(昭和40年代 / 『大夕張労働組合解散記念誌』より 奥山道紀さん提供) @@@画像をクリックすると拡大表示されます@@@
【明石町の歴史】
夕張東高のグランドの端あたりからとった写真でしょうか。明石町の辺りは以前は,第一農場(明石町駅付近),第二農場(シューパロ湖底)と呼ばれていたそうです。このあたりには,戦争前後の話として,このあたりの土地の笹刈りから,大根の種まきそして,収穫まで家族総出で荒地開墾をしながら食料を得ていた祖父の話を聞いたことがあります。戦後炭鉱の発展で昭和24年に炭鉱住宅が建ち,明石町ができました。「明るい石炭の町」としてスタートした明石町ですが,当時,駅はあっても,道路は夕張方面はもちろん,千年町ともつながってはいませんでした。火災などが起きた際の住民の不安など強いものがありましたが,昭和26年に千年町との間を結ぶ道路がようやく開通しました。昭和31年には大夕張内を走る山内線が運行され「礦業所前−明石町」が三菱バスにより結ばれました。昭和32年には白金橋が完成し,奥鹿島への入口となります。昭和35年7月には高台に夕張鹿島高校(S40年から夕張東高校)が新築移転され,昭和37年には,念願の鹿島〜南部間の道路が開通しました。またこの年,大夕張ダムの完成によりシューパロ湖ができました。昭和44年,明石町から鹿島明石町に町名改正。昭和45年には戸数234,人口815人を数えましたが,昭和48年に三菱大夕張炭鉱の閉山とともに人口が激減し,その後昭和50年に炭鉱住宅跡地に夕張市園芸センターができました。
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(1)【邦雄】さん
明石町で、27年に生まれて小学4年迄住んでいました。
幼稚園には汽車で通い、車中でチリ紙を長く切って窓から手を伸ばして遊びました。
東小学校へは徒歩で通いましたが、今思うと自宅からは2〜3KM位はあったのではないでしょうか?
学校帰りは友達とぶらぶら遊びながら帰宅した事が楽しく思い出されます。
冬は一丁目の坂道でスキーをして、勢い余って川に落ちた事がありました。
自然が一杯の楽しい思い出でです^-^
( 2007/04/12(Thu) 12:31)
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