さん、ありがとうございます。あの「北海道地図」は正木塾長が
教員時代、同僚と共に制作したそうで、塗装作業中に「シンナー中毒」
になったという、思い出の品だそうです。電気の配線は理科が専門の先
生が行い、本当に手作りの教材だそうです。
 いまは物質的に恵まれていますが、学校ではこんな児童への「愛情」
が一杯の「教材」は少ないのではないでしょうか。ある意味で大夕張が
炭鉱で賑わった昭和30年代は心豊かな時代だったのかも知れません。
 玄関に置かれていた、2体の人形も、廃材と共に重機に潰されるのは
忍びなく回収して来ました。北海道地図と共に保管しています。

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/5963/hozonkai.html


(571)机 投稿者:稲村 美奈子  投稿日:11月04日(木)18時53分00秒

今、私のパソコンの下には鹿島小のお別れ会の時、小倉シェフが天ぷらを
揚げる台に使っていたあの机がドーンとあります。机の横には昭和26年購入と書いてあり
まだ私がこの世に誕生する前から鹿島小で活躍していたのでしょうね。傷もかなり
ありますが、このまま使わせて頂くことにしました。何故か引き出しが抜けている
ので作ってもらっている最中です。この真四角の机はいったい鹿島小のどこで使われ
ていたのでしょうか?48年間も活躍してきたこの机になんだかイタヤカエデの
木に似たものを感じます。長い間ご苦労様。そして、これからもよろしく。
仕上げは内川さんの夕張岳の写真を机の前の壁に貼って、完璧終了!

(570)本当にありがとうございました。 投稿者:小林 秀範  投稿日:11月04日(木)01時38分48秒

奥山さん、今井さん、また一緒にお手伝いされていたみなさん本当にありがとうございました。
みなさんが回収したガラスや備品を見させていただきました、
大変な枚数のガラスでした、あれだけ集めることは、大変危険と労力を伴うこととおもいました。
色々な備品もありましたが北海道地図を取り外すのは骨の折れることだったと思います。
(トラックに積んだのを見てびっくりしました)
天井からぶら下がっている標語の様なもの、教材等々鹿島小学校の記憶を残してくれる物ばかりでした。
ある方が黒板を回収している時に「黒板の文字を消すなよ、これが一番いいんだらか」と、
こんなやり取りも聞かせていただきました。
もし、みなさんがいらっしゃなかったら・・・・・・・
将来私の子どもに生の大夕張の事を語ることが出来なった事でしょう。
本当に、本当にお疲れさまでした。(途中雨も降り、寒い日でした)
そして、ありがとうございました。

2階の廊下にあったオルガンを見て娘たちがへたくそな演奏をやっていました、ねこふんじゃった、
などをひいていました、このオルガンも昔はきれいな音を奏でていたのだろうと思いました。
(もし回収されずにいたら)
娘2人には鹿島小のバスッケトボール(空気のぬけた)と1メートルのものさしを回収させていただきました。
何年後に娘に見せたいと思っています。
同じ場所に居ながら何のお手伝いも出来ず申し訳ありませんでした。
今後は,大夕張に思いを込めて、みなさんの会にできるだけ参加したく思っています。

(569)鹿島小学校最後の姿 投稿者:奥山 道紀  投稿日:11月03日(水)21時26分58秒

今井さんと、鹿島小学校校舎での「窓ガラス」回収作業に参加して
来ました。
ガラスを回収していて、校舎内を3階、2階といろいろと巡りました。
私自身、鹿島小学校の同窓生ではありませんが、同じ夕張市内の閉
校になった「真谷地小学校」卒業ということもあり、校舎内に残さ
れた、名札や卒業制作の作品などを見ると、この校舎には多くの人
々の思い出が残っているのだなと「センチメンタル」な気持ちにな
りました。
当日も、同窓生の方が数人見えられ、校舎内を懐かしそうに見学し
ていました。
鹿島小学校の遺産を少しでも残そうと3階の「郷土資料室」前にあっ
た教員自作の「北海道地図」も回収しました。今後、幌南小学校の
資料室へ保存したいと思います。
「窓ガラス」も南大夕張に残る三菱大夕張鉄道の車両補修に活かす
つもりです。少しでも多く「大夕張」の遺産を後世に伝えたいもの
です。

(568)晩秋の大夕張での出来事 投稿者:今井 一郎  投稿日:11月03日(水)20時06分13秒

本日、シューパロ塾、三菱大夕張鉄道保存会の有志が集結し、解体寸前の鹿島小
学校より南部に放置されている旧三菱車両の、心無い人々に割られたガラスを修
復転用の目的で、約130枚のガラス窓をはずしました。他、幌南小学校の資料室に
あれば良いな、という物件を数点移出。鹿島小学校は外観が消えても所々のパー
ツは環境や形を変え残る事となりました。
ガラス移送の午前の便のトラックの荷台に、荷崩れ防止要員として乗車いたしま
した。自身の運転する車では見えなかった景色が晩秋の大夕張の風と共に目に映
りました。
異様に思えたのが大夕張ダム下流で始まったシューパロダムの付帯工事。
このダム建設で鹿島と南部が姿を変えるのかと思うと妙な感慨。
トラックの荷台での風は冷たく間もなくやってくるのは覚えのある積雪期間。
しかし、暖かいシューパロ塾や鉄道保存会のメンバーと、夕張三菱地区の歴史を
残す重要な活動を雪に埋めてしまってはいけないと再度発心した一日でした。

追伸
 郵便振替口座の件、本当に申し訳ありませんでした。

http://www.alles.or.jp/~ichiro16/


(567)郵便振替口座の誤報 投稿者:今井 一郎  投稿日:11月03日(水)07時42分07秒

三菱大夕張鉄道保存会
               事務局 今井 一郎

この度、奥山会長の指摘で各HP、及び事務局発信の
メールの、会費、寄付金送金先口座名が正しく記載さ
れていない旨がわかりました。

私の不注意であります。大変申し訳ありません。
誤口座名称に送金された方は郵便局より返金されるか
と思いますので、ご多忙の中お手数ですが再度正口座
名称宛てに送金していただけたらと思います。
重ねがさね、申し訳ありませんでした。今後、この様なこ
とのないように注意いたします。

正【三菱大夕張鉄道保存会事務局】番号 02750−1−27995

誤【三菱大夕張保存会事務局】【三菱大夕張鉄道保存会】 

(566)鹿島小学校校舎廃材の回収について 投稿者:奥山 道紀  投稿日:11月01日(月)21時39分00秒

大夕張の遺産でもある三菱大夕張鉄道の客車補修用に
11月3日10時より鹿島小学校で「窓ガラス」「床材」
の回収作業を行います。「労力奉仕大歓迎」です。
「工具」「昼食」「防寒具」等を持参して下さい。
解体される鹿島小学校の遺産を「客車」の材料として
受け継ぎたいと思います。

平成11年 10月 先頭にもどる


(565)神戸田舎者物語 投稿者:斎藤 敏幸  投稿日:10月30日(土)22時20分08秒

所用があり昨日神戸へ行き、その夜同級生の加藤(旧姓)美代子さんに会ってきました。
彼女は,僕と同じ栄町ブロックに新築時から入居し,18になって大夕張を後にするまで
上と下に住んでいました。
小学校から高校まで一緒で,幼なじみというよりは,兄弟姉妹の感覚で付き合ってきまし
た。中学・高校では,何かまずい事をしでかすと,真っ先に彼女に「親には言わないでく
れや」と言って「理解と協力」を求めたものでした。
今では笑い話になっていますが,あの阪神淡路大震災では連絡が取れず「もう天に召され
た」と思い,なんとしても葬儀にだけは駆けつけなければと,気ばかりが焦っていたこと
がありました。
お土産には,飯田さんのHPの資料を沢山持って行き,一枚一枚コピーを見ながら「どう
だ懐かしいべ」とこちらが言うと「ああ,北海道に帰りたくなったわ」と彼女も応えてい
ました。そして,酔った勢いで,京都にいる同級生に20年ぶりで電話すると「あいたい
なあ〜」(あいたいなあ〜)の合唱が,神戸と京都の間でこだましていました。
その夜も,二人の結論は「大夕張で生まれ育って,幸せだったべさ」ということでした。

『むか〜し,むか〜しのちょっと前のむか〜し,大夕張で生まれ育った二人は,大人にな
ると神戸で再会し,その夜,大都会の夜景にも負けないほど,大夕張の思い出を輝かせ,
それは,それは立派な田舎者になったそうな。めでたし,めでたし』

(564)シューパロ塾・三菱大夕張鉄道保存会学習会について 投稿者:奥山 道紀  投稿日:10月29日(金)21時05分43秒

11月7日10時より、夕張市南部の「南部コミュニティー・センター」
で「炭礦」とその運命を共にした、「三菱大夕張鉄道」の歴史を
OHP・ビデオを利用して学びます。事前申し込み不要・会員外でも
無料です。
また、午後からは引き続き南大夕張駅跡の車両にシートをかける作業
を予定しています。労力奉仕大歓迎、お手伝いできる方は「昼食」を
用意して下さい。
なお、11月より解体作業に入る「鹿島小学校」の「廃材」を客車の
補修用の材料として「回収・ストック」します。11月3日か6日
には作業の予定です。こちらも「労力奉仕」大歓迎ですので、詳細が
決定しましたら連絡いたします。

(563)迷信 投稿者:飯田 雅人  投稿日:10月28日(木)20時44分10秒

『夜 口笛を吹くと泥棒がくる』

 夜になるとこんな親のこんな言葉が怖くて口笛をふけませんでした。
 特に風の強い晩,布団に入って窓の外を見ると草木が揺らめいてい
 るのを見て,布団を頭からかぶってねていたものでした。
 それでも時折,本当かどうか試してみたくなり,布団をかぶったま
 ま小さく口笛を吹いてみたものでした。

(562)樹木観察会と高山植物と・・夕張岳登山・・ 投稿者:今井 一郎  投稿日:10月27日(水)23時28分28秒

今晩は。先日のシューパロ塾の樹木観察会、お疲れ様でした。感動しましたよ。私は!
実は、私は質問がたくさんあったのですが、ちょっと恥ずかしくてできませんで
した。木の種から盆栽にするには?とか・・
ところで、木といえば山、山といえば夕張岳、夕張岳といえば花の山!
という三段論法で来年2000年7月の夕張岳登山の会の募集をそろそろ始めました。
花満開の夕張岳に登りませんか?私事で申し訳ありませんが、私のHPの「???」
のコーナーで今後募集していきたいと思いますので、よろしければおいで下さい。

追伸
 飯田さん、来て下さいね!きっと逃れられないと思います。
 心配しないで下さい。軟弱登山だから・・・。

http://www.alles.or.jp/ichiro16/


(561)樹木学習会 投稿者:伊藤  勲  投稿日:10月25日(月)23時19分54秒

 飯田さん、奥山さん、今井さん、昨日の樹木学習会ご苦労さ
までした。終ったあとゆっくりお話ししたかったのですが、正木
塾長と岩見沢に用務があったため、中座し失礼しました。

 講師の北川先生のユーモアを交えたお話などで樹木の知識
など全くない私でも関心を持つようになってしまいました。
 
 バスで観察した方が17人、午後からの講演に加わった方が
2人の計19人の参加がありました。山影さんは鹿島の樹木を
みたかったのですが 、所用で午前中は参加できず午後からの
参加になりました。残念がっていました。

 今回は中学生が3人参加しました。そのうちの2人が鹿島から
南部に越してきた子どもたちです。
 飯田さんに「後輩ですよ」と紹介しましたが、彼らは5年と6年
のとき、閉校前に幌南小学校に転校しました。中学生だらかチョ
ット生意気な態度をしていましたが、飯田さんと同じように生まれ
育った鹿島に強い想いを抱いていると思います。
 彼らが鹿島小の校庭のイタヤカエデ、そこに吊ら下がったブラ
ンコ、そして背後にそびえる校舎をみてどのような想いを抱いた
のか・・。子供達の歓声がこだましていたときの情景を想い浮か
べていたのかもしれませんね。

 これからもシューパロ塾の目的の一つである地域の自然・風
土を学んでもらうためにも地域の子供たちにもっと参加してほし
いと願っています。

 2週間ほど前に鹿島小の解体が10月中旬に始まると書いて
しまいました。誤った情報を流してしまい申し訳ありませんでし
た。今日正確な情報があり、11月1日入札、工期は12月15日
まで、という予定です(市の建築課より)

(560)シューパロ塾 「樹木学習会」 投稿者:飯田 雅人  投稿日:10月24日(日)23時11分50秒

開通した高速道を夕張へ。北広島を過ぎ,追分を過ぎる。
一車線とはいえ,車の流れもスムーズで札幌を離れる程に
紅葉がいろとりどりに鮮やかになる。今まで私の住む札幌
市西区から2時間かかっていたのが,1時間で夕張のIC
に到達し,そこから30分ほどで南部に入ることができた。
1800円はかかるが,確かに夕張は近くなった。

『樹木学習会』鹿島・南部の大木,老木を見て回わりました。
木の寿命は人の寿命より遥かに長く,そしてずっとそこに
存在しつづけます。今回見て回った木も私が生まれる以前か
ら大夕張に存在していたし,子供の頃の風景の一部として
目に映っていた木々達です。
今日,見てきた鹿島の樹木達はこのHPのそれぞれのページ
にもうつっていました。

1)三菱バス営業所裏のアカイタヤ。

  裏手のシューパロ川から吹き上げる風の為か,西に傾き
  ながら立ち,上で大きく枝を広げていました。胸高直径
  57cm。樹齢は100年以上を越すという立派な大木で
  です。
  何かの工事の為か,巻き付き錆びた針金が木の幹に食い
  込んでいるのが痛々しい。

  >『三菱バス車庫2』(ふるさと大夕張)

2)鹿島小学校校庭のイタヤカエデ。

  前回,治療を受け,大きな穴をコンクリートでふさがれて
  いました。胸高直径80p。樹齢は200年から300年
  とも考えられるとのことです。しかし上の方から木の中に
  向かって傷みが進行している,あるいはしていくと考えら
  れ,木にも寿命はあるとのことでした。かなりの老木であ
  ることは確かで,この木の子孫を残していくことも考えて
  いく時期ではというお話でした。

  >『雪の大夕張』(ふるさと大夕張)

3)千年町願正寺境内のミズナラ。

  ドングリの実を落とすかなり太い木。願生寺の写真を見る
  向かって右側に映っていました。こぶのいっぱいあるごつ
  い木です。胸高直径130cm。樹齢は300年から400年
  くらいもあるとのことです。
  願正寺の境内にあるため,私自身の思い出の中には,登場
  することのない木でしたが,大夕張に人が住む遥か以前か
  らあったという話を聞いて,樹木達の歴史の中に大夕張の
  歴史を重ねてしばし思いにふけっていました。

  >『願正寺』(ふるさと大夕張)

---------------
PS)小雨の中,鹿島小学校は静かに立っておりました。

(559)「樹樹観察会」ご苦労様でした。 投稿者:奥山 道紀  投稿日:10月24日(日)20時12分28秒

飯田さん、今井さん、「樹木観察会」参加ごくろうさまでした。
気温も低く、雨が降る中での「観察会」でしたが雨にむせぶ
周囲の山々の「紅葉」もなかなか風情のあるものでした。
南部からバスに乗り、鹿島・南部地区の樹樹を見て回りました
が「道立林業試験場」の北川建雄氏の説明も、なかなか興味
深いもので色々と勉強になりました。
鹿島では三菱バス車庫横、鹿島小学校校庭、願生寺跡で
樹木を観察しました。鹿島小学校校庭の「イタヤカエデ」
、やはり樹齢は100年以上あり植林されたものでなく
、「鹿島小学校」が開校される以前からそこにあったよう
です。しかし、「悲しい」話も聞きました。
普段、私たちはあまり意識しませんが「樹木」も生物だと
言うことです。つまり「寿命」があるのです。
岩見沢の「樹木医」によって「治療」はされましたが、
やがては「寿命」が尽きるだろうと言うことです。
しかし、子孫を残し育てることは可能だので、是非、
この「校庭」で「イタヤカエデ」の子孫を育てて
下さいとのことでした。何とか「鹿島小学校同窓生」
で実現して頂ければ、「鹿島」に新しい「生命」が
生まれ、かわりゆく故郷を見守ってくれるものと
思います。

(558)樹木観察会 投稿者:奥山 道紀  投稿日:10月23日(土)18時26分25秒

明日の夕張の天気はどうでしょうか。
大夕張の回りの山々も「紅葉」で美しく化粧
しているのではないでしょうか。
明日、シューパロ塾で鹿島・南部地区の樹木の
観察会を開催します。南部コミュニティセンタ
ー前に10時までに集合です。
鹿島小学校校庭の「イタヤカエデ」の木も観察
します。鹿島小学校校舎も間もなく解体との事、
最後の機会とも思えますので、多くの皆さんの
参加をお待ちしてます。

(557)食憶その3・「へ」の字 投稿者:長谷川潤一  投稿日:10月21日(木)22時35分22秒

初雪、初氷、夕張岳にも白い雪が・・という時期になると思い出すものは何か?
そうです、漬け物です!紅葉が進むとあちこちの長屋の壁や洗濯物の物干し竿に
ずらーっと掛かっていたダイコンです。縄で一本ずつ丁寧に縛られて長屋の間に
ユラユラ、ブーラブラと山間の早い西日の中で揺れていました。それぞれの家の
味で干し具合が違っていて、への字干しは後からプリプリの食感で飯時の大盛り
おかず沢庵に、カタカナのへの字干しは皺が入った歯触りの良いオールラウンド
「の」の字干しまでくると強靱な繊維感の旨味オンリーで焼酎にベストの酒の肴
「しないおごっこ」にと。その他にも丸ダイコンやカブ、キャベツに白菜、ナス
にウリ、真っ赤な南蛮、糠漬けに粕漬け、鰊漬けに鉞漬けなどなど思い出します
ねー。 人工甘味料なんのその!サッカリンに黄色6号、砂糖まぶして味の素!
お茶請けなのに丼大盛りでしたねー、ご近所同士でばくって食べたりしました。
代々木アパートだったもんで、北向きの階段の踊り場は絶好の漬け物置き場でし
た。発酵した漬け物の臭いがプーンと溜まり、シバレがきつくなると漬け物石で
氷を割って漬け物出しをしましたよね。シャーベット入り状態のタクアンなどや
シャリシャリの汁ごとの鰊漬けなど、煙突まで真っ赤に焚いたストーブのそばで
冷たいやら熱いやら、ボリボリ、ガリガリ食べませんでしたか?・・・

(556)安田のおばさんの思い出 投稿者:飯田 雅人  投稿日:10月21日(木)18時55分32秒

今日,母がTV番組の道産子ワイドでやっていたからと,『おふくろ煮』という
おかずを作りました。キャベツをあぶらげと一緒に煮たしょうゆ味の食べ物です。
これを食べるといつも思い出すのは安田のおばさんです。
昭和40年前後,父が北大病院に入院し,母が付き添いで札幌に出ていた時,家に泊
まりこみで,小学生だった私達兄弟のお世話をしてくれました。
とてもやさしいおばさんでした。私達兄弟のお世話だけでなく,話し相手にもなっ
て,父母のいない淋しさを忘れさせてくれました。
おばさんが作ってくれたおかずで一番忘れられない味が,その素朴な『おふくろ煮』
の味でした。白いご飯とお腹いっぱい食べたものでした。
あの山の中の町に住んでいたいまでも忘れられない方の一人です。
当時すでに年配で,栄町に息子さんと住んでいたという話です。
あれから30年以上もたってしまいました。
今では90才以上になっていると思います。どうされているのでしょうか。

(555)三菱鉄道OB会 投稿者:今井 一郎  投稿日:10月21日(木)17時21分21秒

 10月20、21日に定山渓ビューホテルにて旧三菱石炭鉱業鉄道、
三菱大夕張鉄道従業員のOB会が開催されました。
 北海道内各所はもとより関東、東北からの参加者もあり、総
勢45名の盛会となりました。
 私も受付をお手伝いし改札(?)を行いましたが、ほとんどの
方が大夕張時代の方で南部時代の廃線当時の方しか知らない
私にとって「伝説」の方とのお話とか、旧を知る良い機会でした。
 その中、星さんという方は、大夕張炭山駅での列車入換中、
機関車のテンダから転落し下半身切断という大事故を経験した
方で、車椅子で参加されました。
 星さんは北海道マラソンでも車椅子の部で優勝の経験があっ
たり、ものすごい先輩と会えたことは幸いでした。

 三菱鉄道廃線から12年。30数年前に定年退職した方もおられ
半世紀ぶりに近い「再会」も見られました。ここで三菱鉄道の長い
歴史をまざまざと感じました。

 東京三菱大夕張会に参加されている方もおられ、以前、どな
たかの書き込みにもありましたように飯田さんのお名前を耳に
しました。この飯田さんのHPは全国の大夕張出身者の思いで
の拠り所なのだと感じました。

http://alles.or.jp/~ichiro16/


(554)だるまストーブ 投稿者:奥山 道紀  投稿日:10月21日(木)12時21分29秒

夕張岳の頂が白くなる11月初旬頃より
三菱大夕張鉄道の客車には「ダルマストーブ」
が設置されました。
客車の前後の8人分の座席をはずされ2個のス
トーブが設置され、乗客はストーブを囲み「談
笑」しました。
そのストーブを模した彫刻が札幌の北2条西1
丁目のニューオオタニホテルの前庭に設置され
てます。
世界的な彫刻家・流正之氏の作品ですが「なん
もさストーブ」と名付けられ市民に親しまれて
ます。
通勤のため朝晩その前を通りますが、高校時代
に通学に利用した「大夕張鉄道」のことが思い
出されます。

「三菱大夕張鉄道保存会」の掲示板を設置しました。
大夕張鉄道の思い出など書き込んで頂ければと思い
ます。

http://bbs.kidd.ne.jp/kool/minibbs.cgi?mcb2x


(553)学び舎 投稿者:奥山 道紀  投稿日:10月19日(火)20時59分03秒

学校の校舎には、色々な思い出がつまってますよね。
私は南部小学校に入学し、途中で転校し卒業は真谷地
小学校です。どちらも既に閉校しており校舎の跡には
記念碑が建ってます。南部小学校は駅のすぐ上にあり
今でも車で簡単に行けますが、真谷地の方は学校の
敷地が国有地であり、グランドの跡は植林されてます。
その関係で記念碑は隣接する真谷地神社の境内に建て
られたのですが、その神社も閉山で御神体は夕張神社
にご還社され廃屋状態。そこに至る道に架けられてい
た橋も落ちています。
この真谷地小学校、かつては熊も出た事があり、通学
路には炭鉱の工作課で作ってもらった「熊よけの鐘」
が設置されてました。いまでは学校跡を訪ねるのは
「川口浩探検隊」位の覚悟が必要です。
閉校になった校舎でも最近は、色々と活用されてます。
美唄市の旧落合小学校は「アルテピアッツァ・美唄」
として芸術の館に変身しています。
鹿島小学校も校舎は無くなりますが、その土地がダム
湖に臨む地として、かつての学び舎を偲ばせる地として
再生されればと思います。

(552)鹿島小学校いつまでも 投稿者:斎藤 敏幸  投稿日:10月18日(月)21時51分51秒

先週末,夕張市へメールで鹿島小学校の解体工事の時期について尋ねてみたところ,予定
より遅れ「10月末」ということで,教育委員会経由で回答をいただきました。
まだ,鹿島小学校に「お別れ」をしていない方のために,神様があと少しだけ時間をくだ
さったのかもしれません。
正面玄関は,施錠されていませんので,中に入ることができます。玄関の横には,プラス
チックケースに入って,ボールペンとノートが置かれています。昭和3年から大夕張の地
に根づいた鹿島小学校が、これまで送り出した9790人の卒業生たちの言葉が記される
のを待っているようです。
正面玄関から真っ直ぐ行くとトイレがありますが,その前に廊下を挟んで,ロッカーが置
かれています。中には,掃除用具が入っています。10月3日にHPの仲間でお別れ会を
したときに掃除をしてきましたが,また,ガラスが破られて飛散していたら,掃除をして
あげてください。
次に,体育館へ行ってみてください。「ありがとう鹿島小学校」と書かれた字幕が貼ってあ
ります。もし,破られていたなら,補修をお願いします。
鹿島小学校は,建造物としても,まだ生きています。そして,富士見町側の校門にあった
あのイタヤカエデの木も元気にしています。どうぞ沢山の「鹿島小学校児童」が,成長し
た姿を見せてあげてください。
10月3日,20名の仲間たちが集まり,鹿島小学校に感謝の気持を伝えお別れをしてき
ましたが,参加者にとって,この日は大切な「記念日」となり持ち帰ることができました。
まだ,「お別れ」をしていない方も,鹿島小学校を訪ね,心に残る「思い出」をお持ち帰り
いただければと思います。

* 新聞に掲載されている「飯田さんの写真」は,本人の雰囲気が良く出ていてほぼ「生の
飯田さん」に近いです。この記事を契機にHPを覗かれた方は,まずは住民登録を済ませ
足跡を残してください。そして,掲示板・チャットと手を広げ後は「交流会の輪の中」に
入るのみです。飯田さんの記事が引き金になって「大夕張子」の輪が広がることを楽しみ
にしております。

(551)鹿島小学校 投稿者:かくた りゅうじ  投稿日:10月17日(日)23時33分30秒

10月15日撮影です。
ガラス等数枚割られています。
グランドの片隅に記念碑がありました。

http://www.geocities.co.jp/Colosseum-Acropolis/4117/tetudou/kasimaschool.jpg

(550)(無題) 投稿者:高木亮一  投稿日:10月17日(日)19時18分12秒

私は、夕張出身ですが、大夕張に行ったことはありません。10/17の道新の記事を
見て、大夕張から通学していた夕張北高校出身の同級生のことを、思いだし懐か
しくなりました。
現在、函館に住んでいます。インターネットの経験はありません。

(549)北海道新聞・生活欄 投稿者:奥山 道紀  投稿日:10月17日(日)12時30分06秒

今朝から、江別でも降雪がみられます。
夕張岳の頂きはもう雪化粧していて、大夕張の地も雪で
白くなっているのでしょうか。
今朝の北海道新聞・生活欄に飯田さんの「教育とふるさと
大夕張」のホームページが大きく紹介されてます。
やがてはダム建設により水没する大夕張地区、そこに縁の
ある人々が、世代を超えこのホームページで交流の輪を広
げています。夕張に住んでた頃は、知らなかった人とも
知人となる事が出来ました。
これからも、交流の輪が大きく広がり「ふるさと大夕張」が
多くの人々に語り継がれるよう祈っております。

(548)猿飛佐助? 投稿者:飯田雅人  投稿日:10月15日(金)22時23分40秒

鹿島小の映画小屋といえば,玄関を出て,ごみ小屋の方を回り,
校舎と映画小屋の狭い小路を通って入ったことがなぜか,思い
出されます。中に入るとびっしりの人で暑苦しかったものです。
でも,それを忘れて夢中でみていました。
始まる前の期待感。正面の大きな白い布に,「5」「4」「3」
「2」「1」の文字が映し出されると,それに合わせて,みんな
大きな声で,「5」「4」・・・と叫んでいたのが,無邪気でか
わいかったですね!
確かにいろんな映画を見ましたが,その中でも,東映動画制作
『猿飛佐助』が強く印象に残っています。(例によって,題名
その他あまり鮮明なくうまく伝わるか不安でですが,・・・)
佐助が戦う悪者の首領の女が印象的で,最後に確か海か池の中
で口が耳まで裂けた妖怪になって戦いやっつけられたと思います。
主人公の佐助を含め,女の首領などの人物の描き方が私にとっ
ては妙に気味が悪かった映画でした。
掲示板を見ている方の中にも,きっとあの当時,御覧になった
方いるでしょうね。

(547)映画小屋 投稿者:菅井宏史  投稿日:10月15日(金)02時32分22秒

小林さんの書き込みを見て思い出しました。
映画小屋そうそうありましたよね。校舎の西側の給食室(厨房)のあった側
に突き出たように建っていた木造の小屋がありましたよね。年に何回かそこ
で映画(アニメと教育映画、記録映画など)を見た覚えがあります。
「狼少年ケン」や確か「私はカモメ」というタイトルの世界初の女性宇宙
飛行士(チャフラフスカさんでしたっけ?)のドキュメンタリー映画、
日本のどこかの農村を舞台にした教育的映画(内容は忘れましたが「兎追い
し・・」の歌が流れていたような・・)等を見た記憶が微かに残っています。
あの小屋はいつまであったのでしょうか?
どなたか御存じの方おられませんか?

この農村を舞台にした映画の何ともうらわびしい状況に較べ同じ田舎でも
大夕張はまだその当時(S.40年代前半)は人も多く活気がありました。
今となってはどんなに過疎化が進み、寂れていっても、そこにあり続ける
故郷を持てる人をうらやましく思えてなりません。
大夕張、それはそれぞれの記憶の中とこの場所(サイバー空間上)にのみ存在
する我々のふるさと。

(546)大夕張にいってきました。 投稿者:小林 秀範  投稿日:10月15日(金)00時30分56秒

今日、いえ昨日(14日)鹿島小学校にいってきました。
もう2度と見れなくなるかと思いしっかり見てきました。
いまは健在の姿をしていますが、工事関係のような人が見に来ていました。
いろいろ思い起こす事がありました、
石炭小屋にはここからいれてたんだな、
確かこの辺に映画を見た小屋があったな、
ひょうたん池でカエルをとったな、
およめさんトンボが卵を水溜まりに産んでいるのをみつけては、
手に持ったカバンでおいはらったな、
聖心幼稚園で卓球やトランポリンをしたな等等、
札幌に居てすぐに行けるのは幸せだなとも思いました。
大夕張はやっぱりこころの故郷です。
また、いきたいと思います。

(545)このページは有名です 投稿者:丸山直記  投稿日:10月13日(水)20時30分28秒

先日、鹿島中学校第17回生(昭和39年卒業)の卒業35周年記念旅行を
伊豆の熱川温泉で行いました。北海道からの参加者約20名を含めて80人
弱が参加しました。北海道なまりで話し笑いころげました。
このページを結構多くの人が見ていることが判明したことをご報告いたします。

(544)南大夕張の鉄道車両保存の署名について 投稿者:奥山 道紀  投稿日:10月11日(月)21時59分46秒

三菱大夕張鉄道の車両保存を求める署名に協力ありがとうございます。
シューパロ塾関係者には署名簿が送付されていると思いますが、お手数
ですが今月末日までに正木塾長(夕張市南部菊水町)か伊藤事務局長
(夕張市南部幌南町)あてにご返送願います。
また、室蘭工業大学の石垣先生の「電子署名」も同時に取りまとめ、
夕張市長・夕張市議会議長・夕張市教育長に提出します。
署名がまだの方が居ましたら、どうかご協力お願いいたします。

(543)鹿島小学校解体 投稿者:伊藤  勲  投稿日:10月11日(月)18時34分11秒

 シューパロ塾の伊藤です。

 今日、正木先生から、鹿島小学校の解体が今週始まるということを聴きました。
 24日の樹木学習会には鹿島小のイタヤカエデも観察します
が、残念ながら校舎は消えていると思います。

 今日午前中、正木先生と樹木学習会で観察する樹木のの下
見をしました。鹿島では4本ほど観察・学習することになりまし
た(南部は6本)。

(542)高速道路 投稿者:内川 准一  投稿日:10月07日(木)12時40分07秒

鹿島小学校が消えようとする平成11年の10月、
新聞には「高速道路夕張へ」の文字が踊っている。
千歳から分かれ、釧路に至る高速道路、その一部、
千歳から夕張に至る42キロが今日、開通する。
夕張の一角に高速道路が達したのだ。
しかし・・、目指すべき目的地は・・・・・・・・・

(541)消えゆく鹿島小校舎 投稿者:飯田雅人  投稿日:10月06日(水)21時26分02秒

さようなら ありがとう 鹿島小学校……

 低学年,木造校舎だった。教室にランドセルを忘れ,夜の10時頃宿題を思い出して,
そのことに気づき,半べそを掻きながら父と歩いた夜道。木造校舎の玄関に立って宿直
の先生に鍵を空けてもらい入ってみると真っ暗な教室の机の上にぽつんとランドセルが
置かれていたっけ。
  暗闇の中のランドセルを見つけた時の,いいようもなく安心した気持ち,忘れがたい。
 5月の運動会。朝,大夕張の町に花火がこだまする。あんまり晴天の運動会は記憶が
ない。いつも前日は雨の心配をしていたような気がする。どんよりと曇った運動会。鹿
島小学校グランドは,おがくずを敷かれて,ふかふかだ。真っ白で買ってもらったばか
りの地下足袋をはいて土を踏む感触がたまらなくうれしい。
 そして,この日は母の腕をふるった最高のお弁当が食べられる日だ。いつもビリケツ
の僕には順位なんてどうでもよかった。
  家族みんなで重箱にぎっしり詰まったご馳走にありつけるのが楽しみな日なのだ。ふ
だんめったに食べることのないのり巻きに,いなり寿司。そして何より楽しみだったのが,
運動会シーズンにしか口に出来なかったバナナだ。今と比べ物にならないくらい甘いバ
ナナの味は格別だった。
 ある日,図工の準備を忘れ,道具を取りに家に帰らされた夏の日。
  富士見町6丁目の坂を泣きながら帰った。怒っていた先生の顔とこれから怒られるだ
ろう母の顔を思い浮かべて,それでもでこぼこ道の石をけりながら埃を立てて家へ急い
だあの日が懐かしい。
 高学年。待望の新校舎だった。ある日,帰りの会の時の反省で,名前がだされ,何人
かと教室の後ろに立たされた。どういう理由でなぜ立たされたのかはあんまり覚えてい
ない。ただ3階の新校舎の窓から見えた山並みの緑と青空に流れる白い雲がやけにきれ
いで,まるで,額縁に入った風景画のように見えた。平成9年8月,鹿島小を訪ねた。
その時,水のみ場の窓から見えた夕張岳は,蒼い空を背景にそのままの姿だった。忘れ
ていた何かをその時思い出したような気がした。

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 10月3日,鹿島小学校でお別れの会がありました。あいにく私は参加できませんで
したが,「ふるさと大夕張」の仲間をはじめ,かつての同窓生の方々がかけつけ,心に
残る一日を過ごされました。
 昨年3月の閉校以来,すでに抜け殻のようになってしまった鹿島小学校ですが,それ
でも大夕張に行った時,いつも最初に寄るのは,鹿島小学校でした。大夕張の地でその
歴史の最初から最後まで見守っていた鹿島小学校。ずっと私達のふるさとへの思いをつ
なぎとめていてくれていました。
 鹿島小学校が消え,ダム工事が始まり,大夕張の地がどのように姿を変えていくかわ
かりませんが,いい尽くせない程のたくさんの思い出は消えることはありません。
 これまでご苦労さん。本当にありがとう。 そして,さようなら 鹿島小学校。

(540)シューパロ塾の今後の活動予定 投稿者:伊藤  勲  投稿日:10月05日(火)20時50分45秒

 シューパロ塾の年内の学習会の予定を連絡します。

 (1) 樹木学習会
      10月24日(日)午前10時
      市南部連絡所前集合
      南部・鹿島地区の巨木・老木について、樹木の名前や
     樹齢、更に樹木の植生などの学習を行います。
      講師は道立林業試験場の職員。
      また、当日はマイクロバスで移動します。
      地域の小中学校にも案内します。

  (2) 大夕張鉄道学習会
             11月7日(日) 時刻・会場は未定
       8月1日に廃線跡を歩いて学習しましたが、今回は
      屋内でのVTRや資料などによる学習を行います。
       その後、客車の保存とまちづくりについて意見交換し       ます。
       講師はシューパロ塾の監事であり、三菱大夕張鉄道
      保存会会長の奥山さんにお願いしてあります。
       また、当日は降雪前の作業として客車のシートかけ
      をします。詳細は後日連絡します。

  (3) 森林鉄道と三弦橋学習会
             11月28日(日) 時刻・会場は未定
      大夕張森林鉄道の歴史と三弦橋について学習します。
     その後、三弦橋の保存とまちづくりについて意見交換し
     ます。講師は森林鉄道が正木塾長、三弦橋が当会の
     顧問であり、道教育大助教授の今尚之さんと北海道開
     発コンサルタントの進藤取締役さんにお願いしてありま
     す。

     来年2月に高山植物学習会を開催する予定ですが、
    詳細はあらためて連絡します。

(539)こだま 投稿者:斎藤 敏幸  投稿日:10月01日(金)22時15分16秒

飯田さん,本日鹿島小学校の校歌のテープ届きました。ありがとうございます。
皆で,大きな声で,鹿島小学校の校歌を唄ってきます。
大夕張神社にも,850にも,夕張岳にも,そして大夕張と繋がっている全てのいとおし
いもの達にも届くように,皆で,大きな声で唄ってきます。

(538)Re.正木君について 投稿者:菅井宏史  投稿日:10月01日(金)21時15分06秒

奥山さん、正木さんにお尋ね下さり有難うございます。恐縮しております。
私の知っているはどっちの正木君なのでしょうね。何か分らなくなってき
ました。
HP内にある富士見町の町内図の、あそこは何丁目になるんでしょう、
飯田さんが住んでおられた所の近くに正木という名前があります。
私の記憶でも彼はその辺に住んでいたように思います。
しかし鹿島小の私の学年の卒業生名簿(飯田さんから頂きました。感謝!)
に彼の名前はありませんので、どこかへ転校したことは間違いありません。
他の友人達に関しては結構よく覚えているにも関わらず、正木君に対する
記憶は何故か途中からパッタリと消えていますので、恐らく私が大夕張を
離れる以前に転校した可能性もあります。その転校先がひょっとしたら
東小学校だったということも全く無いとも言い切れませんし・・?
いずれにせよ、どちらかなんでしょうね。それが分かっただけでも嬉しい
です。貴重な情報を有難うございました。
正木英造先生にどうぞくれぐれもよろしくお伝え下さい。

(537)正木君について 投稿者:奥山 道紀  投稿日:10月01日(金)19時52分05秒

以前、菅井さんに尋ねられた、鹿島小学校の「正木」君について
シューパロ塾塾長の正木英造氏に確認しました。
昭和33年生まれの長男を含め、兄弟二人とも「鹿島東小学校」の
卒業だそうです。
ただ、お兄さんの子が「鹿島小学校」に通っており、その方も
昭和33年生まれだそうです。
現在、商社に勤めておりニューヨークに赴任中とのことです。

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