大夕張掲示板
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[1607] ふるさと大夕張2丁目3番地 投稿者: 投稿日:2020/02/01(Sat) 00:11  

1996年母校鹿島小学校の閉校式に参加して、その思いを自分の
ホームページに載せ始めてから24年目の初めての大きな更新です。

『ふるさと大夕張2丁目3番地』としての新たなスタートです。
当面、引っ越し作業が続きます。『1丁目1番地』に比べると
まだまだコンテンツが少ないです。でも、

・すべてのデバイスで表示が見やすい。
・関連ページを探しやすい
・コメントをページごとにつけることができる。
という、当初『ふるさと大夕張』で実現したかった機能が、ほぼ
現実のものになるという自分にとっては、まるで夢のような環境です。

まだまだ、勉強不足でわからないところが多く、試行錯誤の
ところはありますが、大夕張に関心のある方、大夕張に住んだ
ことのある方、みなさんで作っていける『2丁目3番地』にな
るように、務めたいと思います。


https://ooyubari.com/


[1606] お知らせ 投稿者: 投稿日:2020/01/26(Sun) 20:35  

備忘録の方にも書いたのですが、こちらでもお知らせしておきます。
「ふるさと大夕張」はこのままに、「大夕張2丁目3番地」という
サイトで更新をしていきます。

2月から公開できるように準備を進めています。
取り急ぎお知らせでした。


https://ooyubari.com/


[1605] 大夕張炭坑の沿革 投稿者:飯田 投稿日:2020/01/20(Mon) 15:57  

…以上で逃亡の章は終わりですが。註として三菱に買収される前の大夕張炭坑の沿革についてふれています。「抜き書き」を続けます。

大夕張炭鉱労働組合『二十年史』より

註…今同礦についての沿革を討ぬるに、これまた発見の年代詳しからず、
明治31年の頃、福山某試掘権を有し、爾来幾多の変遷ありて、川崎繁実氏名義となり、




[1604] 抜き書き16 投稿者:飯田 投稿日:2020/01/19(Sun) 16:46  

大夕張炭鉱労働組合『二十年史』より

南部大夕張時代

【逃 亡】(7)

大夕張炭坑に働く者750名(坑内500、坑外250)で、女は70人前後
(坑内外とも)女抗夫は40人ぐらいで、だんだん減って北部(現在地)
に移ってから女抗夫はいなくなった。
かまどもちは長屋に入ったが、独り者は飯場(納屋制度)が面倒を
みた。



[1603] 抜き書き15 投稿者:飯田 投稿日:2020/01/16(Thu) 13:13  

大夕張炭鉱労働組合『二十年史』より

南部大夕張時代

【逃 亡】(6)

紫色にはれあがり、全身をときおりピクピクけいれんさせ、生きようと
している仲間だ。すっ裸の肌に手をふれてもぬくもりがなくなっている。
つかまってヤキを入れられたのだ。



[1602] 抜き書き14 投稿者:飯田 投稿日:2020/01/14(Tue) 13:39  

大夕張炭鉱労働組合『二十年史』より

南部大夕張時代

【逃 亡】(5)

けれども夕方飯場に行ってハッとする。手足をすりむき身体のあちら
こちらにブス黒く血がにじんで、顔かたちはかわって誰やらわからない。





[1601] 抜き書き13 投稿者:飯田 投稿日:2020/01/13(Mon) 15:56  

大夕張炭鉱労働組合『二十年史』より

南部大夕張時代

【逃 亡】(4)

逃げるものは清水沢めざしてひたむきに走る。雨もよいの夜陰を
ねらって飯場をひそかに抜け出す。闇夜は線路や枕木をスッポリ飲み込んで
しまう。
明け方、もぬけの殻の布団を見て仲間が逃げたのがわかり、目と
目を合わせて捕まらないように祈る。



[1600] 無題 投稿者:西山 正男 投稿日:2020/01/08(Wed) 17:13  

今日、一人で家に居る時に「雪虫」を思い出しました。🤔
雪が降り出す直前に降って来る「雪虫」。本当に美しい故郷大夕張です😂


[1599] 抜き書き12 投稿者:飯田 投稿日:2020/01/06(Mon) 20:11  

大夕張炭鉱労働組合『二十年史』より

南部大夕張時代

【逃 亡】(3)

つかまれば最後、ふくろだたきにされて、命があればいいほうで
死ぬかもしれないのだ。



[1598] 抜き書き11 投稿者:飯田 投稿日:2020/01/03(Fri) 20:31  

大夕張炭鉱労働組合『二十年史』より

南部大夕張時代

【逃 亡】(2)

明治43年6月に清水沢まで鉄道はしかれていたが、清水沢
貯炭場までの石炭積み出しをするだけで、人は乗せなかった。
坑府夫の引き抜きや、逃亡を防ぐための会社の政策であった。
それでも景気のいいところがあれば、風呂敷包み一つ担いで
逃げるものがいたので、会社や飯場頭(親分)の警戒は日増しに
厳しくなっていった。




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