「赤いポスト」 夕 輝  文 敏 昭和47年まで大夕張で暮らす。

 小学校の入学祝に何が欲しいかと聞くと
 「おじいちゃんが郵便局長をやっていた大夕張へ行ってみたい。ねえ、いいでしょう」と泰樹は言い出した。
 泰樹が物心ついた頃は、幸一の父杉沢忠勝は、すでにこの世の人ではなかった。だが、幸一はまるで忠勝が生きているかのように
 「おまえの、北海道のおじいちゃんはなあ、最後まで立派な郵便配達人だったんだぞ」と言い聞かせていた。
 四国生まれの泰樹は、初めて雪の上を歩いていた。
 「あっ、ここだよ泰樹。まだ赤いポストが残っていた」
 雪山からは、赤いポストがここの主かのように、凛として姿を表していた。幸一はポストの前に立つと、積もった雪を払い除けた。
 泰樹は幸一の手をぎゅっと握ると
 「ここに、おじいちゃんの郵便局があったんだね、お父さん」と嬉しそうに言った。
 幸一も泰樹の手を力強く握り返し視線を稜線に移すと、夕張岳を見ることができた。そして、もう一度ポストに目を移すと、そこには、あの赤いレンガ造りの大夕張郵便局が、鮮やかに浮かび上がってきた。

 「ねえ、幸一兄ちゃん、帰ってこれない。お父さんが、お兄ちゃんに会いたいって」
 電話の向こうから、美和の切ない様子が伝わってくる。
 「親父が俺に会いたいなんって。急にどうかしたのか」
 「お父さん、肺ガンだったの。それも、後三ヶ月の命だって」
 美和のすすり泣く声が聞こえてくる。
 「えっ、この間電話したとき、親父ただの風邪だって言っていたのに、その肺ガンって本当なのか」
 幸一は動揺を隠せず、少し大きな声で美和に言った。
 「あの後、お父さん入院して検査を受けたの。お父さんには前からの約束だったから、本当のことを話したんだけど。そうしたらお父さんしばらく考え込んでから、お兄ちゃんに会いたいって。会って、どうしても頼みたいことがあるんだって。だから」 
 高知空港を飛び立つ機の中で、幸一はもう一度美和との電話のことを思い出していた。
 幸一が中学一生のときに母を亡くしてから、父忠勝は母親代わりを努め、正勝、幸一、美和の三人を育て上げた。
 幸一にとって、父は尊敬できるとともに、一番大好きな大人でもあった。三十歳を過ぎた今でも、それは素直に言える父に対する思いであった。

三年前の春、幸一は岩見沢の父の家にいた。
 あの街の郵便局長を経た後、忠勝は岩見沢の局へと異動となり、そこで定年を迎えた。
 「どうしても、その四国の木頭村へ行くのか」
 父は不安そうに言った。
 そんな父親の気持ちを察するかのように、幸一は穏やかに答えた。
 「何度も考えた上でのことなんだよ、父さん。それに、もう荷物も送ったことだし」
 「そうか、やっぱり行くのか。向こうはこことは気候が随分と違うだろうから、体を壊さないようになあ」
 いつもこうして、最後は子供の道を見守ってくれた父であった。幸一は心の中で父に感謝するとともに、遠くへ行ってしまう自分を詫びていた。
 「母さんに線香をあげてくる」と幸一は立ち上がった。
 「ボーン、ボーン」
 そのとき、柱時計がとき時刻を告げた。
 この柱時計を買ったのは、幸一が小学校にあがる年の三月であった。時計が読めるようにと、両親と兄、妹の五人で、当時父が勤務していた長沼の街へ買いに行ったのであった。
 幸一の兄正勝は優秀で、北大を出た後中央省庁のキャリア公務員になった。何か学校のものを買うのでも正勝が先で、幸一は兄のお古を使っていた。
 だが、どうしたことか、柱時計だけは幸一のために買ったものであった。
あの日、母は茶色のオーバーを着ていたことを今でもはっきりと覚えていた。
 幸一の母は、三五歳で急逝した。あの頃十三歳だった幸一も、あと一年で母と同じ年齢になってしまう。
 母が生きていた頃の、最後の家族団欒を育んでくれたあの街は、石炭を掘るのを止めた後、急速に衰退していった。そして、その街さえもが、間もなくダムに沈もうとしている。
 幸一がこれから行こうとしている木頭村にも、一九七二年に国のダム建設計画が持ちあがったが、ここでは、村長以下議会も一体となって反対を表明した。そして、ダムに頼らない村づくりを目指し、特産品の柚子を全国に売り込むために、第三セクター「きとうむら」を設立した。幸一は大袈裟に言うと何か運命的なものを感じ、迷わずにスタッフに応募した。
 幸一の故郷は、あがなう術もなく時代に飲み込まれ、ダムに沈むことも運命と諦めていた。だが、人口二千人あまりのこの村は、将来の村づくりを考えた末、ダムに反対していた。そんな気概が、当時仕事に閉塞感を感じていた幸一の心を強く引いたのかもしれない。

 新千歳空港には、昼頃到着した。木頭村を出るときは、春を告げる福寿草が咲いていたが、北海道の三月はまだ雪の中であった。到着ロビーには、美和夫婦が出迎えに来ていた。
 幸一は挨拶を済ますと早速美和の夫が運転するワゴンに乗り込んだ。
 「でも、親父が俺に頼みたいことって、何だろう。美和はどう思う」
 「それが、私にもさっぱり」
 「こんな状況で俺に頼むんだから、よっぽど大切なことなんだろうなあ。でも、そんな重大なことなら、俺なんかより正勝兄さんに頼むのが一番だと思うんだけどな」
 幸一は考え深げに言った。
 「私もそう思って、お父さんに言ったのよ。そうしたらお父さん、これは、幸一でなければだめだって言うのよ」
 「正勝兄さんにも知らせたのか、親父のこと」
 「うん、でも役所は年度末で忙しいから、今はこっちでよろしく頼むって。それに、お父さん正勝兄さん仕事が大変だから、今はまだ知らせなくって良いって」
 美和は少しうつむき加減に言った。
 「兄貴は親父のいや、我家の自慢だったのに。こんなときに、親父も何も遠慮しなくたって」
 幸一は不満げに言った。
 正勝は、幸一たち家族の誇りであった。特に父は男手一人で育てただけに、妻への恩返しもできたかのように、正勝の成功を喜んでいた。
 だが、正勝がエリートの階段を昇るほどに、何か目に見えない壁のようなものができていた。
 母が亡くなった後、正勝を中心に三人で父を助け、皆で家族を支えあって生きてきた。かつて、あんなに家族を大切にしていた正勝の心の内を、今は幸一と美和も読み取ることができなかった。
 やがて、車は父の入院する札幌の病院へと着いた。
その病院は幸一にも見慣れた病院であった。道路を挟んで向こう側には、かつての職場である札幌ファクトリーが見えた。
「この病院に入院しているんだ」
「うん、お父さんの病室からは、札幌ファクトリーが見えるのよ」
美和も事情をのみこんで答えた。
父は六階の内科病棟に入院していた。
「お父さん個室にいるのよ。最後の贅沢だから、周りに気を使わずに過ごしたいって」
エレベーターを降りると美和が言った。
「最後の贅沢か。親父お袋亡くしてから、道楽も遊びもせず、俺たちのためにだけ生きてきたようなものだったからなあ」
幸一はぽつりと言った。
美和はノックをすると病室のドアを開けた。父はいつものように、笑顔で幸一たちを向かい入れた。
幸一は父の笑顔を見た瞬間、たまらない懐かしさが蘇ってきた。杉沢忠勝は、どんなときでも幸一たちの父親であった。母が亡くなった後も、こうして病に犯されていても、父親の深さを秘めていた。
「幸一、急に呼び出して悪かったなあ。父さん、どうしても幸一に頼みたいことがあってなあ」
窓辺に置かれたカーネーションの赤い花が、手稲山に沈もうとする夕陽に輝いていた。
「何言ってるんだよ、こんなときに。父さんに力貸せるなんて、俺とっても嬉しいよ」
 「そう言ってもらえると、父さんもありがたいなあ」
父はそう言うと、ベットの横のロッカーから、少し色褪せた手紙を取り出した。
「この手紙覚えているか。いつか、おまえたちにも話したことあるけど、閉山のとき、高校生たちから、十年後に配達するって預かったんだけど、どうしてもこの二通だけが配達できなくてなあ。お父さん、大夕張の郵便局長だったからって言うより、何かあの街で暮らした人間として、どうしても、子供たちに届けてやりたくてなあ。だから、幸一にこの手紙を頼みたくて」
父は幸一の目を真っ直ぐに見ながら言った。
「ああ、この手紙って、閉山の翌年卒業していった高校生たちの」
美和は懐かしそうに言った。
あの年の七月に、炭鉱は石炭を掘るのを止め、街の繁栄も一瞬で崩れて行った。
去る者も、残る者も互いに辛い別れであった。小学校から高校まで、夏休みが終わってみると、全校生徒の半数以上が転校していた。
そんなとき、地元の高校生が卒業記念として、未来の自分への手紙を思いついた。生徒の代表二名が杉沢郵便局長を訪れた。
「こんなときだからこそ、十年後の自分に向かって、何かメッセジーを送れたらと思いまして。僕たちもう数えきれないほど沢山の友達見送って、本当は心がくじけそうになっているんです。でも、ここに残って卒業できるだけまだ幸せだと思ったりして自分を励ましているんです。局長さん、ぜひこの企画に協力してください。お願いします」
閉山により街はざわつき、人の心もどこか空ろになっていた。こんなときだから、あえて十年後の自分にメッセジーを残す。そんな子供たちのひたむきさに、杉沢忠勝は郵便局長というよりも、一人のこの街を愛する個人として、申出を受け入れた。
その翌年の三月、杉沢局長は、十通の手紙を十年後に届けると約束し、子供たちを見送った。
その夜幸一は、岩見沢の家に泊まった。この家には美和夫婦が同居していた。
「ねえ、正勝兄さんに電話してみようか」
美和は思い立ったようにそう言うと、受話器を手にした。
「もしもし、正勝兄さん、私。今ここに幸一兄さんがいるの。今日、皆でお父さんの病院へ行ってきたの」
美和は病院での父の話をした。
「じゃ、幸一兄さんに変わるから」
美和は受話器を幸一に渡した。
「兄さん、そんな訳で、後の二通の手紙俺たちが届けることになって。できれば、親父が生きているうちに、届けたいと思って。だから、兄さんも協力頼むよ」
幸一は少し遠慮がちに正勝に言った。
「そうか、親父がそんなことを幸一に頼んだのか。でも、いくらあの街で郵便局長やっていたからって、親父もそこまでやるとはなあ」
正勝は言った。
「俺、今日親父の話を聞いて、感動したよ。あんな山奥の夕張の炭鉱の街だって、そこに家族がいて、友達がいて、沢山の人たちの生活があったんだよ。だから、俺は親父の願いを叶えてやりたいんだ。そんな素晴らしい父親が俺たちの親なんだから、俺たちも何とかしたいと思って」
幸一は少し興奮しながら言った。
「そうか、わかった。今、仕事もって帰ってるから、悪いけど、後でこっちから電話するよ。じゃ、親父にもよろしく伝えてくれなあ」
そう言うと、正勝は電話を切った。
幸一は受話器を置いた。
「お兄ちゃん、何って」
美和は幸一の顔を覗き込むように言った。
「うん、協力するって。それで、今仕事中だから、後で電話するって」
幸一は力なく言った。
「お兄ちゃん、今回は正勝兄さん頼るのはよそう」
美和は溜息をつきながら言った。
 「うん、そうだなあ。二人で何とかしよう」 
幸一がそう言うと、美和の夫の昭夫が言った。
「あの、私で良ければ、手伝わせてください。閉山で大変なときに、子供たちが卒業記念に十年後の自分に書いた手紙を届けるなんて、凄いことじゃないですか。何だか、私はお父さんの気持ちわかるなあ」
そんな夫を美和は嬉しそうに見ていた。

幸一は、木頭村に帰ると、父との約束を妻の綾子に話した。
綾子は身重の体を揺すりながら
「それって、とても素敵な話じゃない」と言って幸一を励ましてくれた。そして
「何とかお父さんが生きているうちに、このお腹の子見てもらいたいわね」と言った。
「そうだなあ、親父が生きているうちに、手紙も赤ん坊も間に合えばいいなあ」
その夜、幸一は今でも音信のある同級生たちに、手紙を書いた。
それから一週間ほど経ったある夜、電話がかかってきた。幸一が受話器を取るなり、相手は一方的に話し始めた。
「幸一しばらく。いやあ、おまえの手紙読んで、泣けてきたねえ。それにしても、おまえの親父、いや杉沢大夕張郵便局長、大したもんだわ。俺、感動したよ」
声の主は山村昭次であった。
「あの二人、山口順一さんと小倉みどりさん、きっと上か下に兄弟がいるはずだよ。俺たち、東京で高校の会作っているから、その連中にも声かけてみるよ」
昔と変わらず、人なつっこい声で山村は言った。
それからも、何人かの幸一の同級生から、電話がかかってきた。皆何よりも、未だにあの頃の高校生たちとの約束を、死の直前まで守ろうとしている、杉沢大夕張郵便局長のひたむきさに感動していた。
数日後再び山村から電話があった。
「幸一、山口順一さんのことだけど、意外なところに接点があったんだ。順一さんには三つ上のお姉さんがいるそうだ。そのお姉さん、明美さんは、正勝さんと同級生で、当時二人は付き合っていたらしいって」
「兄貴は、家の仕事と勉強ばかりかと思っていたら、そんなことがあったんだ」
幸一は、早速岩見沢の美和に電話をした。
「そういえば、中学生の頃、手編みの手袋を届けてくれた女の子がいたのを覚えているわ。正勝兄さんもその手袋大切にして、高校に行っても使っていたわ。多分、そのひとなのね」
「でも、どう話したら良いのか」
正面から切り出すには、正勝は幸一にとっては、あまりにもためらわれた。
少し間をおいてから、美和が言った。
 「じゃ、お兄ちゃん、私から正勝兄さんに聞いてみようかしら」
その夜遅く、正勝の自宅に電話があった。
「あなた、美和さんから電話。お父さん、どうしかしたのかしら」
正勝は受話器を受け取ると
「親父の様態急変したのか」と美和に言った。
「こんな、夜遅くごめんね。お父さんなら今のところ変わらないわ。この時間なら、お兄ちゃんも役所から帰って来ているかと思って。あの、お兄ちゃん、山口明美さんの消息知らない」
美和は、幸一から聞いた話を正勝に伝えた。
「そうか、彼女の弟さんが、親父が探していた卒業生の一人だったんだ。わかった、こっちも何とか調べてみる。彼女なら友達も沢山いたから、きっと消息がつかめると思う」
正勝は、その夜妻が寝た後、一人でウイスキーを飲んでいた。グラスの向こうには、中学生の頃の山口明美が、雪の中立っていた。
中学校の帰り道、山口明美が途中の坂道で待っていた。既に日は暮れ、街路灯が灯されていた。
冬の街路は、雪明りで淡く照らし出されていた。そんな光の下で、山口明美は佇んでいた。
「やあ、待ったかい」
正勝は、白い息を吐きながら言った。
「いや、私も向こうの道から今来たばかりだから」
明美はそう言うと、正勝の手を見た。
正勝はそれに答えるように、両手を明美の目の前に突き出した。
「この手袋、とっても温かい。高校生になっても、大切に使うから、ありがとう」
三月になると、明美は母親を助けるため、愛知へ働きに出る。そして、定時制高校へ通うことになっていた。
父を亡くした少女と、母を亡くした少年は、いつしか互いに引かれ合っていた。この春は、正勝と明美にとっても、辛い別離の季節であった。
二人は歩きながら、取り止めのない話をしていた。言葉の数だけ思い出が沢山残れば良い。そんな想いで、二人は別離の影を追い払おうとしていた。
だが、突然会話は途絶えてしまい、二人は立ち止まってしまった。静まり返った街の中で、降り積もる雪の音が聞こえてくる。
二人は、空を見上げた。街路灯に浮かび上がり、大きな雪の結晶が次から次へと舞い降りてくる。見上げている明美の目からは涙が流れ出していた。
「本当は、幸一さんとも離れずに、皆と一緒に夕張の高校へ行きたかった。でも、弟もいるし、母さんにも、これ以上苦労はかけれないから。どうしようもないって、分かっているんだけど。だけで、辛くて」
誰が悪いのでもない。だが、どうしようもないことが、世の中にはある。そんな、現実に押し潰されようになっている二人であった。
正勝はどうすることもできず、明美の手をしっかりと握り締めた。そんな二人をいたわるかのように、降り積もる雪が優しく包み込んでいた。

それから間もなく、幸一のもとに山口明美の所在が知らされた。山口明美は以外にも幸一の近くにいた。兵庫県の淡路島に住んでいて、姓は今でも山口であった。
幸一は早速山口明美に電話をした。
幸一は手紙のことを話すと、是非お会いしたいと伝えた。明美は、幸一の申し出を快く承諾した。
高速バスを降りると、明石海峡大橋が陽に照らされ赤く輝いていた。山口明美の住まいは、バス停から五分ほどのところにあった。
明美は幸一を温かく迎かい入れてくれた。明美がお茶の用意をしている間、居間を見渡すと、大きな仏壇が目に入ってきた。老人の写真と一緒に三十代ぐらいの男の人の遺影も置かれていた。
幸一が仏壇を見ていると
「若い方が、うちの人よ。自分だけささっと三途の川を渡ってしまって」
明美は急須にお湯を注ぎながら言った。
「うちの人も山口って言ってね、それで、私結婚しても姓が変わらなかったの」
「そうですか。よっぽど縁があったのですね」
幸一は出されたお茶をすすりながら言った。
「でもね、こんな近いところに、大夕張の人がいたなんてね。それも正勝さんの弟さんだなんって」
明美は懐かしそうに言った。
「あの、兄とは中学校時代の同級生でしたね」
幸一は、少し遠慮がちに聞いた。
「今だから言えますけど、正勝さんは、私にとっては初恋の人だったんですよ。そして、仲間だった」
「仲間って、どういうことですか」
「私のところは父を炭鉱事故で亡くしていて、正勝さんはお母さんを病気で亡くしていた。お互い片親を助けて、弟や妹の面倒を見ながら生きてきたの。だから、本当はまだ子供なのに、早くから大人になることを求められていたのね。そんな毎日の積み重ねで、ときどき自分が押しつぶされそうになってね。そんなとき、心の重荷をお互いに少しずつ、軽くなるように励ましあっていたの。特に正勝さん、勉強ができた分、周りの期待も大きくて、それで、また頑張ってしまう。本当に大変だったと思うわ。正勝さんお元気かしら。北大出て、中央官庁の公務員をやっているって聞いたけれど」
「兄は、家族の自慢でした。でも今はあの頃のことには、あまり触れたくないようで」
幸一は少しためらいながら言った。
「わかるわ、正勝さんの気持。私もそうだけど、私たち子供時代がなかったのよ。自分の本音を言える場所がなくて、本当はわがまま言いったり、もっと甘えたかったりしたかったの。だから、とっても懐かしいんだけど、思い出すと、どこか重いのよね」
明美の話の中には、幸一も美和も知らなかった正勝の姿が語られていた。
その後二人は故郷の話をしながら、心を通わせていた。
そして、話が途切れた頃、幸一は父から預かってきた山口順一の手紙をテーブルの上に差し出した。
「この手紙が、先日電話で話したものなのですが、何とか順一さんに渡したいと思いまして」
「この手紙、高校生の頃の順一が書いたんだ」
明美は大切そうに手紙を手にした。色あせた封筒が、ときの流れを語っていた。
「あの子、私が愛知に働きに出るとき、男の癖に涙ぼろぼろ流しながら、駅から見送ってくれてね。後で母に聞いた話では、汽車が見えなくなって、汽笛の音が遠ざかっても、いつまでも手を振って、私のこと見送ってくれていたんだって。終いには、母も辛くなり、二人で泣きながらプラットホームに立っていたって。今の豊かな時代から思えば、遠い昔話のようなものだけど、あの街はとっても懐かしい故郷であると同時に、父が事故で亡くなってからは、生活が大変で苦労もしたわ。順一は、一度も中学も高校も同期会に出たことがないのよ。だから、いつのまにか名簿からも名前が消えてしまって。局長さんには、苦労かけたわね」
明美はそう言うと、手紙をテーブルの上に置いた。
「あの子、今神戸に住んでいます。でも、幸一さんが連絡を取っても、多分会わないと思うわ。だから、この手紙は、私からちゃんと話して届けさせてもらうわ」
幸一にもそれが一番良い方法だと思え、順一への手紙を明美に託した。

それから、五日ほどして幸一の家に手紙が届いた。差出人を見ると、山口順一からであった。
側にいた綾子も
「この手紙、あの山口順一さんから」と幸一の肩越しに尋ねた。そして、ハサミを取り出すと、幸一に渡した。
幸一はうなづくと、封を切って、綾子と一緒に読みはじめた。

杉沢局長さん、幸一さん、手紙確かに受け取りました。姉から聞いたと思いますが、僕は、今まで大夕張との繋がりをずっと避けてきました。でも、最近よく夢に見るようになりました。そんなとき、姉から手紙を受け取りました。早いもので、あの手紙を書いてから十八年になります。この時間の長さは、僕があの街で生まれ育った時間と同じなのですね。そして、亡くなった親父の年齢も超してしまいました。本当はあの街のことが好きでたまらない。でも、一番大切な父を奪い、姉までも引き離してしまったのも、あの街なのです。好きなんだけど、恨めしい。そんな気持がずっと重くのしかかっていたのです。でも、夢に見るたびに、たまらなく帰りたくなって。そんなときに、十八の自分が書いた手紙が戻ってきました。今からみれば大したことは書いていませんが、やはり、あの頃の自分もあの街のことが好きだったんだと、しみじみ思いました。これからは、僕なりに故郷と向かい合っていきたいと思います。そんな気持を、杉沢局長さんと幸一さんが届けてくれました。もし、この手紙が届かなかったら、僕は一生故郷と和解できなかったと思います。本当にありがとうございました。

「あなた、良かったわね」
綾子は目をうるませながら言った。
「うん、この手紙すぐ親父に読ませなくちゃなあ」
そう言いながら幸一は綾子の肩をそっと抱き寄せた。

数日後、幸一のもとへ美和から電話がかかってきた。
「あの手紙、お父さんとても喜んでいたわ。私も感動しちゃった」
美和の嬉しそうな声が、幸一の心にも染み渡ってきた。
「来週出張で東京へ行くから、そのとき正勝兄さんに会ってこようと思って。山口明美さんと会ったとき、俺たちが知らなかった兄貴のこと色々と聞いてなあ。何か急に会って話がしたくなってきて」
幸一は明美から聞いた話を美和にも伝えた。
「そういえば、正勝兄さんって、兄弟というよりも、いつもお母さんの代わりであったり、お父さんの代わりであったりして、子供の顔って持っていなかったわね。私たち正勝兄さんに甘えて面倒見てもらってきたけど、本当はどこかでずっと我慢してきたのかもしれないわね」
「そうなんだ。今までも感謝しながらも、それが当然だとどこか思っていたけど、兄貴にとっては結構大変だったんだろうなあ。だから、昔の話を避けていたのかなあ」
「そうなのかもね。私たちには懐かしいことでも、正勝兄さんには少しまだ重いのかもしれないわね」

幸一が新橋駅近くの居酒屋に入ると、正勝は先にビールを飲んでいた。
こうして、二人だけで飲むことは珍しいことであった。考えてみれば、他人が入らず兄弟だけで膝を交えること自体が、初めてのことかもしれない。
正勝は幸一を待っている間に、そんなことを考えていた。
二人はビールで乾杯した。
「どうせこっちに来たなら、ホテルなんか取らずに、家に泊まれば良かったのになあ幸一」
正勝は少しほてった顔をして言った。
「うん、ありがとう。でも、たまには、兄さんと二人だけで飲みたいと思って」
幸一は少しはにかみながら言った。
「そうだな、それもいいだろう。さっき思ったんだけど、幸一とこうして二人だけで飲むなんて初めてじゃないかなあ。大夕張にいた頃は、俺が高校生で、幸一はまだ中学生だったし。大学へ行ってからは、俺もアルバイトが忙しくてあまりゆっくりと話もできなかったからな。でも、あの頃幸一は高校生だから、どっちにしろ無理か」
正勝は笑みを浮かべながら言った。
「でも、兄さんは高校生の頃、時々親父と飲んでいたろう。俺何回か夜中に見たことあったから」
炭鉱住宅を借り上げた郵便局官舎の台所で、父は良くテーブルを置き飲んでいるときがあった。正勝が側に行くと
「おまえも、一緒に飲むか」と声をかけることがあった。そんなとき、正勝は父と一緒にコップを傾けていた。
幸一は、台所の電気の下に浮かび上がる二人の姿を見て、正勝がとても大人びて見えたことを覚えていた。
「ああ、そんなこともあったな。親父は昔から晩酌はしなかったが、寝る前には毎日少しだけ飲んでいたんだ。お袋が生きていた頃は、良く二人で楽しそうに飲んでいたな。お袋が死んでからは、しばらくは飲むのを止めていたんだ。ある夜、親父が背中丸めて一人で飲んでいる姿見ていると、何か俺の方が無性に寂しくなってきてなあ。ああ、この家からお袋は本当に消えてしまったんだって、切ないほど思い知らされたようで。それで、俺がお袋の変わりに酌したりして。それから、時々、親父の寝酒の相手するようになったんだ」
「そんなことがあったんだ。同じ家族でも、俺も美和もまだ子供だったんだなあ。親父のそんな姿って、知らなかったもなあ」
幸一はそう言いながら、背中を少し丸め独酌をしている父の姿を思い浮かべてみた。
「そうだな、幸一とは三歳違いだけど、あの年頃の三歳って大きいのかもしれないな。でも、あの親父は、大夕張郵便局長としてはもちろんだけど、妻を亡く夫としても子供たちのことも含め良く頑張ってくれたと思うよ。そんな親父が病気でもうじき死ぬなんて、本当にたまらないな」
正勝は天井を見上げながら切なそうに言った。そして、一気にビールを飲み干した。
「あの兄さん、山口順一さんの手紙、明美さんに手伝ってもらって、本人に渡すことができたんだよ。そしたら、順一さんからお礼の手紙が来て、親父に送ったらとても喜んでくれたって、美和が言っていたんだ」
「そうか、山口順一さんの手元にやっと届いたのか。親父も喜んだか。本当に良かったな、幸一」
正勝も嬉しそうに言った。
「実は、俺順一さんに手紙届けるために、淡路島の明美さんの家を訪ねて行ったんだ。兄さんのこととても懐かしがっていたよ」
幸一は控え目に言った。
「そうか、明美さんに会ってきたんだ。彼女に最後に会ったのは、二十歳の頃だったかな。もう一度会ってみたいなあ」
正勝はそこまで言うと
「今夜は少ししゃべり過ぎるな」と少し酔った頭の中で考えていた。
「明美さん、元気だったよ。ご主人は大分前に亡くなってしまったんだけど、娘さん二人と幸せそうに暮らしていた。中学時代の兄さんのこと少し話してくれて。片親になってから、お互い子供時代がなくなったって」
幸一は、明美から聞いた話を正勝にも話した。
正勝は幸一の話を聞くと
「そんなこともあったな。でも、あの頃は振りかえる余裕もなくて、必死だったからな。そうか、明美さんはそんなことを言っていたか」
正勝の脳裏には、雪の夜、涙を流していた明美の姿が浮かんできた。
「俺、明美さんの話を聞いているうちに、一緒に暮らしていながら、兄さんのこと一面的にしか見ていなかったなと思って。だいたい、俺も美和も兄さんはいつも立派過ぎて、愚痴一つ聞いたこともなかったし、そうだな、スーパーマンのように思っていたんだよ」
幸一はそう言うと正勝のコップに日本酒を注いだ。
「そうか、スーパーマンか。俺、少し頑張り過ぎたのかな。でも、お袋亡くしてから元気がなかった親父の喜ぶ顔見たら、手が抜けなくなってしまってなあ。なんか、あの頃思い出すと懐かしいんだけど、どこか切なくてなあ。だから、大夕張を出てから、逃げ出せたような気がして。でも、最近良く夢に見てなあ。お袋がまだ生きていて、親父も若くて、俺が小学生で、幸一はまだ鼻をたらしていて、美和はオムツをしているんだ。夢だとわかっているんだけど、家族四人が揃っているのがとても嬉しくてなあ。あの頃が、俺にとっては一番良かったなあ」
正勝は心底懐かしそうに言った。
「兄さん、ごめんな。俺も美和もそんな兄さんの気持も知らず、甘えてばかりでぬくぬくと暮らしていたけど。なんか、兄さんのこと踏み台にしていたようで」
「何言っているんだよ。母さんが死んだのはとても辛かったけど、あんな、良い親父がいて、お前たちみたい可愛い弟と妹がいたから、俺だって頑張ってこれたんだよ。だから、ごめんなんて言うなよ」
正勝は、幸一の肩を引寄せながら言った。
「うん、ただ、感謝の気持だけは、伝えたいと思って」
幸一も正勝の肩に腕を回しながら言った。
「でも、手紙の件、親父が幸一に頼んだのわかるな。お前の周りには、いつも友達が沢山いて、人が集まってきていたものな。俺今だから言えるけど、そんなお前が羨ましかったなあ」
「何言っているんだよ。兄さんは秀才で、皆から信頼されていたし、俺なんか兄さんに比べられて散々だったよ」
そう言いながら、幸一と正勝は互いの顔を見合わせると、声を出して笑った。
その夜、正勝と幸一は夜も更けるまで飲み明かした。父杉沢忠勝から託された手紙は再び兄弟の絆を結びつけてくれた。

正勝、幸一、美和の三人は、最後の一人小倉みどりを探し出すため、動き出した。
三人は心当たりを全て当たってみたが、依然として手がかりはつかめなかった。
そんなある日、正勝から幸一のもとへ連絡があった。
正勝は夕張市役所にいる同級生に頼み込み、戸籍上での小倉みどりの足取りをつかむことができた。閉山後間もなく、一家は札幌へ転出したが、翌年みどりの両親は交通事故で亡くなっていた。その後、みどりの消息も途絶えてしまった。みどりは一人っ子であったため、姉妹等のつながりはなかった。
小倉みどりの父方の出身が山形県酒田市であることを突き止め、親戚筋に当たってみたが、北海道へ渡って以来付き合いは途絶えていた。炭鉱へやって来た男たちは、津軽海峡を隔てた故郷では食べていけない、それぞれの事情を抱えていた。
仕事が辛くても逃げ帰る場所もない。そんな境遇があればこそ、男たちは、真っ暗な地の底で、女房子供たちのために、石炭を掘り続けることができた。
三人は、父の命を気遣いながら、必死で小倉みどりの行方を探したが、これ以上の手がかりを得ることはできなかった。
早春の頃に、余命三ヶ月といわれた杉沢忠勝の命も、熱い夏を何とか乗り越えることができた。
だが、秋を迎えナナカマドの実が赤く色づいた頃、元大夕張郵便局長杉沢忠勝は、愛する者たちに見取られ、静かに息を引き取った。
その年の暮れに、視聴者の公募による「ふる里」を特集するテレビ番組が企画された。その番組に、あの山口順一が、杉沢郵便局長と手紙のことを応募し、番組で取り上げられた。
その番組が契機となり、小倉みどりの手紙も遂に配達することができた。小倉みどりは、異国の地ドイツで家庭を築き、幸せに暮らしていた。
届けられた手紙は、それぞれの卒業生たちの心に、懐かしさとともに、故郷への想いを呼び起こした。
そして、正勝、幸一、美和の三人は、再び家族としての絆を、結びつけることができた。
こうして、杉沢忠勝の想いは、人々の心の中で、永遠のいのち生命を得ることができた。

「お父さん、この手紙ポストに入れたら、天国のおじいちゃんのところへ届くかな」
泰樹は、木頭村を出るときに書いた手紙を、大切そうにコートのポケットから取り出した。
「大丈夫、届くさ。だって、ここはおじいちゃんの郵便局なんだから。神様が必ず配達してくれるよ」
幸一は、泰樹の頭を撫ぜながら言った。
泰樹は嬉しそうに頷くと、ポストの口に手紙を入れた。すると「ポトン」と、手紙がポストの底に届いた音が聞こえてきた。
幸一と泰樹は、ポストに背を向けると、車の方へ歩き出した。すると「カサッ」と、雪が崩れる音がした。
二人が振り向くと、春の陽射しの中で、赤いポストは嬉しそうに輝いていた。