回顧随想

             長谷川 安 造

                明治37年2月生まれ。昭和13年4月大夕張に教員として赴任。昭和31年4月転出。                

昭和43年10月1日 『鹿島小開校四十周年記念誌』より


 四十年の昔,自然林に包まれ,朝夕,夕張岳に美しく映える麓の地に新しく,木のかおりの高い『主夕張尋常小学校』が誕生。児童の大部分が,南大夕張校から転入した。当時の校庭には,大木の切り株がいくつかあり校舎うらは,深い笹やぶに囲まれていたという。

 開校十年後の昭和十三年三月,私が赴任したころは教師の数,児童の数ともに開校の時の二十倍にも増加して,毎日のように,各学級に新入児童が父兄とともに見られたものである。大夕張礦業所発展のあらわれの一面か,将来は五十学級の大きな学校になるのだと礦業所も,学校も大構想をもっていたようだ。
 そのころの児童のふえ方は余りにも激しく,教室が足りない,先生が足りないで,二部授業(児童登校の一番方,二番方)が行なわれ,ひとりの先生が一部と二部,二学級を担任したこともある。遠足や学芸会など,学校行事には,目をまわすいそがしさであった。

 遠足は今とはちがい,体力,精神力をつちかう目的で,各学年に応じて,距離が定められ,春よりは秋は遠く,一学年進むにつれ,さらに遠方へと計画された。最終学年は男女とも礦業所裏山の鹿島沢を経て,送電線附近の山道を超え,夕張に出て,さらに鹿の谷,清水沢,南部を歩き続け学校にもどる,実に強行軍であった。

その他,年中行事として,七月下旬は夕張岳登山。高等科は学級ごと一泊して下山した。六年生の一部児童と父兄同伴の三,四年生で何人か登山したものもいた。銭函海岸で一週間の臨海学校を開き,カナヅチの児童も帰りには,浮かび,泳げるくらいまでになった。冬は,スキーでの夕張越え。その頃参加した卒業生で今なお,大夕張ですべり続けているものもいることでしょう。

 その後,戦争たけなわとなり,学校は生産教育に主力がそそがれた。
 今更ながら,社会の変遷が教育に如何に影響されるか痛感される。

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