閉山の記憶 (昭和48年)

大夕張 春日町

(昭和48年 閉山直後 ) @@画像をクリックすると拡大表示されます@@


閉山直後の春日町の様子だと思います。この写真には胸が痛みます。人々の暮らしのあとが,家が無残に破壊され廃虚と化しています。閉山の時,私はすでに大夕張にいませんでした。昭和46年4月に私一人が札幌に出て,その次の年の一月に父が炭砿病院で亡くなり,4月に母と弟が札幌に出てきました。親戚も当時すでにいませんでした。そのため,昭和48年の閉山については,母親の「大夕張もとうとう閉山になるらしいわよ」という話と,新聞に出ていた大夕張を閉山にし,職員や人々も南大夕張に移るというような記事を通して知りました。記事には出てこない大夕張での混乱ぶり,人々の不安や悲しみが想像させられて胸が痛む一枚の写真です。


【乗田功一さんの思い出】
大夕張炭鉱の閉山の時、私は中学2年生でした。閉山の意味をよく理解できず、殺伐とした街の様子(駅前など、いたる所での座り込みや、黒々としたSLの車体に大きく書かれた「閉山反対」の白い文字)に事態の重大さを薄々感じつつも、ただなんとなく「転校するのか......」とボーっと考えているだけでした。転校先は神奈川県藤沢市。地図を見ると東京や横浜がすぐ近く!「都会へ行くんだ!」と仲の良かった友達に控えめな自慢をしたりして期待と不安のなかでの初めての転校。以来、多くの年月の中で、大夕張を思い出すことはほとんど無かったように思います。それは、まだ少年期だった故の環境の変化への適応力の為でしょうか。 鹿島地区の水没についての情報がどこからか伝わってきたのは、3〜 4年前くらいでしょうか。とても驚き、急に生まれ故郷についての興味がわき上がってきました。 3年前に転校以来初めて単身大夕張へ行きました。そして、あまりに時が経ちすぎたことを痛感しました。目印となる建物が無くなり、自分が立っている場所がどこなのかも分からないほどの変わりように、驚愕するばかりでした。それから今までに3回大夕張へ行きました。行く度に「これで最後」と思うのですが、どうしてもまた行きたくなります。 北海道はやはり遠く、旅費もバカになりませんが、私の「原点」としての大夕張への愛着は抑えられそうにありません。

春日町にわずかに残る廃屋 (平成9年8月13日)

弥生町の一段高くなったところから一つ下のシューパロ川近くに,かつての建物がまだ残っていました。この建物を見た時,かつて子供だった時,「確かに見覚えがある」と思ったものでした。私がここを訪れた平成9年8月13日,私が歩いたこの道を,お年寄りやそのお孫さんまで含む家族が,2台の車に分乗して,シューパロ川に向かって車を走らせていきました。かつて暮らした住居跡をたずねにいくのでしょう。

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