>>>大夕張掲示板へ(書きこみはこちら) 

1997年
大夕張掲示板Index題名一覧5月6月7月8月9月10月11月12月

平成9年12月 先頭にもどる

(83)片山邦夫先生のこと 投稿者:飯田 雅人 投稿日:12月26日(金)19時46分35秒

片山邦夫先生。私のおばが,若い頃,鹿島東小学校の教員をやっていた時
(昭和30年代前半)同僚だったそうです。
又聞きでくわしいことはあまりはっきりしないのですが,元気の良い,
自分の意見をしっかりもった,独立心旺盛の先生だったようです。
大変残念なことにバイクに乗って,大夕張から夕張へ向かう途中交通事故に
遭って若くして亡くなられたと聞きました。

(82)来年も良い年でありますように 投稿者:斎藤敏幸 投稿日:12月26日(金)15時45分50秒

もうじき、1997年も終わりですね。
今年は、このH.Pを通じて、大夕張と関わりのある方々と交流す
ることができ、とても印象に残る年になりました。
いまだに、大夕張のことを大切にしている、皆さんの熱い思いを
私なりに感じ取ることができました。
飯田さんをはじめ、皆さんにとって、来年も良い年でありますよ
うに。

(81)鹿島東小学校や所商店の想い出など 投稿者:市橋 勝 投稿日:12月26日(金)11時43分57秒

皆さん、はじめまして。
先日、このホームページ主宰の飯田さんからのお薦めで、リンクさせて頂くこと
になりました。今後とも宜しくお願いします。
私も大夕張出身で、中学校2年のはじめまで(確か、昭和50年頃まで)千年町に
住んでました。
皆さんと同様、私も大夕張のことは大変懐かしく思い出されますし、故郷の想い出
が消えてしまうことは大変残念に思ってます。
で、鹿島東小学校の校歌の件ですが、「青空高くさわやかに。。。。」という出だ
しだったように記憶しているのですが。
「青空高くさわやかに
ゆらぐこずえの高嶺のように」
だったと思うのですが、確かにこれ以上思い出せません。
すみません、もしも思い出したらきっと書き込みます。
それから、所商店ですが、ちょっぴり怖いおじさんがやっている店でしたけど、
とてもよく利用しました。
あの店の長男(確か宏君だったと思う)は、私と同級生でした。
私が小学生の時には、「仮面ライダースナック」とかいうお菓子が流行っていて、
本当はお菓子が食べたいのではなくて、スナックに入っている仮面ライダーカード
が欲しくて、皆で何袋も買ってはカードだけをポケットに入れて、中身のお菓子を
店の前に捨てて怒られてました(完全な悪ガキでしたね)。
それから、10円で買えた明治の「マスカットアイスキャンディー」とかいうのが
(今は製造してないと思うけど)、とても美味しくて、夏には毎日のように買っ
ていたのを思い出します。

ごめんなさい。つい調子に乗っていろいろと書いてしまいました。
今後とも宜しくお願いします

(80)トコロ商店 投稿者:片山利明 投稿日:12月24日(水)18時35分24秒

乗田さんがおっしゃっているのは、トコロ商店ではないでしょうか。
子供の頃、この駄菓子屋さんで、10円玉を握りしめておもちゃや
お菓子を買った記憶があります。
当時、100円あれば、2〜3週間は豪遊できました。

(79)鹿島東小学校の校歌について 投稿者:片山利明 投稿日:12月24日(水)17時43分29秒

このHPでは、鹿島小学校卒の方が多い様ですが、東小学校
卒業の方、校歌の歌詞を教えてください。先日思い出そうとした
のですが、「青空高く晴れやかに・・・」ここまでしか思い出せづ
いらいらしています。お願いします。
ちなみに私の叔父は片山邦夫といって、鹿島小学校の教師を
していました。私が幼いときに亡くなり記憶が有りません。
どんなおじさん(先生)だったのか知っている方は、教えてください。

(78)Merry X`mas! 投稿者:乗田 功一 投稿日:12月24日(水)01時01分01秒

クリスマスですね。

私が小学生の頃、クリスマス・イブの夜に私の家にサンタクロースがやってきました。
白い髭をたくわえ、大きな袋を持った絵に描いたようなサンタクロースでした。
そして大きな声で「メリークリスマス!」と言いながらプレゼントを手渡してくれました。

子供心に、誰かがサンタの格好をして各家を廻っているのだろうと思っていましたが、そ
れでもやはり嬉しかった思い出があります。
この夏に本間商店でおじさんにそれとなく訊いてみました。すると「そうそう、やったや
った!」という返事が返ってきました。
本間さんと、伊藤おもちゃ屋のご主人、それともう一人商店のご主人(失念!)の三人で
企てた楽しいアトラクションだったそうです。

いま、大夕張はどんな様子なのでしょう。大多数の方が移転し、わずかな人たちが年を越
すと聞いています。
子供の頃の、サンタクロースが家に来た時と同じように、深々と雪が降り積もっているの
でしょうか?

      飯田さん、そして大夕張出身の皆さん、Merry X`mas.......

乗田 功一(のりた こういち)
noritax@ba.mbn.or.jp
Nifty:QZD02423


(77)大夕張幼稚園 投稿者:飯田 雅人 投稿日:12月23日(火)22時25分41秒

あたらしいお名前が掲示板にみえるたびに,「あの土地でともに暮らしていた仲間が今も
元気でがんばっているんだ」という心強い思いをするのは私一人でしょうか。

どうか,これからもよろしくお願いします。

大夕張幼稚園。私が卒園した頃(昭和36年頃)は,三菱大夕張炭礦が経営していました。
でも,5才年下の私の弟が幼稚園に通っていた頃,昭和41年頃には,カトリック教会の
横に第一聖心幼稚園,健保会館横の大夕張幼稚園は,第二聖心幼稚園に変わっていたよう
です。

(76)1951年生まれで大夕張出身の方へ 投稿者:林崎 ヨシ子 投稿日:12月21日(日)18時09分17秒

私は鹿島小学校に小学校5年生までいました。今、夕張が湖底に沈むと
知り、懐かしくむすこにインターネット入れてもらいました。
何か情報があればメールいただければ幸いです。

(75)大夕張の思い出 投稿者:片山 投稿日:12月21日(日)17時33分42秒

私の父は営林署に勤務しており、私もS43年ころ千とせ町の官舎に
住んでいました。(父の弟は、鹿島小の教師でした)5年程
前に鹿島東小(3年で転校しましたが)の跡地をみて、もの悲しい思い
に包まれたのを記憶しています。このHPをみて、昔の大夕張を忘れずに
いる人が数多くいることを知り、感激しました。
これからもこのHPをつづけてください。楽しみにしています。
PS:私の記憶では、写真で紹介されている大夕張幼稚園は,「
第2誠心幼稚園だったと思うのですが・・・・)

(74)TV放送 投稿者:飯田 雅人 投稿日:12月10日(水)22時31分26秒

大沢さん これからもよろしくお願いします。

8日(月)北海道テレビ(テレビ朝日系列)の6時45分ころからの放送で『大夕張特集』
をしました。はじめてみたのですがシリーズで今までにも何回か大夕張を取り上げて
きたということでした。
見ているうちにつらくなってきてしまいました。

先月15日に行われた昭和25年生まれでつくる『鹿島ふるさと25年の会』の様子がほんの
少しながれました。
「私たちの気持ちの中にあるもんねいつも,場所いかなくても」という女性の言葉
「だいじょうぶ,なくなっても元気でがんばっていけますよ」という初老の男性の言葉
短い言葉の中に大夕張が与えてくれたものを感じ取ることができました。

ただ番組の中で,私が先月大夕張に行った時にお話をした美鉄の運転手さんや,年をと
られた住民の方々へのインタビューを放送していましたが,それは私にとっても,つら
く悲しい,やりきれない思いをさせられるものでした。

(73)懐かしいですね 投稿者:大沢 直之 投稿日:12月10日(水)00時32分10秒

初めてメールを送ります。
実は、パソコンを始めたばかりなので、メール自体始めてなので
おかしいところがあったらお許しください。

パソコン購入後まもなく、検索で遊んでいたら、たまたま飯田さん
のHPをみつけました。まさかないだろう、と思いながら「大夕張」
を検索してみると・・・・・

私も、中学校を卒業するまでの15年間 、千年町に住んでいました。
飯田さんのHPを見てとても懐かしくなり、先月久しぶりに大夕張に
行ってきました。判ってはいたんですが、寂しい気持ちになりましたね。

また、メール送らせてもらいます。

それと最近判ったのですが、「加川スタジオ」の加川さん、うちのすぐ近く
に引っ越してきたみたいです。この前車に乗っているとき見かけたのですが、
今度会ったら声をかけたいと思ってます。

(72)美鉄バス 大夕張最後の日 投稿者:坂井 郁夫 投稿日:12月05日(金)00時45分17秒

坂井郁夫さんの美鉄バスの大夕張最後の日の様子を伝えるレポートを
坂井さんの了解を得て以下に転載します。坂井さんありがとうござい
ました。(転載者 飯田 雅人 iida@mta.biglobe.ne.jp)


札幌線が廃止になってから大夕張には2台のバスがありました。
当日は2台とも室内に装飾(1台は窓ガラスにサヨナラメッセージ)
が施され、なんとなんと全便2台連行で、しかも無料でした。
大夕張発イベントは、15:36発夕張神社行で行われました。
実は私達が貸し切ったバスは札幌線用だったバスで久々の里帰りで、
3台停留所に連ねて行われました。
車内には地元の方、ファンの方などが多数乗車しいつにない賑わいで
した。外には美鉄バス関係者や住人、ファンがこれまた沢山いました。
紙テープで外と中が結ばれ、クラッカーが鳴り響くなかやや遅れて出
発しました。16:36 あたりが暗くなり寂しくなった頃、私達の
グループに見送られ、夕張神社発最後の大夕張行きが離れていきまし
た。19:15 清水沢発営業最終便は、再び3台連行になりました。
車内には結構乗っていたのですが、外では見送る人もなく、42年間
通い慣れた道を静かに走り始めました。
車内では写真を撮る人、ビデオを撮る人、様々でしたが印象に残った
のはこの便本来のお客様がただひとり、途中停留所でさりげなく降り
られたことでした。振り返ることなく前へ進む後ろ姿に・・・・・

湖畔停留所を過ぎたあたりで同社役員の挨拶がありました。42年間
のお礼とやむ得ず撤退する心境を一言一言かみしめるように。
多数の人々が出迎える中バスは無事大夕張へ到着しました。
2人の乗務員に花束の贈呈が行われました。ひとりは奥様からご主人
へ、ひとりはファンから・・・・
御礼の言葉に、安全運転で過ごせた安堵感と、これから走ることの出
来ない無念さが滲み出ていました。みんなが声を掛け合い、別れを惜
しむなかひとり去りふたり去り、
私達も大夕張を後にしました。
今後数ヶ月間の間にすべての人が大夕張の地を去ると聞いています。
私は私なりに人が住んでいた、そしてバスが走っていた街を心にとど
めておきたいと思います。

(71)私なりの大夕張 投稿者:坂井 郁夫 投稿日:12月04日(木)00時39分45秒

11月30日、やはり行って来ました。
貸切バスで行ったのですが、車中で大夕張の説明をしました。
HPの内容を無断で引用(すいません)しました。
また乗務員さんが元住人の方で、いろいろ話してくださり、再
来の人も、初めての人もそれぞれ心に大夕張を留めたことと
思います。きっかけは何であれ、一生忘れないと思います。
16戸余の方が越年すると聞いています。
今度家族を連れて行って来ます。私の好きだった街を見せに
当日の様子は夕張市のHPの掲示板に書きました。
友人の素人ビデオで良ければダビング送付します。
平成9年11月 先頭にもどる

(70)それぞれの大夕張 投稿者:飯田 雅人 投稿日:11月24日(月)04時24分33秒

坂井さん。
大夕張を記憶にとどめようとしていている方がいるのは,とても心強く,またうれしく
思います。そこに住んだことはなくても,大夕張がなくなることを惜しんで下さる方が
いることは,ありがたいことだと思います。
できたら,11月30日の大夕張の様子を教えていただければ幸いです。

(69)美鉄バス車庫 投稿者:坂井郁夫 投稿日:11月20日(木)20時50分45秒

2ヶ月ぶりに大夕張へ行って来ました。
美鉄バス車庫が取り壊されていました。

(68)ダイコンのスダレ 投稿者:斎藤敏幸 投稿日:11月19日(水)17時54分36秒

紅葉の時期が過ぎたらと思ったら、もう11月の中旬。初冬の頃に
なりましたね。この時期になると、大夕張のあちらこちらで見ら
れた漬物づくりの光景を思い出します。

私の両親も、毎年10月10日前後になると、大根洗いをしていま
した。そして、住宅のいたるところに、大根がスダレのように干さ
れていました。あれ程見事なスダレは、いずれの土地でも見る
ことはありませんでした。
そして、正月前後になると、樽から出てくるシバレタ漬物を思い出
します。

今では、あれ程、シバレタ漬物と対面することもなくなりました。
この時期になると、毎年、「ダイコンのスダレ」とシバレタ漬物を思
い出します。

(67)美鉄バスについて 投稿者:坂井郁夫 投稿日:11月16日(日)11時17分22秒

初めて投稿させていただきます。
大夕張に住んだことはありませんが 
シューパロ湖の景色が好きで幾度か足を運ばせていただきました。
訪ねる度に風景が寂しくなって行くことに 
部外者である私に 関係された方々の心境は分からないと思います。
11月30日に美鉄バスの路線が休止します。
当日最終便に乗車しに行こうと思っています。
仲間内では 他所でみられるバカ騒ぎだけはやめよう  
そして関係者のかたを優先しよう 
と話し合っています。

大夕張という街があったこと
そして美鉄バスという路線があったこと
それを利用していた人々がいたこと

私達は私達なりに大夕張という街を心の中にとどめておきたいと思っています。
それでは失礼します。

(66)大夕張のにおい 投稿者:飯田 雅人 投稿日:11月15日(土)11時29分10秒

先日小樽の交通記念館に行ってきました。屋外展示の黒く塗られた石炭運搬の車両のと
ころで,すっかり忘れていた懐かしい におい に出会いました。『コルタール』だっ
たでしょうか。黒いどろどろしたかたまり。電柱に塗られていて,手でさわるとべとつ
いたものです。当時の蒸気機関車にも塗料のにおいだと思いますが,同じようなにおい
があったのを思い出しました。

(65)加川スタジオ取り壊し・・・? 投稿者:乗田 功一 投稿日:11月12日(水)00時59分37秒

再び過去の情報で申し訳ありませんが、11月10日、午後7時50分より『徳光の情報スピリッ
ツ』の中で(こちらでは「テレビ東京」ですが北海道などでは不明です)大夕張の特集コーナーが
放映されたそうです。私は帰宅が遅かったので見ていませんが、またまた『加川スタヂオ』の加川
さんが出演したそうです。いよいよ加川さんも引っ越しされたようで、あの重厚な建物もついに取
り壊されたようです。
新聞のTV番組欄にはなにも書かれていなかったので、完全に見逃してしまいました。
今後も放映の機会が多いのではないかと思います。

飯田さんの発言にもありましたが、「夕張市のホームページ」に施設の閉鎖の情報が追加されてい
ます。公共施設が無くなるということは、人の住む場所ではなくなるということです。
あらためて現実の無情さを感じます。今現在、一体何人の人が大夕張に残っているのでしょうか。
清水沢の市営住宅が完成すると、大夕張はまた一歩原野に近づくのでしょう。


乗田 功一
    from KanagawaFujisawa

(64)石炭ストーブのこと 投稿者:飯田 雅人 投稿日:11月11日(火)23時05分47秒

乗田さんと小林さんの投稿を読んで,私も当時の住宅のことを思い出しました。一番先に
浮かんで来たのは,石炭ストーブです。朝起きた時の寒さの厳しかったこと。火をつける
と小さい薪を組んでその上に石炭をのせる。そしてその下から古新聞で火をつけていまし
た。家の中があたたまるまでとても時間がかかりました。そこで,前の夜は,火種の上に
石炭をいっぱい積んでおいて,次の日の朝,デレッキでつついて,火をおこしました。
日曜日の朝など,子供たちは少々の寒さにかまわず,布団を飛び出して遊んでいました。
お正月には,ストーブの上に網をかけてお餅をやくのがとても楽しみでした。
家の側には,石炭庫が倉庫の隣にあり,そこから使う石炭を出していました。
また,私の家の前が土手になっていて,そこから下に灰を捨てていました。もちろんそこ
は子供の頃の遊び場になっていました。

・・・・夕張市のHPに大夕張の施設の閉鎖予定が出ていましたね。いよいよ,この冬が
最後の冬に・・・・。

(63)栄町 投稿者:小林 俊治 投稿日:11月08日(土)20時45分51秒

栄町に移ってから中学へ行きました。
前に住んでいた春日町は、屋根の雪降ろしが大変でしたし、雨漏りや鼠の徘徊が
いつも年中行事のようなものでした。
また、断水が頻繁だったので、台所にかめをおいて水を溜めていました。
当然、鼠がそこに落ちて、死んでいたこともあった。
台所の排水溝を覗くと、ねずみが居たりする。
鼠との格闘が毎日続く。
へびもよく来ました。 特に詰所でアオダイショウを発見します。
冬の雪降ろしや雪跳ねは休日家族総出で行わなけれならない。
屋根からすべって落ちたり。
それから、栄町の住宅(2階建)に移りました。
鉄扉を開けると左には石炭を入れる物置がある。
右には水洗トイレがある。 画期的だった。
トイレットペーパーとのご対面。
但し、断水も多かったので、何かと不便なときもあった。
ですからいつもバケツに水を溜めておく。
鉄筋コンクリートの建物なので、最初のうちは自分の家を間違えて、
よその家に入ってしまったりもした。
石炭は背負い子のようなもので運びます。(パートの方が)
灰は各住宅の脇に捨てる。 1階と2階の間ぐらいの高さに溜まってきたら回収されます。
11月ごろ?になると窓から大根を干していた。(漬物の準備をしていた)
プールは7月下旬から9月中旬まで泳げ、近いこともあり、夏休みはほとんど泳ぎに
行っていた。
夕方以降はコースにロープが張られ、鹿島中の水泳部員が練習していた。
(私もその一人だった)コーチは藤本さんでした。
日没と同時に終了。
ロープをまとめる。
プールの有刺鉄線の塀は公園側から、人が掴まって見るせいか、その方向に傾いていた。
浄化設備はないので、水はあまりきれいではない。
ぼうふらを見ることもある。 
冬の夜、スキー場の方を見るとナイターの灯りに照らされ、滑っている人影が見える。

(62)提灯行列の思い出・・・ 投稿者:乗田 功一 投稿日:11月06日(木)01時17分14秒

提灯行列、懐かしいですね。空き缶の底に五寸釘で細かい穴をたくさん開けて、針金で
取っ手を作る。ローソクを灯し、そしてみんなで歌を歌いながら家々を回りローソク集
め。収穫をみんなで自慢しあう。

    「ローソク出〜せ 出〜せよ  出〜さ〜ないと カッチャクぞ・・・」

これは北海道特有の風習でしょうか?昔、「北の国から」というTVドラマでこの場面
がありました。(ちなみに私の住む神奈川では「カッチャク」は全く通じません(^^;))

私の思い出は、各家を廻りそれぞれの家では快くローソクを手渡してくれるのですが、
栄町のあるブロック住宅の2階のお宅で、玄関でいくら大きな声で「ローソクちょーだ
い!」と言っても誰も出て来ません。よく見ると下駄箱の上にミカン箱が置いてあり、
中には大量のローソクが入っています。つまり、入れ替わり子供たちが訪ねて来るので
その応対に煩わされるのを避けるための苦肉の策なのでしょう。
もちろん、手のひら一杯のローソクを戴きました・・・(^^;)

noritax@ba.mbn.or.jp   乗田 功一   from kanagawa fujisawa

(61)七夕の記憶 投稿者:高梨 晶一 投稿日:11月05日(水)22時07分34秒

小学校六年の10月まで鹿島小学校に通っていました。
その後、千葉に越したため、私自身は鹿島小の卒業生ではありません。
春日町北6-12に住んでおり、詰め所は近かったと記憶しています。
すでにどなたかが書いたでしょうが、夏に行っていた提灯行列を思い出します。
空缶に穴を明けて、ローソクをたくさん集めた記憶があります。

(60)大夕張の町 投稿者:飯田 雅人 投稿日:11月05日(水)20時52分27秒

子供の頃大夕張はずいぶん広かったような気がします。私が24歳の頃,大夕張に7年ぶ
りくらいに訪ねた時,その道幅があまりにも狭く感じたこと,千年町から炭山にかけての
距離がずいぶん短かったように感じたことなど,その時の印象が今でも思い出されます。
大人になってからの目と子供のときの目ではずいぶん違って見えるものだと,その時思い
ました。

でも,山の中にあのようにまとまって人が住んでいた地域だからこそ,子供の頃,遊んだ
り,行ったことのある場所は,案外限られているのかもしれませんね。また,その場所に
対する印象や思い出を持っているのかもしれません。忘れていることも多いのですが,ち
ょっとしたきっかけで思い浮かぶことがよくあります。

私はこのことについてマスコミに恨みがあるわけではありませんが,大夕張がマスコミに
取り上げられることは,なにか,感情をさかなでされるような気持ちを感じます。
それは,病の重い親の様子を事細かに聞かれたり,話されているようなそんな感情にも似
ています。

(59)河野歯科医院 投稿者:乗田 功一 投稿日:11月04日(火)03時25分13秒

『河野歯科医院』といえば、私が初めてお世話になった歯医者さんです。
何度も大夕張に行き、この建物も写真におさめていたのですが、何の建物か思い
出せず気になっていました。 飯田さんのおかげで、また一つ記憶がよみがえりま
した。
小学校の低学年、何年生かは忘れましたが、父に連れられてここへ行きました。
治療中に必死に痛みをこらえて、泣き出さなかったのを帰り道に父が誉めてくれ
たものです。
待合室にあった雑誌(たしか週刊ベースボール?)に載っていた「阪急ブレーブ
ス」というチーム名が、なぜか妙に記憶に残っています。

先日のニュース番組の大夕張特集を見てあらためて思うのですが、大夕張が湖に
沈むという事がなぜこんなにマスコミに注目されるのでしょうか。
ダム建設で街が沈むという事例は日本中にあると思います。そして私の知らない
大きな問題がそれぞれの土地で起きているのでしょう。
それなのに大夕張だけが妙に注目されていると感じるのは、私の勝手な思いこみ
なのかもしません。しかし、かつて2万5千人もの人口があり、全国でも有数の
大手炭鉱の城下町として栄えた一つの街が永久に消えるというのは、歴史的に見
てもやはり珍しいことなのでしょう。

そんな「大夕張」の、にぎやかで活気があった時代を知っている私にとって「大
夕張」とは、やはり愛すべき故郷(ふるさと)です。
そして永久に消えて無くなるということは、とても寂しく悲しく、言葉でうまく
表現できないけれど、やり場のない「くやしさ」を感じます。

(58)10月19日に消えていたもの 投稿者:飯田 雅人 投稿日:11月02日(日)23時13分24秒

10月19日(日)に大夕張に行った時,古い家々の取り壊しが進んでいました。
『河野歯科医院(千年町)』
この夏行った時にはまだあり,写真を撮ってきたのですが,今回はすでにありませんで
した。小さい頃,歯並びが悪く,矯正に通っていました。広い待合室で順番を待ってい
たことを,覚えています。

『barダイアナ(千年町)』
なんでこんなところを覚えているのかというと,中学生の頃千年町の児童公園を通って
通っていました。三吉神社のとなりにあった公園です。よく公園で寄り道をして友達と遊
んで帰りました。表通りとは反対のっその公園の出入口のところにダイアナという飲み屋
があったのです。その隣には漫画の貸し本があったと思います。
当時,中学生であった自分にとって「ダイアナ」という響きになんとなく子供とは違う大
人の世界を好奇心たっぷりに感じたものです。そこは瓦礫と化していました。

平成9年10月 先頭にもどる


(57)TV放送:残念でした。 投稿者:飯田 雅人 投稿日:10月26日(日)00時46分13秒

TV放送あったのですか。見逃してしまいました。残念です。
19日に大夕張に行った時,加川さんのスタジオがまだ健在で
なんとなく安心感みたいのがあったのですが・・・・・・。
もうじき移転されるのですね。

(56)大夕張 最後の冬 投稿者:乗田 功一 投稿日:10月24日(金)01時58分58秒

もう過ぎてしまったのですが、10月22日午後11時のフジテレビ系「ニュースJAPAN」で
「故郷が湖底に沈む・・・炭坑町最後の冬を撮った」という大夕張の特集を放映していました。
わずか10〜15分ほどのコーナーでしたが、みなさんご覧になりましたでしょうか。
以前放映されたNHKの特集番組に登場していた「加川写真館」の加川さんが再び登場していまし
たが、もうじき移転するとのことでスタジオ内がきれいに片づけられていました。

北海道はもうすぐ冬ですね。大夕張にとって最後の冬です。

 家の中が暗くなるほど降り積もった沢山の雪。
 雪化粧した美しい夕張岳。
 遮断機の下りた踏切で、ラッセル車が勢いよくかき分けた雪をかぶり、息が詰まりそうになりな
 がらも喜んでいた幼い頃。
 栄町のブロックの2階の窓より見えるスキー場。
 浴場からの帰り道、家までわずか数十メートルの距離なのに洗い髪がパリパリに凍った思い出。
 澄んだ冷たい空気と、空には無数の星。

私の住むここ神奈川で、遠い記憶の彼方でいまも鮮明に思い出す大夕張の冬です。

noritax@ba.mbn.or.jp
Nifty-QZD02423     乗田 功一   from kanagawa fujisawa

(55)美鉄バス記念乗車券について 投稿者:飯田 雅人 投稿日:10月23日(木)22時42分06秒

美鉄バスの夕張−大夕張線が11月末をもって廃止されます。記念乗車券が発行されてい
ます。AタイプとBタイプがあります。
Aタイプには,廃止直前の運行系統図と鹿島地区の人口の変遷がのっています。
Bタイプには,美鉄の大夕張地区での運行の歴史と,大夕張の歌の歌詞がのっています。
(個人的にはBタイプの図柄の方が気に入りました)
夕張市の掲示板に入手のことについてでていましたのでのせておきます。

値段は、各タイプ共に1、000円で、バスの中で販売しているそうです。
(営業所でも販売しているそうですが、1人しかいない為、バスが動いてるときは人がいない
ので買えないそうです。)
郵送でも受け付けてくれるそうです。申込書を送ってくれるそうです。

 美鉄バス TEL(01266)3−4291
      fax(01266)3−2494
本社)〒072 美唄市字美唄79番地1299

(54)美鉄バスの運転手さん 投稿者:飯田 雅人 投稿日:10月22日(水)22時45分54秒

美鉄バスが11月末で大夕張から撤退するそうです。記念乗車券を扱っていると聞いて美
鉄バスの大夕張営業所を訪ねました。私が住んでいた頃からそこにあった建物ですが,そ
こに入るのは初めてでした。古い建物のため,中は薄暗くちょうど運転手さんが昼食をとっ
ていたところでした。
記念乗車券を買ったあと,しばらく話をしてきました。
かつて住んでいた人の消息など,世代が違うためお互いに知っている人はあまりいません
でしたが,それでも炭坑病院の知っている看護婦さんの名前がでたりしました。

話しているうちに,運転手さんの住んでいた家が富士見町3丁目のブロックで,私が最後
に住んでいた場所とわかり,その偶然に驚きました。

11月いっぱいで営業所も取り壊され,計画通りに進めば,今年中に全部の住民が移転し
来年あたりにはほとんど建物がなくなるのでは,というお話でした。しかし,千歳町にあ
るお寺は,移転先をどこにするかでまだ遅れていて,決まっていないのだそうです。

「11月までここもまだやってるからね」と,最後に声をかけてくれたやさしい運転手さ
んでした。目に涙を浮かべてのお話に,こういうかたちでふるさとを出なければならない
住民の方の寂しさが伝わってきました。

(53)常磐町の跡を訪ねて 投稿者:飯田 雅人 投稿日:10月21日(火)23時56分03秒

19日,紅葉の大夕張に行ってきました。幸い天気も良く,町全体が黄色く色づいていま
した。その時のことを何回か書き込みます。

大夕張を出て20数年ぶりに常磐町に行ってみました。夏の頃は鬱蒼と生い茂る木々に気押
されしていましたが,乗田さんの書き込みに,中学校のあたりまでいけるとあったので,
今回行ってみることにしました。
鹿島橋を渡ると道の両側から雑草が背丈以上の高さに伸びていました。
あちこちにひびのはいった舗装道路は今も使われているようで,両側からおおいかぶさる
ようにはえている雑草の先はきれいにかられていました。
常磐町にはNHKの中継所やし尿処理場があったので今も施設管理の車が通っているので
しょうか。
千歳町と常磐町を結ぶ吊り橋のあったところでは特に木が生い茂り,橋があったという感
じはまったくしませんでした。
そこから常磐町を横断し鹿島中に向かう道がまっすぐのびていました。その道路の跡が残っ
ていましたが,4,5メートル先から道は草の中に消えていました。
吊り橋から中学校にかけてこの道は通学路になっていて,3年間,友達と通った道でした。
そのまま,常磐町をかつてのバス通りを進んでいきました。住宅跡は,木がないため案外
見通しがききました。
里見公園と結ぶあたりもよくわかりました。生協の常盤支店の斜め向かいの並木や池も残っ
ていました。
鹿島中の正門のあったところまでいってみました。校舎の跡は林になっていて中の方には
入って行けませんでした。
3年間通った道が,こんなに狭かったものか,不思議な感じがしました。まして,バスが
この道を走ったなんて,今の様子からは想像もできないことでしょう。
千歳町の方向をみるとずいぶん高いところに住宅が見え,見上げたその光景は25年前と
同じでした。

(52)同級生だったのでは。 投稿者:飯田 雅人 投稿日:10月20日(月)20時02分58秒

以前,投稿された中田康史さん。
久しぶりに鹿島中学校のアルバムを見ていて中田康史さんの名前を見つけました。
1971年卒業。3年F組,担任は八幡猛先生です。西洋紙にガリ刷りの名簿です。
私は3年D組斎藤宏先生の学級でした。ひょっとして同級生だったのですね。
F組には羽生君をはじめ,打矢君,丹野君,須川君・・・・懐かしい名前が並んで
います。びっくりしています。

(51)身近なところで出合った大夕張 投稿者:飯田 雅人 投稿日:10月11日(土)15時27分31秒

昨日,札幌の市民ギャラリーで行われていた「札幌市社会科児童作品展」にいって
きました。その中で,「大夕張ダムからシューパロダムへ」という中学生の新聞記
事を中心にまとめた研究や,昭和25年,桂沢ダムに沈んだ桂沢地区のことについ
てまとめた研究がありました。今年ずいぶん取り上げられていますものね。
また,その後,大同ギャラリーで開かれていた山崎賢六郎個展に行きました。
山崎先生の奥様が,私の鹿島小の1,2年の時の担任の沖 喜久恵先生の義理のお
姉さんにあたられるときいて,驚きました。

(50)本間商店提供東高のボタン 投稿者:斎藤敏幸 投稿日:10月06日(月)12時05分23秒

週末に大夕張へ行ってきました。ちょうど紅葉が始まっていて、
夕張岳の麓も色づいていました。地元の人に尋ねると、10月10
日頃が最もきれいだろうと言ってました。秋には、一度尋ねてみ
うと思っている方は、今週末の連休あたりに行くと、美しいい紅葉
が、迎えてくれると思います。

 乗田さんの書込みを思い出し、本間商店を訪ねてみました。お
じさんは、移転準備中で商品を整理していました。私が、東高卒
業だと言うと、整理中に偶然出てきたと「東高のボタン」を下さ
いました。知合いの卒業生にも渡してほしいと、おじさんから沢山
いただきました。

 この掲示板をご覧になっている方で、このボタンを希望の方が
いれば、私のところにメールを下さい。氏名、住所を記載して頂
ければ、発送させて頂きます。

 to-saito@hda.go.jp

(49)秋ですね 投稿者:飯田 雅人 投稿日:10月06日(月)00時24分28秒

札幌では私の住んでいる平地のあたりもだいぶ色づいてきました。
そういえば,大夕張を秋に訪ねたことはありませんでした。毎年,夏
にいくことがほとんどでした。なんとか,10月の休みに大夕張の紅
葉を確かめに行きたい気持ちがつのってます。

平成9年9月 先頭にもどる


(48)写真館を眺めて 投稿者:小笠原 憲 投稿日:09月29日(月)15時53分14秒

*春日町
冬には春日町に降りる斜面を、みかん箱の裏にトタンを打ちつけたソリで滑り
降りて遊びました。リュージュみたいなものですね。
ひそかにあこがれていた同級生の金木百合子さん(36年たってもフルネーム
で覚えてる!)が住んでいたのもこの町でした。

*購買会
わたしが住んでいたころ(昭和36年?)に一度火事で焼失しました。
この写真はその後建て替えられたものなのでしょうね。大夕張の”デパート”
でした。
生協のほうが家から近かったのですが、入り口に”組合員に限る”という表示
があって、わたしの家は加入していなかったため、ここで買い物するのは悪い
ことのように子供心には感じられ、お使いのときにはわざわざ遠い購買会まで
行きました。

(47)心がほっとするひととき 投稿者:飯田 雅人 投稿日:09月26日(金)23時11分18秒

斎藤さん。

心あたたまるメールありがとうございます。
掲示板の方で,お返事させていただきます。

仕事の関係で忙しい時,そんな時こそ,床に就く前にふるさとの写真
を眺め,思い出したことなど書き留めておきたくなったりします。そん
な時間を過ごすことでなんだかほっとするのです。そして,今はたった
一人で思い出に浸っているわけではない,皆さんとともに大夕張のこ
とを話題にできるのだという心強い思いがします。
不思議なものですね。

斎藤さんが掲示板に書かれたようなこと,ほんとに,その通りだと,
思いました。

>20代の頃は、周りでクラス会のことが話題になると、淋しさと悔し
>さが混じったような、複雑な気持ちになりました

これもそのとおりで,その話題のたびに,「閉山になったから。みんな
全国に散っちゃったから…」とさびしい気持ちで説明していた自分を
思い出します。皆さんおなじ思いなのでしょうね。

クラス会といえば,鹿島中卒業した年(昭和46年)の夏休み,確か
緑町集会所だったか,どこかで,開いたクラス会が私にとって,現在
に至るまでの最初で最後のものになっています。

(46)冬の遊び 投稿者:小林 俊治 投稿日:09月24日(水)21時36分12秒

小学生のころ、私の家は春日町詰所前でした。(春日町10番地)
冬になると、家の前の雪で小さなジャンプ台を作り、セルロイドで作った
人形でジャンプを模擬して遊んでいました。
朝から夕方まで、あきずに遊んでいました。
手がかじかんでも、お腹が空いても途中で止めることができないほど
傾斜は?どれがよく飛ぶ?本当に単純な遊びですが、子供心に満足感がありました。
かまくら=ただ掘るだけではなく、部屋を作っていきます。
ひたすら掘って、体は汗と溶けた雪で濡れたままになります。
それでも、もう止めようとする気がありません。
ある日、遊び仲間と横山理髪店方面を通って代々木町への坂を登る手前を右に
シューパロ川に向かって行き、川岸に張った氷の上で竹スケートをして遊びました。
川によく落ちたりもしました。(冷たい)
それでも、限界まで遊んでいます。
日が暮れて、くたくたで家に帰ると、母さんが雪を払ってくれて
「早くご飯食べて寝なさい」と言います。
そしていつものように私の家は、夜7時半には寝てしまいます。

(45)点から線へのつながり 投稿者:斎藤敏幸 投稿日:09月24日(水)19時41分22秒

 私が初めて、このH.Pを覗いたのは、今年の5月頃です。仕事で疲れたある夜、検索欄に
「大夕張」の三文字を打ち込んでみました。すると、3件のデータベースが表示されました。
 はじめは、夕張市のH.Pにアクセスしてみました。「夕張市も頑張っているんだ」と思いなが
ら、次に飯田さんのH.Pにアクセスしました。そして、「ふるさと大夕張」を迷わず、クリックし
ました。すると、立派なH.Pがあるではないですか。とても興奮を覚えました。

 掲示板では、色んな方の投稿を読ませて頂きました。読み終えると、懐かしさの他に、何か
気力のようなものが湧いてくるのを感じました。
 特に、疲れた時など「ふるさと大夕張」を覗くと、いつのまにか、元気になっている自分に気
付きます。

 今までは、大夕張に関わりのある人々の想いが、個々の胸の中で思い出として、点のように
存在していたと思います。ところが、今は、飯田さんのH.Pを通じて、もう点ではなくひとつの
線として、つながり始めているような気がします。

 投稿なさった方も、H.Pを見ている方も、一度はあの大夕張の何処かで、すれちがってい
ると思います。もし、閉山にならなければ、数年に一度でも、クラス会とか同窓会を当たり前
のように、開いていたと思います。
 今はもう慣れましたが、20代の頃は、周りでクラス会のことが話題になると、淋しさと悔し
さが混じったような、複雑な気持ちになりました。
 でも、今はもう、飯田さんのお陰で、点ではなく線として、皆さんとつながっているような気が
します。以前に比べ「大夕張」のことを考えると、淋しさより、何か励みのようなものが生まれ
てくるのです。 H.Pを読み直しているうちに、こんな考えが浮かんできました。

 このH.Pがある限り「大夕張は生き続ける」のだと思います。 

(44)大夕張は生き続ける 投稿者:飯田 雅人 投稿日:09月21日(日)17時03分40秒

1997年,池田屋での再会,小倉さんのタイトルを見て,なんてすてきな出
会いなのだろうと思いました。
私も,このHPを作ることで,日々いろいろな方とこうして知り合えることを楽
しみにしています。
正直言って1972年に大夕張を出て以来,ここ10数年1年に1回は,大夕張
を訪ねてきたものの,人とのつながりはまったく途切れていました。
HPを通して大夕張について多くの方々とこうして話したり,読んだりするのは
とてもうれしく,今までになかったことです。また,HP作りの過程で,鹿島中の
3人の同級生の方々と今年の夏,懐かしい再会をはたすことができました。
大夕張はダムに沈みますが,それを契機に,大夕張という土地,時代を経験した
方々の新たな交流が広がっていくことは,素晴らしいことだと思います。
それは,新たな大夕張を私たちの心に刻んでいくことになると思うのです。

(43)1997年、池田屋で友人に再会しました 投稿者:小倉 力 投稿日:09月20日(土)17時43分52秒

 「ふるさと大夕張」いつも懐かしく見させて頂き、飯田さんには、
日頃から感謝の気持ちでいっぱいです。そして、さらに、飯田さん にお礼を申し上げる嬉しいことがありましたので、このたび、初めて 投稿させていただきます。  私自身は物心つく前から小学校1年生の途中、1960年の11月まで 富士見町二丁目に住んでいました。  先日、久々に「ふるさと大夕張」を開き、池田屋食堂の写真が増え ているのに気がつきました。  この食堂には、閉山直後の1974年、大夕張を訪ねたとき、昼食をとっ て、荷物を預かってもらったことがありました。 また、遠くそして 幼い日のことで確かではないのですが、鹿島小学校から美唄に転校する日、 母と学校に挨拶いった帰りに、ここで食事をしたような記憶も残っています。  そんなことを思い出しながら、池田食堂の写真を眺め、その下の投稿を 読んでおりました。  その池田食堂の思い出を記した投稿記事の中に「1973年東高を卒業し」 という書き込みがありました。とすると、私と同じ年齢かなどと思いながら 記事を読み終え、投稿者の名前を見ると、斉藤敏幸さん、なんと、鹿島小に 半年間だけいたときの同級生で、今でも私が憶えている数少ない人の名前で はないですか。  半信半疑でメールを打ったところ、間違えなく同級生の斉藤さんで、1969 年、私が大夕張を訪ねたとき会って以来の再会を果たせました。   私たちの現在の住所は離れていて、実際に顔を合わせるのはまだ先になる でしょうが、とりあえず、たまたま懐かしくて覗いてみた「池田屋」の テーブルで、28年ぶりに再会することができました。  これからも、大夕張のちょっと立ち寄った先で思いがけない人に会える かもしれないと、楽しみが増えました。 この場を作っていただいた飯田さんに重ねてお礼を申し上げます。

(42)鹿島小学校の運動会 投稿者:飯田 雅人 投稿日:09月19日(金)21時13分16秒

運動会といえば,私が小学校に通っていた昭和30年代後半では,グラウンドに
おがくずを撒いてあった記憶があります。当時,りんごを箱で買うとその中にいっ
ぱい入っていたものです。そのため,普段はかたくて雨水の溜まりやすかったグ
ラウンドが運動会の当日はふかふかして気持ちよかったものです。
そして,たいてい運動会の前日には新品の真っ白の足袋を買ってもらいました。
その足袋をはいて,柔らかいグラウンドの上を力いっぱい走ったものでした。
運動会が終わると新品だった足袋は,まっくろにそして,底はあちらこちら穴だ
らけになり役目を終えました。

(41)大夕張の本など 投稿者:小笠原 憲 投稿日:09月17日(水)18時39分36秒

久しぶりに書き込みます。
乗田さんの記事を見て思い出しました。
当時の炭住は共同便所でしたね。
わたしが住んでいた頃、ポリオが大流行しました。これに取材した松本清張の
中編小説が、確か文春文庫にあります(題名忘れました)。でも、実際に取材
には来なかったみたいで、具体的な鹿島の描写は残念ながらありません。

十数年前の発行ですが、花井安弘さんと言う方の写真集”私の夕張”がありま
す。鉄道写真で、夕鉄や大夕張鉄道の写真がたくさん載っていてとても懐かし
いものでした。周辺のひとびとや風景の写真もたくさん。
この花井さんに連絡がとれればもっと写真を見せて頂けるかもしれないな、と
思っているうちに十数年。

飯田さんのページの充実はとてもありがく思っています。
これからも期待しております。大変でしょうが、どうかよろしく。

(40)記憶の中の大夕張 その1 投稿者:乗田 功一 投稿日:09月12日(金)03時02分34秒

現在の大夕張の話題を離れて、過去の記憶からいくつか。

●鹿島小学校の運動会

紅白に分かれて勝敗を競う。グラウンドの校舎側と富士見町側とに分かれ、応援歌の応酬。
この応援歌、歌詞が難しく、全く意味不明。最後の「フレー赤 フレー赤 フレーフレー赤〜!」
の「赤」の部分が、白組だと「白」になる。紅白同時に歌い始めるが、数十メートルの距離がある
ためうまく揃わず、どちらかが先に歌い終え、双方大笑い。

●お祭り

御輿をかつげるのは、威勢がよく元気のいい子供だけ。自分も本当はかつぎたかったが詰め所のお
じさんに「賽銭箱」を命ぜられる。鼻におしろいを塗られ、相棒と二人町内を練り歩くが、「元気
がない!」と、取り上げられる。私は、まったくおとなしい子供。
大夕張神社の急な坂道。夜になるとこの道沿いに赤や青や緑の電球が飾られ、街中からもきれいな
光が見える。山の中腹では、大きなスリーダイヤ(三菱)形のしかけ花火。
小学校近くの踏切あたりに連なる夜店。わたあめ、スマートボール、ヨーヨー釣り・・・。

●代々木町の長屋

トイレは外。細長い長屋の両脇に三角屋根の共同便所。それでも個室は各世帯別。
水道も外。長屋と長屋の間に共同水道。主婦は井戸端会議。誰が最初に始めたのか、ビニールホー
スで我が家へ専用水道を確保。みんなが同じ事するからたった一つの蛇口がタコ足状態。水の出も
チョロチョロ。

●シューパロ湖

整備された美しい公園。オリに中になぜか犬と猿(だったかな?)が同居している。鎖に繋がれた
小熊が1頭。「湖畔亭」のカレーライス。湖面には希有な赤いトラス鉄橋(三弦橋)。道路開通記
念碑。大きな樽形のバンガロー。絵に描いたような美しい風景・・・。

●カトリック教会

教会前の小さな庭にある純白のイエス・キリスト像。聖堂内の清潔な匂い。教会学級の道徳の時間、
「神様はいると思いますか?」の問いに、「ワカリマセン」としか言えなかった自分。
大夕張ではとても珍しかった西洋人の神父様。

思いつくままに書き出してみました。記憶違い等があったらどなたかフォロー願います(^^;)

その内、続編でも・・・・。

noritax@ba.mbn.or.jp
Nifty:QZD02423    
乗田 功一  from Kanagawa Fujisawa

(39)1978年・大夕張・再会 投稿者:斎藤敏幸 投稿日:09月11日(木)19時09分28秒

 私は、閉山の前年に当たる1972年3月に夕張東高を卒業しました。
 閉山後両親は、函館に居を構えました。そのためか、大夕張に帰る機会もなく数年が
過ぎてしまいました。
 大夕張と再会できたのは、1978年の7月でした。当時私は、釧路に住んでいましたが、
職場の研修で札幌に出た時、帰ることができました。
 その頃は、大夕張の夢をよく見ました。夢から覚めると、たまらなく会いたくなったもの
です。

 バスが明石町を過ぎたあたりから、あれ程軒を連ねていた炭住は既になく、町は原始
の姿に戻りつつあるように見えました。
 終点の大夕張でバスを降りる人は、3人ほどでした。
 バスを降りてから、あちらこちらと思い出の場所を歩きました。しかし、18年間生まれ
育った故郷でありながら、違和感みたいのものを感じていました。
 懐かしくはあるのですが、以前と違って溶け込んでいけないのです。
 既に両親も転居し、知人も離散してしまった後では、落ち着ける場所が見つからないの
です。

 そんな時、池田食堂に立ち寄ってみました。こちらの長女の方とは同級生で、何度か
遊びに来たこともありました。
 食堂はまだ営業していました。おばさんは、私のことを覚えていて下さって、色々と
「その後」の話をしました。
 ビールを飲みながらそばを食べて、支払いを済ませようとするとおばさんは、「これが、
故郷の味だよ、元気で頑張るだよ」と言って、お金を受け取ろうとはしませんでした。
 バスを降りて以来感じていた違和感が、ここで一気にほぐれるのを感じました。
 池田食堂のおばさんは、今もご健在かと思いますが、再会できる機会があれば、改
めてお礼を言いたいと思います。
 
 帰りのバスの窓からは、小高い丘にそびえ立つ東高の校舎が見えましたが、陽に当
たり輝いていたのが印象的でした。
 今は、東高の校舎も、池田食堂(建物は残っているようです)もありませんが、これが
1978年の、私と、大夕張の再会でした。

(38)思い出いっぱい そして永遠に・・・・ 投稿者:飯田 雅人 投稿日:09月11日(木)00時01分03秒

 消えゆくふるさと大夕張について話ができる人が増えていくのはとても嬉しいで
す。今は,いろんな人の思い出や,話を聞いて,大夕張の記憶を確かに,豊かにし
ておきたい気持ちでいっぱいです。今から20年以上も前,自然にあふれ,活気
ある人々の暮らしが確かにあった,そのことをいつまでも自分の心の中にしっかり
と確かなものにしておきたい,そんな思いがつのります。
 大夕張についての思い出や,話題,どんなことでも結構です。お話ししたいです。
 こちらこそ よろしくお願い致します。

(37)いつも、ありがとうございます。投稿者:斎藤敏幸 投稿日:09月09日(火)19時00分19秒

 飯田さん、いつも懐かしいホームページをありがとうがざいます。このホームページは、
今年の5月頃から拝見させていただいております。初めて、このホームページを発見した
ときは、あまりの懐かしさに気持ちの高ぶりを覚えました。
 私は、鹿島栄町で1953年に生まれました。
大夕張を巣立ったのは、1972年の3月です。(閉山の1年前です)
 当時の住所は、栄町2丁目14番地の8(ブロック住宅)です。
同じ住宅には、加藤美代子さんも住んでいました。
 このホームページを通じて、故郷の人々と繋がっているかと思うと、
心に励みのようなものが生まれます。
 今までも何度か、投稿しようかと思いましたが、延び延びになってしまいました。
きっと私と同じような気持ちで、このホームページを開いている大夕張出身の方が
沢山いると思います。
 私も今日を契機に継続的に投稿したいと思います。
 飯田さんをはじめ、大夕張の仲間の皆さん、これからよろしくお願いします。
平成9年8月 先頭にもどる

(36)大夕張を訪ねて その2 投稿者:乗田 功一 投稿日:08月28日(木)01時54分48秒

先に投稿しました、3日間の大夕張行きの続編です。

 閉校式から2カ月経った鹿島小学校は、新学期も始まり今も変わらず
授業が行われているようです。
 グラウンドの富士見町寄り、校門があった近くに真新しい閉校の記念
碑が建てられていました。裏側には在校生12名の名前と、「閉校 平成
一〇年三月三〇一日」、表側には鹿島小学校校歌が刻まれています。

 今回、はじめて春日町へ行ってみました。大夕張駅前を一直線に下り、
代々木アパートを過ぎて少し行くと突然舗装が終わり、生い茂った草木
に突き当たります。ここからほぼ直角に右へ続く細い道を進むとやがて
シューパロ川が見えてきますが、途中右側に2階建てのアパートなど2〜
3棟の建物が残っています。
 川の向かい側には「春日町グラウンド」と呼ばれていた立派な野球場
があって、大夕張に住んでいた頃何度か行ったことがあることを思い出
しました。このグラウンドへ行くための吊り橋がかつてありましたが、
今は橋脚だけが 川の流れに洗われていて、そこへ行く手段は無くなって
しまったようです。

 代々木アパート。今では2〜3軒しか住人はいないようです。
中へ入ってみましたが、鉄のドアはすべて開け放たれ、窓ガラスは破ら
れ、風の音だけが不気味に響く異様な雰囲気でした。
 ここには昔、クラスメイトが住んでいて、何度か遊びに行ったもので
すが、二十数年の時の流れは、なにもかも変えてしまいます。

 本間商店。文房具を主に、スポーツ用品や玩具など大夕張の学生は必
ずお世話になったのではないでしょうか。おじさん、元気です。大夕張
へ行くと、私は必ずここへ立ち寄ります。街がにぎやかだった頃の話を
おじさんとしていると時を忘れます。大夕張へ行く機会がありましたら
ぜひ寄ってみて下さい。暖かくむかえてくれると思います。しかし、残
念ながら11月頃にはついにこの地を離れてしまうということです。
 また、このお店では昭和40年代と思われる、大夕張神社から写した写
真を販売していました。

 車で大夕張へ着くと、歩道橋に掲げてある大きな文字が目に入ります。
鹿島小学校の生徒さんたちが作ったものでしょうか。

     「思い出いっぱい、そして永遠に・・・」

長い歴史の中で、最後までその歴史を守り通してくれた大夕張の人々の、
かつてこの街に暮らしていた私達への心からのメッセージに思えてなり
ません。
 たとえこの地がいつの日か湖に沈んでも、大夕張という街の記憶は永
遠に消えることはないでしょう。

再びの長文、申し訳ありません。いずれまた報告したいと思います。

noritax@ba.mbn.or.jp
Nifty:QZD02423    
乗田 功一  from Kanagawa Fujisawa

(35)大夕張の思い出を見て 投稿者:近藤 相子(旧姓矢野) 投稿日:08月26日(火)00時24分07秒

大夕張の思い出を懐かしく拝見しました。私は、大夕張を後にして24年経ちます。
今年の7月19日に鹿島中学校(昭和43年卒、21期)の同期会が札幌であり、
出席しました。30年ぶりの再会です。
7月20日は、大夕張お散歩ツアーがあり鹿島小学校にも皆で行き、記念撮影をして
来ました。
自分の育った町が無くなるのはとても寂しいです。
横浜市在住

(34)1 投稿者: 投稿日:08月25日(月)18時58分44秒

閉校式,早く教えてもらえたら。いったのに。

(33)大夕張を訪ねて 投稿者:乗田 功一 投稿日:08月25日(月)02時36分00秒

 昭和48年の閉山まで栄町に住んでいました。
8月21〜23日にかけて、大夕張へ行きましたので報告します。
曇りがちで、時折雨がパラつく、あいにくの天気でしたが、ゆっくりと
街を見て歩きました。

 閉山以来、3年前に初めて行ってから、これで4度目ですが、行く度に
街が寂しくなっていくのを感じます。
 建物の取り壊しも進んでいるようで、飯田様のコメントにありました
営林署の建物(「山火事注意」の大きな看板がありましたね)やカトリ
ック教会だった建物が無くなっているのを確認しましたし、私が行った
ときには丁度「加川写真館」の左隣の建物を解体していました。
 昼過ぎに大夕張に着いた時にはまだ取り壊しが始まったばかりでした
が、夕方には跡形無い状態で、長い年月の中で大夕張という街を形成し、
歴史を刻んで来たはずのこれらの建物も、無くなるときにはほんの一瞬
なのだと、現実の無情さを感じました。

 東小学校のグラウンド跡には、真新しいタイヤの跡が多数あり、おそ
らく多くの方々がここを訪れた様子がうかがえます。
すぐ近くの常盤町へ行く橋(鹿島橋)は健在で、通行は可能ですが、渡
った途端、ジャングルも同然のうっそうと生い茂る草木に圧倒され、そ
の先へ進むにはかなり勇気が必要な状態です。
 私は2年前に車でここを進んで、元鹿島中学があった所まで行きました
が、途中電線のない電柱が1、2本立っていただけで、かつてここに何百
人もの人々が暮らしていたことなど、まったく信じられませんでした。
大夕張の多くの町のなかで、常盤町が一番早く大自然に戻っていくよう
です(実際にはそれさえ許されず、湖に沈んでしまうのでしょう)。

 大夕張駅近辺の商店街は、多くがシャッターを閉じ、何年も前から無
人の空き家と思っていたのですが、そのうちの何軒かは時折移転先から
帰ってきては店を開けているそうです。
 実際、郵便局前の洋品屋さんもシャッターが開いており、中をのぞく
とウインドウ越しに商品が並んでいるのを見ました。

 今回、3日連続で大夕張を訪れましたが、連日、家族連れの車とすれ
違い、みなさん私と同じように「最後に一目大夕張を見ておこう」とい
う思いなのでしょう。
 現在の住民三百数十人、移転先が決まっていない人はわずか。ほとん
どの人々が今年中に移転されるようです。

人の住む「大夕張」は今年限りでしょうか。かつて大夕張に住んでいた
方、懐かしく感じられている方、もし可能であれば一度訪れてはいかが
でしょうか。昔の面影は無いかも知れません。変わり果てた街の様子に
落胆するかも知れません。ダムが完成するのは十数年後ですが、大夕張
という街はわずかな時間で「永久」に無くなります。

大変長文になりましたが、またあらためて報告したいと思います。

noritax@ba.mbn.or.jp
Nifty:QZD02423    
乗田 功一  from Kanagawa Fujisawa

(32)訂正 投稿者:小林 光志 投稿日:08月18日(月)22時49分16秒

昨日送ったE-Mailに間違いがありました。下記に訂正します。
鹿島中学校1963年卒業。:1・2年比志先生、3年更谷先生。
引退     1969年
です。
訂正してお詫びします。
以上。

(31)大夕張HPを見て 投稿者:小林光志 投稿日:08月17日(日)17時42分06秒

今日は。
先に投稿した、小林俊二の兄です。
私は、1938年鹿島中学校卒業で、その後夕張工業へ進みました。
やんちゃ坊主で勉強もせず、運動ばかりの毎日でした。
おかげで好きなスキーで明治大学へ進みましたが期待に応えられ
ず、1944年スキーは、引退しました。
しばらく、大学のスキー部コーチをしていましたが1983年辞任しま
した。
今は、光通信の技術関係で日本には、半分くらいしかいません。

インターネットの無かった1984年からe−mailを使用しております。
最近、弟からこのHPを知らされ拝見しました。
1996年、鹿島小学校での同窓会の模様を高橋先生から、東京で
伺いましたが、ダムによる大夕張水没の話は、もっと先のことと思
っていました。
今後、大夕張の事は、このHPで情報を仕入れることができる
のでしょうか?
下の息子は、今、旭川の北海道東海大学建築工学に行っています。
親父の親戚関係は、札幌、岩見沢、夕張などにいます。
12年くらい帰っていませんので、久しぶりに里帰りしようと考え
ています。

あなたのこのHP制作には、頭が下がります。
現在の大夕張の姿が目に映るようです。
忘れていた校歌を懐かしく思い出しました。
至れり尽くせりの内容で感慨ひとしおです。
私の父は、大夕張鉄道の機関庫に最後まで勤め上げ、
現在、八王子にいます。77歳、72歳の母も健在です。
春日町で育ちましたが、あなたのすべての記事が昔を思い
出させてくれました。
有り難うございます。
これからも時々開かせていただきます。
今後もHPの内容充実に期待しています。

本当にあった、大夕張情報で舞い上がってしまいました。
思いついた語句を脈絡無く述べたことにお詫び申し上げます。
今後のご活躍を祈っています。
以上。

(30)お盆の大夕張 投稿者:飯田 雅人 投稿日:08月14日(木)00時07分14秒

今日,大夕張へ行ってきました。やっぱりお盆ということで,大勢の方々が大夕張に来
ていました。結構町中が,人の動きでにぎやかでした。例によって,マスコミのカメラ
も来ていて,歩道橋の上から町の様子を撮影していました。
里帰りや,私と同じように故郷を見ておこうという人も多かったようです。
大夕張神社,春日町の河原,鹿島東小跡地でもワゴン車やRV車に乗った家族とすれ違
いました。若いメンバーの集団とも出会いました。千年町では戦没者慰霊碑の前で手を
合わせている家族連れの姿が見られました。
移転も本格化してきていて,あちらこちらで大型ゴミが見られ,引越し用のトラックに
荷物を積み込んでいる家もありました。
前回,教会だった建物が取り壊されていましたが,今回,錦町にあった営林署の建物が
とうとう取り壊されていました。
その中でも夏休み中の子どもたちは,「こんにちは」と元気にあいさつをしてくれてい
ました。また,神社に登った時にも,町を見渡す場所まで人が歩けるよう草を刈ってあ
りました。そんなところに,現在大夕張に住む方々のこころを感じました。
鹿島小の先生の話では,12名の子どもたちも,2学期からは,7名でスタートだそう
です。
長くなりましたが,8月13日の大夕張の様子でした。

(29)新聞記事掲載について 投稿者:飯田 雅人 投稿日:08月13日(水)01時46分52秒

新聞記事の掲載について,道新に問い合わせてみました。結果はやっぱりというか,
『一般の紙面のインターネット上での転載は一切認めていません』との著作権担当
の方の言葉でした。他社も同様でしょうとのことでした。現状ではどうやら無理な
ようです。
もし書く事ができたら『大夕張の今』ということで,何回か大夕張を訪ねた時のこ
とを書く中でそれらの内容について載せていきたいと思っています。
新聞記事,もし必要でしたら,メールください。今までの新聞記事は一応手元にあ
りますので。

(28)鹿島小の夏 投稿者:飯田 雅人 投稿日:08月10日(日)09時12分02秒

この夏,鹿島小へ3回程足を運ぶことになりそうです。
鹿島小の中から見える夕張岳がとても懐かしく,ある意味では楽しい
時間を過ごさせてもらっています。「懐かしんでくださる方々はいつ
でも立ち寄ってください。学校のあるうちは・・・・」という山岸校
長先生の言葉に甘えながら。
たまたま終業式のだったのですがその日,3社の報道陣が12人の在
校生をカメラで追っていました。また,私と同じように鹿島小を訪ねて
家族もあり,その中のお年寄りにスポットを当てて取材も行われていま
した。
そんなややあわただしい雰囲気が小鳥の鳴き声ばかりが響く,この鹿島
にちょっと似合わないな,というのが正直な私の感情でした。

(27)投稿 その2 投稿者:小野田 正憲 投稿日:08月04日(月)23時57分15秒

もう2ヵ月ほど前のことでしょうか、休日に家族を連れて南区の実
家に遊びに行ったときのこと。テレビを見ていた親父が「あっ!」。
よく見ると、懐かしいじゃありませんか、鹿島がうつってるんですね
エー。すぐに、飯田氏のHPでみた鹿島小の廃校式とわかりました
(再放送のようでしたが)。確かに、自分の生まれた町がダムのそ
こにしずんでしまうことは残念なことだろうと思います。私は清水
沢生まれですが、自分の生まれ育ったアパートが跡形もなくなっ
ていたことでさえ、愕然としたくらいですから。でも小学校の廃校
式に出席できた、いやそのことを知り得たことだけでもうらやましい
と思います。結婚してすぐに、かみさんに自分のふるさとを知って
もらおうと連れてきてみたら、ボロボロの廃屋になっていたときの
ショックは今でも忘れません。もう10年も前のこととなりました。ダ
ムなどの是非についても、改めて考えさせられました。川釣りを趣
味とする私にとって、ダムに限らず小さな砂防ダムや護岸工事な
ど今までは考えられないような奥地までその開発の手が伸びてい
るのを見るにつけ、その価値が全くわからないのです。ただ、仕事
がないから、ダムでも造って・・・・・ではないでしょうか。この問題を
考えると機嫌が悪くなるので。またに機会にでもするとします。大
変長くなりました。久しぶりなので書きたいことだらけで、すいませ
ん。まだまだあるのですが、今日はこの辺でおいとまします。あり
がとうございました。

(26)大夕張の旅館 投稿者:小笠原 憲 投稿日:08月05日(火)09時51分03秒

飯田さん、ご無沙汰しています。
あまり楽しい話題じゃなくて申し訳ありませんが。
先日の新聞に永山則夫さん(同い年なので)の死刑が執行されたという記事が
大きく載っていました。
その付け足しのように日高夫妻も処刑されたとありました。
大夕張の元旅館だった作業員宿舎に放火して大勢の作業員を焼き殺した夫婦で
す。
鹿島のニュースが全国に流されたのはこの陰惨な事件が最初で最後だったので
しょうか。
この、元旅館は生協の向かい側、ソバ屋の池田屋の並びにありました。
わたしは、大夕張から三笠に引っ越す前の2日間ほどをこの旅館で過ごしたこ
とがあります。中学に進む春休みのことで、友達にも会えませんでした。
暗い話題ですみませんが、新聞でまた大夕張を思い出しました。
ところで、道新や読売の記事は北海道以外では読むことができません。
それらをインターネット上に掲示して頂くことはできないでしょうか。
やはり著作権の関係で難しいでしょうか。

平成9年7月 先頭にもどる


(25)道新の連載はじまる 投稿者:飯田 雅人 投稿日:07月29日(火)21時39分37秒

『゜97夏大夕張 ダムに消える街』が北海道新聞夕刊一面に7/29(火)から始まりました。
第一回を読む限りでは,読売に比べると,やや記事に深みがなく物足りない気がするのが残念。
5回連載の予定だそうです。

(24)大夕張の情報 投稿者:飯田 雅人 投稿日:07月25日(金)20時30分59秒

妻が銀行で見たらしいのですが,週刊女性7/15号に大夕張のことが出ていたそうです。
また,小林ひとみさんからの情報ですが,読売新聞に『湖底に沈む街』と題して今年の
1月からシリーズで連載が始まっていて,つい先日(7/15)第3部の連載が終了しました。
第4部もそのうち始まるそうです。

(23)写真追加しました 投稿者:飯田 雅人 投稿日:07月24日(木)22時44分10秒

鹿島小閉校式のページに写真を追加しました。写真の枚数が増えた
ので,多少重くなるかもしれませんが,どうぞご覧になってください。

(22)こんにちは、懐かしい思い出一杯です。 投稿者:中田康史 投稿日:07月23日(水)13時52分53秒

こんにちは、大夕張生まれの私には懐かしい思い出一杯です
私の父(二年前に他界しました)が定年まで働いていた三菱大
夕張鉄道、炭山駅、私が小さい頃、当時車掌をしていた父に連れ
られよく遊びに行ったり、父の弁当を届けに行ったりと思い出
の多い場所です。鹿島小学校・鹿島中学・東高校と18年間暮
らした自分の古里が水没してしまうのは思い出が消えてしまう
ようで大変に寂しい思いが致します。
大変に充実して大夕張のホームページ、感激しました。
頑張って下さい。

(21)ご協力を! 投稿者:飯田 雅人 投稿日:07月19日(土)23時39分37秒

「春日町(詰所前)」で小林俊治さんのコメントを掲載させていただきました。
今まで私の思い出を中心に載せてきましたが,これからは,大夕張のいろいろな
場所に対する,みなさんの思い出も掲載していけたらと考えています。
いままでのメールや掲示板の記事の中から思い出として掲載させていただいても
よろしいでしょうか。もしさしさわりがあればメールでお知らせください。
また,あらためて場所がわかるように,掲示板に投稿されたり,メールで寄せら
れるとうれしいです。みなさんの記憶や思い出で≪心の中の大夕張≫の姿をよみ
がえらせたいのです。
よろしくお願いします。

ps この夏には大夕張の写真や資料を求めて少し動きたいと思っています。

(20)鹿島小39期卒業生(菊組) 投稿者:小林 俊治 投稿日:07月08日(火)00時53分26秒

飯田さんのhpで鹿島小学校閉校記念式典 惜別の会の様子を見ました。
私は39期生です。(s42)当時、春日町45番地にいました。(詰所のそば)
担任は、久々湊先生でした。
私事で恐縮ですが、わんぱくであったため、よくゲンコツされました。
父親のようなどっしりとした存在感のある先生でした。
冬の昼休み、教室の窓から、外に積もった雪に飛び降りたりして遊んでいました。
教室には大きなストーブがあって、石炭を入れすぎると後で真っ赤に熱くなり
その傍の席の人はたいへんであった。
ところで、
3月ごろアルバムを探したのですが、妻がしまったのでどこにあるか
わからず、未だに見つかりません。妻もわからないらしい.......
飯田さんの貴重なhpは、記憶を辿るのに大変ありがたいと
思っています。
特に、町の風景はぐっとくるものがあります。

(19)テレビから 投稿者:飯田 雅人 投稿日:07月07日(月)22時27分05秒

昨日の番組の中で,加川写真館の加川さんがでていました。隻腕の
写真家として,鮮やかな仕事ぶりは,小学校時代強くその姿を心に
刻まれました。年はとられたもののとても元気そうでした。昭和48年
の出来事を写真を撮る立場から淡々と述べられていたのが印象的
でした。

(18)明日TV放送あります 投稿者:飯田 雅人 投稿日:07月05日(土)21時40分32秒

7月6日(日)6:10 新・北海道中ひざくりげ「故郷を心に刻む旅」
という番組がNHKで放送されます。ふるさと大夕張をとりあげたも
のです。ぜひ見たいと思います。

(17)私も閉校式に行きました 投稿者:西村 武博 投稿日:07月05日(土)20時16分54秒

閉校式に妻といっしょに行きました。生まれてから高校まで
大夕張で暮らしました。昭和32年生まれです。湖に沈むと思うと
故郷が亡くなる実感がひしひしと込み上げ、閉校式の後、町のあちこちを
見て周りました。少ない在校生による鹿島の歌は、出席者の多くに感慨を与え、
ハンカチを目に運ぶ人も多かったです。
閉校式の駐車場となったグラウンドには、いっぱいの車がとまりました。
私の車が誘導された場所は、ちょうどピッチャープレートの前、
小学生の時野球クラブでこのプレートを踏み汗をかきました。
正直言ってさみしい気持ちでいっぱいになりました。
母の亡くなった病院は、もうありませんが、手を合わせて来ました
インターネットは、先週接続したばかりでよくわかりませんが
このようなホームページを拝見して感激しました。今後共続けてください。

(16)鹿島小学校 投稿者:小笠原 憲 投稿日:07月04日(金)10時11分57秒

飯田さん、メールありがとうございました。
メールより書き込んだほうが、賑やかでいいか、と思いまして掲示板でご返事
させていただきます。
閉校式の様子見させて頂きました。ずいぶん沢山のかたが出席されたんですね。
校内の写真も懐かしかったです。なにしろ35年前のことですから。
わたしは梅組でしたから3階の階段の奥の教室でした。
吉井君、平川君、原くん、金木さん、高橋さん(同級生です)みんな元気だろ
うか。
校歌は残念ながら忘れてしまいました。すこし聞けば、きっと思い出すので
しょうが。
大夕張の写真も眺めさせていただいています。今度帰省したときには自分の
昔のアルバムも引っぱり出してみようかと思っています。
飯田さんのHPの更なる充実を期待しております。
ありがとうございました。

平成9年6月 先頭にもどる


(15)鹿島小学校閉校式 投稿者:飯田 雅人 投稿日:06月22日(日)19時42分13秒

たった今,大夕張から帰ってきました。
悲しいです。さびしいです。あらためて自分の中のそんな気持ち
を強く感じてしまいました。ふるさとのにおいっていいな。
閉校式の様子をそのうち,アップしたいと思います。

(14)啓心寮(昭和41年) 投稿者:和田 彬 投稿日:06月22日(日)01時18分42秒

写真の昭和41年に九州からの転勤で、結婚までの3ヶ月ほど啓心寮に住んでいました。
たいへん懐かしく拝見しました。私はホッケの煮付けが苦手で半年ほど結婚を早めました。
長男は炭坑病院で誕生し、南部を合わせると約9年大夕張で過ごしました。
この秋頃にはもう一度訪ねてみたいと思っています。

(13)主人の一家が鹿島町出身です。 投稿者:小林ひとみ 投稿日:06月18日(水)14時15分33秒

主人は昭和33年生まれで鹿島小学校卒業をし、高校卒業まで
大夕張で暮らしていました。
22日の閉校式には、父、叔父、叔母と出席する予定でいます。
二日前に初めて夕張市のホームページを見つけ、大夕張写真館
を感動してみていました。
きっと、このページにも感激すると思います。
さっそく、帰ったら教えたいと思います。

(12)『大夕張写真館』 新規掲載のお知らせ 投稿者:飯田 雅人 投稿日:06月15日(日)08時08分17秒

6月11日に夕張市のホームページに『大夕張写真館』が掲載されました。
9枚の写真が現在掲載されていますが,増えていくようです。期待しています。
当HPからもリンクしてありますが,URLは次の通りです。

http://www.dolphin.co.jp/hpr/yubari/index.html

(11)思い出します 投稿者:飯田 雅人 投稿日:06月09日(月)20時14分10秒

清水沢は三菱大夕張鉄道にのって,出かけた時の終着駅で,夕
鉄バスのターミナルがありました。駅前のラーメン屋でバスを待
つ間食事をしたことをおぼえています。
私は鹿島に中学卒業まで暮らしていました。個人的なことになり
ますが,炭鉱病院の薬剤師だった父の病死とともに札幌に出て
きました。大夕張のスキー場には,住宅からスキーをはいて出
かけることができました。喉がかわくとよくスキー場下の白いブロ
ックの住宅で水を飲ませてもらいました。(ずいぶん迷惑なこと
だったでしょうね。今思えば。)
白金沢には中学時代,炊事遠足で出かけた記憶があります。
のんびりと過ごした楽しい子供時代がよみがえります。

(10)当時、出かけた大夕張 投稿者:小野田 正憲 投稿日:06月08日(日)13時20分28秒

ひょっとすると、中学と高校の中間期にお会いしているかもしれません。
さて、私はご近所の清水沢出身で昭和30年7月生まれです。
父が、南高の教師で、スキー部の顧問だった関係で、3歳の頃からスキーを履き、
大夕張にもよくつれて行かれました。あの、ロープウェイ!?が懐かしい。
夏は、釣りに、夕張岳登山にと大夕張での思いではたくさんあります。
結婚して長女が4歳頃になったとき、その昔釣りをした白金沢につれて行って、
途中ぬかるみにはまり断念したこともありました。
書きたいことは、たくさんありますがまたの機会にします。
ありがとうございました。

(9)おすすめの本 投稿者:飯田 雅人 投稿日:06月02日(月)20時16分51秒

栂 苓子著『シューパロ川のほとり』〈副題 時をさかのぼる旅〉という本をご存知ですか。
著者は,現在東海大学医療技術短期大学女子学塾勤務で,小学校一年から高校までの十二年間
を夕張市鹿島で過ごしました。小説風の体裁をとりながら,ダムに沈む故郷の再訪の印象が語
られ,大夕張の現在(1993年頃と思われる)と,かつての大夕張の思い出が随所に出てき
ます。著者と鹿島中学同期の渡辺侃氏が挿し絵を担当しています。
私は数年前札幌の書店で購入し,作者の文章の一つ一つに私の当時の印象がまざまざとよみが
えってくるのを感じました。懐かしくもあり,さびしくもありますが,時々思い出したように
手に取り読み返す本です。
1994年初版発行。日本図書刊行会発行,近代文藝社発売で定価2.000円です。
平成9年5月 先頭にもどる

(8)大夕張鉄道と鹿島のページを作っています 投稿者:塚本雅浩 投稿日:05月28日(水)00時14分25秒

 札幌市在住の者です。夕張には住んだことはありませんが、母が夕張出身なので、
子供の頃よく、夕張鉄道に乗って連れられて行きました。
 今、廃止になった鉄道跡のホームページを作成中で、大夕張鉄道のページを作成
するため、鹿島を訪れました。そして、ダム建設のことを知り、鹿島とシューパロ
ダムに関するページも作成しました。ご覧頂ければ幸いです。

 URL:http://www.justnet.or.jp/home/m_tukamoto/WELCOME.HTM

(7)大夕張行ってきました -- 1 -- 投稿者:飯田 雅人 投稿日:05月20日(火)21時26分31秒

5月18日(日)に大夕張に行ってきました。小笠原さんが訪ねた大
夕張鉄道の客車も,見てきました。毎年のように行っていながら
中まで入ったことはありませんでした。窓のガラスが砕け散り,
まったく荒れ果てたまま放置された状態でした。住民の方々の
立ち退きが迫っているためか,多くの人たち(旧住民の方々と見
える)がビデオや,カメラを持ち,町中やかつての住宅後を車で
走っていました。私もカメラ片手に女房子どもを連れ,思い出の
場所を歩きましたが,到底一回の訪問では回りきれませんでした。
写真はたくさん撮ってきました。ホームページの方にも少しずつ
のせていきたいと思います。

(6)寂しいね 投稿者:井上 投稿日:05月20日(火)19時14分53秒

私の母は鹿島で育ちました、祖母も12年くらい前までは鹿島にいて、
私も小さい頃は年に何度か行きました、札幌に生まれ育ったので大夕
張は私にとってもふるさとみたいなところなので寂しいです、
6.22ぜひ行きたいと思います。

(5)メールをありがとう 投稿者:池田 憲治 投稿日:05月19日(月)23時17分49秒

メール読みました。ホームページをもって居られるとのことで、
今日拝見させて頂ました。”大夕張”それは私のように遠く離れている者
には、すごく快い響きの単語です。
終戦後(小学3年)に移り住み、鹿中7期の卒業です。
昨年は中学校が閉校になり、今年は小学校と続き本当に淋しい限りです。
ついでに閉校記念誌の申し込み忘れを思い出してしまいました。
たまに故郷を訪ねておりますが、もう自分も歳なので生きているうちは
水没はないと思っているのですが。

(4)明石町に住んでいました 投稿者:菅野彰彦 投稿日:05月17日(土)18時13分23秒

当時は小学校の低学年で、3年を終えると釧路に越しました。
線路づたいに千歳や大夕張まで歩いていったこともよくありました。明石町の鉄
橋の近くにあった古い駅舎は秘密基地でした。
明石町に住んでいたころは、夕張がとても都会に思えていて、それも懐かしいで
すね。
不思議と寂しいという気はしなくて、この機会に夕張について色々と話題にでき
ることを嬉しく思っています。ずっと思い出の中に埃をかぶって置き去りにされて
いたのを引っ張り出してくれることになったのですから。

(3)三菱大夕張炭坑鉄道 投稿者:飯田 雅人 投稿日:05月14日(水)22時57分36秒

小さい時,千歳町のところで舗装道路は途切れていました。
大夕張から札幌や夕張に出かける時は(年に数回程度でしたが)
石炭を運搬する貨車とともにSLに引かれた客車に乗って行きました。
駅名を思い出してみると,

大夕張炭山−大夕張−明石町−南大夕張−遠幌−清水沢

だったでしょうか。
ダルマストーブはもちろん,二重になった木枠の窓や天井の大きな
丸い電灯が印象に残っています。

(2)行ってきました大夕張 投稿者:小笠原 憲 投稿日:05月12日(月)14時58分24秒

小学校5年6年の2年間を鹿島で過ごしました。(昭和35ー36年)
ダムの底になるという話を聞いて5月3日に行ってきました。
南大夕張の駅跡には三菱マークのはいったラッセル車とそれに牽引されたダルマストーブ
の付いた懐かしい客車が野ざらしになっていました。
鹿島小学校は昔のままで、旧駅舎や郵便局など当時の建物もいくつかありましたが、
炭住はほとんど残っていませんでした。
子供にとっては広い街でしたが、ふきのとうばかりが目立つ野原になった姿をみると
ほんとに狭い谷間の集落でした。荒れるままになっている空き家がまばらに立ち、
人通りもなかったのですが、わたしと同じように一目みておこうという昔の住人
の車は何台も来ていました。
今年中に立ち退きになると聞きました。秋頃にもういちど行ってみられれば、と
思っています。

(1)ダムに沈むまち 投稿者:飯田 雅人 投稿日:05月03日(土)23時51分22秒

アルバムを見ると私の子どもの頃は,ほとんど白黒写真です。
中学頃からカラー写真がふだん使われるようになってきたかな
という感じです。でも,当時の大夕張の思い出はフルカラーです
。写真を見て,「あ 白黒なんだな」とあらためて感じるくらい。
それくらい当時の記憶は鮮明です。

先頭にもどる