富士見町6丁目

富士見町6丁目

(昭和30年代)@@画像をクリックすると拡大表示されます@@


【富士見町6丁目の家】

私が富士見町6丁目に住んでいたのは小学校入学前あたりから,小学校3年生の頃までだったと思います。6丁目一番山よりの住宅で,小学校に行くには,6丁目の上の方からくだり道になっていました。多分写真の一番左の家がそうだったと思います。西向きに玄関があり,東側の玄関は田中さんという家でした。1.2歳年上の男の子とその弟の兄弟がすんでいて良く遊びました。家の一番おくの部屋の床の間をたたくと,隣の家に伝わり,それを合図に声を掛け合って外で遊ぶのが約束事のようになっていました。家の前は,沢があり山に続き,家の横は小高い丘になっていて同じく山に続いていました。ぜんまい,ワラビ,つくし,ウド,ふきといった山菜取り。夏は家の裏の山に登ってってのクワガタ取り,沢に下ってのザリガニ,カエル取り,一年を通じて昆虫や動植物の宝庫でした。写真の場所は家の前の山にちょっと登ったあたりから富士見町住宅,炭鉱病院を見たところでしょう。

(98/01/01更新)

平成9年5月18日の富士見町6丁目

 大夕張炭山駅の手前に手すりのついた6丁目への坂道がまだ残っていました。右手にかつての三菱大夕張炭砿々業所が木立の合間からのぞいています。

手前は大きな池になっていますが,私がいた頃,ここは清流の流れる沢でした。この沢は,小石の広い川原が広がり,細い水の流れが何本も流れていました。6丁目に住んでいた当時の隣人田中さんのおじさんに(おじさんは日曜大工が趣味だったんです。)木製の立派な船を作ってもらい,この流れに浮かべて流して遊んでいました。石を研いで遊んだり,ここは昆虫も良く取れて,特にオニヤンマ,ギンヤンマ,シオカラトンボがよく来ていました。また,キアゲハ,カラスアゲハなどの蝶など,私にとって大物が採れる貴重な場所だったのです。

この沢に下りる細い道が坂をあがったところにあったはずですが,当然今はみあたりませんでした。この坂を登っていってきつき当たりを左へすぐに行くと私が住んでいたの家があったのです。道を行くと右手にかつてもあった背の高い街路樹が何本も残っていて,当時の面影を伝えているのですが,足元には,雑草が生い茂り,先へ進んでもかつての場所の記憶を呼び起こすことはできませんでした。写真の中に土管が写っていますが,このあたりでは,かつて人が住んでいたことを示すように,倒れた消火栓やら,下水が流れていた側溝のあとや,かつては庭で植えられていただろう草花がところどころ固まって咲いているのが見られました。

 

 

(1)【EZONORA】さん
 鹿島小学校を背にして、ほぼまっすぐの道路を進んで、どんづまりから少し下ったところの6丁目に住んでいたことがあります。
思いつくことといえば、鉱業所に勤務していた方だと推測しますが、大変太った方が、退社の時間になると、自力では坂道を登ることが無理があったのか、いつも同僚らしき人のズボンのバンドを後ろから掴まえて上って帰るのを、よく見たことがありました。
それほど、あの坂道は、肥満の人には厳しい所だったようです。
昭和29年9月、青函連絡船洞爺丸を沈めた台風が通過したときは、屋根のトタン板は全部はがされ、家中雨漏り、翌朝、山を見ると、通過したことを思わせるように木々が、ほぼ全部倒れてしまっていました。
その後、自宅を、どのように復旧させたのか思い出せません。
6丁目ではなかったのですが、同じ町内に住んでいた同級生の木村カオルさんが、母親を亡くされて、同情しても同情しきれないような悲しい気持ちを、何人かの同級生と享有したことが思い出されます。
木村さんも、よき母、よく祖母となっているのでしょうね。
                                   (2007/09/22(Sat) 15:07)


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